10
「しばらく忙しくする」―――松田が言ったその言葉の通り、いつもすぐに返ってくるメールは返信に時間が掛かるようになった。
昼夜を問わず働いているようで、今朝起きたら深夜三時にメールが来ていて驚いたほどだ。機動隊とはそういうものなのだろうか。
「名前ちゃん、本当にキレイになったよね」
喫茶店のテーブルを挟んで、そうにこやかに笑うのは高校時代の友人だ。
彼女は仲良くなった三人組の一人で、唯一の既婚者でもある。今日は二歳になる子供を夫に任せて会いに来てくれたのだ。
「そう?嬉しいなぁ」
「元々美人だったけど垢抜けたっていうか。さすがモデルさん」
「パーツモデルだけどね」
「それね。CMとかに出てても名前ちゃんってわからないのが残念」
「ふふ」
そういう仕事だよ、と笑って名前はカフェオレを口に運ぶ。
「こっち戻ってきて彼氏はできた?」
「ううん、そんな暇なかった。時間できたのは最近だし」
そんな忙しい中でも、松田とはわりとマメに会っていたような気もするが。
「これからはずっと日本なんでしょ?」
「うん、多分」
「いい感じの人できたら教えてよ!結婚してからときめきに飢えててさぁ」
「はいはい、できたらね」
しばらく会話を楽しんでから店を出ると、名前は振り返って店名を確認した。
(喫茶ポアロか。覚えとこ)
カフェオレが美味しく、近年稀に見るアタリの店だ。
また来ようとひそかに誓う名前の隣で、友人はスマートフォンを見ながら「次はー」と呟いている。まだ行きたい店があるらしい。
ふと、聞き覚えのある声が聞こえた気がしてそちらに視線を向ける。
(あ)
こちらに向かって歩いてくるのは、相変わらずの喪服のような出で立ちにサングラスをした松田だ。
その隣にはスーツを着たショートヘアの女性がいて、松田に鋭い表情を向けている。
「……から、聞き込みの態度が悪すぎるのよ。一般市民を怯えさせてどうするの?」
「またお説教かよ。飽きねぇな、あんたも」
「あんたじゃなくて、佐藤」
説教中らしいのに、松田はふぁ、とあくびを漏らしている。
名前はなんとなく、帽子を目深に被り直した。
明らかに取り込み中なのに声をかけるのも気まずいし、かといって無視したと思われても困る。気づかなかったことにしよう、と目線を落とした。
(新しい帽子だし、わからないはず)
会話の声が徐々に大きくなり、ポアロの前を通り過ぎる。
ふう、と詰めていた息を吐き出したところで、ガバッと帽子を奪い去られた。
「えっ」
「おい、大丈夫か?具合でも悪ぃのか」
気づいて戻ってきたらしい松田が、そう言いながら顔を覗き込んでくる。
「え?あっ、ううん…なんともないけど……」
「ならいいけど。また連絡するな」
ぽすっと帽子を戻し、軽く手を上げて去っていく。
「何よ今の、乱暴じゃない」「知ってるヤツだからいいんだよ」という会話が遠ざかっていくのを唖然として眺めていると、隣から「ちょっとちょっと!」と興奮気味に体を小突かれた。
「今のってもしかして松田くん!?」
「あ、うん……」
「ヨリ戻したの!?」
「違、違うから。そういうのじゃないから」
しどろもどろになって追及を躱しつつ、名前は先程の二人を思い出していた。
(仕事中なのにあくびまでして……素っぽい感じだったな、陣平)
モヤモヤする気持ちを誤魔化すように、名前は帽子のつばをぐっと下げた。
***
「わざわざ来てもらっちゃってごめんねぇ」
白いベッドの上でへらっと笑うのは兼倉だ。
病衣を着て点滴までされている彼女だが、しっかり眠ったからか顔色は悪くない。
「過労なんて…ほんと勘弁してください。心配したんですから」
「んー、疲れてる自覚はなかったんだけど」
「それが一番怖いです。スタッフも増やしてくださいね」
善処します、と笑う兼倉に名前は呆れたような表情を向けた。
新しい仕事を次々と獲得してきた兼倉だったが、その裏で随分と無理をしていたらしい。
昨夜のうちに過労で倒れたと連絡があり、名前は今日の面会時間が始まると同時に駆け付けたのだった。
暇潰し用の本や漫画を手渡すと、兼倉はお返しと言わんばかりに小包を差し出してくる。
「? なんですか、これ」
「新しく香水のCMが入ってるんだけど、そのサンプル」
「また香水……」
床にぶちまけた過去を思い出し、名前はおそるおそるそれを受け取った。
「…あ、よかった。瓶じゃない」
「渡そうと思ってバッグに入れっぱなしだったの。暇な時にでも試してみて」
「はーい」
包みを捨て、プラスチック製の小ぶりなアトマイザーだけをバッグに入れる。
お見舞いに来たはずなのに結局そこから仕事の話が始まってしまい、彼女が一階ロビーに降りたのは正午になる少し前のことだった。
休日ということもあって、ロビーには見舞客らしき人がちらほらといるだけだ。
名前はメールをチェックしようとスマートフォンを取り出すが、バッグから出す際に引っ掛けたのか、受け取ったばかりのアトマイザーがカランと床に落ちてしまった。
(あっ)
しかもトドメと言わんばかりにそれを爪先で蹴ってしまい、壁際の長椅子に向かってコロコロと転がっていく。
名前は慌ててそれを追いかけた。
(ガラスじゃなくてよかった)
しゃがんで長椅子の下を覗き込んだ名前が、視線の先にそれを見つけて安堵する。
しかし拾おうと手を伸ばしたところで、彼女はある違和感に気付いた。
(……え?これ、何?)
アトマイザーがぶつかって止まったのは、壁ではない。ましてや長椅子の隣にある公衆電話コーナーのパーテーションでもない。
長椅子の下、奥に隠すようにして置かれている紙袋のすぐ手前で、それは止まっていた。
伸ばした手でそっとアトマイザーを回収しつつ、名前は紙袋の存在感に眉根を寄せる。
(忘れ物…にしては奥に置かれすぎだし、まるで死角に隠してるみたい)
嫌な予感がしてスマートフォンのカメラを起動し、紙袋の真上でシャッターを切る。
立ち上がりながら画像を確認して、名前はハッと息を呑んだ。
無骨な箱状の物体に光るのは――STANDBYの文字だ。
まさかと思いながらも、脳裏を過ぎる最悪の想像に足元がぐらつくような錯覚を抱いた。
(……とりあえず通報しなきゃ)
本物か偽物かは二の次だ。どうせ自分が判断できることではない。
すぐ隣にある公衆電話コーナーに立って、受話器を外した名前は1のボタンに触れた。
(110番……)
しかしいざ押そうとしたところで、ふとある人物の顔が浮かぶ。110番するより先に連絡したら怒るだろうか。
それでも名前は、ことこういう場面において彼以上に頼りになる人間を知らなかった。
微かに震える手で財布から硬貨を取り出し、スマートフォンで呼び出した連絡先を見ながらダイヤルする。
鳴り始めたコール音に、早く出て、と名前は強く祈った。
(……出ない。公衆電話からじゃダメかな)
壁掛けの時計を見上げると、時刻は正午になる五分前を指している。仕事中か、休憩中か。やっぱり先に110番すべきかと思案したところで、ようやくコール音が途切れた。
『……もしもし』
「陣平!」
『…名前か。よかった、ちょうど今掛けるとこだった』
え、と目を瞬かせる名前に、松田はどこか硬い声で続けた。
『お前に言いたいことがある。手短に話すから聞いてくれ。俺は、』
「ちょ、ちょっと待って!後にして」
『あぁ?』
名前が慌てて遮ると、やけに苛立たしげな声が聞こえる。
しかしこちらも今はそれどころではないのだ。すぐそこで不審物が存在を主張しているのだから。
「今ね、米花中央病院にいるんだけど、変な物があるの。多分……爆弾」
周囲に聞こえないよう声のトーンを落とすと、電話の向こうで松田が息を呑んだのがわかる。
「液晶にSTANDBYって出てる」
『大きさは』
「あれは多分ケーキ用の紙袋だから…一辺30センチないくらいかな」
他にもビスの数や蓋の質感などを早口で聞かれ、名前は撮影した画像を見ながら端的に答えた。
『……同じ製作者だな』
そう呟く声に合わせて、電話の向こうからカチャカチャと音が聞こえる。間髪入れず、パチン、パチンと何かを切断するような音も聞こえ始めた。
「陣平?」
『いいか、よく聞けよ。そこにあるのは爆弾で間違いない』
「う、うん」
『ただ、素人のお前が避難を呼び掛けるのは危険すぎるし、お前がそこから離れて他の誰かがそれに触るのも避けたい』
松田が言いたいことはわかる。名前は再び「うん」と頷いた。
それから少しの沈黙があって、松田は『酷なこと言うけど』と続ける。
『お前のことは絶対に守るから、俺が行くまでそこで待っててくんねーか』
名前は受話器を握る手に力を籠めた。
大丈夫。彼の言う言葉に、何の不安もない。
「わかった。気を付けてね」
微塵の動揺もなくそう言った名前に、松田は『それは俺のセリフだろ』と小さく笑った。
電話を切って、長椅子の端に腰掛ける。
真下に爆弾があると思うと足が竦みそうになるが、努めてそれを押し殺した。
大丈夫、と心の中で何度も唱える。萩原が言ってくれたそれとは落ち着く度合いがまるで違うが、やらないよりはマシだ。
(大丈夫、大丈夫…きっとすぐ来てくれる)
時計の針が正午を指し、そこからさらに先へと進む。
名前がじっとそれを見つめていると、正午を十分ほど過ぎたところでロビーに駆け込んでくる姿があった。
「陣平!」
名前は反射的に立ち上がると、自分を探している松田のもとに駆け寄った。
事態は一刻を争うのだろう、真剣な表情の松田が「場所は」と短く問いかける。
名前が長椅子を振り返ると松田はすぐそこに向かおうとするが、腕を掴んでそれを止めた人物がいた。
彼に続いて入ってきたショートヘアの―――確か佐藤とかいう女性だ。
「ちょっと、松田君!一人で二件連続解体だなんて無茶だわ。爆処を待ちましょう」
「うるせぇな…その程度で集中力切らすかよ。あんたはさっさと避難誘導でもしてろ」
「もう始めてるわよ」
その言葉に名前が周囲を窺えば、確かにスーツ姿の男たちがロビーにいる人々に声をかけ始めていた。
それを確認した松田は「そうかよ」と短く零し、名前を佐藤の方へと軽く押す。
「じゃあ悪ぃけど、コイツを安全なところまで頼むわ」
「え?ええ……もちろんいいけど、この人は?」
問いかけたのは佐藤なのに、松田はふいに名前と視線を絡ませる。真剣な色を帯びたその瞳に名前は目を瞬かせた。
「……一番大事にしてぇ女」
目を見開いた名前にふっと笑いかけ、ポンポンと軽く頭を叩く。
頼んだぜ、と佐藤に向かって言い残すと、松田は爆弾の置かれた長椅子へと走って行ってしまった。
残された二人はしばらく呆気に取られていたが、先に我に返ったのは佐藤だった。
彼女は目の前で起こったことに若干頬を染めつつも、コホンと咳払いをして表情を引き締める。
「全く、あの男は……さあ避難しましょう」
促すように佐藤が話しかけるが、名前は前を見つめたまま反応しない。
「あの?」
「あ、はい……」
生返事を返しながらも、名前は目の前の光景から目が離せなかった。
長椅子の下を覗き込む松田の傍らに、同じようにしゃがみ込む背中がぼんやりと見える。
自分は機動隊の制服なんて知らないはずなのに、どうして。
動けず立ち尽くしたままの名前に、再び佐藤が声をかける。
「大丈夫です。彼なら心配いりませんから」
「……はい。…でも、なんていうか…別に心配じゃないんです」
「え?」
「あの二人が一緒なら絶対に大丈夫だって、知っているので」
言いながら、名前の視界がじわりと滲む。
その時萩原が振り向いて、あの人好きのする笑顔でにっこり笑ってみせた気がした。
***
米花中央病院に爆弾を仕掛けた犯人は、萩原が殉職した四年前のマンション爆破事件と同一犯だった。
松田はその犯人を追うため、わざわざ一週間前に刑事部に異動していたのだそうだ。
名前の電話を受け、松田は観覧車の中で一つ目の爆弾を解体した。
そして米花中央病院に到着するまでの短い間に、犯人の居場所を絞り込んで包囲網を敷かせたらしい。その機転が功を奏し、無事犯人逮捕に至ったのだ。
黒いワンピースに身を包んだ名前が、同色の帽子を取って墓石の前にしゃがみ込む。
すると隣にしゃがんだ松田が、煙草を取り出して吸い始めた。
「え、何してるの?」
「供えんの。あいつ、下手したら俺以上のヘビースモーカーだからな」
そう言うと、松田は火の付いた煙草をそのまま供えた。
「それいいの?マナー的に」
「最後に持って帰れば文句はねぇだろ」
「なるほど。ね、私もやってみたい」
軽い調子で言った名前に、松田がなんとも言えない表情で沈黙する。
「……やめとけ。俺がハギに怒られるわ」
「えっ、怒るかな」
「いや嘘。笑うな、多分」
「その嘘必要あった?」
ふふ、と笑いながら、煙草を諦めた名前はマナー通りに線香を立てる。
両手を合わせて思うのは感謝と、それから。
(遅くなっちゃって、ごめんね)
彼の死から、そして松田とのことから目を逸らしていたせいで、ここに来るまでに四年もかかってしまった。
脳裏には緩く笑う萩原の姿が浮かぶが、もう涙は出てこない。
代わりに彼の笑顔に応えるように頬が緩むのを感じた。
顔を上げてふと隣に目をやると、松田の青みがかった瞳がじっとこちらを見ている。
「……なに?」
まさかずっと見ていたのだろうか、と名前は思わず半目になった。
するとしゃがんだ膝に頬杖をつくというなんともやる気のなさそうな体勢で、松田が「あのさぁ」と口を開く。
「ん?」
「好きなんだけど、付き合う?」
言葉を失って硬直した名前を見ても、松田は真顔のままニコリともしなかった。
じっと見つめてくる真っ直ぐな瞳に、名前は固まってしまった思考を必死に巡らせる。
「……え?…いや、えっと………こ、こんなとこで、急に……」
「こんなとこって、ハギに失礼だろ」
「うっ……いや、あの、そういう意味じゃ」
「ふ、慌てすぎ」
狼狽える姿を見て、松田がようやく笑みを見せる。
その笑顔はいつもより穏やかで、名前はきゅっと胸が苦しくなった。
「…ま、恨むなら日本に帰って来ちまった自分を恨むんだな」
そんな使い古された悪役のようなセリフを吐きながら、松田が立ち上がる。
「もう遠慮するつもりはねぇから」
ようやく親友の仇が討てたというのも大きいのだろう。
松田の笑顔はやけに清々しく、吹っ切れたような雰囲気さえあった。
それに遅れて、名前もまた立ち上がる。
膝に置いていた帽子を被りながら、俯きがちに口を開いた。
「私は……、わっ」
突然ビュウッと風が走り抜けて、被ったばかりの帽子を吹き飛ばした。
「……ふふっ、他でやれ、だって」
名前はクスクス笑いながら乱れた髪を直す。
そしてすぐ近くに落ちた帽子を拾いに行こうとして、それより早く松田の手がそれを拾い上げた。
「ったく……しょうがねーな、あのアホは」
「あ、ごめん。ありが…」
受け取ろうとした手をすり抜けて、墓石から顔を隠すようにして帽子が添えられる。
その陰で触れ合った唇に、名前の言葉は途中で切れた。
軽く重なっただけの体温が離れていくと、真摯な瞳と視線が絡む。
「……まだ返事してないのに」
「まだ?返事の後ならいいのかよ」
「あ」
名前は咄嗟に口元を押さえた。今のはもう答えを言ったようなものだ。
やってしまった、と気まずそうに頬を染める名前に、松田が意地の悪い笑みを浮かべる。
二人を包むように吹く風は、なぜだかほのかに煙草の香りがした。
*2020.11.28 完結
prev|
next
back