校内の推し後輩
周りが見えなくなるくらい誰かを好きになってみたい。好きで好きで仕方がなくて、バカになってしまうくらい誰かを想いたい。そんな恋がしてみたかった。
蝉の鳴き声が聞こえる。この音を耳にすると夏が来たのだと思い知らされる。私はあまり蝉の声が好きではない。聞くだけで暑さを増すし、それに、ちょっとうるさいから。
高三の夏。ミンミン、と脳に直接入ってくる鳴き声とサウナにいるような息苦しさから逃げ出すように、窓を締め切り、冷房が効いている保健室へとやって来た。けれど、そこには求めていた涼しい部屋は用意されていなく、冷気が少し残った生温い空気だけが充満していた。換気をしているのだろうか。なら仕方がない。そう自分を説得するも、肩を落とす。
せめて内側からでも体温を下げようと冷凍庫に常備してある氷をひとつ口の中へと放り込んだ。舌の上に乗った冷たいそれは、急に温かい場所へやってきたせいかパチッと数回音が鳴る。そういうアイスクリームを食べているみたい。
初めは馴染めず、舌に張り付いていた氷も溶けて小さくなり、噛んでしまえば直ぐに新しいのを補充しなくてはならない。噛み砕く前に、再び手を伸ばした。
「まーた氷ですか?」
「……あ」
しゃがみ込んで、冷凍庫の取っ手に触れる直前。上から 降ってきた落ち着いた声音に伸ばした手が止まる。恐る恐る体を反るようにして仰向けば、視界いっぱいに広がる男の顔。
「黒尾くんだ」
突如現れた人物の名前を口にした。背後から覆い被さるように上から見下ろす黒尾くんの顔は、逆さまになっている。振り返ることなく顎を上げて仰向いているため、体幹に限界がきて、すとんっと尻餅をつくと共に後ろに立っている彼の膝下に背から寄りかかってしまった。
「わっ、」
「……っと」
体重を全て預ける前に黒尾くんは両手を使って私の体を支えてくれた。たった一文字。「……っと」と吐き出された単語と息が直接鼓膜を揺らし、平常心を保とうと瞬きを数回繰り返す。
しかし、こちらの気を知る由もない黒尾くんは後ろから腕を伸ばし、私の目の前に拳を作った手を持ってきた。
「はい、どうぞ」
「! わーい。飴だぁ」
手で受け皿を作り、拳の下に持っていけば、そこから飴がひとつ落ちてきた。
「いつもありがとう」
「いいえ。氷ばっか食べてるとまた倒れますんで。水ばっかじゃなくてスポドリとかも飲んでください」
「うん。気をつけるね、お母さん」
「……」
貰った飴は塩分補給できるもの。流石だと感心して振り返り、黒尾くんというお母さんに手を合わせお礼を伝えれば、光が消えた遠い目を向けられた。
昔から口の中には、常に何か入っていないと気が済まなかった。飴とかガムとか色々あるけど、一番は氷を口にすることが多くて、飲み物も水か、たまにお茶を飲むくらい。幼い頃から貧血でよく倒れていたため、黒尾くんの前でもそうなったことがある。また倒れる、と毎回口癖のように言われるけど、彼の前ではまだ一、二回くらいしか倒れていない。
今度は頂いた甘じょっぱい飴を舌で転がしながら椅子に座ると、向こうもテーブル越しに腰を下ろした。
黒尾鉄朗くんは、私のひとつ下の後輩。仲良くなったのは、丁度一年くらい前、黒尾くんが怪我をしてここへ来たことが始まり。今日みたいに蒸し暑い日だったのを覚えている。
「また怪我したの?」
初めて来たあの日から彼は、定期的にここへ来るようになった。自由にこの場所を行き来できる理由作りのため、私は三年間保健委員に所属し、暇さえあれば保健室に入り浸っている。
「今日は違います」
「そっか。じゃあ、体調悪いとか?」
「いや、心身共に絶好調です」
「へえ。あ、わかった。蚊に刺されたんでしょ。痒み止め 持ってるよ」
「いや」
「それじゃあ、また飴を届けに来てくれたの?」
「まあ、それもありますけど、」
一番は梨本先輩に会いたくて。頬杖をつき、口元に緩く弧を描きながら発せられた言葉に、舐めていた飴を吐き出しそうになった。
定期的に保健室に現れる後輩の黒尾くんは、毎回何かと理由を作ってやって来る。女子でも気にしないような軽い怪我とか、誰かが怪我をしたから絆創膏を貰いに来た、薬を貰いに来たとか、今の時期だと蚊に刺されたから痒み止めの薬を塗りに、とか。でも一番多いのは、飴を届けるためと話をしに来たという理由。どうやら黒尾くんは世話焼きらしいのだ。数回自分の前で倒れてしまった私を気にかけてくれている。
そして、今回言われた「会いたくて」は、初めてだった。話に来た、という理由はあっても「会いたくて」は今まで一度も言われたことがない。似ているようで似ていない言葉を理解した時、心臓が一度すごい勢いで飛び跳ねた。
チラリ、と黒尾くんから外した視線を元に戻し、相手の目を見れば、少し口角を上げ、優しい笑みを返してくれた。
……なに。その顔。なになになに!? その顔なに〜〜〜! 好きぃ〜〜〜! かーわいいぃーーー! そんな顔、外でしちゃいけないんだからっ!
「年上を揶揄っちゃダメなんだから!!」
そんなこと言って! と付け加えながら、音を立ててテーブルを叩くと、お腹を抱えてそれはもう楽しそうに爆笑された。
「笑い事じゃないんだから!!」
「ぶひゃひゃひゃっ」
笑い事じゃない。笑い事じゃないのだ。黒尾くんは、私にとって可愛い後輩。上級生が下級生に対し、あの男子可愛い〜とちょっかいを出す、所謂校内での推しという存在が私は黒尾くんなのだ。
何故、校内での推しが彼になったかというと、友人が夜久くんという子を可愛い可愛いと毎日のように言っていて、その夜久くんをたまたま見た時に隣にいたのが黒尾くんだった。私はどちらかと言えば、特徴的な髪型をした彼の方が可愛いと思ってしまったのが始まり。
「さっきのも安易に言ってはいけないよ」
私が年上だから騙されなかったものの。可愛い後輩として思っているから勘違いしなかったものの、そうじゃなかったら、えっ!? ってなっちゃってたからね!
「梨本先輩にしか言いませんよ」
ほらぁー!! そういうとこ!! 黒尾くんを可愛いって思ってる年上の私でも、えっ!? ってなっちゃったよ!?
流されてはいけない。その言葉を素直に受け取ってはいけない、と顔から感情を消す。スンッと一瞬で虚無顔になった私を見て、可愛い後輩は「感情どこ行った」と小さくツッコミを入れた。
そもそもどんな理由で来たとしても、この男は毎回おちょくってくるのだ。後輩になめられてはいけない。年上の威厳を見せつけたい。
「私、黒尾くんより一年長くこの世に存在しているの」
「えっ? あっ、はい」
「体はまあ、男女の差で負けてるけど、一年長く生きてるんだから黒尾くんよりは頭だって良……くないかもしれない」
「……」
「けど、キミより一年多く人として生きてるから余裕が……ないわ。黒尾くんよりないわ! もしかして、私の方が年下!?」
「……ぶっ」
「あ! 笑った! 今、笑った!」
「笑ってません」
「そうやっていつも面白がって揶揄ってくるんだから!」
「揶揄ってないですって〜」
「言い方っ」
にやにや愉しそうに笑う後輩に、先輩の威厳を見せつけられず、再びテーブルを叩きつけ、悔しがる。
「黒尾くん、手を出してみて」
「?」
「ううん、手のひらをこっちに向けて。……そうそう」
こうなったら意地でも黒尾くんより勝っているところを見つけなくてはならない。私は周りより手が大きいと思う。今思いつく黒尾くんに勝てる何かは、これしかなかった。言われた通り私の方へ向けてくれた手のひらに、そっと自分のを重ねてみる。
「……」
「……」
うん。全然、違う。手の大きさが全然違う。硬さも違う。数秒前の自分は、どうして勝てると思ったの? 謎だ。
「手、大きいね」
「……まあ、男なんでね。梨本先輩よりは大きいですよね」
「そうですよねぇ」
自分の馬鹿さ加減に敬語で返事をしてしまう。小さく息を吐きながら、ゆっくりそこから手を離そうとした時。まるで逃がさないとでも言っているかのように、閉ざされた指の間隙を縫って黒尾くんの指が絡み、ぎゅっと握られる。瞬間、心臓が一度停止した。呼吸の仕方を忘れ、思い出した時には既に有り得ない速度で心臓はバクバクと動き出していた。
「だから、年上を揶揄うのは……」
だめ! そう強く訴えるために開いた口を閉じてしまった。言葉の途中で絡んでいる指に力を込められたから。黒尾くんが真っ直ぐこちらを見ていたからだ。
こういう雰囲気になるのは今までも数回あった。私は少し苦手。だって黒尾くん、全然可愛くない。
このまま見つめ合っていたら、いつか食べられてしまいそうだと本能が察知し、視線を逸らそうとするも、それよりも先に向こうがパッと手を開き、離してくれた。最後に謝罪を入れて。
こうやって瞬時に相手の気持ちを察して行動するとこ、少しだけ狡いと思う。だって、可愛くないんだもん。
黒尾くんといると、感情が上手くコントロール出来ない。体は熱くなるし、頭も普段の何倍もバカになっている気がする。心も体も色んな意味で上がったり下がったり。ドキドキしたり、冷静さを保とうとしたりするのに必死。
まるで、ジェットコースターに乗っている気分だ。
「あ」
「はい?」
「ジェットコースターに乗りたい」
「今?」
「直ぐにってわけじゃないけど、夏休み中には!」
「ふーん」
夏休み、友達誘って遊園地でも行こうかな。でも、暑いだろうなぁ〜。人も多そうだし。氷は持ち歩けないし、パーク内のドリンクを買って食べようかな。テーブルの上で腕を重ね、意味深に相槌を打つ後輩を見ながら呑気に考える。
「一緒に行きます?」
「え?」
「ジェットコースター乗りに」
「……」
突然のお誘いに間抜け面を晒してしまうが、そんなのお構い無しに黒尾くんは組んでいた腕をこちらへスライドさせ、下から覗き込みながら言ってきた。
「一緒に行きたいんですけど」
う〜〜〜上目遣いっ! 可愛い、百点、花丸満点。かわいい。さっきとは打って変わって可愛さを全面に出してる黒尾くんに、自身の顔を両手で覆い「行きましょう」と返事をした。
「まじ、ですか?」
「うん」
伺うように見つめられた瞳はキラキラ光が感じられているような気がして、純粋な少年を騙している気分に陥った。そんな黒尾少年は、顔を背け、右頬を腕の上に落とし「楽しみです」と小さく呟く。
黒尾くんは世話焼きで、私より年上なんじゃないかと思わせる余裕を持っている。けれど、今みたいに弟感を全面に出してくる時もあるから混乱するし、狡い人間だと度々思う。
「でも黒尾くん、部活で忙しいんじゃない?」
「大丈夫です。何日かは休みもらえると思うんで。分かったら直ぐに連絡します」
いつになく真剣な眼差しを向けられ、これはどんな理由があっても彼の休みに合わせないとな、と心に誓うと同時に昼休みの終わりの時間に近付いたため、二人で保健室をあとにする。他愛もない話をしながら各々の教室に戻るのはいつものこと。
黒尾鉄朗くんは、可愛い可愛い校内での私の推しでそれ以上でも以下でもない。一緒にいるとジェットコースターみたいに体も心も揺さぶられる。話していると普段より何倍もバカになる。けれど、これは恋じゃない。好きだけど、好きではないから。
「そういえば、黒尾くんといる時はいつも蝉の音しないな」
可愛い後輩と別れてすぐ。一人、三年の教室へ向かう途中でボソリと呟いた。