北極星と南極星を地上に落として
例えるなら、そう、衣のような。普段身に纏っているものをたまに脱いだら寒い。それと同じだった。
最初の方は暑かったはずだった。元々寒がりだから、厚着だった。でもそこに我妻善逸という衣を重ねて着るようになって、多分暑かったから私はごく自然と他の衣の方を脱いだのだ。そうして上手く体温調節が出来るようになって、その我妻善逸という衣を手放せなくなってしまった途端にそれは前触れもなす術も無く私から剥ぎ取られた。
そりゃあ所々穴も空いていたし、小さくて、肌触りも絹のようにとはいかなくて、私はよく怪我をした。完璧ではなかった。世界にたった一人しかいない私の運命の相手かと訊かれると、恐らくそうではなかったのかもしれない。それでも、私が変わっていったのかそれとも彼がか、いずれにせよそれは次第に私にぴったり合うように馴染んで、私を守ってくれるようになって、とにかく泣きたくなるほど温かいのだ。お気に入りの柄だとか、余所行きの衣装だとか決してそういう物ではなくて、言い方は悪いけれどいつも身に纏って当然の肌着のような衣だ。
そんな衣が、我妻善逸が、いなくなってしまった。鬼の討伐任務中の殉職である。鬼殺隊にはよくあることで、覚悟もしていた。それでも、いくら覚悟していようと寒いものは寒い。私にぴったり合ったあの衣は、もう世界のどこにだって落ちてやしないのだ。私を、心ごと温めてくれる我妻善逸という人はもうこの世界のどこにもいないのだ。
家の中を見渡せば、目に映る家具などの一つ一つが彼のために存在していたのに、今や彼なくして存在している。歪だ。それらは思い出を持ちながら、生き甲斐を殆ど失っていた。私一人でそれらを扱うのは勿体無いという気がする。その勿体無さが、物寂しげに存在している家具達が、一番私の心の穴を広げた。善逸の声が染みついたこの家を静寂が支配してしまう寒い夜、私は無意味にーーしかし私にとってはそうではなくーー家の中を闊歩した。彼と暮らすようになってから一度も"耳を澄ます"なんてことはしたことがなかったのに、いくら夜とはいえ、私一人ではあまりにも静か過ぎて。ーーどこを探しても、彼は見つからなかった。
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「ねえ善逸くん、誰か私と合う人いないかな? 強くて格好良くていい男」
またか。会う度にこれだ。他に話すことはないのかよ。何が悲しくて好きな女の子に男を紹介しなくちゃならないのか。これ見よがしな溜め息を聞かせた後、ふてぶてしく口にしたのは友の名だ。
「炭治郎」
「もー! 竈門くんはいい人過ぎて恋愛対象にならないって言ったじゃん」
いや知らねえよ。褒めてるのか貶してるのか分からないけど、いくらなんでもそんな贅沢な理由で却下されるなんて炭治郎に失礼だ。
「伊之助」
投げやりにそう言えば、彼女は苦虫を噛み潰したような顔をした。そこまで嫌なのか。いや、提案しておいてなんだが俺だってあんな野郎に名前ちゃんは渡さない、絶対に。
「会話に難ありだから無理」
まあ確かに。首を縦に振られたら怒り狂っていたので、ひとまずこっそり胸を撫で下ろした。
「じゃあ…、」
俺以外のどんな男にも彼女をみすみす渡すつもりはこれっぽっちも無いが、好きな子との会話を楽しむという大義名分のために付き合う茶番だと、俺は建て前の答えを求めてそれらしく頭を捻らせる。その時、邪魔な声が俺達の会話を途切れさせた。
「お、名前ちゃん! 奇遇だな。元気だったか? 聞いてくれよ。俺さ、階級上がったんだぜ!!」
俺の渾身の睨みもどこ吹く風で、男は名前ちゃんの視界を独占したがるような振る舞いで更に俺の機嫌を逆撫でていく。一通り話して満足した様子の男が去った後、恨めしそうに名前ちゃんをジト目でねめつけた。
「…なんだよ、言い寄られてる人いるんじゃん」
「口説かれると冷めちゃうの。私、天の邪鬼だから。愛されずに愛したいの」
「はあ?」
思わず大声が出てしまった。カラリと晴れた青空を仰ぎながらとんでもない発言をした名前ちゃんは自由を求めて今にも羽ばたきそうだけれど、俺としてはそうはさせられないと逃がさないように片腕を掴んだ。
「…善逸くん?」
なんだよそれ。男紹介しろって要求された時点で気付いてたけどさ、女の子大好きで名前ちゃんに首ったけな俺なんてもう完全に圏外にされてるよなこれ、絶対そうだ。俺の好意に、名前ちゃんが気付いていないはずがないから。
「だから俺は除外なの?」
ねえ名前ちゃん、いつになったら俺のこと見てくれるの?
自分の制御の外側で強くなっていく握力が名前ちゃんの顔を歪めていくのを、善と悪の両方の心境で眺めた。
「善逸くんは私を好きにはならないよ」
縋るような心境の俺に一瞥をくれつつもすぐに逸らされた視線。ああ、君のその視線を独占するためなら何だってするのに。というかそれ、さっきの台詞と辻褄が合わないんだけど。一体何を根拠に俺の健気な恋心まで否定するのか、まるで幸せを拒むように彼女はそう告げて予防線を張った。いや、呪いをかけたと云った方がいいかもしれない。もし俺が彼女への興味や好意を失えば、選んで貰えるのだろうか。それでも。やっぱり俺には君が必要だから。
名前ちゃんのことをもっと知りたくて、それから彼女をストーカーの如く観察し始めた俺だった。
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「不器用だなあ、名前は」
まるで蜂蜜のような甘い眼差しを向けて落ち着き払った様子で私にそう言い放ったのは、普段は耳を塞ぎたくなるほど喧しい少年だ。随所で見せ付けてくるギャップに一瞬瞠目したけれど、彼の言う通り。私は不器用なのだ。人並みほど強くもないけれど、人並み以上に強がれて、弱くなりきれない私。自分を騙すことだけは人一倍上手にやってのけるそれは、演技にすらならないのだろう。もしくは自分を顧みないからかもしれない。自分に興味がある傍らで、自分が一番自分に詳しいと思い込んで、その時動く繊細な心に鈍感になる。そうして後になって崩れ落ちて、自分でものろまだなあと痛感して。それでもギリギリ強がれる苦しみならすぐに立ち上がって、心が泣き崩れるのを見て見ぬふりをして誤魔化して、そのたびに自分を見捨てる。自分を騙して自分に鈍感な私は、誰にも助けてもらえない。なんて不器用で愚かで、滑稽だろうか。
しかしそんな救いようのない私を掬い上げてくれたのが、善逸だった。いつからかお互いを呼び捨てで呼び合うほど、私には一番の仲良しな存在になっていた。当初から彼の女好きやその振る舞いを疎んでいたものの、何故か彼自身を嫌いにはなれなかった。それがずっと不思議で仕方なかったけれど、彼は私のことを私よりも理解してくれて、会う度に私が見なかった私の部分を私に教えてくれた。まるで好きな人の惚気話をするみたいに話す様子は、何と言えばいいのか、恐らく玄人詐欺師の口説き文句よりも効果覿面だ。彼が好意を持って私に接していたのを知っておきながら見事に私は彼の術中に嵌った。恋は落ちるものと云うが、私は落ちた覚えも無いままーー自分に鈍感なせいもあるがーー、彼無しでは生きられなくなっていた。
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「輪廻転生って信じる?」
長い時間と苦労の末ようやく手に入れた想い人は毎日愛しくて、俺は幸せだった。念願の結婚というものをしたわけだけど、鬼殺隊を続けている傍ら、末永くこの幸せが続くように祈っている。それなのに名前ときたら、死亡フラグ乱立しそうな台詞を事ある毎に言い出すものだから、正直肝が冷える。
「私ね、今度死んだら天使になるの」
はて、輪廻転生というやつはそんな都合の良い仕組みだっただろうか。前世で善行を積んだから、今世で人間に生まれてこれた。今世で悪行を尽くせば、来世は地獄か畜生だ。そうして幾度か転生し善行を繰り返せば極楽浄土へ招待されるものの、たしかその思想では天使だなんて珍妙なものにはなれなかったはずだが。西洋文化が入ってきた影響なのだろうか。真っ直ぐな眼差しでそう宣言した傲慢な彼女を見て、俺は漠然と納得してしまったのだった。
死際の走馬灯で、そんな記憶を引き出したのは必然だったのだろう。「天使になる」そう宣言した彼女はきっと。此処で眠っていれば、天使になった名前が俺を迎えに来てくれる。きっと。だってあの子は俺の、運命の人だから。
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遺体は見つからなかったと、本部からの連絡で知った。チュン太郎も行方不明で、鬼が逃げた痕跡も見つからず、善逸は鬼と相討ちだとの見解が有力視されているそうだ。
夜空を見上げれば、満天の星空が広がっていた。彼は、星になっただろうか……なんて馬鹿げた妄想が頭を過ぎる。だけど星になって待っていてくれたら、私もどこか安心出来るような気がした。夜空は、宇宙はこんなにも広いから、星と星の距離は互いに干渉出来ない程離れていて。それでもお互いがお互いを認識し、求め合っているとしたら。もどかしくて、切なくて、残酷で、だからこそ極寒の暗闇であんなにも燃えているんだろう。でも私は一人ではあんなに輝けそうにないや。善逸が必要だ、そう分かるのに。そう知っているのに。だから星にお願いも、しているんだ。
「会いたい」
星達の代弁を装うようにひとたびポツリと呟いてみれば、私の内側から堰を切ったように感情が溢れ出して同じ言葉が何度も零れていく。その悲しい声音を誰も拾ってくれやしないのに。否、彼以外には拾われたくはないから、これでいい。今はこの不毛に思える願いも、何万年か何億年か経てばもしかすると。万が一。……ひょっとしたら。すこぶる耳の良い彼には、届くかもしれないから。
どうしようもなく泣き虫な彼の分までとでもいうのか、止まらない涙。夫婦は似てくるというけれど、「こんなところは似なくて良かったのになあ」なんて愚痴た。
その日、夢を見た。私は天使になって、善逸を探していた。善逸のように耳が良かったり炭治郎のように鼻が良いわけではない私にはまるで地上に落ちた流れ星を探すような、長い苦労。それこそ地球まるごと探し回るような気の遠くなる大仕事。それでも何故か使命感を持つように私は探し続けていた。彼は死んで地上にはいないと分かっているにも関わらず、天使である身体は動き続けた。
そうして世界が見たことの無い景色に移り変わった頃。
「…見つけた。帰りが遅いから、迎えに来たよ」
「ありがとう…」
私の皮肉への返答は掠れた声だったけれど、大好きだった声音を忘却から手繰り寄せるには十分で。込み上げる愛しさに任せて抱き締めて、五感で一つ一つ彼を思い出していく。珍しい髪色を懐かしんで撫でて、一通り慈しむと背中の翼を羽ばたかせた。大好きな人がまた名前を呼んでくれるのを想像して口元がにやけるのを隠しながら。今度は私が彼を掬い上げて、天国へと飛び立った。
膨大な幸福感を抱えながら、きっと私は運命の人であるこの人を探すために天使になったのだと確信した。
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目が覚めた。朝の光が漏れる窓の外から雀の鳴き声が聞こえてくる。
ぼんやりとした記憶をかき集めても、良い夢だったのか悪夢だったのか判断がつかない。はたまた正夢や予知夢、もしくは逆夢……いやいやまさかね。だけど最後に「ありがとう」と言われたのははっきり覚えている。あれは、誰だったのだろう。
fin.
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