冬で終わり春に始まる
自分の席に戻っていく銀色の頭をそっと見送る。着いた辺りで視線を外し、貯めていた息をゆっくりと細く長く遅く、とにかくゆっっっくりと吐いていく。あからさまなため息など吐いてはいけない。周りの人間がイメージする“川端 空”を保つべきだと言い聞かせた。
……。
いやだめだ、声かけて貰ったのすっごい嬉しいわ。
ふへ、と口許が弛みかけたものだから慌てて引き絞る。さっきから変な挙動が滲んでいる、早く冷静にならねばと本に目を落とした。
……目が滑って内容が頭に入らない。さっきの嬉しさが頭から抜けてくれない。どこまで読んだのか忘れた。今日はもうだめそうだ、せめて読む振りを貫こう。
押し吐くように短く息を抜き、手にしている本のページを頭まで捲り戻す。あぁ、らしくない。
……らしくない? 何を言っているんだ、私は元々こんなキャラじゃなかったのに。
小学校時代から私は友達が少なかった。殆どいないと言った方が正しい。泣けるな。
唯一、一つ年下の幼馴染がよくつるむ存在だったか。毎日のようにそいつと走り回るのが私の放課後で、それ以外のときはテレビを見たり宿題をこなしたりと大体を一人で過ごしていた。
振り返ってみると、私は友人を作るのが尋常じゃなく下手だった。語彙が足りないせいでとにかく下手だったとしか言えないのが余計悲しくなるくらいには下手だった。
照れ屋なのかなんなのか知らないが、素直になるぞ強く誓っても、いざ相手と面して溢れ出るのは強がりと罵倒と意地。女の子と向き合えば相手を泣かせ、男の子と向き合えば喧嘩か、良くて口論になるのが常。
それどころかこの癖のせいで一度だけ、大目玉を食らうような上級生との大喧嘩を繰り広げたことすらある。勝ったけど。
ただし、その大喧嘩に勝って何が生まれたかといえばただの変な噂。それに尾ひれや背びれ、腹びれまでもがこれでもかと盛りに盛られたのが近所を泳ぎ回ったせいで「うちの学校には化け物みたいな女がいる」だの「先生ですら手が出せない獣」だの──いや、この話はやめよう。
とにかく、そんな噂が立ったせいで元々ほぼないに等しかった私の友人はいなくなった。実質ゼロだ。糖質をアピールしてるCMみたいだなと思ってちょっと泣きそう。
そういった経緯で、このまま中学に上がるのはまずいと、女の子らしい大人しい性格になろうと決めたのが入学式5日前のこと。しかし“大人しく”を意識しすぎたのか、少々方針を間違えたのか。そのどちらだったのかは分からないけれど、一年目はグループ参戦に一歩遅れ、その一歩が再びの友人ゼロを作り上げた。
えぇいクソ、今年こそだ。最早読んでもいない本のカバーにシワを作った。
始業式後の自己紹介から時は流れ放課後。私は太陽の全盛期(?)を過ぎてなお冷えたままの畳に伏していた。あぁひんやり。けどこの程度の冷たさでは私の感情は収まらない。
「おー、死んでるなー」
間延びした声がぬぅと響く。顔を上げれば予想通り、同じ部に所属している男子生徒がのそり立っていた。
「どーした、やっぱ友達できなかったかぁ?」
「うっさい。ばか。何だっていいだろ」
「おーおー、バターは溶けてもバターだなー」
バターとは私のあだ名である。カワバタだからバターらしい。意味がわからない。
一つ息を吐いて起き上がる。人に見られてなおごろごろと溶けている気にはなれなかった。別にバターと呼ばれたからじゃない、決して。
ちなみにこいつの言う通り、始業式の後は誰にも声を掛けられなかった。「誰にも掛けることができなかった」のか「誰にも掛けられなかった」のかのどっちだって? 結果が出ないなら一緒だろう、泣くぞ。
去年と同じクラスだった人間なんて一人二人だろうに、どうして移動のときにはグループが出来てたんだろう。意味がわからない。(二度目)
「てかこの部人少なすぎない? 何なの一学年五人って。他のところ見習えよ、サッカー部三人もいたっぽいんだけどうちのクラス」
始業式後、再び本を開きながら耳を傾けた結果得られた、中々に不条理な情報のうちの一つ。そんなの、ウチで起きてたら奇跡だぞ、何クラスあると思ってるんだ。
「あ、俺D組だけど刈田もDだったぞ」
「軽率に起きてんじゃねーよ奇跡!!」
かいた胡座の横の畳を殴っても痛いだけ。そして目の前のコイツの笑い声で更に苛つくだけ。負の連鎖とはこのことか。
つか笑ってんじゃねーぞ。その鼻にピーナッツ詰めてやろうか、割りとマジで。
立海は歴史ある誇り高い学校だ。誰がそれを言い出したのかは知らないけれど、全国大会で優勝したテニス部を筆頭に、運動文化問わず栄光を勝ち取っている部活が多いのは事実。途切れることなく校舎に飾られた名前の数々がそれを示している。
しかし、それがどの部にも当てはまるわけではない。私たちが所属する部は、一昔前でこそ有力だったらしいが今では泣かず飛ばず……ほどではないけれど、全国など夢のまた夢な中堅(弱)部である。
何が弱いのかと聞かれれば立場だ。雨の日は近所の部活に場所を取られる。ちくしょう。
余談だけど、声を出す必要があるというか義務付けられているこの部に入ったおかげで、私はここでだけは素でいられている。
ある程度生きやすいのはありがたいけれど、人数が少ないからと男女を纏めるのはいかがなものだろうか。たまに泣きたくなる。泣かない。
素でいるとは言ったが、素でいるということと素直であるということは大分異なる。結局ここでも素直になることはできなかったけれど、それでも彼らは私の手を引き、あるいは振り回してくれたのだった。
「お、かわばっちゃんやっぱ死んでんね〜」
噂をすれば影。『振り回して』の大部分を占めている彼女の高めの声が届くと同時、今日何度目かもわからないため息を吐いた。
「普通に座ってるだけなんだけど」
「普通の女子中学生胡座かかんよ〜。てか目が死んでるんだよ目が、ヤなことでもあった?」
「絶好調だわ、ケンカ売ってんなら買うぞ」
「非売品でーす」
からからと笑う彼女は、私たちの学年の女子部員1/2である。二人って悲しいね。
同い年ではあるが、同性ということもありこの子にはどうも強く出られない。さっきは口先でこそケンカがどうこう言いはしたものの、実際に売られても買えないのだ。ピーナッツ野郎なら買ってた。
そのせいもあって、初めてましてから振り回され続けているが、決してそれが嫌な訳ではなく。むしろ振り回してくれなければ得られない経験はいくつもあった。
特に大きなものは一年のある日、テニス部の練習試合の見学に引き摺られて行った時だろう。文字通り引き摺られるとは思わなんだ。
それは、とあるクソあつい日のこと。
今では慣れたが二ヶ月に一度は起こる、顧問の巻き込まれ体質による練習消失のせいで解散になったその日、丁度重なっていたテニス部の練習試合が見たいという彼女に手を引かれてグラウンドを駆けた。
彼女の目的は、当時既にレギュラー入りしていた“三強”とやら。彼女と同じものを求めていたのか、フェンスには相当の人だかりができていたのを記憶している。
女子というのは普段はのんびりしているくせに、こういうときだけはきびきび動くということを忘れていた私は、人混みを分け入っていったあの子に置いていかれてしまい。仕方なく別の、人が集まっていないコートに足を伸ばした。
暑い中折角来たんだ、何かしら見ていこう……とでも思ったんだっけか。その後の出来事が印象的過ぎて、正直よく覚えていない。
三強の方と比べたせいで「人が集まっていない」とは表したものの、私が覗いたコートにもそれなりの人の群れは見られた。部員が多いせいだろうな、ジャージがいっぱいで羨ましい限りだ。適当に層が薄い場所に立ち、ルールも知らない試合に目をやった。
ボールが跳ね、強く打ち、戻ってきて、弱く打つ。
強く打った時に決まるときもあるし、弱く打ったときに追い付けないときもある。私には知り得ない知略が巡り、一目では分からない努力があり、その胸の奥には強い感情が灯っているのだろう。
少し、羨ましくなった。
言葉にし切れない何かが胸の底で揺れた時、ふと視界の端で見覚えのあるものが動いた気がして一瞬止まる。何だ? テニス部に知り合いなんていたっけか。
暑さで上手く働かない頭を傾げながらコートを眺め回した私の目に入ったのは、陽と汗とでキラキラ光る銀髪頭。一拍置いて思い出す、同じクラスの仁王、くんだ。
当時、私はクラスの殆どと話したことがなかった。今もそうだとか言わないでほしい。
そんな私でも、彼に対する心象が良いものではなく。その理由は、彼の飄々とした態度。度々授業にいなかったり、普段は人の輪に加わっていないくせに突然イタズラを仕掛けてみたり、それなのに女の子には好評だったり。自分とは全く違う、理解出来ない存在に人は好意を抱けないのだ。
そんなよく知らない、よく分からないただのクラスメイトである彼は、テニスコートという限られた空間の中を走り回っていた。
私は本当に、彼を知らなかった。
ラケットを握っているのが左手であること。いつもは気だるげな顔を、無造作にふわつかせている髪を汗で濡らしている様。手を抜くことなどせず全力で点を取りに行き、かと思えばゆるり背を丸めて挑む姿。
どれも私が知らないもの。気が付けば、邪魔なフェンスにかじりつくようにして試合を追っていた。
太陽の熱も忘れるくらいに息を詰めた、永い時のたった一瞬。理由は分からないし原因も分からない、それでも。
普段は眠たげで重そうな半眼が、瞬きの間だけこちらを向く。かち合う。刺さる。落ちる。落ちた。
余りにも真っ直ぐな目、初めて見る真剣な瞳。
本当に私に向けられていたのかも定かではないその目線は、けれど私の胸のやわこいところに深々と突き刺さり、締め付けるように痛んで止まない。
『恋は落ちるもの』だなんて一体誰が言い出したのか、全くその通りじゃないか。ただの一度目が合っただけなのに、まるで突き落とされたみたいに足元がふわついてしまうなんて。
あぁ、それと。彼の瞳が琥珀色をしていることも、その日初めて知ったんだった。
恋は劇薬、その表現を見たのはいつのことだろう。あの日の出来事は私を大きく変え、具体的に言えばテニス部を見かければ目で追うようになった。
特に放課後、自分たちが解散する時間になってもまだ活動している彼らを眺めながら帰ることが増えたと思う。
秋を過ぎるほどに陽が落ちるまでの時間は早まる。闇色に沈むグラウンドの一角、ライトに照らされるコートのなか、光を返す銀の髪はよく映えた。
日没が早まるにつれてその色を見付けやすくなっていったのは、日々深まる夕闇のおかげだったのか、銀が目立っていたのか。それとも、想いの力とやらがそうさせたのか。
皮肉じみた疑問に答えが出ることはなく。ただただ持て余した気持ちが降り積もり、伸し掛かってくるだけだった。
そして、一年最後の日。
引き摺るくらいならせめて区切りをつけようと、諦めようと、跡が残らないように恋を溢した。はずだった。
18/04/24
19/01/23 修正、公開
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