(聖と俗。善と悪。美と醜。浄と穢。聖女と魔女。老婆の慰みもの。永遠の胎児。機械仕掛けの楽園。荒唐無稽なおとぎ話。ここは、欲望の国)
胸に茨を抱くような女であったことを記憶している。白い肌を突き破り、真っ赤な血が溢れようが、構わずに抱きしめつづけるような信念や自己犠牲といった心の強さを語っているのではない。己の腕の細さと柔らかさ、そして抱きしめているものがいつしか己を刺し殺す茨であることに気づいていない、火傷の跡のようにこびりついた愚盲で細い首を締め続けている、そういう女だった。凍える夜の茨の冷たさを、女は理解してはいなかった。それほどまでに愚かな女だった。
女は真っ白なヴェールを被っていた。長く深く身体を覆う銀糸混の白いヴェールは薄く、女の顔を隠し、肉付きの良い身体を容易く浮かびあがらせていた。如何にも意匠を凝らしたドレスは異国の姫君を彷彿とさせたが、ムルの後ろできょろきょろと酒場を落ちつきなく見渡す姿は、どちらかというとシーツを被った仔猫のようだった。女は徐にヴェールを脱ぎ、そして、円く開かせた青色の瞳で、シャイロックを見上げる。西の国ではそう見ない装束はしかし何処かで見覚えがあり、膚の至るところを見せびらかしていた。首を飾る宝飾品の鎖状の金細工は空いた胸元へと真っ直ぐに伸び、青白い皮膚がまるで宝石を置くベルベットのように見えた。琥珀や薄紅が混ざった碧眼は水面に映った夜空のようで、一心にシャイロックを見つめている。何よりも目を引いたのは、足元にまで向かうほど長い艶やかな黒髪だった。縋りつかれるように長い長い髪が無防備に垂れ、深海のように揺らめいている。身体の一部は呪いの触媒にされることがある。力を持つ魔法使いは、髪の一本も爪の欠片も残さない。その頭髪こそはいっそ剥きだしなほどに垂れていたが、女はあらゆる装飾品で身体を飾っていた。宝石の花冠や大ぶりな耳飾り、指輪やブレスレット。纏う全てが輝くように豪奢な出来栄えで、奇妙な魔力を纏っている。彼女はしばらく呆然とシャイロックを見ていたが、やがて、手を合わせて嬉々と微笑んだ。
「ミドラシュ。わたしはね、ミドラシュっていうの。あなたがシャイロックなのね。あなたは魔法使いなの? あなたはムルのお友達?」
その声色があまりにも幼く、そして自然体であったことに、少なからずシャイロックは驚いた。ふっくらとした柔らかな唇が共に動いていなければ、おおよその者はこの声の持ち主が目の前の女であると気づかなかっただろう。ヴェールを持ちあげたときに見えた表情に少女のようだとは思いはしたが、彼女の声はそれよりもあどけなかった。少々稚くも薄く化粧を施した顔やドレスを纏う色白で豊満な身体つきは妙齢の女性のもので、華やかさよりも歪さが優った。ムルは先にいったのに、と肩をすくめている。親友の疲弊すら感じる呆れた顔は、シャイロックでも滅多に見なかった。思っていたよりも何やらおかしな方らしいと、シャイロックは微笑む。ひともものも問わず彼は奇異なものを好んでいた。
「初めまして、ミドラシュ様。私は西の魔法使い、シャイロック。ムルのお友達で、この通り酒場を営んでいます」
「酒場……お酒?」
「ええ」
青い灰簾石のような瞳が幾度か瞬く。ムルに連れられておずおずと慣れない高いスツールに座ろうとする姿が、何とも愛らしい。ちょこんとシャイロックの前に座ったミドラシュは、ヴェールを被っていたときのように不思議そうにルージュベリーが詰まった瓶を眺めていた。何かに触れていると落ち着くのか、豊かな胸の前で両手の指先を合わせている。その姿にシャイロックはくすりと笑みを零した。タンブラーの半分に氷を入れ、グラナディンシロップと絞ったライムを加える。さらにレモネードを注いでステアし、飾りにはレモンとルージュベリーを。無駄のない流れるような所作で出会いを祝福するに相応しい一杯を用意していくシャイロックに、ミドラシュはきらきらと目を輝かせていた。ミドラシュの前に、深紅から珊瑚色、そして蜂蜜色へと移り変わる鮮やかなカクテルが置かれた。
「お近づきの印に」
タンブラーを大事そうに両手で抱えたミドラシュは、シャイロックとムルの顔を交互に見やったあとに、そっと縁に口付けた。ジンジャエールではなくレモネードを用いたそれはまろやかな口当たりで、さっぱりとした甘さが広がる。自分でも気づかなかった乾いた喉に瑞々しく染み渡り、ミドラシュはほうと感嘆の一息をついた。おいしい、と驚愕した顔をしてタンブラーの赤い水面を見つめているミドラシュに、シャイロックは頬を緩める。一種の造形美とも言えるような鋭さすらあるうつくしい容貌に、男は随分と柔らかな表情を浮かべた。すっと背筋を高く伸ばし、その低く心地良い声で流れるように言葉を紡ぐ。ムルも背の高いひとだと思っていたが、シャイロックは彼よりも上背があった。ミドラシュの父達は年老いてすっかりと痩せ細り背中を曲げた者や、筋肉の欠けたふくよかな者が多かった。他の若い男達も小柄で不健康な人間ばかりで、だからこそミドラシュの目にはシャイロックが異質な人物に映った。魔法使いは魔力の量が定まると、その姿から老いなくなる。シャイロックはミドラシュの容姿よりも大分歳上に見えたが、充分に年若く、けれどただ淑やかと言うには何処か奥行きのある──ミドラシュの知らない言葉で言うなら、酸いも甘いも噛み分けた、静謐で円熟した雰囲気を纏っていた。実際、時代が目まぐるしく変わっていく西の国で数百年と生きたシャイロックは、ひとの心の機微や世間の企みといったものによく通じていた。何よりも、若くうつくしい容姿に滲みでるような人生経験の豊富さが飾らずに調和し、ミドラシュのような大人びた身体に幼い情緒の芽生えた歪さは、そこにはなかった。気づけばミドラシュは、ムルと談笑するシャイロックをじっと見上げていた。初めてその姿を視界に入れてから、そうすることしかできなくなったように。その熱のこもった眼差しに、シャイロックが気づかないはずがなかった。見つめられることは慣れている。
「ミドラシュ様。そんなにも情熱的に見つめては、身体に穴が空いてしまいます」
吊り上がった眉が僅かと下がる。ルベライトを思わせる双眸をゆったりと困ったように細め、シャイロックは苦く笑った。ミドラシュは自分にそんな顔と言葉を向けるひとを見るのは初めてだった。シャイロックをドーナツにでもする気かと、ムルは可笑しそうに言う。それは見たいなと続けられ、ミドラシュは慌てて首を振った。ドーナツは知っている。中心に穴が空いていて、チョコレートやキャラメルがかかったしっとりとした揚げ菓子のことだ。ミドラシュはタンブラーを持ち直して、シャイロックに告げる。自然と口元は笑みを描き、ミドラシュはとろりと瞳を蕩けさせた。青い青い瞳には、いっそ不思議なほどに幸福しかなかった。
「わたし、ムルが言うように、あなたをドーナツにはしないわ……あのね、シャイロック、ありがとう。とてもおいしかった」
ムルの言った通り、ミドラシュは決して聡明な人物ではなかった。それどころか幼稚で愚鈍な女だった。世情に疎く、教養はなく、彼女はいつもムルに連れられてやってくる。しかし、それは仕方がないことだと、シャイロックは初めは穏やかに傍観していた。傲慢で、そして無知で臆病だった客に出会ったことは幾度もある。しかしシャイロックは拒絶することはなく、丁寧に寛容に、彼らを愛してきた。たとえ愛せなくとも、丁寧で誠実な、決して彼らを貶めないお別れをしてきた。そうして愛で満ちた人生を築いてきたように、少なくともシャイロックは、この幼い魔女を愛そうとしていた。わからないことがあるのなら、徐々に知っていけばいい。しかし、無知のまま獅子の尾を踏んだのは、ミドラシュだった。
「どうしてそんなことをいうの?」
甘やかな笑顔を浮かべながら、ミドラシュは首を傾げる。その双眸は盲目的な愛情と幸福で蕩けるばかりで、目の前に立つシャイロックを真に映しているのかも定かではなかった。星屑を落としこんだ水面のような眼球は眼窩に嵌めこまれた鉱石を思わせ、ちかちかと奇妙に輝いている。どうしてと、ミドラシュは重ねて問う。ねぇシャイロック、あなたはどうしてそんなことをいうの。魔法科学技術はムルが産みだしたもので、人間と魔法使いを繋ぐ、素晴らしい智慧なのよ。お父様も喜んでくださったわ。魔女のわたしをね、お父様は育ててくださったの。だからわたしも、お父様のような、人間のための力になりたい。シャイロック、この世界はね、きっと、今よりも、ずっと素敵なものになる。魔法科学技術によって。わたしはムルのように賢くはないけれど、お父様がね、使えるって、いってたの。魔法科学技術はね、マナ石が必要でしょう。だからね。偶像のような微笑みは無くなることはなく、ミドラシュは滔々と話し続けている。シャイロックが自分を肯定し喜ぶことを待ち望んでいる。祈るように手を組んだミドラシュは、シャイロックが愛しているものを理解しなかった。
汚染された土壌。泥々とした海面。極端に増えた都と人間。魔法動物が一匹残らず狩られた土地。人間が繁栄し、魔法科学技術によって莫大な富と兵力を手にした近年の西の国に産まれながら、ミドラシュはそれらを知らず箱庭の如く閉ざされた世界で育った。シャイロックが愛した西の情景がとうに喪われたことも、ミドラシュは知らなかった。ミドラシュのように若く力の弱い魔法使いが人間の下で飼われるようにして生きることは珍しくはない。しかし、ミドラシュは何ひとつ理解せず、飼い殺されることを望んでいた。やがてミドラシュは、シャイロックの輪郭へと手を伸ばす。そうしなければわからないというように無邪気に形を辿りながら、ミドラシュはシャイロックの表情がどれほど冷ややかなものであったかも、見えていないらしかった。
「あなたの得た快楽には、葛藤も煩慮もないでしょう。その見かけばかりがうつくしい浅はかな上澄みだけを啜り、あなたは底に混濁したものを知り得ない」
「ええ、ええ、そうね。あなたがいうなら、そうなのね」
宝石の花冠が、マナ石を嵌めこんだ装身具が、さらさらと鎖状の装飾を黒い髪に零している。ミドラシュはシャイロックの言葉のひとつひとつを肯定するように相槌を打ったが、彼女が何も理解していないことは明白だった。どろりと溶けだすように濁った青い瞳をうっそりと細めて、ミドラシュは頷く。その小さな手の甲に、自身のそれを重ねる気には到底なれなかった。
「ミドラシュ、どうか考えて。こればかりはムルに教えられたはずです」
従順なミドラシュを連れ回しながら、あれは当然のように自分の下に置いていくことすらした。今もそうだ。あれは責任を払いはしないが、シェルターに相応しい場所を知っている。しかし、あの男は、そして自分も、思考することを愛している。考える葦で在り続けている。身も心も快楽に沈めて目を閉じた女に、何も言わなかったとは思えなかった。ミドラシュのいた楽園はかの哲学者が学術を説き人生の根本を明かそうとした庭園ではなく、無知と幸福が支配した原初の園だった。シャイロックはミドラシュの手首に触れる。マナ石を嵌めた腕輪が随分と冷たかった。魔法科学技術に支配された世界は、いつしか取り返しのつかない最悪の二日酔いを起こすだろう。中途半端な快楽を求めて延々と呑み続けた安酒の代償を払うときが、いつしか必ず訪れる。あの男にも、この女にも。あたりは徐々に暗くなり、夜が近づこうとしている。シャイロックは息をひとつ吐き出した。青い感傷だと思った。この女の幼さに引っ張られているように。
「私達にあたえられた寿命は永い。あなたの愛する人間達をこの先数百年と見守っていくのも、また魔法使いらしい在り方でしょう」
魔法使いは愛を愛し、愛を恐れている。魔法使いは何にでも恋をする。恋をした風を追いかけて一生を終える魔法使いもいれば、愛した花を恐れて世界中を闇で覆おうとして一生を尽くす魔法使いもいる。夜の海に恋をして、そのまま沈んでいった魔法使いも。シャイロックもまた、愛を愛し恐れた魔法使いだった。人間を数百年と見守る在り方は、シャイロックにも覚えがあった。ベネットの家に生まれ、時に頼られ疎まれながらも、シャイロックは代替わりの一族と暮らしてきた。今でこそ魔法使い専門の酒場を営んでいるが、初めはベネットの酒場には、人間も魔法使いも問わず訪れていた。グラス職人としての腕前に惚れこんだ人間の世話をして数年間暮らしたことも、人間を恋しく思ったこともあった。星屑を飼った青い瞳が、不思議そうにシャイロックを見ている。
「しかし、痛みのない快楽に歯止めは効きませんよ。いつしか崩れ去るうつくしい牢獄で、あなたは一生を過ごすつもりですか」
「でもね、シャイロック」
だが、ミドラシュの微笑みが褪せることはなかった。教えをこうばかりの唇は子供に言い聞かせるような声色で言葉を紡ぐ。
「わたし、あなたたちに出会えて、思ったことがあるの。人間も魔法使いも、素晴らしいものなんだって。わたしはね、お父様という人間がわたしという魔女を育ててくれたように、人間の子供を育てたいわ」
わたしはかみさまのように勇敢になるの。こてりと首を傾げたミドラシュは、そして、幸せそうに目を伏せた。夢を見過ぎた少女の眼差しで手を合わせ、敬虔に祈る。鎮まった夜に柔らかな波の緒が混ざり、幻想の如き旋律を奏でている。シャイロックはミドラシュの愚かさを見つめ、やがて疲弊したように遠くを見やった。ミドラシュを止めたのはこの一回きりではない。何度も、何度も、伝えてきた。あの男にも。ムルの智慧と傲慢と自由を誰よりも愛しながら、葛藤を抱えて魔法科学技術を止めるように幾度となく言った。ミドラシュは星屑の瞳を夜空に向けて、うっとりと口にする。その目に、理性は存在しなかった。
「大丈夫よ、シャイロック。永遠だから。わたしは永遠なの……」
風の噂で、何処かの宝石彫刻師の組合が破綻したと聞いた。
その日は街が騒がしかった。何やら若い女の死体が見つかったらしいと、泡の街の人間達が噂話に花を咲かせては酔いしれている。あれは男に捨てられた娼婦だよと、ひとりの男がしたり顔で言った。遠目から見たが、随分と長い髪を持っていてね。今頃はもう刈り取られたんじゃあないのか。ひとりの女が首を傾げていった。あたしは駆け落ちしようとした恋人の片割れと聞いたがね。なんつったって、ここじゃあお目にもかかれない、上等なビロードのドレスを着ていたそうだよ。退屈を大層嫌う人々は、黒いヴェールに包まれた女に、次々と尾鰭をつけている。しばらく歩いていると、路地の隅で、ひとつのきな臭い密やかな人集りを見つけた。一定の距離を取りながらも、人間達はちらちらと欲深そうに、何かを待ちわびるように隅から覗きこんでいる。死体が身につけているものが欲しくてたまらないが、それを殺した犯人にされるのも厄介な喧騒を産むことも望んでいないのだ。人間達の足元で、縋りつかれるように長い髪が、だらだらと地面に垂れている。シャイロックはゆったりと煙管を咥えた。ふっと甘やかな香りを纏う紫煙があたりに広がり、人間達の目がとろりと眠たげに溶けていく。そして彼らは、何事もなかったかのように狭い街路へとそれぞれ立ち去っていった。あたりにはシャイロックと長い髪を持つ女だけが取り残され、不自然な静寂が訪れる。女は惨憺たる有り様であった。ぶちぶちとところどころちぎれている髪は腐臭を放つずた袋を伝い、汚れた地面へと無造作に散らばっている。あの濡れたように艶やかな柳の髪の面影はなく、糸玉のように絡みついた蓬髪と、べっとりと脂ぎった髪が混在していた。ぱっくりと背中の開いた染みだらけのドレスからは蚯蚓腫れの爛れた膚が除き、数本垂れた髪の毛が傷口に膠着している。錆びた排水管の縁に溜まった変色した水がぼたりぼたりと時を刻むように女の伏した頭に伝っていた。女は相変わらず靴を履いていなかった。小さな踵の皮は剥け、赤々としたそこに泥がこびりついている。路地の掃き溜めに、女が廃棄物に埋もれて倒れていた。饐えた匂いが女とずた袋のどちらから漂っているのかもわからなかった。これでは死体に間違われても仕方がないと、シャイロックは溺死体を確認するようにその身体をひっくり返した。彼はこの女が生きていると知っていた。あれほど指をあわせていた手のひらは、最早使い古しただろう歪んだ銀の匙を握りしめている。それがこれのよすがなのだと、シャイロックにはすぐにわかった。あらゆる液体のかかった腥い髪を払えば、老いた猫のようにやつれた赤ら顔が浮かんだ。その瞳はわずかと開かれて、何をされたのかもわからない硝子玉の眼差しで、シャイロックを茫然と映していた。女の顔はおびただしいほどの涙で濡れ、その口からは石ころにもならない、ただの穢い唾液が漏れだしている。シャイロックはミドラシュの青い瞳を見下ろして、やがて、冷たく吐き捨てた。
「だから言ったでしょう。痛みを伴わない快楽には歯止めが効かないと」
ミドラシュは虚ろな目でシャイロックを見上げていたが、やがて、唇のあわいをうっすらと歪めた。そこには少女のように無垢な微笑みも人間らが偶像として作りあげて縋った顔もなく、ただミドラシュは、男に媚びる下卑た女の笑みを浮かべた。下町の花売りのように、ミドラシュは笑う。絢爛な宝石の花冠も、大ぶりな耳飾りも、刺青のように細首に張りついた装身具も、彼女は身に纏わない。そして色めいた下品な仕草でシャイロックの足元に擦り寄り、手を伸ばす。ストールに戯れつき、ミドラシュは獣のようにそれを食んだ。唾液や何かしらの液体がだらだらと布地を汚し、シャイロックは眉を顰める。
「……穢いな」
「ふ、ふふ、あは、……」
思わずと洩れた言葉通り、女は汚かった。腐敗した食物の欠片が内出血を起こす皮膚にこびりつき、吐き気が込みあげる酷い安酒の匂いがした。ゴミ捨て場に住み着く毛むくじゃらの野良猫の方がまだ愛らしい姿をしているだろう。ミドラシュは気味悪く顔を歪め、がくがくと痛々しく痙攣し始めた両手で、小さな銀の匙をさらに握りしめた。頼りない両脚を掃き溜めに放り投げ、どろりと淀んだ碧眼で狭い虚空をミドラシュは眺める。縋りつかれた髪は行き場を失い、ぽつぽつと抜け落ちてはこびりついた。シャイロック、とミドラシュは口にしたが、それが己を呼んでいないことは明白だった。シャイロック。ムル。ターリア。お父様。ひとつひとつを慰めるようにミドラシュは名前を呼んで、やがて、切れた唇が震えはじめる。わたしの。わたしの、あたしの。老婆のように嗄れた声など、聞こえやしない。己は何も聞いていない。シャイロックは、女の唇がひらく様を、ただ、見ていた。そこにいたのは、寂しい母親の亡霊だった。子守唄は多くうたえど、哀悼歌のひとつもうたえない、ただのひとりの、虚しい女。
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歌屑とひやおろし