07
「あー、だめ。疲れた」
呻くように言って、名前はぱたりとローテーブルに突っ伏した。
定期考査を間近に控え、今日は萩原の家で勉強会だ。
彼の部屋の真ん中にある長方形のローテーブルには名前と松田が並んで座り、向かい側に萩原が座っている。
「休憩にすっか。名前ちゃん何飲む?」
「糖分」
「じゃ、ココアな」
「あっ好き……濃いめでお願いします」
「オッケー」
小学校からの腐れ縁ということもあり、松田の好みは分かりきっているのだろう。
名前のリクエストだけを聞いて、彼は階下に降りていった。
「萩原くんも陣平も頭いいもんなあ……」
余裕そうな二人に、つい恨めしそうな呟きが漏れる。そんな名前に、隣に座る松田の視線が向いた。
「お前も別に悪くねーだろ」
「良くも悪くも普通なの。普通の民」
「なんだそりゃ」
テーブルにぺたりと頬をつけて、全身の力を抜く。
すると潰れて不格好になった唇に、ちゅっと軽いキスが降ってきた。
「……じんぺーさん?」
「うっし、充電完了」
そう言うと彼は再び参考書をめくり始めた。
「燃費よすぎない?」
「していいならもっとする」
「そっ」
そういう話じゃないじゃん……
反論は上手く言葉にならず、名前はせめてもの抵抗として顔を反対側に向けた。
そっぽを向いた名前の後頭部に、松田の微かな笑い声が降ってくる。
少しして、カチャカチャとカップがぶつかり合う音を立てながら萩原が戻ってきた。
「はい名前ちゃん、濃いめココア」
「あー、ありがとう」
「陣平ちゃんはいつも通りブラックな」
「おう」
温かいカップと甘い香りに癒されながら、名前はココアを口に運んだ。
「うあぁ…生き返る……」
「そりゃよかった。ところで俺がいない間にキスでもした?」
「ぶっ」
名前は耐える間もなく吹き出した。よかった、ココア飲み込んだ後で本当によかった。
「なっ、なんで?」
「俺、リア充の気配には敏感なんで」
そう言って萩原は可笑しそうに笑う。
隣の松田は呆れたような表情を浮かべ、名前に向かって半目でため息をついた。
「お前なぁ、こんな単純なカマかけに引っ掛かってんじゃねーよ」
「え、カマかけ?」
「バラすのはえーよ、陣平ちゃん。せっかく名前ちゃんが期待通りの反応してくれたのに」
どうやら自分はからかわれたらしい。
ようやく悟った名前がジト目で萩原を睨みつけると、彼は「はいお詫び」とテーブルの上に一口チョコを転がした。買収は一瞬で成立した。
***
その日名前は松田の非番に合わせ、二人で念願のトロピカルランドを訪れていた。
平日のテーマパークは人出も少なく、絶好のアトラクション日和だ。
「ねえ、あっちも全然並んでない!」
「乗り放題だな」
開園して間もないトロピカルランドには、もちろん名前も初めて来る。
すっかりテンションが上がった名前はタラタラと歩く松田の腕を引き、次から次へと人気アトラクションを渡り歩いた。
「あ、観覧車」
「乗るか?」
「観覧車ってシメのイメージだけど……まあいっか、乗っちゃおう」
この広い園内で、またここに戻ってくるのも大変だろう。
杯戸ショッピングモールの大観覧車と比べても遜色ない大きさのそれを見上げ、名前は松田の腕を引いたままゴンドラに乗り込んだ。
「やっぱり見える景色が全然違うね」
ショッピングモールで見下ろした景色は、日本らしいゴチャゴチャと密集した風景に親しみを覚えた。
一方のここはさすがテーマパークというべきか、園外の建物が一切見えないようになっていて、徹底した非日常感を演出している。
名前は手袋をしたままの手でガラスに触れ、変わり続ける景色を飽きもせずに眺めていた。
「向こうのテーマパークの方が派手だろ」
「らしいけど、行ったことないよ」
「マジか」
珍しく驚いた様子の松田に、名前はふふっと笑う。
「だって仕事するために行ってたんだもん」
最初の数年は無我夢中で、その後は仕事量が一気に増えてそれどころではなかった。
真面目でしょ、と笑う名前を、松田は考えの読めない表情でじっと見つめる。
「だから今日はすっごく楽しい」
名前は心に浮かんだものをそのまま言葉にして、またゴンドラの外に視線を移した。
*
「便所」
そう端的に言った松田が名前の傍を離れたのは、つい先程のことだ。
二人はフリーフォール的なアトラクションに乗るために列に並んでおり、その列は建物内部を通ってすでにビル三階ほどの高さに及んでいる。
今はちょうど外に面した通路に至ったところで、ここから逆行して建物外のトイレに向かうとはなかなかの猛者だ。
(間に合わなかったら一人で乗ろう)
そう思った名前がスマートフォンを取り出すと、ディスプレイには未読メールの通知があった。
操作のために手袋を外して確認するとそれは兼倉からのメールで、内容は新しい仕事の獲得を知らせるものだった。名前は返信メールを作成して送信する。
スマートフォンをしまって顔を上げると、列から少し離れたところで手すりから下を覗き込んでいる少女が見えた。
小学生低学年くらいだろうか。大きなリュックを背負っていて、下に向かって楽しげに話しかけているようだ。
リュックの肩紐を調節して余ったらしい長めのショルダーベルトが、太ももの辺りでプラプラと揺れている。
(家族か友達でもいるのかな、下に)
あまりに楽しそうに手を振っているので、ついつい微笑ましく思いながら様子を窺ってしまう。
(あ、でも危ないな)
片足を浮かせながら身を乗り出す姿は、少しの衝撃で落ちてしまいそうだ。
連れらしき人間が列のどの辺りにいるのかはわからないが、これは注意した方がいいのだろうか。
松田が向かった方向を確認するが、まだ戻っては来ない。列から抜ける不安もあるが見て見ぬ振りもできないだろう。
「あの、すみません。あの子落ちそうで危ないので、ちょっと声かけてきます」
「え?あ、はい」
念のため後ろのカップルに声をかけると、きょとんと目を瞬かせながらも男性の方が答えてくれた。
そして名前が列から離れたところで、ちょうど少女の背後で列に並ぶ集団が視界に入る。
横並びで大きな笑い声を上げている姿にも眉根が寄るが、一番端の男が身振り手振りを交えて大げさなジェスチャーをしている姿が気になった。
(人に当たりそう……)
危ないな、と思いながらも女の子に近づく。
するとその男がバッと腕を広げた瞬間、大きな手の甲が少女の後頭部にぶつかった。
「!」
強く振られた腕がその小さな体を宙空に押し出すのが、名前にはまるでスローモーションのように見えた。
「危ない!」
名前は帽子が落ちるのも構わずダッと地を蹴る。
手すりから身を乗り出して目一杯に腕を伸ばせば、かろうじてリュックのショルダーベルトに触れた。
指先を使って咄嗟にそれを握り込むと、ザラザラとした細いベルトが少女の落下に合わせてズリッと手のひらを滑る。
「い……――ッ!」
瞬間的に熱を持った手に思わず放してしまいそうになるが、歯を食いしばって目一杯の力を込めた。
すぐに先端の二重に縫われた部分が引っ掛かり、辛うじて少女の落下は止まる。
「う…っ」
同時に肩にガクンと衝撃が走り、名前は思わず息を詰めた。
子供とはいえ人一人分の重さに、それを支える手と腕が小刻みに震えている。
リュックのフロントバックルはきちんと留めてあるようだが、いつ体が抜け落ちてしまうともわからなかった。
(ダメ……もたない…!)
ベルトの先端の折り返しが手の肉に食い込み、その痛みについ力が緩みそうだ。
しかしほんの少しでも油断すれば、この細い命綱はあっさり地上に吸い込まれてしまうだろう。
「…うっ、うわぁあーっ!お母さぁあん!」
「あ、暴れないで……!」
不安定な体勢で宙吊りになった少女が恐怖に手足をバタつかせる。勢いよく動く足が名前の頬をチッと掠め、弾みで外れたサングラスが落ちていった。
(痛い、熱い…!なんで誰も助けてくれないの!?)
事が起きてまだほんの数秒だが、名前にはもう耐えがたいほどの時間が経ったように感じられた。
しかも二人の体重を支えようと手すりを掴んでいる手は手袋をしたままだ。今にも滑りそうで焦りと痛みに生理的な涙が浮かぶ。
誰か、と音もなく唇が動いた次の瞬間、名前は胸元に回った力強い腕に瞠目した。
そして背後から伸びたもう一本の腕が暴れる少女の足をガシッと掴む。少女が力任せに引き上げられていくのを、名前は意識の端でぼんやりと捉えていた。
気が付いた時には、名前はぺたりと力なく座り込んでいた。
少女の泣き声に視線を向けると、そこでは息を切らした松田が少女を抱えたまま床に腰を下ろしている。
(陣平、助けてくれたんだ……)
緊張から急に解放されたからか、名前は乱れた呼吸を整えながらボーッとしていた。
「痛っ」
ピリッと走った痛みに視線を落とすと、そこには案の定真っ赤になった手のひらがある。
擦り傷だらけで血が滲んでいる部分もあり、力を入れすぎたのかそれは指先にまで及んでいた。
意識すると熱や痺れまで戻ってきて、まるでそこに心臓があるかのようにジンジンと脈打った。
目の前で人が死ななくてよかった。
その安堵感は確かにあるのに、傷ついた手を見るとじわりと喪失感が滲んでくる。
(本当に、弱っちい……)
いつだったか、松田がこの手を弱っちいと言ったのは正しかった。どれだけ綺麗に保っても、傷ついてしまえばその価値はなくなる。
今この手には何の価値もないのだと、どうしてもそう思えてしまって、名前は―――
「名前」
頭上から降ってきた声にハッと顔を上げる。
そこには落とした帽子を持った松田が立っていた。
「ボーッとしてんな」
松田は名前の二の腕を掴んで立たせると、傷ついていない方の手を引いてざわつく人波を避けるように歩き出す。
名前は小走りになってそれについていった。
「じ、陣平、さっきの子は?」
「親んとこ」
「よかった……。で、どこ行くの?」
「医務室」
え、と小さく声を漏らした名前に、松田は目線だけで振り返る。
「早くしねぇと痕が残るだろーが」
どうやら手の怪我のことを気にしてくれているらしい。
弱っている涙腺がうっかり刺激されてしまい、名前は彼から顔が見えないように俯いた。
医務室に着くと、名前の手はこれでもかというほど手厚く手当てされた。
松田が「こいつ手の仕事してるんで」と言い添えてくれたのも大きかっただろう。
包帯の白ですっかり見えなくなってしまった手を、松田と並んで歩きながら名前がしげしげと眺める。
「ただの擦り傷なのに骨折でもしたみたい」
「大事な仕事道具だしな」
「弱っちいけどね」
「お?根に持ってんな」
駐車場が見えてきた頃、隣を歩く松田が「なあ」と声をかけてきた。
「もっと自信持てよ」
「え?」
「お前じゃなかったら死んでたぞ」
その言葉に、名前は一瞬呼吸を忘れた。
「お前の手だったから届いたんだろうが」
どうして彼は、こうも欲しい言葉をくれるのだろう。
昔のように手の大きさをコンプレックスに思うことはなくなったが、仕事ができなければこんな手に価値はないのだという考えは、いつもどこかにあった。
視線を落とすと、包帯に包まれた真っ白な手が見える。まだジンジンと痛むし、ヒリヒリとした痺れも収まらない。
―――これは、人の命を助けた手だ。松田の言葉が名前にそう思わせてくれた。
「後悔してんのかよ」
俯いた名前をどう思ったのか、松田がそう問いかけてくる。
声を出したら涙声になりそうで、名前はふるふると頭を振った。
「よし。偉い偉い」
大きな手がポンポンと頭を撫でていく。ほんの数回触れただけなのに涙が溢れそうだ。
「んじゃ、帰んぞ」
車に着き、松田が運転席側に回り込む。
名前は顔を上げて大きく深呼吸をし、零れかけた涙をなんとか引っ込めた。
それから「よし」と小さく呟いて気合を入れ、助手席側のドアハンドルを引いた。
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