地獄ひとつチョコレートにするくらい訳無い


「美しい…」

 鬼に見惚れられるなんて、有り難迷惑な話だ。私は現在内心困り果てていた。まさかこんな鬼が居るなんて……。




 事の始まりは、つい一刻前のこと。指令通りの場所へ向かえば人里付近で空き家を見つけた。中を覗いたが誰も居ない。勿論、鬼も居なかった。だが、血の匂いや腐臭が酷かったので鬼の住処だと確信した。もしかしたら、捕獲した人間をここへ連れてきて食べているのかもしれない。しかし連れて来るまでに殺さないとは限らないので辺りを散策することにした。

 今夜も月が綺麗だ。

「月が綺麗です、善逸様。……会いたいですわ」

 任務の最中ではあるが、暢気にも月を見上げながら独り言を零してしまった時だった。

「男がいるのか?」

 独り言に返事が返ってきた。体は微動だにしないものの、私は心底動揺していた。何故か。私は体質のせいで、今まで任務で鬼と遭遇したことが殆ど無かったからだ。自慢にならないが、私の気配や匂いを感知したらしい鬼達は皆、私が現場到着までに逃げてしまうのだ。だから今回もそうだろうと、半分は諦めていた節があった。ところがどうだ。この鬼は自ら私に近寄ってきたばかりか、私に話しかけてきたではないか。正直、驚きと感心する時間にもっとゆとりが欲しい心境であった。しかし鬼と対峙しているのだからそうも言っていられない。気を引き締めて目標の鬼を警戒しながら抜刀し構える。

「…わたくしに近づいてくるなど、なんとまあ酔狂な鬼ですこと」
「ああ、藤の花か。確かに匂うな。だが俺は藤の花が嫌いではない。それにお前は美しい…」
「…………」
「その心底迷惑そうな顔はやめてくれないだろうか」

 いや失敬。だってまさか鬼に口説かれるだなんて一体誰が想像出来ただろうか。目の前の鬼は幻影のたぐいではないと分かっていても、思わずまばたきが多くなる。

「わたくしの心はある殿方に奪われましたので、生憎ですがあなたに砕く心は持ち合わせておりませんことよ。しからず」
「お前は人間などという低俗な生き物で居て良い器ではない。俺と同じ鬼になれば今の想いがどんなに下らないかということに気付くだろう」

 その言葉で一気に沸点を越えた私は突然切りかかった。数回に渡る追撃もかわされてしまい、表情に少し苛立ちの色が出る。

「この想いを侮辱することも、触れることも、誰であろうと許しません。あなたが人間に生まれ変わって失恋でもしてみれば分かるでしょう。この恋心は、わたくしだけのものですわ!」

 私が人間になることをどんなに切望したか、どんなに苦しい恋を、そして尊い恋をしてきたか。こんな鬼に分かるものか。分かるはずもない。私の恋を語るその口にさえ虫酸が走る。

「怒ったところも美しいな。その美しさを永遠のものにしないか?」
「…なんとなく聞きたくありませんが、それは、どういう意味でしょう?」
「鬼になれ」

 はあ、と溜め息を禁じ得なかった。本気で言っていることが分かるから、尚のこと呆れてしまう。

「稀血は美味いぞ」

 まだしつこく食い下がってくる鬼。しつこい男は嫌われるというのを知らないのだろうか。再度切りかかるが、これまたひらりとかわされてしまう。やはり私は弱い。経験が少な過ぎるのだ。

「血の味はわたくしも嫌いではありませんが、人肉しか食せぬようになるのはお断りしますわ。せっかく人間になったのですから、もっと色んな物を味わいたいですもの」
「お前…、鬼だったのか?」

 目を見開いて驚いた様子の鬼。もはや呆れを通り越してしまった。鬼が人間に戻れるはずあるまい。そんなこと出来たなら鬼殺隊など無用の長物だ。

「……鬼になるとおつむが足りなくなるのかしら。いいこと? 鬼が人間に戻れたらわたくしは今こうしてあなたと戦っていませんわ。もし仮に戻れたとしても、昔人間ではなかったからといって鬼だったと決定付けるのは浅慮せんりょですわ。わたくしにこれ以上虫酸を走らせないで下さいな」
「では何だったというんだ」

 ようやく苦々しい表情をさせてやれた。対照的にクス、と笑えば余裕も生まれてきた。

「さあ…?」

 ようやく頭に登った血がひいてきて、少し冷静になれた気がする。鬼の苦痛の表情というのはなかなか見ていられる光景だ。気色悪げに笑っているよりずっといい。
 しかし、この鬼はどんな血鬼術を使ってくるのかまだ分からない。もしくはもう既に使っているのかもしれない。用心しなければ。細かい動作まで観察するようにしながら、土を踏みにじった。

「奇特な鬼ですね。わたくしのことが好きなのですか?」
「っ、」

 妖しく微笑んでみれば、鬼は狼狽した。相手が余裕を無くせば無くすほど、私は余裕を取り戻していく。

「鬼でありながら恋をするなんて、本当に奇特な鬼ですこと。地獄で償えば、来世で逢瀬くらいはしてあげても良いですわよ。先程の秘密もお教えしましょう」
「…本当か?」
「ええ、わたくし、約束は守りますわ」
「お前に、切られるのなら…、」

 瞳を揺らしてそう言った鬼は自ら緊張の糸を解き、隙を見せた。今しかない、と私は即座に一度納刀して、地面を踏みしめ力を溜める。だけど先程の眼差しはどこかで見覚えがあった。はて、どこだっただろうか。思い出そうとすると、ちくりと胸が痛んだ。気のせいだと気付かぬフリをして躊躇ためらい無く地面を強く蹴った。

「雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃」

 自分以外の時間が止まったように感じ、動き出したときには鬼の首は宙に舞っていた。愛しい彼の十八番おはこの必殺技だ。彼のそれとは威力も速度も正確さも比べ物にならないが、なんとか成功して良かった。納刀して後ろを振り返れば名残惜しそうな速度で消滅していく鬼と目が合った。

「………今のは少し、揺さぶられましたわ。想われるというのも存外悪くないものかもしれません」
「名前…」

 逡巡したが、まあそれくらいならいいかと思い直して渋々名乗った。

「…名前と、申します」
「名前…、」

 もう朝の時分だが太陽は雲に覆われていた。鬼は曇天を見上げながら私の名前を呟いたきり、静かに消えていった。名前を呼ぶ声の響きだけを残して。鬼を真似て私も泣き出しそうな空を見上げた。……ああそうだ、あれは竃門禰豆子を見つめる想い人の眼差しにどこか似ていたんだ。

 分かっていた、最初から。叶わない恋をしているということ。だけど、たとえ報われないのだとしても私は。

「貴方に相応しくなりたいのです…、善逸様……」


 ……さて、私の来世はいつになることやら。藤の精だった私は、この命の在り方が分からない。人間になった私は、もしかすると命尽きることも有り得る。そうなったとして、果たして人と同じように輪廻りんねの中に組み込まれるのだろうか。死んだあとのことなんて知りようが無いのに。もし……、もし来世で愛する人に巡り会えなかったら。そう考えるだけで死ぬことがこの上なく怖くなった。


 空を仰いでも雲しか見えず視界が悪い。今にも空が泣き出しそうな空気を感じる。けれど私は雨が好きだ。元が植物だからかもしれないし、私が私だからかもしれない。




+++


 藤の花の家門の屋敷で迎えた朝は生憎の雨で随分暗かった。視界も悪いが雨音もなかなかに煩わしい。起き抜けにふと、聴力を奪うそれに混じって聞こえた風圧音が気になって障子しょうじを開けると、視界が悪い中、庭に人影が見えた。

「げ、」
「…わたくしの名前は名前ですわ。"げ"ではありませんことよ、善逸様」

 先程の風圧音の正体は、名前が濡れ鼠になりながら木刀で素振りをする音だった。久しぶりの邂逅ながら、もはや癖のように濁音を零せば、ことほか冷静な態度でたしなめられてしまい調子が狂う。この状況、あの名前なら喜んで抱き付いてきそうなものだが、その気配は微塵みじんも感じさせない様子に思わず見入った。ものさな雰囲気で雨に打たれるその姿が一枚の絵画のようだ。しかしすぐにハッと我に返り、いつもの覇気の無さをいぶかしんで体調でも悪いのだろうかと危惧きぐした。

「何してんの!? 風邪ひくよ!?」

 無理矢理室内に連れ込んだが、囲炉裏いろりのそばに座り込むその佇まいは、彼女の為人ひととなりを知っている俺からすれば異常だった。何かあったのだろうか。様子を窺うように彼女を観察してみる。以前死なないと言い張った名前は、それでもやはりどこからどう見てもただの人間で、急所を一差しされれば簡単に息絶えてしまうようなか弱い体躯だ。到底鬼相手になど勝てそうもない。そう思ったとき、彼女に名前を呼ばれて視線を合わせた。

「わたくしは、強くなりたいです」

 真っ直ぐに見つめてきてそう告げた彼女が新たな決意をしたのだと俺は悟った。

 そしてその日は指令が無かったため、名前に付き合って一緒に鍛錬をした。