09
去っていくキュラソーの車を見送り、自宅マンションに足を踏み入れる。
教習所からキュラソーの家という流れももう両手で数え切れないほどの回数になり、苦手な学科にも少しずつ自信がついてきた。
そして夏目前のこの季節、妊娠六ヶ月のお腹は薄着なら傍目にもわかる程度に大きくなってきていた。
(……あ)
エレベーターの中で、ピクリと動いたお腹を撫でる。
はじめはほんの小さな震えだった胎動も、ずいぶんとわかりやすくなってきた。
(早く零にも感じさせてあげたいな)
タイミングが悪いのか、いつも零が触れた時に限って胎動がない。それを残念そうにする零も微笑ましいが、早く喜ぶ顔が見たいとも思う。
そんなことを考えながら自宅のドアを開けたナマエは、そこに脱ぎ揃えられていた靴に目をぱちりと瞬かせた。
「……ただいま?」
声をかけながら靴を脱ぐと、案の定リビングから零が出てきた。彼はナマエの荷物をすっと奪い、柔らかく微笑みかけてくる。
「おかえり、ナマエ」
「随分と早かったんだね。まだ夕方なのに」
「上手く調整できたんだ」
調整?と首を傾げる。この後何か予定でもあるのだろうか。
「明日は教習入ってないだろ?」
「え、うん」
「帰ったばかりで悪いんだけど、これから出かけないか」
言葉の意味をすぐに飲み込めず、目を丸くするナマエに零が苦笑する。
「君の荷物も用意してある」
「荷物?」
「ああ、運よく宿が取れたから」
宿、と繰り返しながら、ナマエはますます意味がわからなくなった。
「泊まりで温泉。二人での旅行はきっとこれが最初で最後のチャンスだと思うんだ」
「旅行……」
「母子手帳と保険証は持ってるか?」
「う、うん」
「体調は?」
「いいけど……」
よし、と頷いた零に促されて再び靴を履く。
いつの間に用意したのか玄関には見慣れないボストンバッグが二つあって、零はそれを片手で持ってナマエの手を引いた。
あれよあれよという間にRX-7に乗り込んだナマエは、シートベルトを締めた後でハッと我に返った。
「え、ちょっと待って。旅行って零は大丈夫なの?」
「ああ、奇跡的に明日一日休みが取れた」
有休なんて初めて使うかもしれない、と車を発進させながら零が嬉しそうに笑う。
「行き先も公安で使ったことのある近場の旅館だし、露天付きの部屋が取れたから出歩かなくて済む」
「そうなんだ……」
「…勝手に決めてごめん。嫌だったかな」
形のいい眉を少し下げて、零が様子を窺うようにナマエを見る。
「ううん、嫌じゃない。ちょっとビックリしただけ」
楽しみだよ、とナマエが笑うと、零も安心したように頬を緩めた。
こんなにも嬉しそうな零を見て、ナマエが嫌だと思うはずがなかった。
***
零が手配した温泉旅館はいかにも老舗といった趣ある佇まいで、庭付きの広々とした和室に石造りの露天風呂が備えられていた。
提供される料理も妊婦向けの配慮がなされており、ため息が出るほどの至れり尽くせりっぷりだ。
しかし最上級のおもてなしに満足しきったナマエも、ある一つのハードルの前で足踏みしていた。
「ナマエ、おいで」
「い、いや…でも……」
満天の星空を真上に望む、石造りの露天風呂。
源泉100%の濁り湯の中から、零が満面の笑みで手招きしている。
「君が風邪を引かなくても、お腹が冷えたら大変だ」
「うっ」
温泉の中にバスタオルを巻いたまま入るのはマナー違反らしい。
それを教えてくれた零は早々にタオルを外して入浴していまい、ナマエだけが躊躇っている状況だった。
「じゃあ、ほら。こっち向いてるから」
そう言って顔を背けた零に、ナマエはいよいよ覚悟を決める。
もう入籍して半年以上経つのだが、この気恥ずかしさだけはどうしようもなかった。
体を包んでいたタオルを外し、零の隣にそそくさと体を沈める。
ちらりと隣を窺うと零もちょうどこちらを見たところで、優しく細められた灰青色に気恥ずかしさが増した。
「温泉は初めて?」
「う、うん」
「僕も随分と久しぶりだよ」
ゴツゴツとした岩に肘をついてリラックスした様子の零に対して、ナマエは正解の体勢がわからず段差に浅く腰掛けたまま辺りを見回す。
「すごいね、映画にでも出てきそう」
「ああ。庭も凝ってるし、夜空も綺麗だ」
平日だからか、他の宿泊客の気配を感じないのも居心地がいい。
ふと零の横顔を見ると、彼はいつになくぼんやりとした表情で星空を眺めていた。
(疲れてるのかな)
ナマエは特に触れず、濁り湯を手のひらですくって観察した。
白っぽいお湯はサラサラとして肌あたりが柔らかい。湯加減もちょうどよく、涼しい外気も相まってのぼせる心配もなさそうだ。
「たまに……」
ふいに口を開いた零に、ナマエはちらりと彼を見た。零の視線は空に向けられたままだ。
「たまに、怖くなることがあるんだ」
「え?」
「君がもしこの世界に来なかったら、と想像するとね」
月と星だけが照らす彼はどこか儚く見える。
それを見たナマエは漠然とした不安がじわりと滲むのを感じた。
「もしかしたら、ヒロも松田も伊達もいない……そんな人生もあり得たんじゃないかって。そう考えると、無性に恐ろしくなる」
諸伏は自決寸前でナマエが阻止したし、松田を爆破直前のゴンドラから連れ出したのも彼女だ。歩道に突っ込んだ暴走車をナマエが止めなければ伊達の命も危なかった。
そのどれもが紙一重で、タイミング次第で誰が死んでもおかしくなかった。彼がその可能性を考えてしまうのも無理はないだろう。
「……失うのって、多分私が思うよりずっと怖いことなんだよね」
ナマエは白濁の湯が風に波打つのを眺めながら、ぽつりと呟いた。
零の視線がこちらに向く気配がする。
「私はこんな生い立ちだから、きっとこの世界の人たちより死を受け入れているけど……それでもこの幸せがいつまでも続けばいいと思うし、守りたいと思うよ」
再び両手でお湯をすくえば、指の間から見る見るうちにそれが零れていく。
どんなにたくさんすくったって、この手に留めておけるのはほんの僅かだ。それはきっと、人だって。
零が、ふっと吐息まじりに笑うのがわかる。
「…うん。失うことが怖いから、もっと大切にしたいと思うのかもしれない」
声色が優しくなった気がして隣を見ると、零はナマエを見つめながら眦を柔らかくした。
「君はきっと、あらゆることを覚悟しているんだろうな。本当に強い人だ」
「私でも弱気になることくらいあるのに」
「それは初耳だな」
例えば?と零が聞く。
ナマエは照れ隠しのように目線を逸らして、ぽつりと答えた。
「もし私がなんの力も持たないただの女でも、零は好きになってくれたのかな、とか」
「ああ……そうか。言ってなかったな」
「ん?」
「僕は多分、君が思ってるよりずっと前から君が好きだった」
愛おしそうに細められた灰青色の瞳と視線を絡ませながら、ナマエは言葉を失くした。
「立場上、誰にも言わずにしまっておくつもりだったけど……穏やかな雰囲気とか、僕と目が合っただけで照れてしまうところとか、いつも癒されてた」
照れてるの、バレてた。
ナマエは湯加減とは関係なく全身が紅潮していくのを感じて、グッと唇を引き結ぶ。
「僕のことが好きで好きで仕方ないんだなって。可愛い人だなって思ってたよ」
「…!……!」
とどめのように微笑まれて、ナマエは思わず俯いて顔を覆った。
相変わらず赤い耳までは隠し切れていない彼女を見て零がふっと笑う。
「後から気付いたけど、僕との仕事の後か、その翌日にポアロに来るのがお決まりだったんだろ?」
後からって、いつバレたんだろう。できればごく最近であってほしい。恥ずかしすぎる。
ナマエは顔を上げられないまま、羞恥に叫び出しそうになるのを必死に堪えていた。
「僕もポアロで君に会えると気持ちが落ち着いたし、きっとお互いに癒されてたんだな」
零がひたすら優しい声で語りかけてくるのが居たたまれない。
「会いたい日に会えないと寂しかったし」
「……えっ、零が?」
「はは、僕だって寂しく思うこともあるさ」
意外すぎる告白に思わず顔を上げたナマエを、零が「おいで」と促した。
手を引かれるままに腰を少し浮かせると、段差に深く座り直した零の脚の間に座らされてナマエはカチンと身を固くする。
零はナマエの手首についていたヘアゴムを取って、彼女の長い髪をまとめ始めた。
「僕は元々ナマエという女性が好きで……それからその人がギムレットで、ナマエ=ゾルディックで、幼馴染や同期の恩人だと知ったんだ。あいつらを助けてくれた人だから好きになったんじゃない」
髪をまとめ終えた零がナマエの両肩に手を置き、「わかった?」と耳元で甘く囁く。
頬にぶわっと熱が上ったナマエは「わかった」とコクコク頷くことしかできなかった。
「……あっ!」
「え?」
ふいに声を上げたナマエが、零の手を取って自身のお腹に当てた。
「今ピクッて動いたの。この辺」
零の手の上から自身の手を添え、「また動くかも」と息を殺す。
「……こういう時は恥ずかしがらないよな」
「ちょっと黙って」
「はい」
二人の間に沈黙が流れる。
少しして、零の手を当てたところから確かな胎動が伝わってきた。
「あっ」
「ね、動いた」
満足そうな笑みを浮かべてナマエが振り向くと、零は泣き笑いのようにクシャリと顔を歪めていた。
「零、わっ」
顔を隠すようにぎゅうっと抱きすくめられ、バシャッとお湯が跳ねる。
しっとりと濡れた金髪がナマエの右肩に乗り、ぐりぐりと押し付けられた。
「零?」
「……くそ…やっぱり幸せだ」
噛み締めるように呟く声がすぐ近くで聞こえて、ナマエは頬を緩ませる。
「うん、幸せだね」
「幸せすぎるのも怖い」
「そう?」
抱き締める腕にそっと手を添えると、ぎゅっと腕の力が強くなった。
「大丈夫、零はもう何も失わないよ。私が全部守るから」
ともすれば薄っぺらく聞こえる台詞だが、根拠となるだけの力はある。
そしてナマエはそれをやり遂げるだけの決意を持って、その言葉を口にしていた。
それが彼にどう届いたのかはわからないが、絞り出すような長い長いため息がナマエの肩をくすぐる。
「本当に……」
言葉の先をナマエがじっと待つが、零は「いや、長湯もよくないな。そろそろ上がろう」と急に話題を変えた。
「え?続きは?」
「続きは50年後に言いたくなった」
「何それ、死ぬ時ってこと?」
そうかもしれない、と笑う零をナマエは呆れ顔で見つめる。
「じゃあ……忘れないでね」
「絶対に忘れないよ」
―――君に出会えてよかった、なんてフラグめいた台詞は、人生やり切ってから言うくらいがちょうどいい。
そんな零の考えなど露知らず、ナマエは不満そうに口を尖らせていた。
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