08
高校三年生の冬。
センター試験を間近に控えた名前は、気分転換に美容院で髪を切ってもらうことにした。
カット中に開くのは雑誌ではなく参考書だ。
すっかりボロボロになった参考書をめくっていると、視線を感じて顔を上げる。
隣の席でブロー中だった女性と目が合い、どちらからともなく小さめの会釈をした。
相手はメイクをバッチリ施した三十代くらいの女性だ。名前は特に気にすることもなく、再び参考書に視線を落とした。
会計を終えて美容院を出ると「すみません」と声を掛けられて足が止まる。
振り向いた先にいたのは先程店内で目が合った女性だ。肩より短い髪にパンツスーツをピシッと着こなし、見るからにキャリアウーマンといった出で立ちである。
「少しだけ、お話よろしいですか?」
「え、私ですか?」
「はい。私、こういう者です」
スッと差し出された名刺は横向きで、印字は全て英語だった。
(な、名前しか読めない……)
「ロサンゼルスのモデル事務所でエージェント業務を行っている兼倉といいます。今は仕事の関係で一ヶ月だけ日本に」
「はあ」
兼倉は「急な話でごめんなさい」と前置きして続けた。
「あなたをパーツモデルとしてスカウトさせてほしいんです」
「え?」
「まずは少し、お時間をいただけませんか」
キリッとした表情を柔らかく緩めて、兼倉が微笑む。
名前は読めもしない名刺を持ったまま、それを呆然とした表情で見つめていた。
***
兼倉が名前を連れてきたのは、すぐ近くのファミレスだった。
彼女は自分の申し出が怪しすぎることを理解した上で、少しでも人目がある方が安心できるだろうとあえてここを選んだらしい。
昼食はいらないと両親にメールした名前は、まず飲み物だけ注文し、それから落ち着かない様子でテーブル越しの兼倉に目を向けた。
「ご飯も好きなものを頼んでくださいね」
「あ、えっと、はい……」
「それとも、お話が先の方がいいですか?」
兼倉の問いかけに、名前は一も二もなく頷いた。正直不安と緊張で食事どころではない。
「じゃあ、えーと、名前ちゃん」
「はい」
「あまり堅苦しいのも緊張すると思うから、普通に話させてもらうけど……私、あなたの手がとても魅力的だと思って声をかけたの」
手、と名前は目を瞬かせた。
「大きくて、指が長くて、理想的なバランスだと思う。爪の形も見せてもらえる?」
「あ、はい……」
促されるままに両手を差し出すと、兼倉は丁寧に手を添えてそれを眺める。
「うん、爪の色も形もすごく綺麗。きちんとお手入れしたら、きっともっと良くなるわ」
嬉しそうに目を細める兼倉を、名前は信じられないものでも見るかのように見つめていた。
この手をこんなにもストレートに、そして具体的に褒められたのは初めてだった。
兼倉は「ありがとう」と手を放すと、持っていたバッグからノートパソコンを取り出す。
「まずは、こちらのことを詳しく知ってもらわないとね」
立ち上げたディスプレイに表示されたのは、英字だらけのウェブサイトだった。
何人もの女性の顔が一覧になったページに辿り着くと、兼倉が説明を始める。
「これが今うちの事務所に所属してるモデル達ね。パーツモデルは、ここからここまで」
画面を指で差しながら、兼倉は続けた。
「この子は手と足、首、それからバストとヒップのモデルをやってるわ」
「手だけじゃないんですか」
「手だけっていう子もいるけど、一人で全身対応できる子も珍しくないの」
例えばこの子、と一人の女性の画像をクリックする。
リンク先のページで表示されたのは、その女性の体のパーツをそれぞれアップで撮影した画像だった。
「わっ、すごい……」
その手はもしかしたら、名前よりも大きいのではないだろうか。しなやかで力強く、おそろしく存在感のある手だった。
「ハリウッド映画で女優の手の吹き替えをすることもあるし、どんな発注にも応じられるように多国籍・多人種のモデルが在籍してるわ。中でもアジア系の子は在籍が少なくてとっても貴重なの」
目を輝かせて画面に見入る名前に、兼倉がにっこりと笑いかける。
「もしあなたがこの話を考えてくれるなら、親御さんご同席の上で詳しい話をさせてほしいんだけど」
「え、あの、でも……」
名前は戸惑ったように眉尻を下げ、兼倉に問いかけた。
「それって、アメリカに住むっていうことですよね」
「うん、そうね。そうなるわ」
「いつまで……とか…」
「それはわからないわね。芸能の世界はチャンスとタイミングが全てだから、一生あちらで活動する可能性はもちろん、日本でビジネスチャンスを見つけてこちらに拠点を構える可能性だって充分にある」
名前の脳裏に浮かぶのは、不機嫌顔の彼の姿だ。彼女の誘いに乗れば、松田とは否応なしに離れることになる。
「……ごめんなさい、私…」
「うん?」
「日本を離れたくないです」
膝上でぎゅっと拳を握り締め、俯きがちに言った名前に兼倉は「うん」と笑いかけた。
「こんな急な話、即OKしてもらえるなんて思ってないもの。断られるのも想定の内だし……何より、いきなりアメリカだなんて怖いわよねぇ」
あっけらかんとした様子で笑ってから、兼倉はメモ帳に走り書きをした。
「これ私のメールアドレスと電話番号。今見せたウェブサイトのURLも書いといたから、よかったら暇な時にでも見て」
「え、でも」
「私だってこんな素敵な手、すぐには諦められないわよぉ。しつこくはしないから、もうちょっとだけ粘らせてね」
そう言ってパチンとウインクされ、名前は複雑な思いでそのメモを受け取る。
松田と離れてアメリカに行くだなんて、この時の彼女にとっては現実味のない想像でしかなかった。
***
スカウトされたことを、名前が両親の次に報告したのは萩原だった。
「スカウト?すっげーじゃん!」
「う、うん……」
「そっかー、名前ちゃんの手は世界レベルだったか……そりゃ凡人たちにその魅力はわかんねーよなぁ」
あ、俺はわかってたぜ?と片目を瞑ってみせる萩原に、名前も思わず笑みが零れた。
「このこと、陣平ちゃんには?」
「まだ言ってない」
「もしかして受ける可能性もあんの?」
「ううん、すごく光栄なことだとは思ったよ。でもそれで陣平と離れるのは嫌だし、すぐに断ったの」
「マジかよ、もったいねーなあ」
そう言いつつも、名前がいかに松田を好きか知る萩原に驚いた様子はない。
むしろこれでアメリカに渡ると言った方が彼は驚いただろう。
「つーか、それなら陣平ちゃんにも普通に話せるんじゃねーの?もう断ったんだし」
「……「やれば?」って言いそうじゃない?陣平って」
「あー、かもな」
その様子を想像したのか、萩原は苦笑する。
「うちの両親には言われたよ。やればよかったのにって」
「名前ちゃんの親、コンプレックスのことめっちゃ気にしてたもんな」
「うん。私が自信持つきっかけになるなら応援するって言ってくれた」
名前はそう言って自身の手のひらに視線を落とした。
「でも萩原くんたちのおかげで今はそんなにこの手嫌いじゃないし……わざわざアメリカなんて行かなくてもいいかなって」
「そっか」
柔らかく微笑んだ萩原は、それ以上「もったいない」とは言わなかった。
「でも陣平ちゃんには言っといた方がいいぜ。他から伝わったらぜってーキレるから」
「うん……そうだね」
名前の親は松田のことが大のお気に入りで、彼が遊びに来るたびに構いたがる。
たとえスカウトのことを松田に言わなかったとしても、親が話してしまう可能性は確かにありそうだ。
「大丈夫。なんて言うかまではわかんねーけど、あいつ名前ちゃんの話なら絶対真面目に聞くからさ」
「うん」
やっぱり萩原に話してよかったと名前は思った。どうしてだか、彼の言葉はすっと入ってくるのだ。
彼が「大丈夫」と言えば大丈夫だと思えるのが不思議でもあり、くすぐったくもあった。
***
両親の帰りが遅い日を選んで、名前は松田を自宅に招いた。
そして「報告がある」と前置きして、萩原にしたのと同じようにスカウトの件を話し出す。
すでに断ったことまで伝えたところで、それまで黙って聞いていた松田が口を開いた。
「行けよ、アメリカ」
案の定、松田はそう言った。
「気になってんだろ本当は」
「そりゃ、ありがたいお誘いだとは思ったけど……でも、陣平と離れてまで行きたいとは思わないよ」
そう答えれば、青みがかった瞳がじっと名前の目を見つめてきた。
少しして彼はついっと目を逸らし、「俺か、クソ」と呟いてガシガシと頭を掻いた。名前にその意味はわからなかったが、松田が苛立っていることだけはわかった。
はあ、と吐かれた息にはどこか苦々しい響きがある。
「陣平?」
名前が名前を呼んでも、俯き気味の彼に反応はない。
何かを思案するようにたっぷり間を空けてから、ようやく松田は口を開いた。
「……タイミング的にはちょうどいいか」
「タイミング?」
「大学もどうせ別のとこ受けるんだし」
「それとは距離が全く違うでしょ」
「距離の話じゃねーよ」
松田が何を言いたいのかわからず名前は首を傾げる。
「卒業と同時に別れる奴らも多いんじゃねーの、実際」
突然飛び出した「別れ」という言葉に、名前は頭が真っ白になるのを感じた。
今、彼は一体なんの話をしているのだろう。
「………陣平?何言って…」
「惰性で付き合って結局自然消滅とか、一番面倒臭ぇじゃん」
「ねえ、何言ってんの?」
「ダラダラ続けるより、この辺で一回リセットしといた方がお互いのためかもな」
リセット、と名前は震える声で呟いた。
視線が逸らされてから、松田の顔はなぜか一度もこちらを向かない。
髪に半分隠れた横顔からも、信じられない言葉を吐く唇からも、彼の心情を窺い知ることはできなかった。
(なんで?大学が違うから?……すぐ会えないからダメなの?)
名前は訳もわからないまま、とにかく松田の気持ちを引き留めなくてはと考える。
別の大学を受験するのがダメだというなら。
「……大学、陣平と同じとこ受ける」
「は、今更かよ」
「出願まだ間に合うから」
「いや重いって、お前」
吐き捨てるように言われて言葉に詰まる。
泣いたらだめだ。泣いてしまったが最後、きっとまともに相手をしてもらえなくなる。
「…最近、よくわかんねぇんだよ」
「……なにが?」
「お前のこと、好きかどうか」
―――泣いたら、だめだ。
「別れようぜ、そろそろ」
名前が何も言えずに唇を噛み締めていると、松田がおもむろに立ち上がった。
(……やだ、行かないで)
一体何をどう言えば彼はこっちを向いてくれるのだろう。
何も語らない背中を見つめながら、名前はじわじわ締めつけられるような絶望感に気が狂いそうだった。
「私は、陣平が好きだよ」
「……悪ぃ。俺はもう無理だわ」
ドアノブに手を掛けながら、松田が感情の乗らない声でぽつりと呟く。
去っていくその後ろ姿が、とうとう涙でぼやけて見えなくなった。
***
失恋して打ちひしがれても、時間は待ってはくれない。
松田との別れからそう日も経たないうちに、名前はアメリカ行きを決めた。
センター試験直前で受験をやめるなんて、学校側からしたらとんだ問題児だ。
それでももう、彼女が迷う理由はなくなってしまったのだ。
校内で松田に会っても、もう目すら合わない。すれ違っても表情筋一つ動かない。
そんな彼の姿を見てしまったら、情けなく縋る気にもなれなかった。
萩原から、気遣わしげな視線を感じることはある。それでも彼が話しかけてくることはなかったし、名前自身、その方がありがたいと感じていた。
そしてセンター試験当日、名前が家から出ることはなかった。
代わりに自宅に招いたのは兼倉で、彼女が本国から呼び寄せた弁護士が同席する中、事務所所属の契約書が交わされたのだった。
それからの日々はあっという間だった。
卒業式の翌日にはアメリカに飛べるよう準備が進められ、忙しすぎて松田のことを考える暇さえない。
それを助かったと感じてしまう辺り、まだどうしようもなく弱っていたのだろう。
そして迎えた卒業式当日。
式を終えた名前は、校舎の前で数少ない友人たちとの別れを惜しんでいた。
それはいつだったか、校舎裏に彼女を呼び出したあの三人組だ。
「ううー、寂しくなるーっ」
「アメリカに行っても連絡してね!」
「うん、絶対する」
「ていうかお金貯めて遊びに行く!」
「それは楽しみだなぁ」
手に手を取り合い、いつかの再会を誓う。
あの衝撃的な出会いから、こうも仲良くなれたのは不幸中の幸いというべきか、雨降って地固まるというべきか。
三人と離れた名前は校門には向かわず、校舎をじっと眺めていた。
その視線が、自然と敷地の隅に移動する。
校舎脇のあの薄暗い空間を進めば、名前が三人に呼び出された場所に辿り着く。
そしてそこをさらに進むと、裏門へと続いていて―――
しゃがんだまま気まずそうに見上げてくる瞳が思い浮かんで、名前は唇を引き結んだ。
ふと、ポンと肩を叩かれて振り返る。
あっと声を上げそうになったところで、シー、と口元に立てた指に制された。
「また連絡するね、名前ちゃん」
萩原は相変わらず人好きのする笑顔を浮かべている。
「松田には内緒な」
小声でそれだけ言って校門に向かう彼の背中を、名前は泣き笑いのような情けない表情で見送っていた。
***
宣言通り、萩原からはマメに連絡が来た。
それは彼の大学生活についてだったり、名前の近況を窺うものだったりした。
彼は松田のことをあえて知らせることも、逆にあえて隠すこともしなかった。
あくまでも仲のいい友人としての自然なやりとりは、名前にとっては慣れない海外生活での数少ない癒しになっていた。
そして彼らが大学を卒業し、警察学校に着校する頃。
名前はようやく通訳なしで周囲とコミュニケーションが取れるようになっていたし、制服姿の松田が写った画像が送られてきても穏やかな気持ちで見れるようになっていた。
名前の気持ちの変化は萩原も感じていたようで、さらに半年以上経ったある日、無事に警察官となった彼から『ちょっと真面目な話してもいい?』と窺うようなメールが届いた。
彼女は何も考えず『もちろんいいよ』と返して―――やがて返ってきたメールに言葉を失った。
『もう時効だろうし、』
そんな書き出しで始まったのは、いつもより長いメールだった。
『松田の名誉のために言っときたいんだけど、あいつが別れ話切り出したのは名前ちゃんのチャンスを奪いたくなかったからなんだよ』
そこまで読んで、名前はすぐにメールを消したくなった。
これ以上は読んじゃだめだ。平静ではいられなくなる。
そんなことわかりきっているのに、それを送ってきたのが萩原だという事実だけが彼女に画面をスクロールさせた。
『大事なら応援するもんだろってあいつ言ってたから』
『ひどい言い方したとも言ってた。それ以上は話さなかったけど、多分後悔してる』
『今更こんなこと言われても困るだろうけど、俺も親友がずっと誤解されたままじゃ嫌だからさ』
メールを読み終えて、名前は乱暴に携帯電話を放り投げた。
運良くベッドに沈んだそれを気にも留めず、その場に蹲る。
「……時効って何?」
自分でも驚くくらい、弱々しい声が出た。
「そんなこと、知りたくなかった」
五年近く経った今でも、こんなにも辛い。きっと自分の中では今も終わっていないのだ。
離れたのが松田の優しさだったとしても、そのおかげで今の自分があるのだとしても。
あのまま彼と一緒にいたらどうなっていたのだろうと想像するのを止められない。
「一緒にいたかったよ……」
床にパタパタと雫が落ちて、木目の色が変わっていく。
それは、萩原の訃報を聞く一週間ほど前の出来事だった。
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