先輩と告白

(名前変換なし)


 生まれてから歩んだ14年と少し、これほどまでに緊張した日があったろうか。目の前の“彼”に気付かれないようにしつつ、騒いで止まない胸を軽く擦る。
 どうして三年に上がって早々こんなことになってるんだ、さっきの反語がちのより問いの形になった言葉はやっぱり響かせる訳にはいかなくて。それでも沸き上がる疑問の数々を、そっと深呼吸に込めて吐き出した。



 二年の時から“彼”の噂は耳にしていた。
 生意気、天才、ピアス、鉄面皮、新人類。果たしてそんな評価を下して良いものかと思えるものすら混じった噂はクラスメイトや部員、友達やら風の噂やらの口から伝えられ。出所の異なる複数の噂は一過性のようでいてこんこんと流れ続け、結果、夏も半ばを過ぎる頃にはすっかりその名前を記憶してしまっていた。

 でも、噂だけで一方的に生意気だの新人類だのとするのは如何なものか、特に後者。同じ部だという同級生にそう溢したところ、私が言い終わるより先に「あいつが生意気やなかったら誰が生意気やねん!」と噛み付かれた。キレんなや。


 “彼”の名前はザイゼン ヒカル。字面も知らなければ声も姿も知らない、一つ下の男の子。生徒のネタでも先生のネタでもピクリとも笑わず、それどころかお笑い番組でも反応しないという彼の好物はぜんざい。きっと名前に掛けて、なんてことはないんだろうけど。それから好きな色はカーマインで、誕生日は……いつだったか。
 これらの情報は新聞部を兼ねた部員が嬉々として語ってきたから知っているだけであって、決して私が彼をストーカーしたとかじゃない。ないです。決して。


 生意気な後輩、欠片も笑わないクールガイ。噂ばかりを線として輪郭が描き上げられた彼のイメージ図、それに実態が塗られたのは秋の色が強まってきた頃。同じ委員会の静かな少年が名前を呼ばれた時だった。

 こんなに近くにいて気が付かなかったのか。いいや、部活はさておき委員会の後輩と交流を持つ機会なんてないよ。
 問いと答えを自分だけでこなしながら盗み見た彼の顔の一切が崩されることはなく。それはこの学校では殊更珍しいことで、ただでさえ綺麗なイケメンが際立っていたのだから見惚れたのも仕方のないことだと思う。眺めてるうちに何度か目が合ったのは焦ったけど。余談。

 彼の表情が歪むときがあるとすれば、ボケを求められて嫌そうにするときくらい。拒否の声どころか立ちすらしない彼の声を聞くことはまずなく、けれど一度だけ声をかけられたことがあった。
 彼がガン無視したボケ要求が私に流れたのが事の始まり。私としてはありふれたことだったから別段気に留めてはいなかったのだけど、彼としては申し訳ない部類に入る事だったらしく、「さっきはすいませんでした」と軽く頭を下げてきたのだ。噂の子が。憂いを帯びたイケメンが。

 噂全てを鵜呑みにして決め付けていたつもりはないのだけれど、普段の様子を見ていればさすがに驚いた。

 しかしその後に交わされたものと言えば「別に良いよ」といい私の返事と、「そっスか」という彼の言葉。会話とも呼べない短いやりとり。
 直後、無造作にラケットが突っ込まれたリュックを背負い直して去ってしまったため、以降の会話の種にすることも出来ず仕舞い。

 あの日から、生意気というラベルは揺らいで戻らないままだ。



「……先輩」

 あの日と同じ、控えめながら自己主張をする声が意識を引き戻す。
 見上げるというには傾きの浅い位置にある、森の深さ冷たさと似たものを持つグリーンの瞳は真っ直ぐに私に向けられていて。一度視線が絡めば離せない、離れない。
 遠くに聞こえるセミの声。そんなものはない。まだ早い夏の幻影、脳裏で耳鳴りが駆けるだけだ。

 私は何をしているんだろう。空き教室で、別段関係が深い訳でもない後輩と向かい合っている。
 どうしてここにいるんだろう。普段より遥かに早く終わった委員会の後、「時間ありますか」と呼び止められたから。
 これから何が起きるんだろう。それを知っているのは、梟の様に見詰めてくる彼だけだ。

「……聞いてます?」
「え、あ、うん。……ごめん」

 付け足して、聞いていなかったみたいじゃないかと我が事ながら。かといって、君が切り出すのを待っていたんだよ、なんて言う訳にもいかず。言える訳がないとした方が正しいか。
 呆れたように吐き出される息を、甘んじて受け止めることしかできない。

「単刀直入に言います」

 彼の低い声はどうしてか、少しだけ擽ったい。
 半眼から真剣な表情に戻った顔を見詰め直す。

「俺と、付き合うてくれませんか」
「──へ」
「あ、買いモンの方とちゃいますよ?」

 いやわかるよ。返しが響くのは頭の中だけ、喉は怯えこそするものの響きはしない。間抜けな音は立てられる癖に、お前、なんだこのお前。

 結果として顕れたのは沈黙。先の返し以外のものが浮かばない、思考が止まっている。止まるのは喉だけにしてくれ、今何してるんだっけ。
 ツキオウテクレマセンカ。カイモントチャイマスヨ。
 音を文字に起こしてなぞって、ようやくとんでもない場面に居座っている事が染み渡って口内が枯れた。

「……返事は」
「え」
「こんなん、イエスかノーの二択やないですか。時間要る言うなら待ちますけど」
「アッハイ宜しくお願いします」

 すらり流れ出たのは、本当に私の言葉だったのか。“カラカラ”と表すには粘り絡むような口の中、喉の奥が震えたにしては滑らかに発されたそれに思わず喉を撫でた。
 『イエスかノーか』と口では言っていたものの、その目はイエスかハイしか認めないとばかりの雰囲気、威圧感を発していた。原因は私が間を作ったせいだろうけど。というか勢いで答えちゃったんだけど今。

「……なら、そういうことで」

 外した視線はどこに流したのだろう、トン、トン、と爪先に踵にと重心を遊ばせて何度か揺れた彼──ザイゼンくんは、何も無かったかのようにドアに体を向ける。

「あ、待って」
「何スか」

 くるり振り向く顔に言葉が詰まる。ぐぅの音。イケメンの真顔、不機嫌顔は凶器足り得る。

「その……OKした後にこんなこと言うのもアレだけど、誰かと間違えてたり……何てことは」
「は?」
「ハイスイマセン」

 前言撤回。凶器は声、言葉の方だった。疑問形にすべく上げかけた語尾は発する前に切り捨てられ、その圧に思わず謝罪が飛び出した。

「……間違いでも勘違いでも人違いでも、あとドッキリでもありませんよ」
「そ、そうなの……」
「ドッキリとか嫌いなんで、俺」
「そうなの?」
「嘘吐いて喜ばして、もしくは嘘吐いて焦らせて。そんな様子見て嗤うことのどこが面白いんか全く分かりませんから」

 へぇとだけ呟いた私に、言葉の途中から扉の方に向けられていた顔が睨むように、訝しむように再び振り返る。

「……意味、分かります?」
「え? ……あっ」

 本日何度目の間抜け声でしょうか。数えられる程意識的に生きてたら、こんな声を出しはしない。
 瞬きの余所見を経て、自分の頬の熱に気付く。遠回しだけど、でもこんなに素直な言葉。視線が刺さるかのような心地はしながらも、頬が緩んでいくのは止められず。

「うん……うん、そっか」
「先輩は俺の名前、分かります?」
「え? うん。財産の前で財前くんでしょ?」
「ん」

 急な切り出しではあったけど、流石に君レベルの有名人の名前は認識しているさ。覚えた経緯からは目を逸らしつつ胸を叩くイメージだけ浮かべる。実際やったら変な人だ。
 短く頷いた彼も、今回の回答にはご満足戴けたらしい。ようやっと不機嫌オーラが消えて、ほっと一息。

「ちなみに」
「先輩の名前と、あとクラスやったらわかりますよ」
「な、何で……?」
「話の流れですね。それから先輩、今日の委員会で書記になったやないですか」
「あぁー……それもそっか……」

 自分の行動も思い出せないとは。一体どれだけ緊張していたんだろう、呆然としながらも、やっと扉を引いた背中を見送る。


 乾いた印象の彼との始まりは、同様にカラリと始まったのであった。


     *


 錆び付いているのか、やけに重たい引き戸をそれでも後ろ手で閉める。先輩はまだ出てこないらしい、早足で部活に向かいながら確認した。ついでに、行く先に人がいないことも。

「ヨッ……シャア!」

 握る拳、洩れる小声。今日くらいは表情が崩れるくらいはいいだろう、冷静な脳裏に対して頬は熱い。
 正直、じっとしていられない程度にはテンションが上がっていた。



 先輩に初めて声を掛けられたのは一年前、入学直後の四月だった。

 入る学校を間違えたのは初日で分かっていた。鮮やかな賑やかを越してビビッドに姦しい、反響する笑いは飽和して酸素が欠乏。ガンガン鳴るのは頭痛か銅鑼か。銅鑼はホンマに止めろ。止めてくれ。

 これ以上ストレスを食らうものか。静かに決心しつつ、半ば押し付けられた委員会の席は図書委員を選択。だがしかし流石は四天宝寺中。これに関しては俺が甘かった。完全敗北。
 待ち受けていたのはボケとツッコミのオンパレード。素人の荒削りでおもんないのがまた精神を削る。こっち見んな、リアクションを待つな。疲れと呆れとで先生の話を聞き流していたら、罰とばかりに四月担当にさせられて絶望した。

 理不尽だ、不条理だ、パワハラだ。
 一瞬でこそバックれようか、なんて疚しい思いが過りはしたものの、役目を放棄するのは良いことではない。後に待ち受けている予感のある、ボケの強請の気配から目を逸らしながら思ったのを覚えている。


 初回の担当日は、意外なことに何事もなく終わった。ボケもツッコミもなしである。
 この場所にも逃げ場になる場所があったのか。そう油断した二回目、初回に身構えていた光景が無抵抗な視界に飛び込んだものだから、また絶望した。油断したところにぶちこまれる絶望ほど強い衝撃はない。

 図書室内であんなに騒いで良いのか、一度だけ司書教諭に聞いてみたところ、「面白さに繋がればえぇんとちゃう?」とやけにげっそりとした顔で返された。先生も先生で大変らしい。
 少し意外に思ったものの、それもそうか。大人だって、働く場所を選べるとは限らない。


 そして、俺の転機はこの日に訪れる。


 最早全てを諦め、カウンター内で腰掛けながら大きめのボリュームで音楽を聞き始めた俺。我が事ながらふてぶてしい一年がいたもんだ。淀んだ肺の中身を吐き出しながら激しい曲に切り替えようとプレイヤーを開き直すのと同時、不意に肩が叩かれた。

「一年生? かな?」

 液晶越しには聞きなれた、実際に聞くとどこか違和感を覚える“標準語”。それは俺の顔のすぐ横、思わず身を離したカウンターに上半身を預けていたのは知らぬ顔、女生徒の口から発せられていて。

「音楽聞きながらカウンター当番かぁー。君、度胸あるねぇ」
「はぁ……」

 文字にすれば嫌味らしくも聞こえるその言葉は柔らかく、思わず間の抜けた返事が生まれた。妙に馴れ馴れしくしているその人を見やれば、独特の制服は同級生のそれよりくたりとしているから上級生だろうか。
 そこまで考えて、どうして自分がこの席に着かねばならなくなったのかを思い出した。

 上手くボケれば許されるから、そう笑いながら俺の肩を叩いた人がいた。けれど、それはつまりボケられなかったら、一切が許されないということ。また理不尽を食らうのか。思わず身構えた俺に、先輩らしき人は何を思ったんだろうか。身を起こし、顔に掛かった幾らかの髪をかきあげたその人は、掌を見せながら困ったように笑う。

「大丈夫大丈夫、先生には黙っといたげるから」
「……何で、ッスか?」

 ぎこちない敬語。
 年が一つ二つしかない相手に使いなれていないというのは勿論ある。けれどそれ以上に、この人が分からなくて。

「だって君、こういう雰囲気苦手でしょう?」
「え……」
「じゃなかったら、音楽なんてきいてないだろうし」
「……まぁ、はい」

 こくりと頷いてみせれば、随分と高い位置に落ち着いてしまった顔は満足そうな色を見せる。「気持ちは分かるけど、次からは本にしときなね」なんて残しながら向かった先は、図書室の一角のテーブル。あそこは確か、先生が文芸部が使用していると言っていた場所。

 こんな学校にも、あんな人がいるのか。ぼんやりと眺めていただけなのに手を振ってきたその人から目を逸らしつつ、ほんわりと思った。

 今考えれば、この時点で惚れていたんだろう。


 五月に入りテニス部に引き摺りこまれた後も、委員会の当番のあるなしに関わらず、オフ日には必ず図書室に足を伸ばすようになっていた。名目は勉強、目的は言わずもがな。
 図書室でかつどうしているからか、部誌も置かれていて。勿論ここ三年間分は目を通した。

 我ながらストーカー紛いの行動に気持ち悪さを覚えはしたが、それでも俺とあの人との関係はこの図書館にしかない。名前は委員会の点呼で覚えた。



 意識を現在に戻す。回想に耽っている間に口許が緩んでいたらしい、少し強めにつねる。
 部室はすぐ目の前だ、少しでも頬を緩めたまま入れば何を言われることか。面倒な事になるのだけは目に見えている。耳を澄ませなくても聞こえてくる騒がしい笑いを声にため息を吐きながらドアを開いた。

「委員会で──」
「おお財前! 今日早いな!!」
「──遅れました、って言おうと思ったんすけど……謙也さんがそう言うんなら問題なさそうっすね」

 人の言葉を聞き終わってから話すという、人間として初歩中の初歩すらこなせないスピードスターに、これ見よがしにため息を吐きつけてやる。幸せが逃げる? 今幸せの最中なんでどんなに逃がしても内から沸くんで大丈夫ですわ。

「どことなくトゲあるな……まだ白石来とらんし、実際そうなんやけど!」
「ん、財前。今日は早く終わったと?」

 ギャンと叫んだ人を無視し、珍しく既に半分着替えている千歳先輩に頷く。謙也さん一人やったら向こう30分は無視していたところや、感謝してほしい。なんて身勝手な思考はあくまで頭蓋の中でだけ。

「今日は役職決めと説明くらいしかなかったんで。つか謙也さん、放送委員は普段からこないな時間に終わっとるんですか?」
「今日は俺んとこも早かったわ。浪速のスピードスターたる俺は、そっから部活までもが速いんやけどな!!」
「はいはい」
「俺はにゃんこと昼寝しとったら放課後になっとったけん、白石の代わりに鍵借りといたばい」
「あぁ、ありがとうございます」
「俺の時と対応違わへん!?」

 やったことを考えてから言ってもらいたい。
 返事をするのも億劫になり、先輩らの間を通り抜けて自身のロッカーの前へ。今日はわりかし対応している方だというのに、気付かない人はとことん気付かないものらしい。

 その思考はあくまで謙也さんの皮肉であって深い意味は無かったけれど、学ランを脱ぐと同時に「そう言えば今日は機嫌良さそうやね」と千歳先輩からから飛んできたこと、練習開始の際には師範にも似たようなことを言われたことから、事実の一つであると思うに至った。
 気が付けば部長とか金色先輩も、言わないにしろおんなじ目をしとったもんだから俺が分かりやすい顔をしている可能性を取りかけたが、そんなまさか。

 否定しかけて、けれど浮かんだ可能性は捨てられなくて。無意識に相手が俺を理解してくれることに甘えていたことに気付くことはなくて、新しく生まれた縁にも普段通りに望んでしまったのはきっと間違いだった。
 照れがあった、浮わつきがあった、甘えがあった。それは悪いことではなくて、当然のもので、後悔に至る根っこはそれに気付こうとしなかった俺の認識で。

 けれど浮かれきったこのときの俺は、心臓に深々と突き刺さる程の後悔が訪れることなど、まだ知らないままだ。

18/10/15
19/06/10 修正、公開

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