01


『手デカ女』

そんなあだ名が名前につけられたのは、小学生の時だ。名前の手は子供の頃からそこらの男子よりも大きく、指も長かった。
大人になれば「ネイルが映える」「指輪が似合う」と賛辞の対象となることもあるだろうが、子供にとって大多数に当てはまらないものは異質で異物だ。

手デカ女―――そんな悪意に満ちたあだ名が広まるのに、そう時間はかからなかった。

中学校に進学しても、高校に進学してもそれは続いた。いっそ私立の高校に進学すればよかったと、入学後に後悔してももう遅い。
電車で通う距離の高校を選びはしたが、多少の距離をとったところで同じ中学の人間は多少なりいる。

彼女の不名誉なあだ名は、やはりそこでも広まってしまったのだった。

「うわっホントにでけぇ」
「おいお前、手ぇ合わせてもらってこいよ」
「はあ?嫌だし」

わざわざ他のクラスから見に来てまで、コソコソ陰口を叩かなくたっていいのに。
大きめのカーディガンで隠そうとも、何かするたびに手は見える。その大きさを隠しながら生きていくことはできない。
膝の上で両手をぎゅっと握り締め、名前はもう何度目かもわからないため息をついた。

「いてっ」
「おい、なにすんだよ松田!」
「うるせぇな。通行の邪魔」

廊下で群れてんじゃねぇよ、と不機嫌そうな声が聞こえて、名前はそちらに視線を向けた。

「ごめんねー、陣平ちゃん足長いから」

緩く笑う優男風の男子と、見るからに愛想のなさそうな不機嫌顔の男子。どちらも容姿は驚くほど整っているのに、纏っている雰囲気は真逆だった。

「大体てめーら、自分の手の小ささ棚に上げてんなよ。見てて恥ずかしいわ」

シッシッと手を払いながら、鬱陶しそうに吐き捨てて彼は去っていく。
残された一人が名前に向かってにっこりと笑いかけてきて、咄嗟にぺこりと会釈を返した。

松田陣平。
彼と目が合うことはなかったが、それは確かに、名前が初めて出会った光だった。





***




「ねえ本当にいいの?無理してない?」

名前は隣から話しかけてきた女性に、「えっ、今さら?」と目を丸くした。

「別に無理してないですよ、ちょうど日本が懐かしくなってきたところだったんで。それに向こうでもちゃんと仕事取ってきてくれるって信じてますから」

そもそも、ここはもう飛行機の中だ。今さら引き返せるはずもない。

「うん、任せて!忙殺させてあげるわ!」
「あーいや、そこまではいいんですけど……。まあいいか」

力こぶを作って気合いを示して見せた女性に、名前は眉尻を下げて苦笑した。
隣に座る彼女は名前のマネージャーであり、これから日本に新しく事務所を構える新社長でもある。名前の素質を見出してくれた彼女と共に帰国するのに、なんの躊躇いもなかった。

(日本かあ……)

高校卒業と同時に渡米して早七年。その間一度も帰ることのなかった母国は、今どう変わっているのだろうか。

「そういえば、彼とはまだ連絡取ってる?」
「え?」
「高校の時付き合ってた彼よ。名前は…忘れちゃったけど。私のスカウトがきっかけで別れさせちゃったようなものだから、もしまだ連絡取ってるなら遠慮しないでね」

名前の脳裏に、傍若無人で協調性のかけらもない不機嫌顔が過ぎる。

「…取ってないです。共通の友達からはよく連絡が来てたんですけど、その彼も、その…四年前に亡くなって」
「そうだったの……ごめんなさい」
「いえ。私もそういう話しなかったし」

渡米してから彼―――松田と連絡を取ったのは、友人である萩原の訃報を知らされた時が最初で最後だった。
その時、松田に対してひどい態度をとってしまったことが、今も名前の中に澱のように残っている。

(元気にしてるかな、陣平……)

彼がまだ記憶通りの部署にいるなら、きっと毎日が危険と隣り合わせのはずだ。
別に再会なんて望んでない。彼が生きて元気に過ごしていてくれればそれでいい。
―――だからどうか、死なないで。

微笑む萩原が脳裏に浮かんで、名前はそれを振り切るように真っ白な雲海に意識を移した。




***




百貨店の前で日傘を畳み、屋内に入ってからサングラスを外す。
帽子も外そうか迷ってから、髪に癖がついていそうだと諦めた。

帰国から一夜明け、家具と寝具しかないマンションを人間らしい住まいにするため、名前は二駅隣の百貨店を訪れていた。
七年振りの日本はすっかり様変わりしていて、情けないことに電車に乗るのさえ手間取ってしまった。

(えっと、まずは買い忘れてたカーテン)

昨夜は窓についていたシャッターを閉めて凌いだが、やはりカーテンは必需品だろう。
名前は入口付近のフロアガイドを指と目で追いながら、まずはインテリアショップに向かうことにした。

(色々あるなあ。柄はいらないし、シンプルなやつがいいんだけど)

サンプルの色や質感を確認しながら、それまで着けたままだった手袋を取る。素手で触れて手触りを確かめて、最終的にはアイボリーの無地に決めた。
カウンターでオーダーの手続きをし、再び百貨店の一階に向かう。次は雑貨店を見てみたい、とフロアガイドの前に戻った。

(雑貨店は一階の…あ、ここだ)

先程も見たマップを、現在地からなぞって目的の店を発見する。

(あっ、手袋しなきゃ)

目線の先にあるのが素手であることに気付き、また手袋を着けなくてはと思い至った。

そして次の瞬間。
横から伸びてきた手にガシッとそれを掴まれて、名前は思わず「ひっ」と悲鳴じみた声を上げた。
反射的に身を引くがビクともせず、怯えの籠った視線をその手の持ち主に向ける。

そしてそこにいた人物に、名前は浮かんだばかりの怯えを忘れて目を丸くした。

「………え?」

その人物も名前の手から顔へと視線を移し、ちょうど視線が交錯する。

「お。やっぱそうだったな、この手」

整った顔に愛想はなく、背は記憶にある彼よりもさらに高くなっている。
それでも、ふわふわとした天然パーマと青みがかった目は、あの頃と全く変わっていなかった。

「陣平…?」

信じられないものでも見たかのような表情で名前が呟く。それを見た彼は「他の何に見えんだよ」と小さく笑った。間違いない、松田陣平だ。
七年ぶりに目にした松田に、名前は「もし万が一再会できたら」と考えていた言葉も全部吹っ飛んでしまった。

「え、ここで何してるの?」
「便所借りに寄っただけ」
「あーそう……」

相変わらずデリカシーのかけらもない男に、名前は一気に脱力した。
そういえばこの男、再会に感動するようなキャラでもなかった。

「お前こそ何してんの。アメリカは?」
「昨日こっちに帰って来たの」
「マジか。すげぇタイミング」

握ったままの手を松田が引き、「こっち」と名前をエントランスの隅にあったベンチに座らせる。そして自身もその隣に腰掛けた。

「あの、手……」
「まあ待てって。まずコレやんねぇと」

これ?と名前が首を傾げるのも気にもせず、松田は名前と自分の手のひらをぴったりと触れ合わせた。

「お、よっしゃ。勝ってんじゃねぇか」

ふはっと嬉しそうに松田が笑う。
彼の手のひらは、確かに名前のそれより大きかった。

ようやく解放された手に意味もなく触れながら、名前は「それがやりたかったの?」と問いかける。

「大事なことだからな」

高校時代、彼女より手が小さかったことを気にしていたのだろうか。
相変わらず負けず嫌いな男である。

「んで仕事はどうしたんだよ。ハリウッドがどうとか言ってただろ」
「女優さんの手の吹き替えね。あれから途切れず仕事をもらえて、最近までやってたよ」
「すげぇじゃん」
「それであの時スカウトしてくれたマネージャーさん…兼倉さんっていうんだけど、その人がこっちで新しく事務所立ち上げるから、それについてきたの」

帰国した理由を話すと、松田は興味があるのかないのか、「ふーん」と適当な相槌を打った。

「こっちで仕事あんの?」
「フランスのジュエリーブランドが日本向けのオンラインストア開設するから、当面の間はそれのモデルやる予定」

モデルといっても名前はパーツモデルなので、手や足、デコルテなど、必要なパーツしか映ることはない。
ただしブランドの全商品を日本向けに撮影し直すとあって、そのアイテム数は膨大だが。

「へえ、頑張ってんな」

感心したように彼の目が細められるのを見て、名前は胸の辺りがぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
松田と別れて進んだ道を彼に褒められるというのは、なんだか「嬉しい」だけでは表現できない気がした。

「……うん」

いつも通りの笑顔を意識して、なんとか頷いてみせる。

「今日は?買い物?」
「うん、新居に足りないもの買いに」
「あっそ。荷物持ちくらいなら付き合ってやるわ」

さらっと申し出た松田に、名前が思わず「え」と目を瞬かせる。

「あ、ありがとう」
「おう」
「仕事は?」
「非番」

短く答えて、松田は「さっさと行くぞ」と立ち上がる。
名前がそれに並びながら手袋を着けると、彼は何も言わずにそれをちらりと見た。

「買うもんは」
「小物入れとマット類と、あと食器とか」
「ふーん」

目当ての雑貨店に入るとその可愛らしい雰囲気に松田が眉根を寄せるが、特に文句は出なかった。
欲しいものを次々と手に取って会計を済ませ、両手に大きな袋を提げた松田が「で」とそれを掲げてみせる。

「これどうすんだ。タクシー?」
「ううん、家まで送る」

宅配便を手配してもらえないか総合カウンターで聞いてみるつもりだと名前は続けた。

「家、こっから遠いのか」
「電車で二駅だけど、仕事柄あんまり重い荷物持てないし……タクシーより送料の方が安いから」

そう説明した名前に、松田は呆れたような表情で「姫かよ」とツッコむ。

「こんぐらい家まで運んでやるわ」
「え」
「嫌ならいいけど」
「ううん、助かる」

ありがとうと素直に礼を言えば、「おう」とだけ返ってきた。

(相変わらず優しいなあ)

口は悪いわ協調性もないわで周囲からはあまり理解されないが、実はすごく優しい男であるというのはよく知っている。
変わってないな、と名前は嬉しくなった。

通りを歩く間も、電車に乗っている間も、二人の間にはぽつぽつと言葉が落ちるが、特に会話が弾むこともない。なのに気まずさがないというのも、相変わらずだった。

「ありがとね、陣平」
「おー」

引っ越したばかりのマンションの下で、松田から大きな袋を二つ受け取る。
途端にずっしりと感じる重量に、名前は「うっ」と唸った。これは早く部屋に戻らなくては。

「あ」
「ん?」
「番号もアドレスも変わってねーから」

それだけ言うと、松田はさっさと背を向けて立ち去ってしまった。
別れを惜しめとは言わないが、そんなところも相変わらずだと思わず苦笑が零れる。

(連絡しろってことでいいんだよね)

別れ際の言葉を脳内で繰り返す。
これで連絡しなかったら怒られそうだと思うくらいには、ストレートな表現だった。

「あ」

そういえば一昨年くらいに、仕事の関係で番号もアドレスも変えたんだったと思い出す。

(もしかして、連絡してくれてたのかな)

いやまさか。それはちょっと期待しすぎだろうと自分に言い聞かせた。

何はともあれ、まさか再会できるなんて思わなかった。
それだけで飛行機での憂鬱な気分も吹き飛んでしまうなんて、なんて現金な女だろうか。

両手に提げた荷物は重いのに、エントランスを歩く足取りは驚くほど軽かった。


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