推し以上好き未満


楽しい楽しい夏休みの始まり。私は肩を落とし、照りつける日差しの下、学校へ向かっていた。

「クロ」

 体育館の前を通りかかると、その名が耳に届き、無意識に顔を上げる。上げた先にいたのは、可愛い後輩の黒尾くんと黒髪の小柄な男の子。
 クロというのはあだ名なのだろうか。二人の会話を横目に、いち早く日の当たらないところへ向かおうと、足早に二人の横を通り過ぎる。その時、顔だけ振り返り、手を上げて軽く挨拶をすると、目を丸くして驚いた表情の黒尾くんが私の名前を口にした。

「梨本先輩?」

 手を振るだけで言葉を交わそうとは思わなかったため、名前を呼ばれたことで早歩きをしていた足を急停止させた。

「私のことはシロって呼んで!」
「ん……? なんて?」

 黒尾くんがクロなら私はシロになりたい。どこか嬉しそうなオーラを体に纏い、こちらに近付いてくる可愛い後輩に困らせるような発言をするも、適応力が高いこの人は言われた通り呼んでくれる。

「えーと、シロ先輩はどうして学校に?」
「ちょっと勉強をしに。ほら、私受験生だし」
「あー……補習ですか」

 前言撤回。全然可愛い後輩じゃなかった。にやにや意地悪く笑う憎たらしい後輩は、上から見下ろすように上体を屈ませ顔を近付けては言われたくないことを平然と放つ。
 けれど、その後「頑張ってくださいね」と温かい声色と笑顔で言ってくれるから、可愛い……! と拳を作った手で胸を叩きつけ、素直に言葉を受け取った。






「あ、つー……い」

 私は今、猛暑の中、直に太陽を浴び、蝉の鳴き声をBGMに水の中を泳いでいる。補習というのは体育。プールの授業だ。夏休み前の実技テストで合格点に満たなかった生徒や出席日数が足りなかった生徒が集められた。

 そして、数分後。苦の時間は終わり、各々体を軽く水で流し、更衣室へと向かった。その途中、ヘアゴムを忘れたことに気付き、さっきまでいた場所へと引き返す。
 たかがゴムひとつ取りに行かなくてもよかったのだが、これはたかがゴムではなく、友人から借りたもの。記憶通りのところに目的のものはあり、安堵しながら失くさないよう手首に通す。

「あれ? 黒尾くんだ」

 今度こそ水を含み重くなった水着を脱ぎに行くんだと足を動かした時、可愛い後輩の姿が目に入った。
 向こうはこっちに気付いていなかったが、今の私は水泳疲れで癒しを求めていた。数秒だけでも黒尾くんを視界に入れたくて必死になり、周りが見えていなかったのだろう。気付けば水いっぱい入っているプールぎりぎりまで近付いていた。

 そして、ズルっと勢い良く片足が下がり、一瞬だけ目を細めたくなる程の眩しい太陽が視界に入ったかと思えば、大きな音を立てて水の中に背中から体が沈んでいった。
 鼻と口に思い切り水が入り、驚いて心臓が飛び跳ねたけれど、特に問題はない。ゆっくり外に出よう。水の中は冷たくて気持ち良い。静かで、夏を感じさせる音も聞こえてこないから心地良い。それに、ここから見た空は好きかもしれない。だけど、やっぱり眩しいな。落ちたことにより自分で作った空気を握ろうと腕を伸ばした時、その手を誰かに掴まれた。

「梨本先輩!?」
「っ……」
「大丈夫ですか!?」
「……っご、ほっ、げほっ」

 腕と腰を掴まれ、引き上げられた体。咳は止まらないけれど、大丈夫だと首を縦に一回振る。
 黒尾くん、こっちに気付いてたんだ。ずぶ濡れになった練習着のまま私をプールから上がらせ、自分もそこから直ぐに出た黒尾くんは、座りながらまだむせている私の横に腰を下ろした。

「何やってんですか」
「……ちょ、っと…気を取られて、て」
「落ち着きました?」
「うん、可愛い後輩に助けてもらったからだいじょ…………誰ですか?」
「可愛い後輩デスケド」

 ずっと俯いていたため、初めて顔を上げた。声だけを頼りに黒尾くんだと判断していたのだけれど、目の前にいるのは黒尾くんに似た誰かだった。