02
「あ、この前の」
背後から聞こえた声に、名前は自分だろうかと振り返る。そこにいたのは先日松田陣平と一緒にいた男子だ。
「ああ、えっと…」
「俺、萩原研二。よろしくねー苗字さん」
にっこり笑う顔はやはり整っていて、取っつきやすそうな雰囲気が人好きのするタイプだと名前は思った。
「よろしく、萩原くん。まだ帰らないの?」
今は下校時間で、ここは図書室前だ。彼らの教室から下校するなら反対方向である。
「陣平ちゃんが委員会でさ。先帰ってもいいんだけど、どうせやることないしプラプラしてたんだよね」
「ふーん」
「苗字さんは?」
「本借りてきたとこ」
そう言うと、萩原は文庫本を持つ名前の手に視線を向けた。
「それ」
「え?」
「袖。可愛いけど、やっぱ気にしてんだ」
萩原が指差したのは、少しでも手が隠れるようにと選んだ大きめのカーディガンだ。
おかげで手はほとんど隠れているが、可愛いと言われると男受けを狙ったようで恥ずかしい。う、と唸って背中に手を隠す名前を見て、萩原が小さく吹き出した。
「いやいや、陣平ちゃんも言ってたっしょ?女をイジるヤツらなんて小物だからね。ぜってーアソコも小せぇし、気にするだけ損だって」
「う、うん…?」
それはフォローなのだろうかと、名前は思わず口元を引き攣らせた。
「なあ、ちょっと手貸して」
「えっ」
距離を詰めてきた萩原に、本を持っていない方の手を掴まれる。
名前が呆気に取られているうちに、彼はさっさと互いの手のひらを合わせてしまった。
「お、やった。俺の方がデカいじゃん」
確かに、ほんの少しだけ彼の方が大きい。
同年代で自分より手が大きい人物は珍しいと、名前は目を丸くしてそれを見つめた。
「おい。何やってんだハギ」
萩原越しに聞こえてきたのは、呆れたような響きの声だった。
「あっ、陣平ちゃん聞いて。苗字さんより手デカかったわ俺」
振り返りながら、萩原がドヤ顔で言う。
委員会が終わって萩原を探していたらしい松田は、ただでさえ不機嫌そうな顔に「あ?」と苛立ちを滲ませた。
「おい、手ぇ貸せ」
ズンズンと近づいてきた松田に手を取られ、名前はまたも拒否できないまま手のひらを合わされる。
それを隣から覗き込んでいた萩原が、プッとわかりやすく吹き出した。
「陣平ちゃん、負けてんじゃんー!」
「萩原くん…それイジってない?」
「俺がイジってるのは苗字さんじゃなくて陣平ちゃんだからセーフ」
名前の目の前で、手を合わせたままの松田の顔にピキピキと青筋が浮かんでいくのが見える。どうしよう、猛烈に逃げ出したい。
するとスッと手を放した松田が萩原に向き直り、その襟首を乱暴に掴んだ。
「ちょっとツラ貸せや」
「え、やだし」
「あぁ?」
そのままズリズリと萩原を引きずり始めた松田が、思い出したように名前を振り返る。
「いいか、俺は別に気にしてねーからな」
「あ、うん」
「どうせすぐ越すしな!」
「うん…?」
くわっと目尻を吊り上げられ、名前は正解のリアクションがわからず首を傾げた。
***
海外ブランドのハイジュエリーを身に着けて、カメラに向かって指定のポーズを取る。
慣れた作業ではあるが、撮影に使うのはどれも価格にして数十万から数百万という高級品ばかりだ。
一アイテム終わって外すごとに、詰めていた息が漏れる。
(指輪ばっかり続くと指が凝る……)
思いっきりパキパキと関節を鳴らしたいところだが、それも厳禁だ。
名前はグッと拳を握っては開いてを繰り返して両手の筋肉をほぐす。
クライアントがハイブランドとあって構図にも細かいこだわりが多く、指先でオシャレな小枝をつまんでみたり、アンティークチェアの背もたれに添えてみたりとシチュエーションも色々だ。
ポーズによっては手より腰や足がしんどいこともある。
「名前ちゃん、次はネックレスだって。メイクしてきてくれる?」
「はい」
マネージャー兼社長の兼倉にそう声をかけられ、控室に向かう。
名前は手だけでなく、足や首、デコルテ、耳なども撮影できる、比較的マルチなパーツモデルだ。
そのため、今回対象となるジュエリーのほとんどは名前一人で撮影できる。
「……あ。ほら、あれ」
囁くような声が聞こえて視線を向けると、少し先の控室の前で二人のモデルがこちらを見ていた。
「オーディション免除でしょ?ないわ」
「つまりコネでしょ。…あ、枕かも」
「あり得るー。つーか手でかっ」
会話の内容を名前に聞かれることなど、なんとも思っていないらしい。むしろ聞かせている可能性の方が高いか。
クライアントであるジュエリーブランドにはアパレルラインもあり、彼女達はそちらの撮影を任されたファッションモデルだ。
高倍率のオーディションを勝ち抜いてきたということもあって、先方に指名されてこの場にいる名前が気に食わないのだろう。
(私だって、認めてもらうために向こうで頑張ってたんだけど)
労せずポジションを勝ち取ったように思われるのも不愉快だが、それでトラブルになるのも本意ではない。
学生時代のように気にしていないフリをするのが無難だと、名前は耳のシャッターを下ろすイメージをして通り過ぎた。
「……あーあーあー、ムカつくっ」
控室に入ってから思わず本音が漏れてしまったが、このくらいは許してほしい。
彼女達も血の滲むような努力をしてここにいるのだろうが、それは名前だって同じだ。
そして手のデカさより指の長さを見ろ。
「終わったらビール買って帰ろう…」
うん、そうしよう。と名前は誰に言うでもなく頷いた。
もちろん翌日むくまないよう細心の注意を払ってだが、こんな日は飲んで忘れるに限る。
名前は苛立ちを抑えてデコルテにメイクを施し、再びスタジオに戻った。
「お疲れ様ー!今日はここまでだって」
その日の撮影ノルマを終えた名前に、兼倉がパンッと手を打って労いの言葉をかける。
「はー、お疲れ様です」
「明日は午後からよ。また連絡するわね」
「はい」
スタッフに挨拶をしてスタジオを出た名前は、控室に戻ってスマートフォンを確認した。
(あ、陣平からメール来てる)
百貨店で再会した後、彼とはたまにメールや電話のやりとりをしていた。
相変わらず返信が異様に早く、うっかり深夜までメールが続いてしまうこともある。マメなところも変わっていないらしい。
『今日何時に終わる?』
短いメールは昼休憩の後に来ていたらしく、もう随分と待たせてしまっている。
慌てて電話をかけた名前に、松田は特に気にしていない様子で「飲むぞ」と短く告げた。
***
仕事終わりの松田と合流したのは、駅近の立ち飲み居酒屋だ。
仕事着のまま来たという彼は黒いスーツに暗い色のネクタイを締めていて、まるで喪服のようにも見えてドキッと心臓が跳ねた。
店内に入りながら名前は帽子とサングラスと手袋を外し、潰れた髪型を整える。
「あー……、ビールでいいか?」
「うん」
テーブルに案内されて早々生ビールを二つ頼むと、松田は上着の内側から煙草とライターを取り出した。
「つまみ適当に頼んどいてくれ」
それだけ言って煙草を咥え、慣れた手つきで火をつける。
「陣平、煙草吸うんだ」
その見慣れない姿に、名前はメニュー片手に思わずそれを凝視した。
すると煙草を咥えたままの松田がちらりと目線を寄越し、それから名前にかからないよう煙を吐き出して、「ダメかよ」と短く問いかけてきた。
「ううん。そうしてると大人に見える」
「大人だわ」
素早い切り返しにふふっと笑みが零れた。
「でも、本当に雰囲気変わったよ。落ち着いたっていうか」
学生時代の子供っぽさや無邪気な感じが程よく削がれて、随分と大人びたように思える。
口を開かなければさぞモテるだろう。
「…俺は何も変わっちゃいねーよ。変わったのはお前だろ」
「え?」
その言葉に隣を見れば、松田は灰皿に煙草の灰を落としながら続けた。
「見ない間に買い物袋すら持てない女になりやがって」
そこに含まれた揶揄うような響きに、名前は思わずジト目で睨みつける。
「陣平だって仕事道具は大事に使うでしょ。それと同じだよ」
「仕事道具ねぇ」
右手に煙草を持ったまま、空いた左手が名前の手を取った。
長い指や整えられた爪をしげしげと眺めてから、節くれ立った親指が手の甲を撫でる。
「こんな弱っちいの使う気になんねぇけど」
「いや、言葉の綾だから」
「でもまあ、よかったんじゃねーの。この手が活きる仕事ができて」
「………」
「アメリカ行って、よかったな」
松田は名前の手を眺めたまま、そう言って口元をふっと緩めた。
それを肯定するのは、彼と別れてよかったと言うのと同じだ。
それでもそんな風に優しく微笑まれたら、名前は「うん」と頷くことしかできなかった。
「で、つまみは?」
そっと手を放されて、名前は思わず「あ」と我に返る。
もう片方の手には未だにメニューを持ったままだし、先に頼んだビールもいつの間にか運ばれてきていた。
とりあえずジョッキを合わせて乾杯し、今度こそメニューに目を通す。
「えーと、たこわさって何?」
「タコとわさび」
「たこぶつは?」
「タコのぶつ切り」
「やみつきキャベツは?」
「キャベツに……何かかってんだアレ。いや、もうなんでもいいから早く頼めや」
日本の居酒屋メニューに興味津々の名前に、松田は面倒臭そうに息を吐いた。
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