ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい? 手がないとでも? 臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい? 同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷つかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒《なお》らない、同じ寒さ暑さを感じない、なにもかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 針で刺してみるがいい、われわれの体からは血が出ませんかな? くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめにあわされても、仕返しはするな、そうおっしゃるんですかい?
──シェイクスピア〈ヴェニスの商人〉



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 寒々とした丘に響き渡る海鳴りは、天に焦がれる哀れな獣の遠吠えのようだった。
 押し寄せる潮風が硝子屑のように髪と膚にまとわりつく。乾いた大地へとか細く落ちる雨はてらてらと淡い月光を帯びており、手繰り寄せられた無数の絹糸のような光景に、ある哀れな罪人の物語を思い出した。いと高きところから垂れた糸を掴んだ、哀れな男の話だ。吊るされたように空を見上げていたが、淀んだ暗雲には白々しい月明かりばかりが洩れ出して、その中心で、ぽっかりと地上を覗きこむ穴が空いているのみである。月はさながら死人の横顔のように青ざめて、縫い付けられたように立ち尽くす男を冷ややかに俯瞰する。おまえの思惑など見え透いているというように。
 海の見える丘には、とうに忘れ去られた墓場が聳えていた。錆びついた鉄柵がぎいぎいと鋭い音を奏で、葉のひとつも纏わぬ木々がもの哀しげに揺れている。あたりからは腥い香りが立ちこめる。墓場をぐるりと囲む外壁は風化し、脆く、まるでひび割れたかのように黒い蔦がこびりついている。冷たい夜風が吹き荒ぶままに今にも崩れそうな有様だった。潮風がなければ甘い腐臭すら漂っていただろう。目の前には古ぼけた扉があり、おざなりな錠がひとつかけられている。今にも崩れ消え入りそうな脆い窪みで、何かが彫られている──「罪には死が宿る」と。扉を開くと、狭い路は一変する。拓けたそこには禍々しさを纏う艶やかなひかりが差し込んで、爛れた夜は、未亡人のヴェールのようによりいっそう黒く染めあげられた。一面の荒野にみなしごの墓碑がぼこぼこと生白いふじつぼのように不揃いに並んでいる。深海とはこのような景色なのかもしれない。いつかの日に海へと沈んだ魔法使いは、何を見たのだろうか。暗がりに埋もれた小さな墓標には、朽ちた花の欠片も見当たらない。ここに死者を悼む者はいない。
 陳腐な人生の道中にいた。人の形があるものならば必ずや行き着くだろう、さもしい終わりの光景を見ていた。されど、「楽園」から不時着し、そのまま蚕のように動けなくなった白痴を知っていた。歩みを止める。そこには、ずぶ濡れの女がいた。ぐしゃぐしゃとした蓬髪を夜闇のなかで乱れさせ、月の光の波打つ地面に、ひとりみすぼらしく蹲っている。ぼろぼろと石ころを落とす音がする。まるで墓荒らしのような装いだったが、女がそれらに興味を示していないことは瞭然であった。そこが墓場であることにも気づいていない様子で、自身が膝を付ける湿った地べたを放心して見下ろしている。襤褸のような黒いドレスから覗く皮膚が生々しく火照っていたが、歪な色が点在し混ざり合う肌より伸びる青白く萎びた両腕は、まるで蜘蛛の糸に縋り付くように哀れだった。堪えきれないと呻くように女は震える手で土塊を掻き抱くが、燃え尽きた炭のように黒ばんだ残滓は小さな指先からぽろぽろと呆気なく零れていく。それはまるで、女が早々と失ってきたあえかなゆめのようだった。最早心を寄せることも叶わない、徒爾に終わった虚しいゆめ。ゆめをみて、ゆめをみて、女は目覚めてしまった。小さな爪が割れ、見る見るうちに血が吹き出した。女の細腕を赤く赤く濡らし、その罪深さを物語る。これは夜を彷徨う寂しい母親の亡霊であった。子守唄は多くうたえど、安息を祈る哀悼歌のひとつもうたえない。ただのひとりの、虚しい女である。
 鴉が哭いている。すがりつけ、すがりつけと喚いている。真っ黒な鴉たちが絶えまなくなきわめき、静寂を奪っている。病人のような背中が崩れた。滴る血が次々と壌土に染み込んでいき、しなびた五指が痙攣を続ける。いかなければならなかった。ずぶ濡れ、四肢が折れ、魂を砕かれたとしても、その名の通り、捜し求めなければならなかった。それが女に許された唯一だった。罪は罰され、必ずや贖わなければならないのであれば。だが、女はだらしなく蹲り、そして、おもむろに地面に口づけた。ただでさえ捲れた唇にざらざらと砂がこびりつき、口のあわいに焼き付いたような赤が混じる。てらてらと生々しい紅を差した女は、そこでようやくひとの気配に気づいたように顔をあげた。惨めたらしい星月夜の瞳をぎょろりとふるわせ、皺も隈も染み付いた目元を濡らしている。くたびれた首筋が上下する。酷く摩耗した輪郭をいくつもの透明な砂礫が汚し、風に撫でられるごとに、それらはぱらぱらと剥がれていった。遺骸にも宝石にもならずに弾けて、潰えて、最早塵芥に過ぎなかった。長い長い髪が吹き付ける狂風に何度ももてあそばれている。血で汚れた両腕はだらりと感覚を失ったように地面に投げだされた。棒切れのような脚も血と泥で塗れている。ただただみすぼらしかった。使い潰されがらくたと成り果てた女は、切れた口角をうっすらとあげた。それは、うつくしいひとと愛玩された在りし日の、寂しい名残だった。
 
「土が、あの子を呑みこんだの」




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歌屑とひやおろし