番外編
※過去話/短め
※付き合う前の話


複数の話し声が近づいてくるのに気付き、松田は閉じていた瞼をゆっくり開けた。
授業をサボって校舎裏の一番奥まったところで寝ていたが、いつの間にか午前の授業が終わっていたようだ。
薄暗い校舎裏も、昼休みに過ごす場所としては一部の生徒に人気がある。

「あれはちょっとヤバイっしょー」
「お前さすがにしつこくねぇ?」
「しょうがねぇだろ、目に付くんだから」

ギャハハ、と笑う声を耳障りに思いながら携帯電話を取り出すと、萩原から『メシどうすんの?』というメールが来ていた。
正直寝起きで空腹を感じないが、ここで何も食べずにいれば午後になって後悔するのは目に見えている。

「でも顔はいいよな、手はでけぇけど」

メールに返信しようとしていた手が、その言葉にピタリと止まった。

「スタイルもいいし」
「うわ、見たんかお前」
「いや夏服だとわかるじゃん?色々」

小中と「手デカ女」というあだ名でからかわれていたというのは、松田も名前から聞いている。
それは高校入学当初も変わらないようだったが、高校生にもなればもう子供ばかりではない。からかう声は徐々に聞こえなくなり、悪意しかないあだ名も次第に風化していった。

それでも一部のグループ、とりわけそこのリーダー格の男だけはしつこく突っかかっているようだ。
正直、それもう逆に好きだろ?と松田は思っているわけだが。

「一回やらせてくれんかな」
「マジかよ、お前」
「ああいうコンプレックス持ちって、ちょっと優しくしたらすぐついてきそうじゃん」

調子に乗って言葉を重ねる男に、周りは同調するように笑う。

「実際、松田と萩原のどっちかとはもうやってると思うんだよな」
「あー、はは、あり得る」
「色気のねぇ手が見えると萎えるから、こう、後ろで縛ってさぁ」
「あっおい、後ろ…」

え?と振り向いたニヤケ面に向かって、松田は硬く握りしめた右拳を振り抜いた。
雑草だらけの地面にドシャッと倒れ込んだリーダー格の男に、残る面々が騒然とする。

鼻血を流しながら起き上がった男にもう一発叩き込んだ松田は、反撃を数発食らいつつも結局その場の全員を二発ずつ殴った。
様子を見に来た萩原に制されてようやく止まったはいいが、結果として松田には一週間の謹慎処分が言い渡されたのだった。




***




「いっ……てぇ……!」

翌朝、自宅の洗面所で顔を洗った松田は、口元にビリッと痛みが走って思わず悶絶した。
避けきれずパンチをもらった箇所は赤黒く腫れていて、血は止まっているが口の端は切れている。もちろん全員平等に殴った松田自身の右拳もしっかり負傷していた。

朝食を終えて自室に戻ってからは、適当にベッドでゴロゴロしたり漫画を読んだりして時間を過ごす。
自宅謹慎ということで外出も一切禁止のため、なんせやることがない。
萩原からは休み時間のたびにメールが来るので、律儀に返しているうちに放課後の時間になった。



「なんで苗字?」

チャイムが鳴って玄関のドアを開けると、そこにいたのは名前だった。
こういう時にプリントを届けに来るのは同じクラスの人間のはずでは。

「萩原くん部活の助っ人頼まれたみたいで、代わりに行ってくれないかって」
「ふーん」

(ぜってー嘘)

心の中で確信しつつも、萩原がそうした理由はわかるので文句は言わなかった。

「麦茶くらいしかねーけど、上がる?」
「ううん、すぐ帰るよ」
「……あっそ」

気まずそうに後頭部をガリガリ掻く松田をよそに、名前はバッグを漁ってプリントとノートを取り出した。

「これ、今日取ったノートだけど写す?一応萩原くんに確認したけど、授業の進み具合同じくらいだったし」
「おー、助かるわ。ハギ滅多にノート取らねぇから」

萩原だけでなく松田自身もまともにノートを取ったことはなく、基本的に教科書だけで事足りるタイプの人間だ。
しかしそこはあえて名前には言わず、礼を言ってそれを受け取った。

「じゃあ明日もまた持ってくるね。写したら朝、萩原くんに渡しといて」
「サンキュ」

うん、と頷いた名前の視線が、まだ腫れているだろう松田の口元に移る。

「怪我……痛い?」
「別に、大したことねぇし。それより喧嘩はやめろとか言わねーの?」
「萩原くんが「男だったら咄嗟に出ちまう拳もあんのよ、大事なモン守る時とかな」って、ウインクしながら言ってたから」
「なんだそりゃ」

言っている姿が容易に想像できる。
げんなりした表情を浮かべる松田に対し、名前はその姿を思い出したのかクスクスと笑った。

「守れた?松田くんの大事なもの」

そう言って首を傾げた名前に、松田はすっと視線を逸らす。

「……さあ、知らね」

ぶっきらぼうな答えだったが、名前は「ふーん」と言ってそれ以上聞かなかった。




***




借りてしまったからには写さなければ。

そう思って自室の勉強机に向かった松田は、名前から借りたノートをめくった。
そこには女子らしくやや丸みを帯びた文字で、授業の内容や要点がわかりやすくまとめられている。
余談として話された内容も逐一メモしているようで、なかなかの情報量だ。

ふーん、と感心しながら、なんとなくパラパラと全てのページを確認する。
するとノートが起こした風に乗って、覚えのある香りがふわりと鼻孔をくすぐった。

(あ)

それは名前と一緒にいる時、学校ですれ違った時、ふとした瞬間に漂う香りだ。
香水や化粧品のような強い匂いではなく、きっとこれが彼女自身の持つ香りなのだろう。

開いたノートをパタンと閉じ、松田は机に突っ伏した。

「集中できるか、クソ」

謹慎は一週間。
とはいえ平日はそのうち五日間しかないので、名前がノートを届けてくれるのはあと四日間だ。

短ぇ、と思わず漏れた本音が、静かな部屋にぽつりと落ちた。


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