05認識と先輩と始まり

 まず、柔らかいと思った。

 柔らかいそれが何であるか、理解する思考が働かせられないままに瞬きを二つ。同じ動きをした黒い瞳を眺めて、離れて。
 ずるずるとへたりこんだ、うずくまった今駒を見て、そこまでいってようやく自分の口に手を当てた。

 ──は? え?
 なん、待、何、今のは、何や。何が起きた。何をやらかした?
 やらかし、あぁそうや、やらかした。やらかしてしまった。

 ぐありと体温が上がって、けれど急激に下がって。それが同時に起こるもんだから目眩がする。


 不意にこそこそとした話し声が耳に届き、睨むように振り向いた。
 そうだ、あれは金色先輩の声だった。殴りたくなるくらいのわざとらしい声と、直後の衝撃。
 案の定、その人は満面の笑みでユウジ先輩を引っ張っていって。あの人後で絶対殴る。

 一つ息を吐き、未だしゃがみこんだままのそいつに向き直る。

「今駒」

 非常に癪に障るが、今ので幾分か冷静になれた。まだ顔と手足は痛いくらい熱いし、背中は死ぬほど冷えているが。

 あれは事故だ。先輩のイタズラで起きた事故。俺も今駒も何も悪くない。事故だったから、仕方のないことだから。
 そう言いたくて、お前も気にするなとその名を呼んだのに。

「はじめて……が……」

 消え入るような涙声で言われたそれに、今度こそ、底に落とされるように身体中の熱が奪われた。

 あぁ、そうだ。マウス・トゥ・マウス。
 先輩らがいつも冗談でしているそれは、普通大切な人と行うもの。その価値は、女子なら尚更。

 俺は馬鹿だ。心のどこかで浮かれていて、自分のことで精一杯で、今駒のことなんか欠片も思っていなかったのが現実。
 だって、そうでもなければこいつがこんなにも泣くことはなかっ──待て嘘やろ泣いとる殺してくれ。

 一瞬、視界を揺らした黒色は絶望だろうか。
 いや違う、目眩を中二病表現してる場合じゃない。俺のことは後だ。

「今駒、今駒」

 目線を合わせようとしゃがみ込むも、いやいやと首を振られる。その度に散らされる雫に胸が締め付けられるが、だからといって逃げる訳にはいかないと、その肩を掴んだ。

「今駒──」

 泣くな? ごめん? どの口が言えるのか。
 言葉に詰まった俺の代わりに、小さくしゃくり上げている今駒が口を開く。

「ごめん、なさい」
「──何で、お前が謝るん」

 思考が働くより先、言葉が零れ落ちた。

 何で? 何でお前が謝らな、それ俺やろ。
 じゃあ、お前は何で泣いとるんや。

 また首を振った今駒は、何か言いたげに唇を震わせる。しかし、嗚咽が邪魔をしているらしく、掠れるような空気が漏れるだけ。
 「落ち着け」とその腕をさすってやれば、更に雫が零れる。

「だっ、て……ざいぜっ、すきなひ、と……いるっにっ」

 ボロボロの言葉は、俺の頭を全力で殴り付けた。

 幻覚か、星が瞬く脳裏に浮かんだのは、ついさっき握りしめたポストイット。
 つまりこいつは、知ってたのか。知ってたからこそ、こいつはこんなにも。




 ごめんなさい、ごめんなさい。好きになってごめんなさい。
 ごめんなさい、ごめんなさい。嬉しく思ってごめんなさい。
 ごめんなさい、ごめんなさい。ちゃんと、忘れるから。



「こんま」

 少し柔らかくなった声と、変わらず私の肩を揺さぶる手。

「今駒、ちょい顔上げてみ」

 嫌だ。それだけは伝えたくて首を振る。途切れ途切れの言葉に意味はなく、しゃくり上げる私に出来るのはただイエス・ノーを伝えること。

「こんまー」

 だと言うのに、彼は諦めてくれない。
 いつもだったら「そか」とか言って離れていくくせに、本当にそっとしておいて欲しい時には構うのか。意味が分からない。
 止まらない涙を拭いながら、ただ首を振った。


 一方通行の問答を繰り返しても意味がないことに気が付いたのか、目の前にしゃがみこんでいた財前が動く。

「しゃあないな……」

 やっとか。不自然に息を吐いて肩の力を抜いた私を、私のその顔を、冷たい両手か挟んで。

「ちょ、なに……っ」
「これが、好きでもないやつとキス、した顔に見えるんか」

 無理矢理上向きにさせられた視界の殆どを占めているのは、財前の顔。
 いつもはただ冷たく白い頬には淡い桜色が差して、口元は何かを堪えるようにキュッと結ばれている。

 その理由を考えるより先、視界に影が落ちた。



 ファーストキスが財前なら、セカンドキスも財前だった。意味がわからないって? 私もだ。

 ただただ呆然として唇をなぞる。
 ふにふにと唇を押していれば、自分の指とは違う感覚が思い出されて、そして──何があったかを理解して一気に顔が燃えた。

「い、いま」
「やっとこっち向いたな」

 へたりこんだ私の向かい、知らぬうちにしゃがむでなく床に腰を下ろしていた財前は笑った。それはもう楽しそうに、嬉しそうに。

「お前があのメモを見たんはわかった。お前があの曲の意味を汲んだのも、その上で勘違いしとるのもわかった。やから、した」
「やから、って……」
「これなら、事故とちゃうやろ?」

 まるでイタズラを暴露するみたいに肩を揺らす彼に、言葉が詰まる。私自身鈍い方ではないと思っているけど、頭で理解できるのと心が納得できるのとは全く別だ。
 いつのまにか、涙は止まっていたけれど。

「そん、な……えぇ? 嘘だぁ」

 何がおかしいというわけではないのに、半端な笑いが混ざる。

「嘘やないし」
「だって、だって財前そんな素振り全く──」

 無かったのに、とは言えなかった。言おうとして止まった。

 考えれば、自惚れられるようなことはいくらでもあった。彼がクラスメイトと、そうでなくとも異性と帰っていることはあった? 庇っているのを見たときは? 彼に奢ってもらったという人はいた? それでも尚気付かないフリしてきたのは、期待したくなかったから?

「ま、言う気無かったしな」

 いつもより饒舌な財前は、私を置いて言葉を続ける。

「お前ってやつはホンマ、何考えとるか分からんし、鋭い癖に抜けとるし、そういうことわかっとるかも分からんかったし──それに何より」

 ふと、目が合った。
 深い緑色。いつもは私のより高い位置にある、くすんだそれが私を捉える。

「……何より?」
「今、言うたら。それこそ今駒の弱みにつけ込んだみたいになるから。そんなん嫌に決まっとるやろ、アホ、ナス、間抜け面の泣きっ面」
「待って急に罵り言葉何故」

 言ってから、その前から散々謗られていた気がして頭を掻いた。でもどうしたって頬が緩む。言葉だけを取ればただの暴言でしかないのにその語気に棘はなく、表情には未だ柔らかさが宿っていた。
 つまりは、照れ隠しだ。

 急に全部が可笑しく思えてきて、軽く噴き出す。目尻に残っていたんだろうか、頬を伝った滴は財前の手で拭われた。

「……三回目だ?」
「そんなん、これから幾らだって拭ったるから数えんでえぇ」
「へへへ」

 そんなことを言われたら、どうしたって頬が緩んでしまうじゃないか。吐き出すつもりのない文句は、情けない笑い声に変わって抜けていった。



「返事、していい?」
「……今駒がしたい言うなら」

 余裕ぶって言う財前の顔に、もう桜色は欠片もない。それでも軽く弧を描いている口元に、締め付けられた胸がにわかに逸りだした。

「やっ…ばい。待って、言葉にすると思ったら急に緊張してきた」
「今更やな」

 まぁ待つけど、と付け足した財前の言葉に頷く。そりゃまぁ、確かに今更だ。
 言葉にするといってもたった二言、たった二文字。口に出してしまえばあっという間、通り過ぎてしまうような──

 ふと、気付いた。

「……ねぇ。私、財前に言われてなくない?」

 沈黙。
緊張から俯いていた顔を上げれば、当人は全力で顔を背けていた。照れではなく誤魔化し。それくらいはわかる。
 
「……」
「ちょっと」
「…………チッ」
「舌打ちて君」

 恥ずかしさを蹴り飛ばしてユニフォームの裾を何度か引けば、およそ六回目あたりで雑な返事が返され。

「わかった、言うから話せ。あと下がれ」
「はぁい」

 気の抜ける返事をした私も私か。そんなことを思いながら、へたり込むだけだった足に力を入れる。言う側だろうと聞く側だろうと、緊張するのには変わりはないらしい。

 どちらともなく、ひとつ深呼吸。
 「試合ン時より体硬いわ」という呟きがきこえたものだから、少し笑った。

「俺は」

 財前は口を開く。


 まさか、彼とこんな関係になる日が来るとは思わなかったなぁ。
 自分自身を、どうしようもない日陰者だと思い込んでいたいつかの自分に「大丈夫だ」と言ってやりたい。「そんな自分を見ても、それ以上を知っても、こうやってまっすぐに私を見てくれる人に出逢えるんだよ」……なんて、実際には照れ臭くてとても口には出せないけれど。


「今駒、お前が好きや。……お前だけが」

 溜めてから差し出された言葉は、その目のように真っ直ぐ。想定外なくらいだったからだろうか、その勢いのままに胸のど真ん中が射抜かれて、少し痛い。
 痛いけど、苦しいわけでも悲しいわけでもなくて。

「私も、財前が好き。財前だけが好き!」

 ただただ嬉しくて、その気持ちを目一杯言葉に込めて財前に贈ったのが、私たちの始まりだった。

18/04/03
18/11/13 公開
18/11/14 修正
2/2


prev | top | next