人魚の拒食


「おえ゛っ、ぇ゛っ……」

 私は鬼だけど拒食症きょしょくしょうで人間を食べられない。人間なんかの肉よりもキャベツやレタスの方がよっぽど御馳走ごちそうに見える。しかし口に入れても吐いてしまう。何を食べても何を飲んでも受け付けない。
 そもそも鬼はそうそう死なないのだから、食べる必要は無いというのが私の持論である。食べる必要が無いのなら殺す必要も無いわけだから、死体を試しに口にしたことはあっても生きた人間に手をかけたことは一度も無い。
 別に倫理的にどうこうという考えあってのことではない。人間が魚や鳥、むしろ同じ哺乳類である牛や豚を食べるのと同じ事。そして野生の動物は身を守る為に牙をむく。人間の鬼殺隊がそれだ。ヒエラルキーが上の者から同族を守るのは道理。鬼は元人間だが、人間を食料とする別の生物なのだから、人間を食べるのは別におかしなことではない、自然の摂理だと考える。ただ、ヒエラルキーのトップは鬼なのだという揺るぎない事実があるだけだ。だから私も戻さないのであれば人間を食べるだろう。
 記憶は無いが、鬼になる前からこうだった気がする。拒食症は精神病だから肉体的な変化では治らなかった、ただそれだけだろう。
 ある日、鬼の始祖だという奴に「食欲が無いらしいな。…私の血を分け与えてやろう。お前のような者でも試す価値はあるかもしれん」と無理矢理喉に手を突っ込まれ、気付いたら鬼になっていた。鬼になる直前だが失礼なことを言われたのはしっかりと覚えているぞ、鬼舞辻許すまじ。一緒に住んでいたらしい家族は鬼舞辻が殺してしまったらしいが記憶が無いため悲しみも無い。汚れた残飯のように地面に転がった家族だったらしき肉片は、私にはただ不快なだけだったので家を出た。たまに出会す鬼殺隊士と同族以外にはめったに鬼だと気付かれないので、太陽に当たると死ぬ病というていで、初めは周りの人間と同じように暮らしていた。しかし全く食べないのに関わらず何故生きているのかと怪しまれ、やがて放浪し始めた。
 こんな私にも趣味はあった。泳ぐことだ。水が好きだ。水だけは飲んでも吐かないし、水面下なら日の光もこの身を燃やすほど届かない。海も好きだが塩水は不味いので、綺麗な湖を見つけた時『此処を住処にしよう』と即決した。しかし陸へ上がらなくなった私は気付かなかった。自分の身体が変化していることに。



 鬼であるこの身体は朽ちることが無い。湖の水を飲めば長年悩まされていた空腹感は不思議と治まったし、自分が拒食症だということも忘れて過ごしていた。此処に住み着いて何年、何十年経っただろう。始めは私を警戒していた水中の他の生き物達も今では甘えるように擦りよってくる。陸上の動物達も水浴びをしに来た時私を見ても暴れたり吃驚しなくなった。
 季節は巡り、それは春が来た頃のこと。

 ここ数日雨が多く、今にも泣き出しそうな夜空を見る為に湖面こめんに顔を出せば、辺りが騒がしかった。嵐の予兆も無いが、嫌に胸騒ぎがした。その時だ。予感的中と言ったところか、下卑げびた笑い声が聞こえてきた。

「半信半疑で来てみりゃ、まさか本当に人魚にんぎょなんてもんがいたとはなぁ」
「一匹か。殺すのはちと惜しいな」

 鬼殺隊だろうか、人間の男が数人、斧や鉄砲を携えてこちらへ近寄ってくる。誰が人魚だ、何を馬鹿なことをと思っていれば、弓矢が飛んできたので湖へ頭から潜る。が、足元が水面を跳ねたところに矢が的中し、見れば尾ひれに刺さっていた。ん? 尾ひれ? 誰の? ……痛い、ということは紛れもなく私の尾ひれだ。そこでようやく初めて自分がまさしく人魚の姿に変貌してしまっていたことに気が付いた。いつからだろうか、もしかしたら初めに湖に飛び込んだ時からかもしれないし、徐々に変貌していったのかもしれない。ここで予め述べておくが、胸元は絶妙に隠れているーー何でとは言わないがーー。

「大人しくしろっ!」

 混乱していて浅い場所でとどまっていたせいか、あっと言う間に網にかけられてしまい、もがけどもがけど徐々に水際へと寄せられていく身体。悲鳴を出そうとして声帯が無いことに気付く。水中の生物は声を出す必要が無い。長い年月で私の身体の造りは変わってしまっていたらしい。
 非情にも地面に打ち捨てられた私はまるで弱者のようだった。本来ならば食料であるはずの人間にこんな屈辱を受けているなんて、鬼舞辻無惨が知ったらどんな顔をするだろうか。

「人魚の肉を喰えば不老不死になれるというからな、さぞお高く売れるだろうよ」

 喰う? 鬼を喰っても鬼にはなれない。人間を鬼に出来るのは鬼舞辻無惨だけだ。そんなことも知らないのか人間め。そう言ってやりたいのに声が出ない。いっそこんな人間共喰ってしまおうか。いや、吐き出すのがオチだ。でも怪我を負わせれば諦めて帰るんじゃないだろうか。そう思って牙を剥き出した刹那、その人は現れた。

「え…、鬼…?」

 新しい登場人物の声が聞こえ、口を閉じて顔を上げた。

「君、鬼だよね? 鬼の音するし」

 よく見れば鬼殺隊の服を着ている。腰に刀もさしている。この人は鬼殺隊なんだ。私は今からこの人に切られるのか。覚悟をして首を縦に振り肯定を示すと、怯えていたその人は何故か一転して私に柔らかく笑いかけた。髪色のせいか、タイミング良く月明かりが差したせいか、太陽に照らされたたんぽぽの花のような笑顔だった。太陽に照らされたたんぽぽなんて見たこと無いはずなのに、こんな風だろうななんて、思ってしまうくらい輝いていたんだ。
 その笑顔で私が呆けている間に、その人は私を庇うように男達との間に割り込んだ。その言動に驚きつつも黄色い背中をただ眺めた。胸が、心臓がいつもより騒がしくて、なんとなく息も苦しくなって、目の前の黄色からひと時も目が離せない。

「この子は鬼だ。鬼を喰っても鬼にはならないし不老不死にもなれない。それから鬼は人を喰らう。鬼の餌になりたくなかったら、ここから立ち去れ!」

 男達は納得してないような顔をしていたけれど、黄色い人が腰に刀を携えているのに気がついたようで渋々立ち去って行った。それを見送って、黄色い人を見た。するとビクッと震える鬼殺隊の人。見るからに私に怯えている鬼殺隊の人。おかしいな、このひと鬼殺隊だよね? たった今私を背に庇った人だよね? この人の言動は理解の範疇を越えている。

「あ、えっと、切らないから安心して! 君は禰豆子ちゃんと似た音がするんだ」

 「安心して」はこちらの台詞だ。私は貴方に何も危害なんて加えない。それにしてもだ。禰豆子ちゃんとは誰のことか分からないけれど、この人は鬼殺隊のくせに鬼であるこの私を切らないと言うからおかしな話だ。でも危ないところを助けてくれたことへのお礼はとりあえず言っておいた方がいいよね。どうすれば伝わるだろうか。なんて考えている間に「よいしょ」と彼が立ち上がってしまった。ヒレでは立ち上がれないので咄嗟に足に抱き付いてみた。びくりと固まる彼の顔を見上げてにっこり笑えば、見る見るうちに顔が赤くなるのでその様子が面白くて目を見張った。

「ねえ、声、出ないの?」

 コクリ、頷く。意思疎通は出来るけれど、これではやはりもどかしかった。声が出ないことが無性に悲しくなり、泣きそうになったとき、丁度雨が降り出した。するとその人は慌てて私の手を取って木陰に走り出した。だけど土の上では私は上手く進めなくて、それに気付いた彼がはっとして手を放す。手放された片手を見つめた後、私は湖へ飛び込んだ。

 水面に浮かび続けて雨粒を浴びる。真っ逆さまに落ちてくるたくさんの水滴を見つめるのが、私の最近のお気に入りなのだ。ちら、と顔を傾けると、木陰でちょこんと座り込んでいる黄色い髪が見えた。目立つ色だ。ずっと私を見つめていたようで、目が合った途端にフイと逸らされてしまった。その瞬間生まれたこの気持ちはどう表現すれば良いのやら、とにかく快い気持ちではない。八つ当たりのように、水を操って十数尺離れた彼目掛けて水鉄砲を食らわせてやった。言わずもがな、せっかく雨宿りしていた彼は濡れ鼠である。すると鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をするものだから、思わず声を出して笑ってしまった。

「へ……、声……!」
「ぁ…」

 声帯は失われてはいなかった。どうやら長いこと使わなかった為に声の出し方を忘れていただけのようだ。そして何気なく使った初めての血鬼術は、他の鬼のそれに比べると非常にしょぼい。しかし血鬼術が使えるならと、意識を集中して擬態を試みた。人間になりたいわけではないけれど、ヒレに代わって再び二本足を手に入れた。久方ぶりに踏みしめる陸は、何とも感慨深いものがあった。
 ふと視線を感じてそちらを見やる。両の手で覆った顔を真っ赤にしつつも何故か指の隙間からひんむいた目だけはしっかりこちらを見据える彼の様子に首を傾げるも、遅れて自分の痴態に気付いた。私は今丸裸ではないか。食料である人間に見られたところで何とも思わない……はずなのだけれど、妙に羞恥を覚えた私は悲鳴をあげてその場にうずくまった。無意識に出た悲鳴も、自分の痴態も、このもやもやした気持ちも、全てが恥ずかしくて仕方が無くて身動き出来なくなってしまった。

「貸してあげる」

 弱々しい声音で「濡れてるけど」と付け加えながら、黄色い羽織りを羽織らせてくれたのはその黄色い羽織りを脱いだ彼。彼ごとそれを濡らしたのは他でもないこの私なのだけれども。未だに赤い顔を明後日の方角に向けている様子に笑みが零れて、胸がほわほわ暖かくなった。

「ありがとう」

 さすが鬼の体といったところか、声帯はすっかり通常通り機能していた。なんなら歌でも歌えそうなくらいだ。数十年ぶりに口にしたのが感謝の言葉だなんて、鬼には似合わないかもしれない。だけど彼は優しく笑って「どういたしまして」って言ってくれたから、私はまた「ありがとう」って言いたくなった。でも感謝とは少し違う気もするこの気持ちの正体が分からなくて首を傾げた。
 彼の名前は我妻善逸というそうだ。格好良い名前だなあ。私の名前を訊かれたけれど、生憎と覚えていない。そう伝えれば、彼は悲しそうな顔をした。優しい人だなぁ。
 鬼にされ、人魚になり、声と足を失っていた私は善逸に出会えて、声と足とそれから"心"を取り戻した。更には初恋というものをしたのがこの時だ。これが恋だと知るのは後になってからなのだけれど。



「え!? ついて来る気!?」

 コクリ。

「いやコクリじゃなくてさ!! 殺されちゃうって!! だって俺鬼殺隊だし! 君は鬼だし!」
「……善逸、」
「やだ可愛い!! 可愛いけどさ!! ギュッて抱き付いてきても無理なものは無理だからね! 俺曲げないからね! つれてかないよ!」
「……善逸、」

 スリスリスリ……。

「っ……!!!」



+++


 顔をスリスリされて、結局俺は折れた。彼女の可愛さに呆気なく屈した。そしてとうとうお持ち帰りしてしまった。いや語弊!! 何もしてないからね、まだ!! 俺が名前と名付けたその鬼の女の子は、今や鬼殺隊として俺と一緒に鬼と戦ってくれている。

「なあ、名前」


+++


「なあに善逸」
「人間に戻れたら、俺と結婚してくれる?」
「…、私人間には戻らないよ」
「…、はぁあああ!?」
「だって私拒食症だから人間に戻ったら餓死しちゃうよ」
「俺が美味しいものたっくさん食べさせてあげるからさァ、結婚してくれよぉおおおおん」
「話聞いてる?」
「たのむよオオオオオン」
「……はぁ、」

 結婚なんてしなくてもこうして彼のそばに居られれば私は満足なのだけれど、歳をとらず太陽の光を浴びたら蒸発するこの身体では、ずっと一緒に居るにしても悲しいものがあるかもしれない。まあ、彼と居れば拒食症も治るかもしれない、なんて思ってしまうくらいには彼にゾッコンなのだ、私も。

「でもね。私の裸を見ておいて、他の女と結婚なんてしたら喰ってやるから」

 泣き喚いていても特殊な耳で拾ってしまったのか、打って変わって顔を青くさせ始めた愛しい彼の頬に可愛らしく口付けて、にこりと笑って見せた。

「愛してる」

 愛の言葉とは差し詰めくさりのようなものかもしれない。この言葉一つが重りとして愛する人を縛り付ける。でも。ろくに告白に対する返事もしないで、「え、じゃあ俺一生結婚出来ないわけぇ!? いやぁあああ」なんて絶望しているこの人にその効果があるかは皆目分からない。思わず苦笑いを零した。先のことなんてどうなるか誰も知らない。知らないけど、私が私で善逸が善逸である限りきっと大丈夫。願わくば、ずっと貴方のお側に。


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