グラデーションを超えた先

 どうしたものか。言葉ではなく息を吐いたのは、飽きもせず賑やかさに満ち満ちた教室のなか。あの日の熱などなかったと言うようにからりとした秋の空が、次々に枝葉の色を変えていく木々が恨めしくすらある。もちろん八つ当たりだとも。

 二年になった、レギュラーになった。三年が引退したということは、面倒を見る後輩が更に増えるのが近付いた訳だし、更に先を見れば進路のことだってある。ただ一人にだけ心を傾けているのは如何なものか。
 などと、一つ高い目線に立った振りをしながらあげつらってみたところで、成長しきっていない心に歯止めが効く訳でもないのだが。

 胸の内に巣食うモヤはどんなに思考を重ねても消えることはなく、それどころか増えてはのしかかるばかり。それはわかりきったことなのに、それでも見付からない答えを探し続けているのが現状だ。

「……どうしたの?」

 窓の先に投げた視線を落として数秒、躊躇うような息を挟んだ後に視界の外から響くのは不安げな声。
 別段何かを見ていた訳ではない焦点を真後ろに合わせ直せば、予想通り眉尻を下げた川端がいた。

「なんか、気分悪い?」
「いや……気圧のせいか、頭痛がな」
「そっか。……お大事にね」

 ありふれた日常会話。だというのに目の前のクラスメイトは一言の度に何かを躊躇い、決意に似たものを滲ませて言葉を紡ぐから不思議だ。

「あぁ、お前さんもな」
「え? うん、ありがとう」

 別段特別気を回したつもりはないし、聞きようによっては社交辞令でしかない会話。ただそれだけの会話で川端ははにかみ、持て余した指先が髪先を弄る。
 適当な嘘を吐いたからか、病は気からとでもいうのか。ジクリとこめかみを刺す痛みが生まれた者だから少し笑える。

 あぁ、あの日の破顔が消えてくれない。




 秋は短い。始まりも終わりもグラデーションに蝕まれていて、まとわりつく程あったはずの熱はいつの間にかこちらから奪われるものに変わっている。そうして俺が頭を抱えては痛める日々を過ごすうちに、世界には冷気が満ちていた。


「冷えてきたのう……窓閉めるか?」
「あー……そうだね、閉めよっか」

 掃除の時間、声は二つのみ。冬の乾燥は大なり小なりの病を持ち込むせいか、他の奴らはフケたり休みだったりで姿を消していた。
 そうなれば適度に手を抜いてもバレることはないだろうに、それでも川端は真剣な顔で箒を握っている。仕方なしに真面目になろうとして、その細いとは言えない指が真白になっているのに気付き。換気のためにと開けられていた窓に手をかけた。

 見上げた空は暗く、水分をたっぷり含んでいそうな重く厚い雲に覆われているらしかった。
 そういえば、降りだしそうな雲が黒っぽくなるのはなぜなのか。水を含ませたスポンジみたいな色しよってからに。誰に向ける訳でもない問いと緩い詰りを浮かべ、金具を下ろす。冬の金属は冷たくていけない。

「ふむ。一雨か一雪か……何にしろ降りそうじゃな」
「……何か、懐かしいね」

 掛けられた言葉に、思わず驚きを隠さないまま振り返る。

「ど、うしたの?」

 迎えるのは驚き眼が二つ収まった呆け顔。

「……いや、なんでも」

 首を振り、手にしていた箒を持ちかえて立ち直す。
 らしくないことをした、あんなことをすれば驚かれるのも当然だ。口を突いた誤魔化しの言葉を辿るように、下唇の縁をなぞったのは無意識か。

 何でもない訳がない。今の言葉が、懐かしいと語ったそれが指すものはきっと昨年の修了式の日。
 あいつはあの日を忘れず、更に振った本人に対して思い出話のように話しかけてきた。そんなもの、驚くなという方が無理だ。
 その上、振り向いた先で驚き返す直前の顔は本の少し、どうにか分かる程度だけ寂しげな色を滲ませていた。知らず向けられていた薄青をしたそれを目にしたせいか、押し隠すようにした先の仕舞い処である胸が形にならない音を立てる。

 ──あぁ、くそ。

 珍しいことは続くらしい、それとも川端が珍しさの塊だからか。きゅうと鳴いた胸に搾られるようにして、行き場のなくなった肺の中身が喉を通る。計画はない、想定も確信もない。ただ信用だけを抱えたまま、ただの俺が口を開く。

「のう、川端」
「うん?」

 白い顔。鼻が赤い。寒さも気にしない質なのか。真面目に歩と箒を進めていた川端は俺との距離を開けている。

「大分、自分で言うのも何じゃが意地の悪い質問をする」
「う、うん」
「もしお前さんが、『あの日』と同じ気持ちで居ってくれとるなら……同じ日、今の教室で待っとっても良い、か?」

 僅か震える声、気付けるレベル。同時に細やかに届いた飲まれる息は答えか否か。信用なんざ儚い物だ、俺は夢を見ている。瞬きが痛いことがあるらしい。

「そ、れって」
「いやな、一度はあぁ言った俺がこんなことを言うのもどうかとも思うが、待ってたいと、思っちょる」

 半ば意図的、半ば動揺で切れる言葉。念押しの意味がどこまで含まれるか、未だ揺れる呼気が意思を隠す。意とは心、形はあるのか。

「……わかった」

 あったとすれば、他人のそれよりこじんまりとしているんだろう。臆病と表されるそれを抱えた俺は、言葉にされた応えを得てようやく瞳を見れる。黒い色、豊かさ滲ませる癖に他の混じりを許さないそれは余りに深く、吸われる感覚をもたらすばかりで情報をもたらしはしない。
 ただ消えない鼻先の赤、あの日にはなかった頬の朱色が刺すような外気によるものなのか、それともその内で知らず燻っている感覚の僅かな発露なのかがどうにも判ぜられないままだ。

「けど仁王くん、その──」
「待った」

 言ってやったという安堵を刺しかけた、微かに不安の色が差した声を遮る。

「それ以上は聞かんといてくれ。今明かしたら、わざわざ予約した意味がのうなるじゃろ?」

 我ながら、よくこうも狡い言葉が出てくるものだ。困ったような顔で頷く川端を認めながら、自嘲を隠すように口角を持ち上げた。



 その後適当に話を切り上げ、「ゴミを捨ててくる」と空き教室を出た。吸気を受け止める肺が痛い。
 いやはや、なんてザマだ。じわり熱を示す頬ごと口元を掴むように覆い、なるべく人気のない道を辿りつつごみ捨て場を目指す。

 何が『詐欺師』、何が信用。一つの約束を取り付けるのにすら変にくどい言葉しか使えず、挙げ句前例を持ち出して比較しては己一人だけ安堵を覚えてすらいるというのに。握り締めたビニールが微かに音を立てている。

 覚えた安堵もまた踏み場とするには柔らかな代物だ。刹那に浮かぶ泡沫じみたそれは、現に秋の記憶に押し上げられて弾けて消える。安堵の余韻も残さない、飛び散る飛沫は掛かる端から何かを蝕んでいた。

 秋の一幕。ぎこちなさの欠片もなく破顔する川端。その隣にいた柔道部員らしき優男。時間の影が滲んだその幻想を、一体何度再生したことか。
 あの男が柔道部の現部長らしいというところまでは分かっている。だがその先、プライベートに当たる部分がどうにも分からない。川端との関係なり親しさなりが見えるだけで充分なのだが、けれどそこをつつけばストーカーと断ぜられる可能性もあるため二の足を踏んでいた。
 柳……もまぁ似たようなモンだが、あいつには少なくとも下心はないだろうし。

 もし万が一、川端とあの男が関係を持っていたら? 何度も過った仮定は、確証がないからこそ否定の決定打のないままに燻り続けている。
 形のないそれが烟る胸中、果たして明確に指す言葉が見付からないまま経った時間の分だけ煙の染み込むそこは、もう黒よりも深い色をしている気配すらある。

 あいつを振って、半年と少し。一年弱と言った方が早いくらいに時は過ぎ、だからこそあいつが諦めている可能性だってある。
 俺が投げた問いは「待っていてもいいか」。それに返す是は俺の行動への許可だけで、あいつの行動に関わりはしないんじゃないか。負へのスパイラル、下り階段ほど降りやすいものはない。もしかしたら、最悪、あいつは来な──

「いっ……!」

 がつん。足指に痛みが走り、濁音に近い声が洩れた。
 思考にばかり意識を裂いていた結果、角を曲がりきれずにぶつけたと。これで折れていたら笑えないな。

 ……らしくない、本当に。


 教室に戻った直後でこそ川端はぎこちなさを見せていたが、日を跨げばいつも通りのぼんやり顔で笑うようになっていた。

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