ベネットの酒場はリキュールの甘やかな香りで満ち溢れていた。まるい輪郭をわずかと波打った青色が、議論でくたびれた唇に染み渡る。不意に窓辺より潮混じりの快い春の風が吹き抜けて、火照った頬をしっとりと撫ぜた。重たげだった瞼を持ちあげれば、いつの間にか店主は己の機嫌を告げるように紫煙をくゆらせている。あたりには薔薇とシナモンの上品な匂いがゆっくりと融け出して、男の鼻腔をくすぐった。
東でつくられたというベルベットのカウチは薄暗い店内に皮肉なほど似合っている。あたかもそこにあるのが当然といった情調がある。柔らかなそこに身体を横たえてカクテルと戯れていたムルは、空のグラスを指先でふわりと浮かし、友人の佇むカウンターにまで運び出した。常ならば「見逃して」と閉じられるだろう片目は開かれたままで、その視線は友人たるシャイロックにすら向けられていない。ムルの形良い双眸が開かれた窓をぼんやりと示し、切り出したばかりのエメラルドの瞳は、てらてらと金銀をまぶしたかのように鮮やかな月光で煌めいていた。時折かすかに震えては澄んだベリルを霞ませる濃色の睫毛は、満月を眺めるのも決死の覚悟で耐えているような有り様だった。はっと広がった翠眼を狂熱的に蕩けさせ、セピア色の影が落ちる滑らかな頬桁を甘く熟れさせたムルの貌は、赤らみの正体が酒精だけではないと知りさえしなければいじらしくも見えた。存外この男の顔つきは幼かった。
紫煙は天井にふんわりと立ち込めるのも束の間、すぐさま寝転がるムルの姿を鮮明にする。窓も開いていれば花曇りのようにはいくはずもないと、シャイロックはゆったりとした仕草で煙管の吸い口を離した。薄く整った唇からほろ苦い薔薇の香りが洩れていく。禁煙を始めたのは随分と昔だが、ムルの思い焦がれた表情を見つめていると、時々シャイロックは無性に煙草を吸いたくなった。
月を見上げて思いを馳せるのは風情があることだ。だが、あれはただ追憶にふけているわけではないことをシャイロックは理解していた。所謂有名人であるムルのイカれた恋模様はよく知れていたし、何しろシャイロックは彼の親友だった。
ムルは月に恋をしていた。一風変わった姿こそしているが、空に浮かぶ星々のひとつの月にである。あの月は生活を営む恩恵であると同時に物凄まじい災害だった。盲いる夜にひとさじの明かりを降らし、そして年毎地上のすべてを滅び去ろうと訪れる。人々が「大いなる厄災」と畏敬する禍々しくもうつくしい天体に、ムルは心を奪われている。熱い視線も憧憬も等しく夜空の彼方に注ぎ込んで、シャイロックの酒場でシャイロックの感傷を置き去りにして、今宵もムルは愛しい厄災を見つめるのだ。
ムルの右腕がまっすぐに宙へ伸ばされた。肘掛に散らばった菫色の髪はさらさらと絹の如き月光が編み込まれ、彼の秀でた額は夜の庭園の彫刻のように際立った。ムルはそっと想い人のヴェールに触れた。俺の愛しい厄災と、低く抑えられた声が紡がれる。しなやかな白銅のシルクを手繰り寄せた手のひらには何もない。しかし彼は恋焦がれた表情を少しも崩さずに、まるで永遠の愛を嘯いてみせる悪い花婿のように己のレッドベリルの耀く指輪に口付けた。するとムルの思考にはあるうつくしい情景がひらめくのだ。窓を、空を、月を、ひいてはその先までもを見据え、世紀の天才と謳われた男は万物のしるべを辿っていく。初めに夢想したものは燃えついたマッチのようにささやかな火の玉だった。炎はちりちりとエメラルドの鏡に反射しておぼろげな光輪を放つのも束の間、急激に熱り立ち、けたたましく張り裂ける。のちに爆発は緩やかな膨張に転じ空間はさらなる高みを目指す。それから幾万年後茹だる宇宙はやがて三千度にまで冷やされる。それまで高温の宇宙空間を自由自在に浮遊していた電子は原子核に引きつけられ、原子となる。幾億年の時が過ぎ、水素やヘリウムから成るガスと塵が重力によって集められ、密度と温度があがり、核融合反応を経て、ようやくひとつの星が生まれる。そうして夜空には星々が散りばめられる。恒星の重力を受けそのまわりを公転する惑星たち。満ち欠けを繰り返す気まぐれで移り気ないじらしい月。何処かで命を燃やし尽くし、鮮やかに爆ぜるスーパーノヴァ。ムルは月に恋をしている。理性で恋をして、感情で探求し、衝動で慈しみ、知性で究明する。巨大な循環の数式と法則を描いていた頭脳のシグナルは、いつしか大気圏にまで辿りつく。
そこには果てしない天色の空と紺碧の海が広がっていた。丘に降りたったムルは遠き地平線を眺めていた。真っ白な雲にうみねこが舞う。青く茂る木々と葡萄の蔓の間を柔らかいそよ風が通り抜け、満遍なく陽の光を浴びた草原は生き物のように伸びをしていた。ありとあらゆる生命が大気の重みと張り合って、何処かでは引力に耐えかねて細くしなる枝の先から燃ゆるように赤い林檎が落ちていく。現在の西の国では凡そ見られない牧歌的な眺望の美は、さながら絵画に描かれる原初の園のようであった。火と果実と楽園。いつからか閉じられていた無邪気な瞳が緩慢に開かれる。
ムルの恍惚とした笑みはのちに紳士的な微笑に転じ、彼は酒場から去っていくように思えた。実際、シャイロックはムルのそのような姿を飽きるほど見てきた。美酒に舌鼓を打ち、科学や哲学を展開し、月に懸想し、己の頭脳を研ぎ澄ます。やがて想い人の鮮明な姿を見つめようと、天文台やいずくにかへ向かう。今晩も月はうつくしい。だが、ムルの眩く輝いていた翠眼はふっと洋燈の明かりがかき消えるように色を落とした。目元の陰りは深みを増す。彼は何かを思い出したというようにひかりが映えた首筋に触れ、重力に逆らって身体を起こした。改めてカウチにもたれかかったムルの視線はシャイロックのみに向けられている。しかし、夜空と物思いに浮かされた朧げな双眸にはうっすらと水の膜が張っており、シャイロックには月光の名残りのように見えた。
「きみに会わせたい女がいる」
ふたりきりの密やかな店内でムルの言葉はよく響いた。それは否が応でも天文台で彼の想い人を紹介された夜を彷彿とさせたが、明日には忘れるだろう今朝の夢を気まぐれにいってみせただけといった上擦りもしない声音だった。だが、こうしてムルが誰かと自分の縁を結ばせようとするのは珍しいことだった。シャイロックもムルも互いの交友関係に関心を示さなかったし、何よりムルは食指が動かされない人物には酷く淡白だった。その男が造花のような気品を纏いながら、会わせたい女がいるのだと宣っている。まるで初々しさを見出すような言いようが脳裏によぎったが、シャイロックには西の魔法使いらしい愉悦と興味よりも単純な懐疑がまさった。ムルの表情は穏やかな紳士そのものだ。今夜ばかりはおとなしすぎる気がしないでもないが、こなれた礼儀正しさは彼の一面に過ぎない。
「偉大な学者先生が見初めた才女を、私に紹介してくださるのですか?」
ムルはくつくつと声を立てて笑った。怪訝そうな親友の様子が滑稽にうつったらしかった。随分と絵になる様子で肘掛に頬杖をついていた彼は、シャイロックの心情とは裏腹に愉しげに片眉を吊りあげる。
「パティアを思い出すね。だがシャイロック、きみは二つ間違えている。まず始めに俺はミドラシュに好意を寄せていないし、あれを才女と称するとしたら実にタチの悪い冗談だ。あれはきみが思う以上に愚かな女だよ」
女の名はミドラシュというらしい。聞き覚えのない名前だった。一脚のカクテルグラスは片付いている。シャイロックは火皿に詰めた葉を捨て、しなやかながらも節の立つ指から煙管を手放した。いつの日かバザールで買い寄せたそれは、流れる花の煙のなかを漂い、そして泡のように儚く消える。シャイロックは見つめられれば色めき立つような桃花眼を向けた。
「今宵のあなたは不躾です。私に関心を寄せて欲しいのか、他所の男には退いて欲しいのか」
「でも、断らないだろう」
「それがお好きなんでしょう。彼女は魔法使いで?」
ふたりは何百年という悠久を生きる魔法使いだった。いくら彼らが快楽と喧騒を好む西の魔法使いといえど、半永久的ともいえる途方もない年月を愉しむコツをあげるとするなら、それは娯楽に親しむことだ。芸術、食事、賭博、嗜好品、そして時には新たな出会いと語らいを。人生とは巡り合わせの反覆だ。シャイロックは目まぐるしく変わりゆく情景に沈みながら幾度となく邂逅と別離を繰り返し、変化に翻弄される快楽を見いだしながらも確かに残る変わらないものを愛していた。故に断る理由がなかった。字面だけならいじらしい誘いに事なかれ主義に身を任せてみるのも一興だ。気がかりなのは、ムルがミドラシュという女を愚かだと言い捨てたことだった。その異才で西の国を変革したムルにとっては、どんな者も愚鈍にうつるのかもしれないが。
シャイロックはムルが堂々と寛ぐ厚かましいカウチに腰をおろした。かちりとベリルとルベライトの瞳が重なり合う。解剖などといった風情に欠ける言葉は使いたくない。ただ、ムルが月から盗んだヴェールをもう少しだけ捲ってみたい。
「歳若い魔女だ。人間の宝石彫刻師らの組合で飼われていてね。いわば娼婦みたいなものだよ」
未だに根深く残る趣味の悪い余興だが、当時、西の国では貴族や大商人によるサロンで弱い魔法使いを見世物にするのが流行っていた。ようやく腑に落ちたとシャイロックは隣にいる男をじろりと見やった。シャイロックに言わせればこの憎たらしい牡猫のラベルは「イカれた天才」、その一言で充分だったが、ムルの側面のひとつひとつを仕分けてコルクで瓶詰めにすればキリがない。哲学者にして数学者、天文学者にして鉱物学者。発明家、科学者。名誉教授。それらはすべてムルを構成するパーツだった。そして宝石商人でもあるムルはミドラシュと出会ったのだろう。ムルはきざな様子で首を傾げ、吐息を洩らして笑った。エメラルドの双眸の向こう岸、思考で鮮やかに揺らめいた脳裏には朧げな舟が漕ぎ、ムルの身体は心地良い酩酊に包まれつつある。飴色の照明がちりちりと翳る視界で揺れている。暗い店内の奥行きはすっかりとぼやけ、傍の友人だけが浮かびあがっているような光景が彼のなかにはあった。
「俺のパトロンと呼んでいる。なかなか可愛いと思わないか」
「……呆れた」
「必要経費だ。それに人間たちは泣いて喜んでいたよ」
「そして彼らの好意に付け込んだわけですね」
「今日のきみも手厳しいね、シャイロック。そんなにもミドラシュが気になる?」
暗に投資を受けていると告白する横顔は挑発的ともいえるほどに清々しく、しかし、同時に異様なほど精悍な品格を称えていた。知的欲求の怪物は気取りすぎるきらいがあったが、それでいて人々に馴染む美貌の青年の形を保っていた。己が魔法使い贔屓であることは否定しない。千年と生きれば人間と起こった厄介事は数を知れなかったし、無理に連れてこられたカジノで、ムルが意気揚々と悪評判の貴族を飛ばす姿に胸がすく思いを抱いたこともあった。しかし、あたかも自分を測り知ったという表情は癪に触る。稚さのある輪郭が真正面にシャイロックに向けられる。不快感も隠さずに顔を顰めたシャイロックに、ムルは月のように歪めた瞳をますます細めた。男の舌はよく回る。女を餌にあからさまに誘われている。友人の好みと苛立ちを舐め、ひかりの滴る水面を見下ろして、牡猫は魚がかかる姿を今かいまかと待ち侘びている。
「あなたがそこまで節操がないとは思わなかっただけです。ムル、最後にひとつ聞かせてください」
「何なりと」
「私と彼女を会わせようと思ったのは、何故ですか」
恭しく微笑んでいたムルの表情が一瞬惑うかのように揺らぎ、シャイロックは呆気に取られた。このカウチに寄せる感謝はなかったが、こうして隣り合わせにならなければ見落としていた変化だっただろう。
「きみならミドラシュを気にいると思った」
退屈をたいそう嫌う男が吐き出したとは思えない、その場しのぎの空虚な言葉だった。ムルの眼差しは何処か遠くを見ているようで、或いは何も見てはいなかった。途方もない彼方にある果てしない物語を見据えたムルの瞳の瞬きを、シャイロックはよく知っている。倦怠的な面差しは既に解明した事象のひとつを思い返しているようだった。シャイロックの言葉を何よりも失わせたのは、ムルの姿がミドラシュに関する何かしらを惜しみ懐かしみたがっているように見えたことだ。
相手が同族であろうが、知的好奇心の前では酷く倫理観の欠如する男だった。実際ムルはシャイロックが死の淵に立たされたとき──魔王を前にしたときですら、まるで星を観測するかのように眺めていた。騙し化かしは西の魔法使いの得手だろう。確かにムルは自身の心に疎いところがあったが、それほどまでの憐愍がこの男に残されているはずがない。名しか知らぬ女への関心より、数百年と愛憎を募らせた男への嫌疑と軽蔑がシャイロックの身を占めるのは当然であった。だがと、シャイロックは視線を落とした。長い睫毛が白磁のような目元を飾りつける。西の魔法使いは義侠心に欠けているが、同郷の幼き魔女に一片も情が湧かないわけではなかった。
「お待ちしています」
顔も見ずに告げたシャイロックに、ムルは唇をわずかと隠す指の下で、愉しそうに笑った。今ほどまでのつまらなそうな表情が嘘のような華やかな一笑に、してやられた気がするとシャイロックは溜息をひとつ吐く。ムルは両の手の五指を絡ませて、ゆらゆらと戯れに関節を曲げている。星図を描く指には厚みがある。ささくれの残る指先をぴんと張ると、狭間から手の甲にかけて、まっすぐに筋が浮かんだ。ムルの手を見つめているとき、シャロックはこの薄情な男が同じ血の通った生き物であることを改めて思い知り、奇妙な感覚に陥るのだった。
「きっと気にいるよ」
「あなたのようなひとには推しはかられたくないと、再三申し上げたはずですが」
「友情ゆえだよ、シャイロック。きみは期待も羨望も嫌いではないはずだ。あれは見てくれは美しいが、退屈を椅子に座らせたような女でね。縋りつかれるように長い髪と金糸雀の嘴のような唇を持つ、手酷いまでにつまらない、愚かな魔女だ。ミドラシュはきみの望む物語を識りはしないだろう」
ムルの指は節くれている。ほどよくくたびれた手が、月より贈られた百合の花を覆い隠している。燦々と青く輝いていた月光は、いつの間にか随分と穏やかに夜闇を照らしている。ムルは考えあぐねるように指先を重たげな瞼に押し当て、その指の腹を顳顬へと滑らせた。やがて、うすらと開かれた翠眼がシャイロックを捉える。
「だが、いつしかきみは鏡を覗き込むようにミドラシュを見据え、好ましく思うようになる。きみにはきみを慈しむ自己愛があり、そして、俺を愛しながら俺の賢さを愛しているわけではないから」
踏み出すように起きあがったムルが右手を振ると、見慣れたつばの広い帽子が現れる。如何にもといった魔法使いの三角帽は、趣向を凝らしながらも品のある衣裳と揃えられていた。帽子の黒いリボンは襟と同じく星々をあしらっている。質の良いマントの裏地には紺碧の夜空が縫い付けられ、そこには無数の流れ星が降っていた。シャイロックが立ちあがれば、カウチは上へ上へと宙に舞いあがるようにベルベットの糸をほつれさせ、そして水沫のように消えていった。シャイロックの耳元でぷくぷくと小さな泡が弾ける。扉の前に立ったムルは帽子を目深に被り、ブルームーンの薄紫に染まった唇をゆったりとくつろがせた。
「また来るよ。今日はきみと同じ時間を過ごすことにする」
仄かに色づいた片瞼が閉じられる。星見と研究に明け暮れていた目元の隈を際立たせたムルの顔を、シャイロックは静かに見つめていた。
薄暗い店内ではぼんやりとひかりを纏った蝶々が飛び回っていた。ひらひらと羽ばたく蝶たちはシャイロックの黒壇の髪と切れ長の瞳を淡く照らし、やがて、特に小さな一匹がシャイロックに寄り添うように彼の手元に留まる。一呼吸の休息ののち、蝶たちは瞬く間に薔薇色の煙管へと変貌を遂げた。魔法使いは心で魔法を使う。煙管の装飾に過ぎぬ蝶々は、シャイロックに呼応して、その身を宙に軽やかに踊らせる。甘い煙を気怠げに吐き出したシャイロックの視線は、ただただムルが安らいでいた場所へと注がれていた。疲れたと子供のように吐き捨てた世紀の智者が、何の断りもなくカウチを引っ張り出した場所。親友に込み上げた不快感などものともせずに、ムルはぐにぐにと身体を丸めさせては手脚を伸ばし、眠たげな眼でお気に入りのカクテルを楽しんでいた。酷く聡明で紳士的な反面、傲慢で無遠慮で、好奇心で死ぬ猫のような魔法使い。シャイロックの城にも心にも侵食せんと土足で踏み入り、厚かましく爪を研ぎ、うつくしく高尚な性情を理解しながら、他者の美意識を平気で疎かにする迷惑男。シャイロックはムルを愛し、憎み、そして誰よりも親しく思っている。情が愛に変わるのは容易いし、愛は情に引きずられる。されどシャイロックの審美眼は友情で陰ることはなく、彼はムルのすべてを許容しはしなかった。あの飄々とした表情を一度歪めさせたいと思っているのは事実だが、彼に抱えた憎悪を理由に報復するまでもなく、いつしかムルは世界を変革した代償を払う時が来るだろう。それまでは彼の戯れに付き合うのも悪くはない。それが自身の心を震わせる慈しむべき出会いになるかもしれないのなら、なおさら。
最後の泡がささやかな音と溶けていく。厚かましい牡猫は立ち去り、牡猫のカウチも消え失せ、シャイロックの城はようやく完全となる。慢性の口寂しさは満たされはしなかったが、彼の胸はかすかな歓びを覚えつつあった。シャイロックは洋紅の瞳を閉じ、何事もなかったように悠然と店仕舞いに取り掛かる。
ベネットの酒場では緩やかに薔薇とシナモンの香りが流れている。いつしかムルが寝転がるためのカウチを置くことも、そこが奇しくも今晩ムルが安らいだ場所であることも、今のシャイロックに知る術はなかった。
✵
瞼をなぞるひかりの気配に、シャイロックは白昼夢じみた泥濘から緩やかに身を起こした。夜もすがら降りしきる雨に耳をそばだてて眠るような心地であったが、いざ目覚めてみれば、重たげな深紅のカーテンより、蜘蛛の巣のように淡々しい日差しが柔らかく注ぎ込んでいる。室内に揃えられた家具は絵画を思わせる陰影を纏い、とうに日が昇ったことを物語っていた。この部屋は四階の端に位置しており、程々に日当たりがよく、窓からは見晴らしの良い景色を一望できるのだった。
シャイロックは億劫そうに額から輪郭へと散らばる髪をかきあげた。深いボルドーの髪には甘い蜜のような艶があり、乱れたガウンの合わせからほっそりと覗くうなじに張りつくように流れている。わずかと開いた唇はいつまでも沈黙を保ち、瞼が落ちかけている双眸は鬱然と宙の何処かを彷徨った。シャイロックの過ごす日々は月と一定だ。月と共に夜を更かし、月がひっそりと西の空に沈む頃、シャイロックも眠りにつく。魔法舎で過ごすなかで彼の生活は以前よりは整えられつつあったが、相変わらずシャイロックは朝に滅法弱かった。ルベライトの鏡がテーブルに置かれたチェス盤と象牙色の駒にぼんやりと向けられる。シャイロックは耳元に添えられた凍えた指先をベルベットの寝具へと滑らせて、残された半身も引きずるように起こした。未だに醒めきらない思考を持て余して、そうしてシャイロックの一日が始まる。
はずだった。
「ンなァ……」
「……」
ぐにゃりと踏みしだいた生暖かで弾力のある感触に、シャイロックの焦点がゆっくりと結ばれていく。彼の形良い爪先が膚に食い込んだらしく、床からは再度えも言われぬ鳴き声があがった。それが女の声であることも、その声に聞き覚えがあることも、いくら夢現の境といえどシャイロックの理解が及ぶには充分だった。洋紅の瞳が鮮明になるに連れ、足元の光景が明らかになる。
そこにはひとりの女が眠っていた。上等な朱色の絨毯に図々しく横たわり、肉付きの良い身体を蛹のようにまるめさせた、品がないほどに色めいた女である。細身であれ上背がある男に脇腹を踏まれて少し息苦しそうにしていたが、くうくうと猫のような寝息を立てる姿は酷く充実しているように見えた。幸せそうだった。かろうじて繋がったようなビロードの黒いドレスからは惜しげもなくほってりとしたまろい肩や胸元が覗いていたが、柔らかな雰囲気の内股の先、力なく伸びた足は折れそうなほどに細い。青白い身体にまとわりつく蓬髪は縋りつかれるように長く、持ち主を中心にしてだらだらと絨毯全体に広がっている。豊かな胸とやつれた両腕はしかし何かをしっかりと抱きこんでおり、忌々しくも見慣れてしまった光景に彼は閉口した。
シャイロックの部屋の床で、女が寝ていた。
一升瓶を抱えて。
「ミドラシュ、起きなさい」
「ンよォ〜〜……? あっれェ、あたしを何やら情熱的に見つめるこの色男は……んふふ、愛しのシャーリィだァ……」
「もう一度呼んでご覧なさい、その長ったらしい髪に火を点けて差し上げます」
うにゃうにゃと間抜けな猫のような抗議の声があがる。女は獣のように四つん這いになり、べたりと太腿の裏を絨毯に付けた。絨毯には宝石や酒瓶、銀の匙が転がり、不恰好な子供部屋を思わせる。纏うドレスはいっそ襤褸のようで、腰を締める鎖とサンチュールには分厚い外套が引っ掛かっている。尾籠な格好をよりいっそう定かにさせ、女──ミドラシュは長い前髪に埋もれつつある赤ら顔に、幼子のような笑みを踊らせた。きゅるきゅると楽しげに細められた碧眼にはちかちかと目に痛いほどの星屑が舞い、ただでさえ入り乱れた奇妙な青い色相に安っぽい輝きを一匙付け加えている。
「また私の部屋に忍び込んで……」
「にぃ?」
「にぃ、じゃありません。言葉を話してください」
ふらふらと童女の仕草で首が傾げられると、頭を飾る二重のラリエットが涼やかな音を立てた。なりには不釣り合いな華やかな装飾品だった。細かな宝石や真珠が揺れる度、ミドラシュの惨めたらしい顔が余計に浮き彫りになる。紅も引かない顔の頬は荒れ、眼窩は窪み、あからさまにやつれながらも、その輪郭は打ち上げられたさかなの腹のように膨れていた。とうに酒に呑まれたミドラシュは、まるで年老いた野良猫のような姿に成り果てていた。シャイロックにはミドラシュの貌は随分と見慣れていたが、それでも彼女の腫れぼったい瞼と皮の捲れた唇が笑みを描く度、下卑た印象が深まっていく。ミドラシュはよく商売女に間違われた。
「シャイロック、おはよぉ」
女は剥き出しの両腕を獣の前足のように彼の膝に乗せ、端が切れた口角をつり上げる。浮かんだ笑みには皮肉にも、微塵も邪気が含まれていないことをシャイロックは理解していた。彼の言葉を今か今かと待ち受けるミドラシュは、さながら飼い慣らされた動物同然だ。短い指は赤子のように握られ、触り心地の良い綿のガウンの感触を楽しんでいる。
「……おはようございます、ミドラシュ。急がないと朝食に遅れますよ」
「朝ごはん!」
膝に置かれたそれをさりげなく振り払えば、稚拙な手のひらは歓声と共に宙にあげられた。長い前髪がふわりと靡き、普段は覆われがちの右目が心底嬉しそうにシャイロックを捉える。
専ら夜型であるシャイロックが朝食を摂ることは少ない。昼時に差し掛かりつつあった室内は薄暗くも外は明るく、実のところ、遅くとも皆が朝食を食べ終わっているだろう時間帯だった。ミドラシュがその千鳥足で向かったところで、食堂にはすっかりと片付いたテーブルがあるに違いない。しかしと、シャイロックはひとりの東の魔法使いを思い浮かべる。朝昼晩と自分らにおいしい食事を提供してくれる料理人。あれやこれやと無理やり厨房を押し付けられながらも、結局は他者の喜ぶ顔にほだされて、いつの間にか握った包丁を手放すのが惜しくなってしまう、かわいいひと。彼のことだ、くんくんとみっともなく泣き真似をして何処かつぶらな瞳で見上げるミドラシュに根負けして、一皿か二皿か、少なくとも何かしらをあたえてくれるだろう。彼は自分が手がけた料理を幸せそうに平らげる誰かの姿に弱いのだ。
「その前に顔を洗ってらっしゃい」
「はァい」
けだものに似た女は存外従順な返事をした。伸びっぱなしの髪を揺らめかせながら立ち上がると、その豊かな髪はゆうに膝を越えていることが窺えた。まるまっていた身体が大きく伸びをすれば、パキパキと関節が軋む音がする。ミドラシュは薔薇の螺鈿細工がうつくしい下駄を履き直し、くるりとその場で回った。黒い髪とドレスの裾がふわりと捲れ、空いた背中やふくらはぎの生白さがほころびる。両手を広げて回る姿はシャイロックの部屋を一望しているようだが、四六時中据わった目が何を捉えているかは読みづらい。妙に痩せた手には相変わらず酒瓶の口が握られており、深い鴨羽色の硝子越しに、度数の高い狂い水がちゃぷちゃぷと波打った。
「ねェ、シャイロックぅ」
甘ったるく間延びした声は酷く酒に焼けていて、ちっとも可愛らしくない。かつては幾度も子守唄をうたっていた少女らしいコントラルトを、シャイロックはもう何十年と聞いていなかった。視線の先ではミドラシュはひょっこりと扉から顔を出し、たった今思い出したという様子でシャイロックを見つめている。扉の隙間より拓けた廊下のひかりが薄暗い部屋に洩れていた。星を散らした青い双眸は泡立ったソーダのようで、ひかりに濡れたそれは、静かなうみのようにやさしげだった。
「あんた、朝だってとびきりの美人だね……目が眩ンじまうよ」
「……」
「あたしの君傾城」
「朝から口説かないで頂けますか?」
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歌屑とひやおろし