08
健診で担当医の承諾を得たナマエは、早速教習所に通い始めた。
最短で取得できるようスケジュールプランとかいうのを利用しているので、教習所側できっちりコマ割りを組んでくれている。今日は午前中から技能教習だ。
「あれ?」
ゆっくり向かおうと早めにマンションを出たナマエは、目の前に停まっている見覚えのある車に足を止めた。
そんな彼女に気付いたのか、運転席側のドアが開いて男が降りてくる。
「おはようございます、ナマエさん」
「風見さん」
現れたのは夫の部下だった。
「教習所までお送りします。今の時間は電車も満員で危険なので」
「え、いいですよ別に。そもそも歩きのつもりだったので」
「歩くにも距離があるでしょう」
なるほど、歩きで向かう可能性も考慮して早めに待機していたらしい。
「……零がすみません」
ここで固辞しても板挟みで困らせるだけだと、ナマエは口先だけで謝りながら助手席に乗り込んだ。
「免許取るだけなのに、風見さんの仕事増やしちゃってますね」
「いえ、今自分が離れても大丈夫だと降谷さんが判断されたんです。なので問題はありません」
職権乱用にも程がある。動き出した車の中で、ナマエは思わず嘆息した。
「それに、ナマエさんには日頃からお世話になっていますから」
「え?」
「我々が楽をさせてもらったのも一度や二度ではありませんし、気にしないでください」
前を向いたまま、表情を変えずに風見が言う。どうやら度々現場に先回りしていた件を言っているらしい。
「なんのことでしょう」
ナマエもまた表情を変えずにそれを流せば、彼は少しの沈黙の後で「いえ、なんでもありません」と会話を終えた。
(あ)
ナマエは進行方向から不穏な気配を感じ、風見に「停めてください」と声をかける。
「え?」
「停めてください、今すぐ」
「は、はい」
強い語調に気圧されたのか、風見がすぐさま路側帯に車を停めた。
ナマエは少し通り過ぎてしまったある一点を見つめ、風見に問いかける。
「銀行って何時に開くんでしたっけ」
「窓口は九時からです。ATMは早くから開いているところも多いですが」
「じゃあまだ窓口は開いてないんですね」
「そうですね、九時前なので」
ふうん、と返しながら"円"を展開して、ナマエは目を細めた。
「あの銀行、襲撃されてますね」
「え?」
「ATMコーナーの向こう…シャッター越しに二人、裏口に一人、銃火器を持った人間がいます。一か所に十人程集められてるのは銀行員かな」
"円"は能力者の触覚を延長する能力だ。範囲内にいる人間の体格や体勢、持っている物の形状なども大体感知できる。
「集められた人間の周りをうろついているのが二人…これも犯人グループかも。最低でも五人は見ておいた方がいいですね」
「あ、あの、つまり銀行強盗ですか?」
突然のことに狼狽える風見に向き直り、「そうみたいです」と頷いてみせる。
「すぐに応援を呼びます!」
焦った表情でスマートフォンを取り出した風見を見ながら、ナマエは助手席のドアを開けた。
「ナマエさん?」
「教習に遅れちゃうので、後は歩いて行きます。お仕事頑張ってください」
「えっ、あの、」
帰りは?と聞かれ、ナマエは思わず吹き出した。そこまで頼んだのだろうか、あの男は。
「キュラソーと勉強するので、彼女が迎えに来てくれるんです。なのでお気になさらず」
そう言って、これから忙殺されるだろう男に微笑みかける。
相変わらず事件の多い街だと半ば感心しながら、ナマエはバタンとドアを閉めた。
***
技能教習を終えたナマエは、次の学科教習までの空き時間を勉強して過ごそうと、待合ロビーで教本を取り出した。
難しい漢字にはキュラソーがルビを振ってくれてあるし、ところどころナマエによるハンター語での書き込みも目立つ。
予想通り技能教習は問題なさそうだが、やはりネックなのはこの学科だった。
(興味ないこと覚えるのって苦痛だなぁ)
ため息をつきながらページをめくっていると、誰かがナマエに向かって真っすぐ近づいてくるのがわかった。
声をかけられる前に顔を上げれば、その人物と視線がかち合う。
「あ、快斗くん」
「やっぱりナマエさんじゃん」
以前会った時より少し大人びた快斗が、嬉しそうにクシャッと笑った。
「快斗くんも免許取るの?」
「もう18歳だしな。俺みたいに春休みに免許取るヤツ多いんだ」
「そっか、もう卒業したんだ」
隣に座った快斗に「おめでとう」と声をかけると、快斗は「ありがと」と照れくさそうに目を細める。
「おっ、ハンター語で書き込みしてあんじゃん。"ここ重要"って。ウケる」
相変わらずの記憶力でハンター語すら覚えているらしい快斗に、ナマエは笑われながらも感心した。
「快斗くんなら学科も楽勝だろうね」
「おーよ。もう丸覚え済み」
そう言って快斗はニカッと笑い、自信たっぷりにピースしてみせる。
「いいなぁ」
「替え玉してやろーか?」
「うーん、魅力的な提案だ……」
思わず本気で悩みそうになったナマエに、快斗が吹き出した。
「まー頑張れよ。二人とも免許取れたらお祝いしよーぜ」
「お祝いかぁ、何しよう?」
「俺はマジック見せてやるから、ナマエさんは念見せて」
「ふふ、いいね」
彼は無事にパンドラを見つけ、そして破壊した。もう神出鬼没の大怪盗が世間を賑わせることもない。
そんな彼のマジックが間近で見られるなんて、こんな贅沢なことはないだろう。
「場所は快斗くんの家ね」
「あーはいはい」
そういえばナマエさんちNGでしたねー、と快斗が口を尖らせる。
例によって結婚相手の名前だけは伝えてあるが、その職業を教えることはできないし、姿を見せるわけにもいかない。あのマンションに招けるのなんて風見か諸伏くらいだろう。
(あ、でもキュラソーならギリギリいけるのかな?)
彼女はもう公安の協力者だし、零ともそれなりに知った仲だ。今度零に聞いてみようと考えたところで、隣の快斗が「あ」と呟いた。
「ナマエさんがコーヒーじゃないなんて珍しいな」
彼の視線の先にあるのは、ペットボトルのオレンジジュースだ。
「ああ、うん」
「ジュースなんて飲むタイプだったっけ」
「そういえば言ってなかったね。私今妊娠してるの」
さらっと告げたナマエに、快斗の動きが止まる。安定期に入ったら言おうと思っていたが、なんだかんだで安定期まであと一週間だ。時が経つのは早い。
「いつもは水か麦茶なんだけど、たまに柑橘系のジュースが飲みたくなるんだよね」
そう言ってペットボトルの中身をちゃぷっと揺らしてみたところで、ようやく快斗が「は!?」と叫ぶ。
彼の大きな目が零れ落ちそうになっているのを見て、ナマエは笑いながら「公共の場だよ」と口元に指を立ててみせた。
***
「あー、頭破裂しそう」
「お疲れ様。よく頑張ってるわ」
今日の分の教習を終え、キュラソーの自宅で字の練習もこなしたナマエは、彼女と連れ立って散歩に出かけていた。
夕焼けに染まる初春の空がいつもより清々しく感じるのは解放感のせいだろうか。
「体調は大丈夫そう?」
「今のところはね。後期特有のトラブルもあるみたいだし、調子いいうちにやれるだけやりたいな」
「偉いわ」
優しく微笑むキュラソーに、「ありがとう」と笑い返す。ナマエが"それ"に気付いたのはそんな時だった。
「あ」
「? どうかした?」
キュラソーがナマエの視線を追いかけるようにして上を見上げる。
「あら」
深刻さの欠片もない表情で二人が見上げたのは、ちょうど通りがかったビルの屋上だ。
そこにあったのは夕焼けを背負うようにして立つ人影で、それが立っているのはどう見ても屋上を囲うフェンスの外側だった。
帰宅ラッシュが始まる時間にはまだ早いが、付近にはそれなりに人通りもある。急ぐように歩く人々は頭上の異変には気付いていないらしい。
「ごめん、キュラソー。お願いできる?」
ナマエはそう言うと両手にダガーナイフを三本ずつ具現化し、それをビルの外壁に向けて投擲した。
柄だけが出るよう深々と刺さったそれを見てキュラソーが頷く。
ナマエが再び三本ずつ具現化して投擲したところで、屋上の人影が空中に身を投げ出した。
キュラソーは勢いよく地を蹴ると、外壁に生えたナイフの柄を足場にしながらビルを駆け上がる。そして落ちてきた人物を空中で受け止め、落下しながら柄の一本を掴んで振り子のように横に飛んだ。
その先にあった雨樋に足裏をつけながら滑るように降下すると、最後はそれを蹴りつけて難なく着地する。
さすがに重かったのだろう、彼女は着地と同時にスーツ姿の男を転がすようにして地面に下ろした。
そして男に声をかけることもなく、キュラソーはさっさとナマエのもとに戻ってくる。
「ありがとう、お疲れ様」
「あれくらいなら訳ないわ」
足場ありがとう、と涼しい顔でキュラソーが言う。
彼女の背後では、投身自殺を図った男が通行人たちに気遣われている。呆然とした様子の彼は状況がよくわかっていないらしい。
そこに続々と野次馬が集まり始め、二人との間に壁を作っていく。自殺理由に興味のない二人は早々に踵を返し、その場を離れた。
「ナイフ、残してきちゃってよかったの?」
「ああ、消したから大丈夫」
「あらそう。便利ね」
まあね、と短く返してから、ナマエはため息をつく。
ハンター世界は言うまでもなく物騒だったが、こちらも事件の数なら負けてない。
その後も痴情のもつれらしき殺人現場に遭遇するが、すでに死んでしまっていては二人にできることはなかった。
すっかり興を削がれた二人は散歩を諦め、キュラソーの自宅に戻ることにする。
「事件が多いのってコナンくん関係なかったんだなー」
「彼がどうかしたの?」
「ううん。物騒な世の中だなって」
「ええ、これじゃ警察もなかなか暇になりそうにないわね」
キュラソーはいつか語ったナマエの夢を覚えていたらしい。
呆れ顔でため息まじりに同意しながら、ナマエはわずかに膨らんだお腹を無意識に撫でた。
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