思春期が感染しました。
それはもう心臓を鷲掴みされるような感覚だ。気付けばいつの間にか、その男子と目が合う度にそうした感覚に陥るようになっていた。結論としてそれは、私の初恋を意味していた。
「えー!! 我妻!? どこがいいの!?」
「我妻くん優しいよ」
「でもあいつ女好きじゃん。ねぇ、名前の好きな人は?」
お互いの好きな人を告白するのが恋話の登竜門である。しかし、私には好きな人がいなかった。今まで、良いなと思う人は居ても、これといった恋をしたことが無い。
「えーっと、……」
適当に誰か見繕うか誤魔化すか正直に打ち明けるか迷っていると、男子にしてはかん高く可愛い声が後ろから聞こえた。
「ねえねえねえ、なんの話? 恋話かな? 俺も混ぜてよ!!」
有り得ないくらい空気を読まない男が「えへへ、えへへ」と気持ち悪いほどの笑顔で乱入してきた。我妻善逸だ。今さっき我妻を好きだと言った女の子は頬を染めて何やら恥じらっている様子で、誰が見ても恋する乙女だ。こんな可愛い子、こんなヘタレ男には勿体無いなと思った。そう、その時はそう思ったのだ。
恋話女子一同が言葉のナイフをもってして我妻をはじき出した直後、「席つけー」と教師が入室した。
やがて授業終了のチャイムが鳴り終わると同時に、前の席の我妻がくるりと振り向いた。
「ねえ、名前ちゃんは好きな人いるの?」
「…ってかなんで我妻に教えないといけないの」
「いーじゃんか、教えてよ。あ!! もしかして俺!? 俺かな!?」
「っは!? 何言ってんの。冗談はその頭だけにしてよ」
「辛辣…。もうちょっと優しくしてくれても良くない!? っていうかちょっと待って、"頭"って髪のこと? それとも脳みそのことなの!?」
「はあ…、両方。ってかうるさい」
「冷たい!! 氷のように冷たい!!」
「うるさいっつってんじゃん!!」
ーーボカッ
とうとう手が出てしまったが仕方がない。今日は生理で機嫌が悪いのに、至近距離で喚き倒す我妻が悪い。いつも冨岡先生から体罰という名の理不尽を食らっているから、この程度は大丈夫だろう。……うーん、ちょっとだけ哀れに思えた。
恋話をした日からたった数日後。バレンタインデーとやらがやってきた。勿論私は何も作ってないし何も買ってないし何も用意していない。が、クラスの女子達は準備万端といった様子で、皆一様に猪のごとく鼻息をふんと噴出させていた。
しかし、男としてのプライドや意地は無いのか、教室を這いずり回るようにして女子の義理チョコを収集しようとする、欲望に忠実で一切取り繕わない馬鹿が居た。
「チョコレートちょうだぁい!」
「チョコレート、」
「あの、チョコ…」
しかしどの女子も清々しいほどの冷たい態度をもって我妻を無視した。次第に最初の威勢を失っていく我妻の様子が不憫を絵に描いたようだった。それでもめげないのか、とうとう私の隣の席の、我妻を好きだと言ったあの女の子に目を向けた。好きな人に見られる彼女は急にもじもじし出したが、はたしてチョコレートを渡すのか否か、私も気になる。
「ねえチョコレート、持ってるんでしょ? バレバレなんだよ、甘い匂いさせてさ。そんなの期待しちゃうでしょ普通? 後生だからさ、義理チョコ恵んでくれよォォオオオーー!!」
やけになったのか、一転して尋問口調になった我妻は、なんの因果か唯一本命チョコをくれるであろう女の子に「義理チョコをくれ」と強請った。きっとあの子は、自分の本命チョコは要らない……気持ちは受け取れないと言われたように感じてしまうことだろう。案の定、当の彼女は目に涙を浮かべて俯いた。その涙が零れ落ちるのを我妻から隠すように、私は二人の間に割り入った。
ーーパンッ、
乾いた音が教室に響いて、もともと静かだったが雑音や小声が一斉に消えた。
「女子がどれだけの覚悟で今日チョコを持って来てると思ってんの!? 義理チョコに心を配る余裕なんてあるわけないじゃん!! いっつも誰彼構わず女子を口説いて、あんたが一番私達を侮辱してんのよっ!!」
たった今私がぶった頬を抑えて固まっている我妻が呆けた顔で見つめてくるが、やがてはっとし、吃りながら叫んだ。
「…な、なんだよっ。男子だってチョコ貰おうと必死なんだぞ!!」
「馬鹿じゃないの!? 義理チョコ貰ったくらいで女子に好かれたつもりになるなんて自意識過剰よ」
両者睨み合い。背後の女の子が「えと、えっと」なんて狼狽した様子を振りまくが気にする余裕などなかった。
+++
なんて凶暴な子だと、どうしてこんな下らないことでここまで怒鳴られて打たれなくてはならないのかと思った。そう、その時はそう思ったのだ。
ーープィッ
互いの言い分をぶちまけ、理解しないし譲るもんかとしばし至近距離で睨み合った末、名前ちゃんが俺から顔を背けた。ムカァッ。それに対して少しでも当て付けになればと、俺の方も頬を膨らませながら反対方向へ思いっきり顔を背けた。
あーあ、今日この日を一年前のバレンタインデーから心待ちにしていたのに。俺はまだチョコを一個たりとももらっていないのに。
名前ちゃんとぎくしゃくしたまま、午前が過ぎ、昼休みが過ぎ、午後一番は家庭科の授業だった。先生は何の気紛れか、バレンタインと家庭科の授業が一致したからか、前々から知らされていた調理実習のお題はチョコレートだと嬉しそうに言った。え、これ男子も作るの? 自分のチョコは自分で作れってこと? 何それ切な過ぎない?
しかしこの実習で新たな発見があった。毎朝俺がスカートの長さを注意するほどのギャルなのに頭が良くて、成績は良い名前ちゃんだけど、意外に料理は壊滅的だということ。初めに再三注意をされたのに見事やらかしてボウルを溶かしてしまったり、お皿を割ったり、包丁で指を切ったり、お約束の砂糖と塩間違いまで繰り出している始末だ。同じ班の子達は名前ちゃんの包丁の扱いを怖れて一定距離を保っている。成績が良くて基本的に教師からは寛容なーー具体的には身嗜みが多少悪くても目を瞑られているーー待遇を受けている彼女だが、実技教科となると別らしく、家庭科の先生に思いっきり睨まれて縮こまっていた。他の女の子達は慣れていないながらも、ちゃんとしたお菓子作りをしているのに。
そこで俺はふと、周りを見回してみた。すると女の子達はそれぞれ想い人にあげるのか、それはもう目の色を変えて腕をふるっていた。予想は出来ただろうが、誰も今日の調理実習のお題がチョコレートだとは知らなかった。元々鯖の味噌煮だか豚汁だかだったのに、急遽先生が気まぐれを起こしたのだと俺には分かる。つまり恋する乙女達はそれぞれ既にチョコレートを懐に隠しているはずだった。それでもこうして機会を与えられれば、何度でも好きな人への想いを込めてチョコレートを作るのだ。みんながみんな料理を日常的にやっているわけではないだろう。包丁だって慣れない手つきでチョコを刻んでいるし、何度も黒板を確認してそれはそれは慎重そうに作業している。俺はこの瞬間、なんとなく悟ったんだ。男子は男子の言い分があるように、彼女達ーー恋する乙女ーーには彼女達の惜しみない苦労や妥協出来ない想いがあるんだと。名前ちゃんは、それを俺に伝えたかったんだ、きっと。チョコレート一個にだって、努力と気持ちが込められているんだと、チョコレートの数を競い合う男子達に教えたかったんだろう。今日このバレンタインデーで男子がする会話といえば、「お前何個貰った?」から始まり、やれ「3個」だ、やれ「10個」だと、数の話ばかりだ。自分の方が多いと胸を張るあいつも、負けたと悔しがるあいつも、どいつもこいつも数で競い、一個に込められた想いなど考えようともしない。確かにそれは渡した子だけが密やかにこめるもので他の誰も、そのチョコレートにどんな想いとどれだけ気持ちがこもっているかなんて知り得ない。だけどよくよく考えてみれば、今日という日に誰かへ送るチョコレート、義理であれ本命であれ、何かしら想いが込められているということ。それを俺達男子は不届きにも忘れているのだ。
もう一度名前ちゃんを見やる。なんとか完成したらしく、手にするソレの見た目はハート型のチョコレートだ。しかし、可愛らしい笑顔で喜ぶ彼女は世にも恐ろしい毒入りチョコレートを保有しているのだ。アレには塩が大量に入っているし、もしかしたらガラスの破片や溶かしたボウルさえ紛れ込んでいるかもしれない。クラスの男子はソレを知っているから、例えもし彼女の想い人としてアレを受け取ったとしても決して口にはしないだろう。でも俺は何故だか無性にアレが欲しいと思った。
家庭科の実習が終わった後の放課後、俺は名前ちゃんの隣の席のあの女の子にチョコレートを貰った。数は二つ。一人の女の子に二つも貰ったと、朝の俺なら大袈裟に泣いて喜ぶところだが、この二つのチョコレートにはどれほどの想いと意味が詰まっているのかと考えると朝の自分の行動からの申し訳無さでお礼も言えずに逃げ帰ってしまった。
実習の次の日、名前ちゃんと顔を合わせ辛いと思ったのも束の間、朝から席替えがあった。そして俺と黒板の直線途中に名前ちゃんが居て、視界に入ってしまう。俺はついつい彼女に目がいってしまって授業に集中出来なかった。具体的にいうと、彼女の脚線美に釘付けだった。
+++
我妻とギクシャクしてしまうと思った矢先、タイミング良く席替えがあった。結果は少し離れただけの距離感だけれど、ほっとしたのは確か。
その日の放課後。指名されて呼び出されたというのに、一瞬私以外の別の誰かに話しかけているのかと思ってしまうくらい、言葉の意味が理解出来なかったのでフリーズしていると輩先生は同じ言葉を繰り返した。
「お前の足がエロくて授業に集中出来ないんだとよ」
「……セクハラです先生」
完全にアウトだと思う。セクハラみたいな注意というか、もはらセクハラでしかない。
「馬鹿、俺じゃねーっつの。チビの足になんか興味ねーよ」
眉根を歪めながら「じゃあ誰ですか」と訊けば予想通りの名前が出てきて溜め息が出てしまう。と同時に、こっそり口角を上げる私がいた。
「ほんと男子って馬鹿ですね」
「同感だな」
「どうしろって言うんですか」
「席替えだな」
というわけで私と入れ代わり、桂馬の位置同士移動したのは我妻善逸その人である。ちら、と振り向いた彼と目が合ったと思ったら焦った様子で逸らされた。私の足をいやらしい目で見たことに対して後ろめたいからなのか、別の理由なのかは分からないが、不審なほどよそよそしい。とはいえこれで何も問題ないのである。
しかしその席替えによって弊害が生じたのは今度は私の方だった。
「我妻の横顔からなんか目が離せなくて授業に集中出来ません」
「おーおー青春爆発してんじゃねえかお前ら。……じゃあ、こうか?」
今度は私の真後ろに我妻という席。これなら私の視界に我妻はいないし我妻からも私の足元は見えない。さすが輩先生、……とはならなかった。いや無理。ほんと無理。私の無防備な背中で後ろから刺さる視線を一心に受け止めて心休まる時が無さ過ぎて一日耐えきれない。その上いつも気付いたら視界にあるはずの蒲公英頭がどこを向いても見えない位置にあるだなんて言語道断である。
そしてこの席替えは彼の方からも異議があったらしいが、その内容が「名前ちゃんのエロい足が少しも見えないから」だったらしく、何故か居合わせた冨岡先生が粛清したらしい。真っ当な反応なのに冨岡先生の体罰指導は理不尽にしか感じないのは何故なんだろう。
そうして今度は隣の席。私はといえば視界ギリギリの位置に蒲公英頭があることで、これは良さそうだと思ったのも束の間。何故か四六時中堂々とガン見してくる我妻の視線にとうとう私は音をあげた。
授業終了のチャイムと同時に意を決して真横を睨み付ければ、無防備な寝顔だけが飛び込んできた。閉じられた目蓋の奥にはいつも私を舐め回すように見つめる瞳が隠れているはずで。なのに今はすーすーと寝息をたてている。口を開けば喧しいだけの迷惑な奴のはずで。なのに今はこんなにも大人しい。寝ていればなんと無害なことだろうか。
あの日ぶってしまった頬はもう赤く腫れてなんていないのに、気付いたら私はそこに触れていた。ヒリヒリしたのは、指先か心か、それとも気のせいか。
「ごめん…」
聞こえるはずもないのに呟いて、何をするべきかも分からず教室を出た。一連の流れを見ていた嫉妬の目があったことに気付かずに。
「…はぁ、」
夜寝る前に星を見上げて思い浮かべるのは、どうしてか、我妻のこと。また以前みたいに下らない言い合いをしたいと、席が前後という環境ならではのつかず離れずな距離感が恋しかった。
常日頃頭の中には黄色い髪の男子がいる。ぼーっとすることも増えた。そして注意力散漫という言葉がぴったりな事態が私を襲ったのだ。
廊下を歩いていると、騒いでいた男子に巻き込まれて体が傾いて、誰かが「危ないっ!」と叫んだ。
「え…」
4階の窓の下は、校舎と校舎を繋ぐ2階の天井が無い渡り廊下だった。視界が反転し、窓から投げ出された体が浮遊感を覚えた私は当然死の覚悟をして目を瞑る。渡り廊下に打ちつけられた体は衝撃で肌が裂け、骨が折れ、それが運悪く内蔵に突き刺さる……なんてことになるはずだった。しかし浮遊感が消えた後に感じたのは体を抱き締める温かい腕だった。目を開けて現状を把握しようと努めるが、まず視界に我妻の顔が飛び込んできて思考回路が止まってしまった。
「名前、名前!」
私はしばらく放心状態だった。友達が焦ったように私の意識に呼びかけている大声により少しずつ戻ってきた思考を再度働かせ始める。そういえば、落ちる時我妻の「名前ちゃんっ!」と呼ぶ声が聞こえたような気がする。つまり、下の階から偶然私の窮地を垣間見た我妻は私の落下地点にスライディングし、全身で私の体をキャッチしてくれたのだった。
「っ、間に合った……」
みんなが安堵の息を漏らす中で、やがて下からぶつぶつと極小音量で呟く声が聞こえてくるのに気づいて顔を上げると、なんだか我妻の顔が赤い。そして奴の視線が一点に釘付けになっていた。それを辿ったあと、私は自身の胸元を抑えて腕を振りかぶった。
「エッチ!!!」
ーーバチンッ
「ぶへェッ」
我妻は気を失った。しかしこれは不可抗力という奴だ。私は悪くない私は悪くない私は悪くない、なのに助けてくれた恩人を通算三度も殴ってしまったという罪悪感が消えてくれない。
授業中。隣を見れば頬が真っ赤に腫れた我妻がやる気の無い表情で授業を受けている。そんな姿にいたたまれなくなるも、私だって殴りたくて殴ったわけではないし、助けて貰ったお礼も言えてないのは嫌だ。
だけど。
「我妻君、ずっと好きでした」
隣の席だったーー今は我妻の後ろの席のーー女の子の勇気有る告白現場、それも相手は……。偶然立ち聞きしてしまった私は我妻の返事を待たずにその場を逃げ出した。
どうして私はこんな気持ちになっているんだろう。どうして絶望感に打ちひしがれているのだろう。皆目分からない。
次の日は朝から我妻がその子によく話しかけていた。その光景が少し前の、私と我妻に被った。
「ーーちゃん、」
我妻があの子を呼んだ。たったそれだけ。おかしいのは、それだけのことにも関わらず私が平静も保てないこと。あの子と話をする我妻から目が離せないのに見ていたくない。
例えばそれはまるで、針の形をしたチョコレートを呑んだような、簡潔に言ってしまえば"甘い痛み"。少女漫画に出てくるような陳腐な表現がぴったりなほど、私はそれに類似する心境にいた。
そんな矢先の昼休みのことだった。校庭の階段から、グラウンドで遊ぶ男子を眺めながらお喋りしている友達の輪から少し離れた所で、アンニュイな表情で黄昏ている私。
男子同士って、男の友情とでもいうのか、仲良いよね。大勢でわいわいスポーツをする様は微笑ましい。普段ならこうやって体を動かすより女子達の輪にまじる方を選ぶだろう我妻も、文句を言いつつ楽しそうだ。
「はぁ…。我妻を見ると、胸がドキドキしてツキツキするの、何でかなあ」
独り言のつもりだった。近くに誰も居ないからと普通の声量でこぼしてしまったが、同じ階段に座っている友達からは反応がないからそんなに大きくないはずなんだ。にもかかわらず、直後我妻の首がぐるんと回りこちらを向いた。目が合うということは、私が我妻を見ていたということ、そしてそれを我妻に知られたということ。まさか聞こえているはずなんて無いのに、聞かれたんじゃないかと思い羞恥で何も考えられなくなった。
私は午後、恥ずかしさで我妻を一度も見れなかった。
そうして放課後。
「ねえ名前ちゃん、そんな物欲しそうな目で俺のこと見られたらさ、もう我慢出来ないんだけど」
「……っへ!?」
思わず顔を上げた。私は一体全体どんな目をしていたのだろうか。我妻の照れた顔がそれを想像させて私も顔が熱くなってくる。我妻の手が伸びてきて私の肩を掴んだ。
「っちょ、」
「俺ばっかり追っちゃうこの目も、この素直じゃない口も、タイツで透けてエロい足も、柔らかい胸も、名前ちゃんが作ったチョコレートも、全部俺のものにしたい!!」
「はぁっ?」
何故か堂々と、いやらしく舐め回すように私の体を這う視線。これ、そんな目、視姦みたい。脳裏を過ぎる卑猥な考えを振り払うように頭を振った。
「…好きな人、居るの?」
好きな人……。我妻の声が聞こえるだけで心が騒ぎ立て、我妻の視線を感じるだけで体温が3度近く上昇する。そして熱が思考を惑わせる。ああこれは。これがそうなんだ。
「じゃあせめて友達として仲直りしようよ」
妥協案だとばかりに我妻が提示したそれに私は頷きそうになる。やれ私が冷たいだとか、あんたがうるさいだとか言い合うようなあんな下らないやり取りでも、我妻も私と同じように大切に感じてくれていたんだ。それが嬉しい。でも、でも違うんだよね。もうそれじゃあ私が物足りないの。だから首を横に振った。
「友達じゃ、ヤだ」
「…っ!!!」
私の制服と同じ色の、だけど少し土で汚れた袖をキュッと握って。睨み上げるように、縋るように言えば、口元を両手で隠して真っ赤な顔で固まってしまった彼。だけど私は止まれない。
「あの子よりも、私の方が我妻のこと、…っ!」
駄々をこねるように絞り出す声を体全体で閉じ込められ言葉が続けられない。けれど我妻の温もりを甘んじて全身で受け止めた。私から触れたことはある。けれど我妻が私に触れたのはこれが初めてだ。これはそう、悪魔の罠に違いない。張り切り出した五感が貴方という甘い悦楽にパンクして体中の臓器が暴れ出す。ああ、いつから私はこんなはしたない女の子になったんだろう。そうだあのバレンタインデーからだ。周りの甘い雰囲気に呑まれて……ううん、違う。こいつのせいだ、私がこんなに発情してしまっているのは。この歳になるまで思春期がやってこなかったのに、この我妻善逸のせいで春に感染してしまったのだ。
そして更にずるずると奥底へ引きずり込もうとするフェロモンが、我妻の体から滲み出て私を狂わせる。それが循環して、私達二人を狂わせる。感染した春に浮かされ、私は我妻の胸倉を掴んで近付いた顔を確認してから目を瞑り唇を少し突き出した。
fin.
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