後日談
※原作時間軸
※松田不在


「お姉さん、これ落としたよ」

背後から聞こえた高い声に振り向くと、眼鏡をかけた少年が名前に向かって手を差し出している。
その手が掴んでいるのは白いハンカチで、ちらりと見えるワンポイントの刺繍が確かに彼女の物であることを示していた。

「ありがとう。スマホ出した時に落としちゃったのかな」

サングラスを外しながら少年に近づき、膝を折って目線を合わせる。
もう一度礼を言ってハンカチを受け取ると、少年はニッコリ笑って「どういたしまして」と返した。
見ればジャケットに蝶ネクタイとずいぶん品のいい服装をしていて、なんとも利発そうな子供である。

「お姉さん、この辺の人じゃないよね。どこに行きたいの?」
「え?」
「スマホを見ながら街区表示板や看板を確認してたし、どこか行きたいお店があるんじゃない?」

その子供らしからぬ洞察力に、名前は一瞬言葉を失ってから口を開いた。

「すごいね、君。コロンボみたい」
「えへへ」

照れたように後頭部に手をやる様子は年相応に可愛らしい。

「えっと、三年くらい前に行った喫茶店で、ポアロっていうんだけど……ちょうど仕事で近くに来てたから、また寄りたいなって」
「ポアロなら、ボクが案内できるよ!」
「えっ、本当?」
「うん。ボク、その上の探偵事務所に居候してるんだ」

なるほど、と名前は頷いた。
日頃からプロの推理を目の当たりにしていれば、人並外れた洞察力が身につくものなのかもしれない。

「じゃあ、案内してくれる?」
「うん!」

笑顔の少年に手を差し出せば、彼は少し照れ臭そうにそれを握った。
手袋越しに触れた手は小さいのに、なんだか物凄く頼もしく感じるから不思議である。

「私は名前。君は?」
「僕はコナン。江戸川コナンだよ」
「へー、カッコいい名前だね」

なんてハイセンスで覚えやすい名前だろう。
聞けばポアロはすぐ近くだというので、名前はサングラスを着け直さずトートバッグの外ポケットに差し込んだ。
「ここを曲がった先だよ」という彼の言葉通り、角を曲がるとなんとなく見覚えのある道に出る。

「あ、あった」

目線の先にあるのは、喫茶ポアロと書かれた置き看板だ。
するとタイミングよく店のドアが開き、そこからエプロンを身に着けた長身の男が箒とちりとりを持って現れる。

「あれ?ゼロくん?」
「えっ?」

手を握るコナンがバッと顔を上げる。
眼前の男もピクリと反応してこちらを見た。

「あなたは……」

灰色がかった青い瞳に金髪、それからエキゾチックな褐色の肌。間違いなく、三年前に会ったあの男である。
確か「ゼロ」であるというのは否定されて、別の名前を名乗られたんだったか。それでもその時松田に届いたメールを見て、名前は彼こそが「ゼロ」であると確信していた。

「あの時はありがとうございました」

改めて礼を言って頭を下げると、彼が口を開くより早くコナンがグイッと手を引いた。

「あの、名前さん。あの時って?」
「え?ああ、三年くらい前かな。危ないところを助けてもらったの」

同業者に薬を盛られ、見知らぬ男に引き渡されたところを助けてくれたのがこの男だ。
彼が通りかからなかったらと思うと、今でもゾッとする。

「そうなんだ。それで、さっきのって」
「コナンくん。そういえばさっき蘭さんが探していたよ」
「え?」
「ついでにハムサンドを差し入れしておいたから、お昼にでも皆で食べてくれるかな」
「あ、うん……」

にっこりと隙のない笑みを浮かべた男に、コナンはそれまでの勢いを失った。
それからその完璧な笑顔が名前の方を向く。

「それで、ええと……」
「あ、名前です。苗字名前」
「名前さんですね。今日はポアロに?」
「はい。以前来た時に、ここのカフェオレが美味しくて」
「そうですか。すぐお席にご案内しますので、どうぞ」

流れるような動作で男がドアを開け、ドアベルがチリリンと軽快な音を立てる。

「コナンくん、案内ありがとね」
「え?あっ、どういたしまして……」

戸惑ったように目を丸くしているコナンに手を振って、名前は男とともに店内に入った。

「安室さん?あ、いらっしゃいませ!」
「一名様、ご案内をお願いします」
「はい、カウンターでもよろしいですか?」

明るい雰囲気の女性店員に促され、名前はカウンターに腰掛ける。
安室と呼ばれた男は店前の掃除をやめたようで、箒とちりとりを持ったままバックヤードに引っ込んでいった。

(そうだ、確か安室透とかいう……)

そこでようやく、名前は三年前に彼が名乗った名前を思い出した。
しかしあまりに自然な流れすぎてツッコむのを忘れてしまったが、彼は警察官のはずではなかったか。
前回、彼には警察ではなく探偵だと訂正されたが、彼が「ゼロ」本人であるなら松田や萩原同様に警察学校を卒業し、無事警察官になったはずだ。

帽子と手袋を取った名前は女性にカフェオレを注文し、スマートフォンを取り出した。

『ゼロくんのフルネームってなんだっけ?』

前置きのない短いメールの送信先はもちろん松田だ。
すると間を空けずに返信があり、そこには送ったメールよりさらに短い回答があった。

『降谷零』

いつも通りの即レスぶりと簡潔な答えに、下手な辞書より役に立つ男だと名前は思った。
ただし「なんでそんなことを聞くのか」というのは、きっと直接会った時に問い質されるのだろう。

(ふるや……ぜろ?れい?)

下の名前の読みはわからないが、なんにせよ安室透よりはこちらの方がよっぽど「ゼロくん」らしい。
となると安室透が偽名という線が濃厚だが、名前には彼が偽名を名乗る理由も、喫茶店の店員をしている理由もわからなかった。

(……実はあっちでいうCIAみたいな感じで、スパイとして潜り込んでたりして)

あっさり正解に近いところに辿り着いた名前だったが、もちろん彼女がその正否を知ることはない。
しかしもしそれが正解だとするなら、先程のように「ゼロくん」呼ばわりするのは彼にとってかなりの迷惑行為だったに違いない、と名前は反省した。

(まあ、喫茶店に潜入なんて荒唐無稽な話、さすがにないか)

とりあえず彼が認めない限り、こちらから「ゼロくん」と呼ぶのはやめておこう。
そう考えた名前がメニューをパラパラめくって暇を潰していると、カウンターの上に湯気の上るコーヒーカップが差し出される。

「お待たせしました。カフェオレです」

低く柔らかい声に顔を上げれば、そこには爽やかに微笑んだ安室が立っていた。
本当なら今すぐ追い返してしまいたいだろうに、その笑顔には一ミリの嫌悪も浮かんでいない。なんとも意識の高い店員である。

「ありがとうございます」

角砂糖を一つ落としてそれを口に運べば、まろやかな甘みとコーヒーの豊かな風味が口いっぱいに広がった。
三年前に飲んだ味をはっきり覚えているわけではないが、これが美味しいカフェオレであることは間違いない。

「……あー……美味しい…っ」

ホッと息を吐くと同時に、思わず万感こもった呟きが零れた。
長めの現場が終わってようやく半日のオフを手に入れた名前は、決して誇張ではなくこの一杯に癒されていた。

ふと、吐息混じりの小さな笑い声が届いて目線を上げる。
カウンターの向かい側では、口元を隠した安室が目を細めてこちらを見ていた。

「ああ、すみません。あんまり美味しそうに飲んでくださるので、嬉しいなと」

見られていたか、と名前は照れ隠しにへらりと笑った。

「本当に美味しかったので、つい。これ安室さんが淹れたんですか?」
「ええ、マスターに比べればまだまだですが……」
「以前来た時は男性一人だったので…その方がマスターかな」
「ですね。ちなみに僕が一番下っ端です」

その言葉に、名前は思わず目を瞬かせる。

「うそっ、この腕で?その落ち着きぶりで?ベテランにしか見えないです」

言い終わってから、警察官がベテラン店員扱いされても嬉しくないだろうと思い直した。
しかし安室は「そう言ってもらえると嬉しいです」とにっこり微笑む。この男、やっぱりプロ意識がすごい。

「名前さんのお仕事って、もしかしてパーツモデルですか?」
「え?」
「とても綺麗な手をしていらっしゃるので」

再びカフェオレを堪能していたところで、突然職業を当てられた名前は目を丸くした。

「それに爪もそれほど長くなく、なおかつネイルアートをしていないにもかかわらず、メニューをめくる時に指先ではなく指の腹を使っていたでしょう。カップを持つ際も持ち手に指を引っ掛けないようにしているのがわかりますし、手指に相当気を遣っているように思ったんですが」

つらつらと述べられた分析に一瞬沈黙してから、名前は「すごい」と小さく呟く。

「あ、当たってます……」
「それはよかった。これでも一応探偵ですから、推理には少々自信がありまして」

自信ありげに微笑みながら、安室は「探偵」を強調した。
やっぱり「ゼロ」説は徹底して否定していくスタイルらしい。

「優秀な探偵さんなんですね」
「恐れ入ります」

松田や萩原としのぎを削った同期だけあって、きっと警察官としても優秀なのだろう。

「カフェオレのおかわりはいかがですか?」
「あ、いただきます」

かしこまりました、と背を向けた安室を眺めながら、名前はスマートフォンを手に取ってぼんやりと思考を巡らせていた。


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