過去話+後日談
ピン、と鍵盤を弾く音が放課後の音楽室に響き渡る。
部活で使われることのない第二音楽室は、名前がたまに空き時間を過ごす場所だ。
その指の長さもあって幼いうちにピアノを習い始めた名前は、高校生になってからも週に一回のピアノレッスンを続けている。
今回のようにコンクール前ともなれば、こうして音楽室を借りて練習することもあった。
課題曲はショパンのバラード第一番。
叙情的でドラマチックな調べは聴いている分にはたまらないのだが、曲は長いわ難所が次々飛び出すわで弾く側の人間は別の意味で堪らない。
ピアノ講師の勧めで難度の高いクラスに申し込んでしまったことを、彼女は心底後悔していた。
終盤、いつもと同じところでミスタッチを重ねてしまった名前は、ストレスを吐き出すように鍵盤をバンッと雑に叩く。するとどこからか「うおっ」と驚くような声が聞こえた。
ハッとした名前が周囲を見渡すが、音楽室には彼女以外誰もいない。
そっと椅子から立ち上がり、名前が向かったのは音楽準備室へと続くドアだ。音楽教師は今部活中でここにはいないはずだが。
「……先生?」
声をかけながらドアを開けると、そこには思いもよらない光景が広がっていた。
「えっ、何してるの?」
名前の目線の先で萩原は苦笑を浮かべ、松田はバツの悪そうな顔で後頭部を掻いている。二人の間に散らばっているのはトランプだ。
「あー……ホームルーム終わってすぐ来てたんだけど、そのあと名前ちゃんが来て練習始めたから出辛くなって」
「最後変な弾き方するからハギが声出しちまったじゃねーか」
「その隙に畳み掛けてきた陣平ちゃんが一番タチ悪ぃけどなー」
「うるせーよ。勝ちは勝ちだからな、これで五勝五敗」
トランプで何やら対戦していたらしいが、二人の間にあるトランプはぐちゃぐちゃで何をやっていたのかは一見してわからない。
名前はしゃがみ込んで、重なり合ったトランプを数枚手に取った。
「何やってたの?これ」
それに松田が「スピード」と答える。
「スピードってどういうやつだっけ」
「マジかお前。知らねーの?」
「ちょうどいいじゃん、もっかいやろーぜ。名前ちゃんはそこで見てて」
うん、と頷いて床に腰を下ろす。もう練習をする気分ではなくなってしまった。
「スピード勝負はとりあえず次でラストな」
「おー、これで勝ち越して終わりだ」
二人はそう言いながらトランプを回収し、黒と赤に仕分けていく。
「これ、もしかしてお金賭けてる?」
賭けバスケのことを思い出した名前が問いかけると、二人はわかりやすく無言になった。
「ねえ」
「………」
「………」
黙り込んだまま仕分け終わった二人が、それぞれ赤と黒のトランプを手に取ってシャッフルする。
それから手前に四枚ずつカードを並べ、さらに一枚ずつ中央に置いてスタンバイした。
「え、無視?」
「……いやいや、金っつーか、なあ?」
「おう、現金じゃねーぞ。賭けてんのはメシだからな」
「それ屁理屈じゃない?」
名前のツッコミに被せるように「せーの」と声を揃えた二人が、手札から一枚ずつ中央に出す。
そこからは息もつかせぬ攻防が始まり、時折名前のところにまでカードが飛んできた。
「いや、速っ」
スピードって格闘技だったっけ?と名前は思わず遠い目をする。
お互いに出せるものがなくなれば静かになるが、その後の「せーの」でまた激しい戦闘が再開する。
よくこれを隣の音楽室に物音一つ届かないようにやれたものだ、とうっかり感心してしまうほどだ。
そして最後の一枚をバンッと先に叩きつけたのは松田だった。
「あーくそっ!一枚差!」
「ッしゃ!今日焼肉な」
「いや無理だから。マックで単品をセットにするくらいが限界だから」
チッ、シケてんな。と舌打ちをする松田はもう悪人にしか見えない。
「苗字もやるか。デザート賭けて」
散らばったトランプをまとめながら松田が提案する。
「え、私も一緒に行っていいの?」
「嫌ならいーけど」
「ううん、行く。ていうか松田くんってデザート食べるの?クレープ嫌がってたじゃん」
「アイスくらいなら食う。チョコとかあんま甘ぇのは無理だけど」
そう言いながら、まとめたトランプをリフルシャッフルで均等に混ぜていく。相変わらず手先の器用な男である。
「三人ならなんだろーな、ダウトとか?名前ちゃんダウトわかる?」
「あ、うん」
ルールはわかるが、この二人を相手に勝負するというのはなかなか無謀な気もする。
「苗字の一人負けだろ」
「手の大きさが有利なゲームない?」
「ねーよ、アホか」
半ば負けは確定だろうと財布の中身を思い出しながら、名前は配られていく手札を一枚一枚確認した。
偏りもなくバランスも悪くない手札だとは思うが、ダウトは手札より駆け引きが大事なゲームだ。
「よし、じゃーんけーん」
ポン、で勝ったのは萩原だった。
そこから時計回りで萩原、松田、名前の順にカードを出していくことになった。
「じゃ、まず……いーち」
「ダウト」
いきなりカードを五枚出した萩原に、間髪入れず松田がダウトをコールする。
しかし萩原は長い前髪をかき上げて「フッ」と笑った。
「残念だったな、陣平ちゃん」
「て、てめぇまさか……」
松田がワナワナと震えながらカードをめくれば、そこにあったのはジョーカーと四枚のエースだった。
「出し方がトリッキーすぎんだろ!」
「こういうのは駆け引きだから。なー、名前ちゃん」
「え?え?」
ダウトってもっと淡々と進むゲームじゃなかった?と名前は目を白黒させる。
結局松田もムキになってしまい、その後はほとんど無茶苦茶なダウト合戦になった。
それに釣られまいと堅実にカードを選び続けた名前がなにげに一番リードしている。
(あ、でも最後どうしても合わないな)
名前は手札を眺めながら眉根を寄せた。
このままの流れだと、最後の最後でコールに合わないカードを出すことになる。そこでダウトと言われてしまえば上がれない。
(あの時嘘ついて残しとけばよかったんだ)
少し前の自分を責めるがもう遅い。
そうこうしているうちに最後の一枚になってしまい、名前は覚悟を決めてカードを出した。
「6」
出したカードは本当は5だ。
どうかダウトと言わないでほしい、と名前はおそるおそる二人の様子を窺うが、どちらからもダウトのコールは聞こえなかった。
(あれ?)
思わず拍子抜けした名前に、萩原が「おっ」と声を上げる。
「名前ちゃん上がりじゃん。じゃーあとは俺と陣平ちゃんの一騎打ちだな」
「ボコボコにしてやんよ」
「カードでどうやって?」
「比喩だっつのアホ」
ポンポンと飛び交う軽口を名前は目を瞬かせながら見つめていた。
(……あっさり勝っちゃった)
ラッキー、と頬を緩めながら、名前は二人の勝負の行く末を見守る。
それまでのダウト合戦は一体なんだったのか、そこからの展開はいたって真面目でセオリー通りだった。
そして数分後、辛くも勝利したのは萩原だ。
これで夕食を萩原が、デザートのアイスを松田が奢ることが決定した。
「私タダ飯じゃん」
「おーおー、よかったなクソが」
「口悪っ」
「いや一番財布の負担デカいの俺だから。俺を労わって、俺をー」
二人がトランプを片付けているうちに、名前は音楽室に戻ってピアノを片付ける。
準備室に背を向けていた名前は、二人が意味ありげに視線を交わしたことには気づかなかった。
***
「今思うと、あれってわざとだったんだよね、多分」
食べ終わったアイスのカップをローテーブルに置いて、名前がぽつりと呟いた。
「あ?なにが?」
ベランダで煙草を吸っていた松田が、部屋に戻りながら聞き返す。
名前が眺めているテレビ番組では、人気芸人たちが酒を飲みながらトランプゲームに興じていた。
「付き合う前、萩原くんと三人で賭けダウトやったの覚えてない?音楽準備室で」
「そんな昔の話覚えてねぇな」
「えー」
残念そうにしながら、名前は背後のソファに座った松田に当時のことを説明した。
「最後、二人ともわざとダウトって言わなかったんじゃないかなって」
「なんでそんなことすんだよ」
「んー……私を負けさせないため?」
少し悩んでからそう言うと、松田はハッと鼻で笑う。
「ハギならまだしも、俺がそんなことで気ぃ遣うキャラかよ」
「ダウト」
「あぁ?」
「ふふ、言ってみたかっただけ」
楽しげに口元を緩めた名前に、松田は少し考えてから口を開いた。
「最後コールしなかったって、そんだけか?他には?」
「? 他に何かある?」
松田はそれに答えず立ち上がり、名前の隣に座り直す。
それから彼の顔に浮かんだ意地の悪い笑みに、名前はなんだか嫌な予感がした。
「完答じゃねーから、ペナルティな」
「えっ?思い出したの?」
その質問にも答えず、松田は「ん」と名前に顔を向けて目を閉じた。
「え、」
(……こ、これはまさか、キス待ち顔というやつでは?)
文句なしに整った顔の男が、目を閉じて名前のキスを待っている。
これは写真に撮ったら売れそうだな、と名前は現実逃避した。
「はよしろや」
黙っていれば涼しげなイケメンなのに、やはりどうあっても口が悪い。
仕方ない、と名前は自分の横髪をかき上げるように耳にかけ、ちゅっと軽く唇を重ねた。
「はい。で、正解は?」
聞きながら体を引こうとするが、ガシッと腰を掴まれて身動きがとれなくなる。
「ちょっと、陣平」
「誰が一回っつったよ」
「ええ……」
反論しても聞いてもらえないのはわかっているので、とりあえず啄むようなキスを二回して、それから下唇をはむっと食んでみた。
それでも離されない腰の手に、名前はふと思いつく。
(意外と気付かなかったりして)
指を二本揃えた名前は、それを松田の唇に当てながら指越しにちゅっとリップ音を立てた。
「ダウト」
「げ」
あっさり看破され、目を開けた松田にジト目で睨みつけられる。
「ガキかよ……ペナルティ追加な」
「その前にさっきの答え教えてよ。あの時何かしたの?」
「忘れた」
嘘、と反論するより早く唇に噛みつかれる。
あの日、萩原がいきなり無茶苦茶なカードの出し方をした時点で、すでに茶番は始まっていたらしい。二人とも名前に金を使わせる気はなく、最初から一抜けさせるつもりだったそうだ。
松田からその回答が得られたのは、結局それから何時間も経ってからのことだった。
「そんな回りくどいことしないで、普通にご飯誘ってくれればよかったのに……」
「男子高校生の回りくどさナメんなよ」
「そこドヤられても」
どこか照れくさそうにしている松田に思わず頬が緩む。
「結構覚えてるもんだね、昔のこと」
「そりゃ、」
そこで言葉が切れて、名前は「なに?」と松田の顔を覗き込んだ。
「なんでもねぇよ」
「ダウト」
「しつけーな!」
ボフッと枕を押し付けられて、喉の奥で蛙が潰れたような声が出る。
この慌て具合、よくわからないが絶対照れてる。可愛い。顔が見たい。
つい悪戯心に火がついた名前は、その後本気の仕返しを食らうまで「ねーねー」と松田をつつきまわした。
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