05認識と先輩と始まり。
(部室が不思議な構造になっています。)
財前の言葉通り、翌週の放課後にファイルに挟まれた楽譜を受け取った。
「わ! ありがとな!」
「別に、約束守っただけや。そない気の抜けた顔せんでもえぇやろ」
「えぇ……私そんな顔してる?」
「気付いとらんあたりが特に間抜けやな」
うへぇと文句に近い声を上げたのが気に食わなかったんだろうか、妙に力強く撫で回される。
いつも以上にもっさもさになった髪とぐらつくキャラ付けに気を取られている間に、いつものように鼻を鳴らした彼は部活に行ってしまったのだった。
なんとなく、教室で見る気にはなれなかった。
かといって家に帰るまで待ってはいられなくて、今すぐ見たい気持ちを抑えられなくて、逸る気持ちのままに屋上まで駆け上がったのだった。
じりじりと太陽が照るそこに一瞬たじろぐ。しかしその暑さのお陰か人影はない、すぐさま日陰に滑り込んだ。
「ひゃー、あっつー」
ついカバンから取り出したファイルで扇ぐも、それが今さっきもらった方がものだと思い出して慌てて止める。いそいそと中身を引っ張り出した。へへへ。
おたまじゃくしを辿りながら、記憶に残っていた微かなメロディと重ねて口ずさむ。軽やかで、涼しげで、眩しくて、でもやっぱりどこか切ない歌。
「やっぱり好きだなぁ」なんて呟きながら捲った四枚目、何かの拍子に挟まってしまっていたものだろうか、桜色のメモがひらり舞い落ちた。
何の気なしに拾い上げ、何の気なしに目を通す。視線が掬ったのは見覚えのある幾単語。
はたと思い当たり手元の楽譜と見比べれば、やっぱり。このメモは多分、歌詞の原案だ。
うわぁ、えぇ、どうしよう。読む訳にもいかないし。
あー、でも読んでみたい自分もちゃっかりといるし。ぐああ、どうしよう……
悶々と巡る思考から逃げるように目を閉じるその一瞬、『好き』の二文字が見えた気がして目をかっ開いた。
貰った楽譜にそんな詞はなかったはず。そう信じてメモの文字を追った私は、何を思っていたんだろうか。
結論から言えば、桜色のメモにそのフレーズは存在していた。
前後の言葉には覚えがあって、それが本来どこに当てられた詞なのかもわかってしまった私は。
「あいつが好きだ 手を伸ばす 届かない 届いてはいけない だって──」
口ずさめばとてもしっくり来るのに、なぜだろう、どうしようもなく胸が締め付けられる。
目を落としたのは、手汗のせいか少し歪んだメモ。続くはずだったらしい『いまの関係を壊したくない』という文字には二重線が引かれていて、視界が滲んだ。
この歌が、彼のものであることは気付いていた。
踊るようなメロディも、締め付けるような歌詞も、何もかもが彼の心から産み出されたものだとわかっていた。そのつもりだった。
それなのになのに私は、これを私の歌だと思った。私の心を、抱き抱えたままの届けられない片想いを言い指した歌だと。
ならどうして気がつかなかったんだろう。その二つがわかっていれば、答えなんて一つしかないのに。
「財前、好きな人いたんだぁ」
震えた言葉は、そのクセして澱みなく喉を通った。
あぁ、そうか。気付けなかった訳じゃない、ただ気付きたくなかっただけ。
この痛みは、目を逸らし続けた罰か。
どうしてだろう、涙が止まらない。
誰もいない屋上を選んで良かった。抑え込まれるような声を洩らしながら、頭の隅でひどく冷静な私が呟いた。
ふと目を覚ますと、オレンジ色が目を刺した。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。抱き寄せていた膝周りの布がじっとりと濡れていて、ハンカチでも挟めば良かったと少し後悔。
握っていたはずの楽譜が見当たらなくて少し焦るも、無意識のうちにファイルに仕舞っていたようで。滑稽に思えて、少し笑みを洩らした。
立ち上がって一つ伸び。ぱき、ぽきぺき。骨は鳴るし、腰とお尻が痛い。伏せて泣いた方がマシだったかもしれない。
荷物をまとめて、未だ熱気の漂う屋上を出た。
誰もいない廊下で顔を洗う。
さっき鏡で見た限り、腫れている様子はなかったので安心した。
これ以上考え込んで身動きが取れなくなってしまう前に、このメモを返した方が良いのだろうか。
適当な教室に入ってグラウンドを見下ろせば、テニス部はまだ活動しているらしかった。
「財前くんならぁ、アタシが呼んできてあ・げ・る!」
テニス部って濃いんだなぁ。ハートマークが付きそうな語尾を残して去っていく先輩? を見送りながら思った。
通された部室を見回す。邪魔になるんじゃないかとは思ったのだけど、さっきの先輩に「もうしばらく練習は続くから大丈夫」と押しきられた。あの人に押されたら引くしかない。
とはいえ、勝手に座るわけにもいかないし。ひんやりとした、打ちっぱなしのコンクリートに凭れかかった。
五分もしないうちに財前はやってきて、何の躊躇いもなく眼前の机に腰掛けた。
視界の端の方に件の先輩の影が見えるのも気になるけど、まぁ、うん。
「で、用って何なん?」
「や……大した事じゃないかもだけど、さっきもらったファイルにメモが挟まっててさ。返した方が良いかなーって」
「……まさか、一回帰った後にわざわざまた来たんか?」
軽く眉をひそめた彼に言葉を詰まらせる。
そうだ、しまった。もう部活を辞めた私がこの時間にいるのは、おかしい。
「えっ……とね。実は、さっきまで寝てて……」
ははは。乾いた笑いが口から溢れる。
彼の顔は、見れなかった。
「あぁ、そんで眠そうな顔しとんのか」
「え、マジ?」
「マジマジ」
本気なんだか冗談なんだかわからない言葉と共に手が伸びてくる。
いつもみたいにゆるく、指の背で頬を撫でられるだけ。それだけだとわかっていたのに、私はその手を払ってしまった。
「あ……」
洩らした息の先、つい見上げてしまった財前の顔は。
いやだ、やめて。どうして君が傷付いた顔をするの。どうして私は、それが傷付いた顔だとわかってしまうの。
「ご、めん」
「──いや」
言葉を返されるまでの隙に、意気地無しの私は俯いてしまう。
『気にするな』の意味を持たせたらしい二音の後の重い重いため息が、深々と心に突き立てられた。
「あ……そ、そう! それでメモね! メモ渡したら私帰るから!」
「おん」
何でこんなに騒いでいるんだろう。自分の空回りっぷりに涙が出てきそうだ。
全部を誤魔化すようにカバンに手を突っ込んだのと同時、けたたましい音を立ててグラウンド側の扉が開かれた。
「おんどりゃ財前なぁーに小春たぶらかしとるんやゴルァ殺すぞ!!」
ワンブレスの叫びと共に飛び込んできたバンダナの人に言葉を奪われる。本当何なんだこの部活。涙も引っ込んだわ。
「ユウくん、ちょっとユウくん」
「何やこのメンドイ空間……」
「あ"ぁん? 何がメンドイやこっち向けや財前、こないな密室で小春と二人きりとか何を考え」
「密室やないし、二人きりでもないんすけど」
「どこが!」
足音荒く寄ってきた人は、財前の言葉遣い的に先輩と判断。息をしているのか不安になる勢いで捲し立てているのを呆然と眺める。
これまた濃い人が出てきたなーと無関係を決め込んでいたら、突然財前に腕を引かれて目を白黒。
「え? ちょっ……」
「俺は、こいつに呼ばれたって金色先輩に呼ばれて、んで話をしてただけなんすけど」
「……おん」
「何か文句ありますか?」
「……いや」
ふるりと首を振った先輩は、不満げにしつつも投げつける言葉はなくなったらしい。バンダナを巻き付けた頭は一瞬だけ私に目を向けた後、ただじっと財前を睨み付けている。
というか、肩に置かれたままの財前の手が熱い。運動直後だから? いやこれ熱くなってるの私だ。ハーーー鎮まれ鎮まれ。
何も言わずにカバンを開く。あのファイルはどこに挟んだんだっけーなんて、呑気にさせてはくれない視線が二つ。
突き刺さるようなそれが痛い。こわい。いたい。
一つはもちろん財前のもので、もう一つはあのバンダナ先輩の。まぁ、見ているのは私じゃなくて、その傍らにいる財前なんだろうけど。
さっき、こっそり盗み見たときは財前を呼んでくれた先輩に抱きつこうとしてかわされていて……
うん、世界は広いんだなぁ。
「あ、あった」
ファイルの中身を取り出して、ちらり目をやったら一枚目に水が乾いた跡があってぎょっとした。やばい、やらかした。
「どないしたん?」
「え? あ、や! なんでもない」
乾ききっているし、滲んだわけでもないしと首を振る。変なところで夏の太陽が味方してくれたらしい。
丁度中間に挟まっていたメモを抜いて差し出すと、急に財前があからさまに顔をしかめるから焦った。
「ざ、いぜん?」
「……今駒、これ中身見たか?」
「う……ううん。見てない」
首を振った。
これ以上嘘を重ねる気はない。なかった。そのはずなのに、口が勝手に動いてしまった。そう言えば理由になるんだろうか。
嫌な沈黙。緊張のせいか、自分の心臓が耳の横に置かれてるんじゃないかってくらいの響き方をしている。そうでなくとも、人は緊張が強まると少し感覚がおかしくなるらしい。まるで目だけが働いているような、そんな不思議な感覚がする。
彼の手に渡った桜色をぼんやりと眺めて、それが確認されて、握り締められたところでようやく意識が帰ってきた。
「──何や」
表情に出してしまっていたらしい私に、珍しく不機嫌を顕にした財前が問う。
「い、や……その、良いの? そんなぐしゃっと……」
「……あぁ。どうせ捨てるモンやったし」
良くない! 叫んだのは胸の中の私。あれは財前の言葉だ、あれは財前の心だ! いくら届かないから、届ける気がないからって、本人だって蔑ろにしていいものじゃない!
けれど、現実の私は何も言えない。私はメモを見ていないから。メモに書かれたことなんて知らないから。私は、財前のともだちだから。そうありたいから、曖昧に顔を歪めるだけ。それだけ。
「そっか……えっと、それじゃあ用も済んだし、私は帰──」
「アーン、足が滑ったー!」
それは、完全な不意打ちだった。
視界の端、さっきまでちょこまか動いていた先輩が机にぶつかるのが財前の肩越しに見えて。
並べられた机が受けた衝撃は流れ流れて、こちらの端に腰掛けたままだった財前の元へ。
不安定だったその体は、目の前で壁に凭れていた私の方へ放り出される。
私は私で、そんな大きなものが飛んできたなら、反射ながら当然ガード。
しかし顔を守るべく上げかけた右腕は、壁について衝突を逃れようとした財前の左手により壁に押し付けられ。
トドメと言わんばかりに彼の右腕が、私の頭のすぐそばに叩きつけられるというこの流れが、長い一瞬のうちに起こった。
いや、違う。トドメはそこじゃない。あともう一つ。
いままでにないほど近い、目を丸くさせた財前の顔と、唇の、この、柔らかいものは、つまり。