孤独を探求する男がいた。孤独であった男は、しかし孤独を理解したくて堪らなかった。男は哲学者であり、科学者であり、研究者だった。あるとき、彼はひとりの男の噂を聞いた。その男は自分と同じ西の魔法使いで、なんと、かつて生家が存在した丘に何百年と張りついているのだという。ひとや魔法使いが訪れる酒場を営み、時代の移り変わりを傍観するイカれた男。遠浅に佇み人々を愛でながら、されど過ぎた干渉を穏やかに拒む。それにはきっと、途方もない寂寥感があっただろう。男はその孤独に深い深い興味を抱き、ひとの心を踏み荒らす焼けた鉄の靴を履き、海の見える丘に建つ酒場の戸を叩いた。そして、酒場の主人たる男を見て、言った。きみの孤独に関する哲学を聞きたいと。
 
「何故、私にミドラシュを?」
「言っただろう。きみならミドラシュを気にいると思った」
 白々しいことを口にするムルを、シャイロックは冷ややかに見た。閉店間際のベネットの酒場に膠着する男は、その視線を受けてぱちりと憎たらしく片瞼を閉じる。窓から覗く夜には月も星屑も存在しなかった。空にはひたひたと深海に浸けたネイヴィブルーが染み込んで、洋燈の暖色のひかりが際立っている。あの日のように菫のリキュールのカクテルを味わうムルの双眸にはちろりと蛇のような打算づくめの欲が見え、己の手のひらを隠しもしない態度にシャイロックは苛立った。否、隠してはいるのだろう。だが、この男はわざとらしく手を見せて誘っているのだ。自分達の愛した駆け引きに。しかしシャイロックは牡猫に手を伸ばしもせず、ただ凍りつくような冷淡な眼差しを向けた。ムルは周到で狡猾な男だった。元より、この男が何かしらを考えてミドラシュを紹介したことはわかっていた。それに誘われたのは、ムルの脳裏を暴きたくなったからでも、幼い西の魔女に憐れみを抱いたからでもない。好奇や興味は抱きはすれど、シャイロックが応じたのは、己がミドラシュそのひとに出会いたいと思ったからだ。だが、蓋を開ければ、そこにはあまりにもわかりやすくはしたなく散りばめたムルの策略があった。ミドラシュは人間に育てられた魔女だった。伝統と技術の秘匿を重んじる宝石彫刻師の組合で、外へ一歩も出ることはなく、楽園と呼ばれた甘い蜜の部屋で育てられた。偶像のように祈られて、縋られながら。マナ石を吐くという物珍しい疾患を抱えた女は、宝石彫刻師らに原材料として愛玩されてきた。そしていつしか、西の国の最大の資源とも言える魔法科学技術にまで協力するようになった。この男は自分にとってそれが一体何であるか、充分に知っているはずだった。魔法科学技術に対する忠告を何度も耳にしながら、一切受け入れなかった世紀の智者は。ムルはくつくつと愉しげに笑って、グラスを傾ける。ムルはシャイロックの苛立ちをすべて平らげたように高慢な微笑を浮かべた。
「シャイロック、ひとつ面白い話を聞かせてあげよう」
 ある女の話だ。女は貧しい家に生まれたが、産まれ落ちたそのときに、産声をあげなかった。このままでは死んでしまうと母親が必死に叩いたことにより、赤子はようやく息を吹き返した。両親は赤子を隠しながら育てた。何故なら女は魔女であり、マナ石を吐く奇妙な疾患を持っていたからだ。マナ石は魔法使いや魔法動物の死骸から採れる高価な結晶で、魔法科学技術に用いられる重要な資源となる。この世に産まれ落ちたとき、女は一度死んだのだ。魔法使いが、それも金の卵を産む魔女がいると知れ渡れば、一体どんな目に遭うことか。疲弊した両親は、その赤子を金貨と引き換えに手放すことにした。あの魔女が恐ろしい。そう吐きだしたのは、ミドラシュに召使いの真似事をした若者だった。手に職をつければ食うに困らないだろうと組合に所属し、しかし彼はその時間の多くを魔女のため費やしてきたのだという。自身の師が良き魔法使いとしてムル・ハートを讃えた姿を見たからか、彼は組合に訪れたムルに縋りついた。あの、あの魔女が、あの毒母が恐ろしい。あれは災いだ。ひとを食いものにする悪しき魔女だ。顔を真っ青にしながら、若者が続ける。その唇までもが紫色に染まり、ぶるぶると吹雪に喘ぐように震えている。競争相手に独自の技巧を洩らさぬように始めに秘密を約束される組合に置いて、彼がどれだけの緊張と恐怖を持って告白しているかがありありと読み取れた。あの魔女は。
「……顔が変わる?」
「そう。ミドラシュは今までに幾度となく顔を変えてきた。無意識下に、最も人間の好みに合う、宝石の似合う顔立ちに」
 あの魔女は、顔が変わるのだ。一時的な魔法で劇的に別人の顔へと変わるのではなく、年月をかけて、ゆっくりと顔を造り替えていく。それは若者の悪夢が産んだ幻覚ではなく、事実であった。ミドラシュの父達はうつくしくあれとミドラシュに望んだ。うつくしく愛らしい、愚かな娘であれと。そして何よりも、こうありたい、こうなりたいと、ミドラシュ自身が望んだ。人間に愛される、良き魔女でありたいと。成長していく無垢な身体に魔法をかけて、少しずつ、少しずつ。若者は初めは気のせいだと思った。しかしあの魔女は、いつしか別人の顔を造りあげた。養父達はその姿を愛玩した。うつくしいと褒めそやし、魔女に過ぎぬ女に祈りを捧げる。それは、あまりにも気味の悪い光景であった。宝石彫刻師になることを夢見たはずが、彼に託されたのは毒と蜜でできた箱庭に住む魔女の世話だった。シャイロックの脳裏に、ミドラシュの姿が浮かんだ。長く艶やかな黒髪はうつくしさの表象。狭く小さな骨格はたおやかさの証。柔らかな肉付きは豊かさの標。ハリのある大きな乳房は母性の象徴。ならば、花冠と祈る指先、裸足に慣れきった頼りない両脚は。シャイロックを眺めていたムルは、実に面白そうに唇を歪ませる。
「あれは愚かだが、実のところきみが思う以上に逞しい」
「人間に、そうであれと擦り込まれた結果の間違いでは」
「いいや、必ずしもそうとは言い切れない。ところでシャイロック、きみは金魚が好きかい?」
 瓶の中身がとろりと宙に溶けだして、数匹の魚の形になる。ひらひらと柔らかなひれを揺らめかせながら、透明な魚達はくるくると洋燈の周りを回遊した。今では露店で見かけることも珍しくない、人間が観賞用に交配を重ねて産みだした、うつくしい魚。硝子の鉢でしか生きられない、人間に愛玩されるために完成した観賞魚。シャイロックの脳裏に、軽薄な悍ましい考えが浮かんだ。ばらばらになっていた思考の欠片が積み重なっていき、シャイロックの唇をこじ開ける。
「……あなた、まさか。その傲慢が許されるとでも?」
「だがミドラシュは許してきた。これは自己完成の美だよ、シャイロック」
 そこで初めてムルは、心底嬉しそうに笑った。そのあどけなき頬ははしたなく染まり、エメラルドの双眸が爛々と輝いている。直後宙を泳いでいた透明なさかな達はばしゃりと破裂し、タンブラーの冷たい水面におさまった。そこまで心のある男だとは思ってはいなかったが、シャイロックはムル自身がミドラシュを気にいっているのではないかと考えていた。ふたりにはお互いに不可侵領域があった。それは彼らが孤独な西の魔法使いであるからこそ当然として横たわっていた距離であり、ふたりは相手がどんな相手と親交を深めていたとしても、下手な干渉はしなかった。この西の国で魔法使いでありながらその名と智慧を知らしめたムルは、人間とも魔法使いとも、あらゆる結びつきを作っただろう。最愛はあの厄災であれ、心を寄せる人物がいてもおかしくはない。ムルはミドラシュを可愛がりはしなかった。それでもミドラシュに対して辟易する天才学者の様子はなかなかに酔狂で、そこには何かしらの情があるのではとシャイロックは思っていた。だが、そこに存在していたのは、ムルの狂おしい好奇だった。何よりも残酷だったのは、それはミドラシュに対してではなかったことだ。己の臓腑までもを見透かすようなエメラルドの瞳に、シャイロックはぞっとした。
「あれはいわば欲望を映す鏡の魔女だ。摘まれれば一瞬で枯れるような脆弱さながら、人間に最も好まれる柔く薄い美をその身に表してきた。徹底的に閉鎖された環境で、白痴美として適合して生き永らえた女。それがあの娘さ」
 つまり、人間が金魚を愛らしくつくったのではなく、金魚が人間のうつくしいものに惹かれる性質を利用して、愛らしい姿に成ったのだと。馬鹿げたことを、とは言えなかった。西の者達はうつくしいものを愛している。卵と鶏の因果性のジレンマを捻じ曲げこじつけたものに過ぎないと思いはしても、そこには悍ましい人間の欲望が存在していた。不意にシャイロックは、それらをすべて踏み台にして菫色の毛並みの牡猫は座っていたのだと気づいた。数多の欲望を吸って花開いたそれを連れてきて、己に会わせて。身体が凍えたように冷たくなる。血の気が引いた脳が冴え、忌々しい男の声が、苛立つほど鮮明に聞こえた。
「きみの欲望が知りたい」
 茫然とするシャイロックに、ムルは笑みを深める。そして、ムルはシャイロックの胸に指先を突きつけ、うっそりと口角をさらに吊りあげた。
「我が友シャイロック。きみは俺を憎み、妬み、僻み、そして憐れみながら、愛し続けている。ありのままを愛しながら、大嫌いで憎らしい親友を己の手で変えたくてたまらない。俺はそんなきみの欲望が見たい。ミドラシュは人間の欲望のままに育てられ、見た目ばかりを着飾った、思慮のない馬鹿な子供のような女に完成した。きみの欲望を映したミドラシュは、一体どんな姿になる?」
 ありのままを愛していた。たとえ己の美意識にそぐわぬ人物であろうが、その在り方を変えようとする行為はあまりにも無粋だと、シャイロックは他者を否定し矯正する行為を疎んだ。シャイロックは自己も他者も尊重していた。だが、その美意識を初めて背かせようとする男が現れた。その男は、相手の心を無粋に踏み荒らす、焼けた鉄の靴を履いていた。ひとの心も風の行方も問わず、すべてを暴き立てようとする自惚れ屋。誰よりも古く新しい智慧を持った魔法使い。称賛にも中傷にも興味がない本物の天才。愛しくて、憎らしくて、ああ、いっそこの男の、ムルの在り方を変えてやりたい。それは、シャイロックが最も抱えたくも触れたくもなかった、穢らわしい欲望だった。己すら目を背け、誰ひとりにも見せたくなかった感情。よりにもよってそれを引きずりだしたのは、他でもないムルだった。シャイロックの感傷は、あまりにも醜い形で暴かれた。シャイロックは耐えかねたように瞼をおろす。どろりと腐り落ちるような感情が身の内側に溜まっていくのを、確かに感じていた。しかしシャイロックは艶然と花の煙を吐きだして、ムルを睨んだ。
「なんて下品で無粋な男でしょう」
 静かな店内に、嘲笑めいた低い声が響いた。シャイロックの顔は、あからさまな軽蔑へと変わっていた。ムルを見下ろしていたのは、世紀の智者たる男でも未だに解剖し尽くせない、上等で傲慢な西の魔法使いだった。だから共にいる。この男を知り尽くしたくてたまらない。ムルにとってシャイロックは最も親しい友人であり、その歪な在り方に知的好奇心がくすぐられる相手だった。月の下でひとの気を惹くのが得意だと口にする色男が、月光のない濃藍の暗夜に、怒りを露わにしていた。貴族の出に相応しい上品で教養に満ちた上面を棄て、憎悪を滲ませている。それは鎧に花を飾って浮きでた感傷だった。月に恋をする哲学者。エメラルドの輝きを持った宝石商。それらはすべてムルを構成する一面だ。シャイロックはさも残念そうに肩を竦め、紫煙をくゆらせる。しかし、その双眸は凍りついたままだった。
「今宵のあなたは迷惑男のムルだったようですね。そんな倫理観に欠ける馬鹿げた賭け事で、私が惹かれるとでも? 私を引き止めたいのなら、もう少し誘われ甲斐のある口説き文句を仰ったらどうですか」
 ミドラシュは、人形ではないでしょう。そう静かに続けたシャイロックに、ムルは月のように瞳を歪めた。彼の反応を始めからわかっていただろう顔だった。ムルがミドラシュを見初めたとしたら、それは彼女が欲望のままに顔を変えて愛玩されたことだけだった。あの女は人間の欲望を映した継ぎ接ぎの既製品《レディ・メイド》なのだと。
「そう。彼女は人形ではない。ミドラシュに恋をされているきみは、それがよくわかっているはずだ」
 初めて目にしたとき、シャイロックはミドラシュを少女のようなひとだと思った。年頃の少女から妙齢の女性へと移り変わるほどの顔立ちはやや幼さを残しながらも成熟した肉付きの良い身体が女性そのもので、彼女の容姿には不釣り合いな稚さは、その内面から来るものだった。ミドラシュはあまりにもあどけなかった。言動こそは礼儀正しく落ち着いているとも言えたが、それでも彼女の声色と言葉は無知で純粋な内面を織りこんで、己の愚かさを隠そうともしない。徐々に外の世界を知っていきながらも「楽園」の永遠を疑わず、それこそが完璧で最もうつくしい調和した世界であると信じている、盲信的に夢を見続けている女。よたよたと頼りない両脚でついてくる姿を、まるで親鳥を追いかける雛のように愛らしく思った覚えもある。好かれることには慣れている。シャイロックは、ミドラシュに好かれていることを理解していた。夢見るような眼差しをした無垢な娘に好かれていることに、悪い気はしなかった。シャイロックは愛を愛している。それでもミドラシュがシャイロックに抱く好意は、酷く歪だった。ミドラシュは夢を見すぎていた。
「あれは目覚めて初めて見たものに恋をしているだけですよ」
 すべては盤上の出会いであったのだと、シャイロックは吐き捨てる。己にひとで人形遊びをする趣味はない。ムルやシャイロックを見上げたミドラシュが浮かべた不自然なほどの好意は、同族への絶望的な飢えから来るものだった。ミドラシュは人間を父と、家族として慕ったが、それでも彼女はひとりの魔女に過ぎなかった。あれは愚かであったが、己が彼らと同じ存在ではないことはわかっていた。ゆえに、人間に尽くすことを望んでいる。ミドラシュは、この世界にも、シャイロックにも。夢を見て、夢を見て、何も見えなくなっている。そしてはからずも目覚めたとき、シャイロックをうつくしい、自分と似た存在であると思いこんでしまった。
「お帰りになって。今宵はもう閉店です」
 この男はうつくしいと見せかけたもので、すべてを食い尽くす気なのだろう。清い水に入れられた貝が砂を吐きだして、そして平らげられてしまうように。シャイロックの愛するものを穢して、されどその姿をどうしようもなく愛させる。この夜に、月が存在しないことだけが唯一の慰めだった。いつしかきみは鏡を覗き込むようにミドラシュを見据え、好ましく思うようになる。いつかのムルが口にした言葉が、まるで呪詛のようにシャイロックの頭に響いた。シャイロックはぼんやりとムルが去っていった扉を見た。好奇心で死ぬような男だった。自分の犯したことに責任を払おうとしない、無責任な男。いつしか痛い目に合うだろうと、その姿を親しみ憎んでいた。赤い双眸に滲むような疲労が浮かぶ。やがて、シャイロックひとりを残した静寂の世界で、酷く乾いた笑い声が零れた。男は肩を小さく揺らし、自嘲を洩らす。それは壊れた鍵盤のように白々しく店内に響き、蝕み、呆気なく途絶えた。




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歌屑とひやおろし