番外編
※本編三話の幕間で見た夢の話
※全話読了後推奨
間近に風の音が聞こえ、ふわりと煽られた髪が頬や顎をさわさわとくすぐる。
鼻先に届く香りも、遠くに聞こえる声や音も、体を包む空気感さえもどこか独特で、どうしようもない程の懐かしさを孕んでいた。
ふと、遠くの方から耳馴染んだ声が聞こえた気がして意識が浮上する。
「おーい、名前ちゃん?こんなとこで寝たら風邪ひくぜー」
耳に届いたのは、低くて柔らかくて、泣きたくなるほど優しい声だ。
「名前ちゃーん?」
反応がないのに焦れたのか、大きな手が肩に触れ、ゆさゆさと控えめに揺さぶってくる。
「え、マジで起きねーし……。名前ちゃん?ちゅーしちゃうよ?」
いや、それは陣平ちゃんに殺されるわ。という呟きがそれまでより近くで聞こえて、名前は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
「あ、よかった。起きた起きた」
「……萩原くん?」
「はい、俺です」
へらりと人好きのする笑みを浮かべた萩原に、名前は目を丸くした。
「え……なんで萩原くんが」
「だって教室にも昇降口にもいねーし、なのに下駄箱に靴はあるし。とりあえず校内にはいるだろって、陣平ちゃんと手分けして探してたんだけど」
「え?」
「授業サボったっしょ、名前ちゃん」
悪ぃヤツ、と萩原が笑う。
名前が周囲に視線を巡らせると、そこは夕焼けに赤く照らされた屋上だった。
どうやら自分はフェンスにもたれかかるようにして眠っていたようだ。
「……あ、なんだ。夢か」
「え?まだ寝てんの?」
「いや、起きてるけど……ん?これは寝てるのかな?」
「マジで大丈夫?おんぶしてやろっか?」
ううん、と首を振って立ち上がる。
続いて立ち上がった萩原を見上げて、名前はその姿をじっと目に焼き付けた。
軽く着崩した制服も、長めの前髪も、柔らかく垂れた眦も。全て記憶にある姿のままだ。
「…え、何?見つめちゃって。惚れた?」
いたずらっぽく笑う萩原に、名前はじわりと視界が滲むのを感じる。
「はっ?ちょ、なになに」
「萩原くん……」
「いや、どーしたよ」
名前ちゃん?と萩原が顔を覗き込んでくる。
気付いたら、「苗字さん」は「名前ちゃん」に変わっていた。
彼との距離感はいつも心地よく、名前自身、何度それに救われたかわからない。
ぬるい雫が頬を伝って、名前はこれが夢か現実かわからなくなりそうだった。
もう一度「萩原くん」と呼ぶと、彼はいつものように「ん?」と応えてくれる。
「……陣平には、やっぱり萩原くんがいないとダメだよ」
「え?」
「陣平って一人だとすぐ無茶するし、後先考えないし、周りの迷惑とか気にもしないし」
「えっと、まあ……うん?」
「萩原くんが一緒にいてくれないと、いつか勝手にいなくなっちゃいそうで……っ」
ぼたぼたと流れる涙の向こうで、すっかり滲んで見えなくなってしまった萩原が「え、どういう状況?」と戸惑った声を上げている。
ああ、どうして自分はこんなに泣いているんだろう、と名前はぼんやり考えた。眠りにつく前、一体何を考えていたんだっけ?
(……あ、そうだ。陣平が仕事で…)
急な出動で約束がダメになって。
彼がちゃんと無事に戻るかどうしようもなく不安になって、それで。
(萩原くんみたいに、急に会えなくなったらどうしようって……そう思って)
七年ぶりに再会した松田は随分と落ち着いていて、あの頃に比べれば言葉数も少ない。
そこにただでさえ距離を感じてしまうのに、喪服のような仕事着には彼まであっさり消えてしまいそうな危うさが垣間見えて。
やっぱり彼の隣には萩原が必要だったのだと、どうしても考えてしまうのだ。
ふいに体が温かいものに包まれて、大きな手がよしよしと頭を撫でる。
「いや、全然状況見えねーけど……とりあえず名前ちゃんに泣かれるのはマズいなぁ」
俺まだ死にたくねーし、と彼が言うが、名前にとってそれは全く笑えない冗談だった。
「えーと、俺がいなきゃ…だっけ?俺ら確かに腐れ縁だけど、別に四六時中べったりじゃないのよ。お互い好き勝手やってる方が楽だし……まあ、俺が松田のブレーキ代わりっつーのもあるけど」
「……ブレーキ?」
「すぐ無茶するって、名前ちゃんも言ってたっしょ?止まんねー時はマジで止まんねーから、そん時用のブレーキ」
そこまで言って、萩原は「あ」と声のトーンを少し上げた。
「今は名前ちゃんもいるから安心だな」
「私?」
「名前ちゃんがいてくれれば、松田も踏み留まるだろ」
どうやら萩原曰く、名前も松田のブレーキとなり得るらしい。
もぞもぞと身じろぎした名前が、すぐ近くにある萩原の顔を見上げて「でも」と不安げに言う。
「私、もう別れてるし……」
そう口にしてから、この時の萩原はそんなこと知らないのだと思い至る。
しかし萩原はそれに驚きもせず、口元を緩めて「大丈夫」と優しく笑った。
彼のそれはすとんと心の中に落ちて、いつも名前の背中を押してくれる。
「大丈夫。あいつが一番大事にしてぇのは、いつだって名前ちゃんだから」
わかったらそろそろ起きよーぜ、陣平ちゃんが待ってる。そう言って頭を撫でる大きな手に、名前の瞼は自然と重くなっていった。
***
名前ちゃん。
低く深みのある声に呼ばれた気がして、名前は重い瞼を持ち上げた。
視界に入る時計は日付が変わる少し前の時間を指している。
(もう、そんなに経ったんだ)
何か夢を見た気がするが、なぜだかその内容を思い出すことは叶わなかった。
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