世は移り人は幾代も変わっている。しかし、金魚は、この喰べられもしない観賞魚は、幾分の変遷を、たったひとつのか弱い美の力で切り抜けながら、どうなりこうなり自己完成の目的に近づいてきた。これを想うに人が金魚を作って行くのではなく、金魚自身の目的が、人間の美に牽かれる一番弱い本能を誘惑し利用して、着々、目的のコースを進めつつあるように考えられる。
──岡本かの子〈金魚繚乱〉

 丸く小さな水槽で、くるくると金魚が回っている。ひらりひらりと真っ黒なメープルの葉を思わせる尾鰭を揺らし、ずんぐりとした身体で何処か落ち着かなさそうに泳いでいる。彼女の目はぎょろりと大きく飛びだしており、その顔は縋りつかれるように長い毛並みを持った何処ぞの野良猫のようだった。実のところ硝子鉢に映るふたつの巨大な目玉は件の野良猫のものであり、野良猫は、興味津々に金魚を覗きこんでいた。金魚の動きに合わせて青い眼球が何度も動き、ぴっとりと鼻先すらつけながらミドラシュは硝子鉢を眺めている。水槽越しのミドラシュはまるで水中の住人のようで、ゆっくりとあがっていく空気の泡ですら彼女の星月夜の瞳に一匙煌めきを付け加えていた。一インチ向こうの景色はうつくしい。火照った顎がこてりとサイドテーブルの上で傾くと、銀のラリエットも涼やかに落ちる。ミドラシュと名前を呼べば、彼女はひょっこりと顔を出した。野良猫というよりはうさぎを彷彿とさせる仕草だった。乱れた髪が一筋浮きあがり、ぽつんと生えた雑草のように黒い頭で揺れている。
「ンなァ?」
「彼女は暫く預かって差しあげますから、あなたは引き取り手が見つかったらまたいらっしゃい」
 わかったァ、とふやけたような声で言ったミドラシュは、そのままひとつ大きな伸びをした。夜を拐った髪がぼさぼさと溢れ、ミドラシュのあられもなく覗いた胸元や背中にかかる。シャイロック、ありがとう。シャイロックの胸に頭を押しつけたミドラシュは、一升瓶を片手に立ち去っていく。最後に階段から転がり落ちる音と少しの沈黙、くぐもった情けない泣き声が聞こえたが、シャイロックは気にしないことにした。相変わらず落ち着かない様子で泳いでいる金魚を見下ろして、全く以て酷い飼い主だとシャイロックは硝子越しにそっとなぞる。この金魚はミドラシュが人間から譲ってもらったという、何の魔法も魔力もない、ごく普通の魚だった。ミドラシュは水槽を抱えて意気揚々と連れて帰ったが、自業自得にも……不幸にも借りていた住居の管理人から「部屋が汚すぎる」と追いだされ、金魚と共に酒場を転々としていたらしかった。あの女に生き物の世話ができるはずがなかろうにと、シャイロックは口を開く。瞬く間に豊かな水草を添えられた金魚は、嬉しそうにその影に隠れた。
 隣室から家具が引きずり倒されるような物音がして、シャイロックはおもてをあげた。次いで獣のような唸り声と布を引き裂く激しい音が響き、ばたばたと誰かが部屋中を這いずり回っている。シャイロックは仕方がないひとだと扉を開く。部屋はまるで強盗が入ったように物が散乱していた。テーブルや椅子、箪笥までもがひっくり返り、壁紙は剥がれ、留め具を破壊されたカーテンは大袈裟に破けている。衣服は脱ぎ散らかされ、あたえた食事は皿ごと床に散らばっていた。シャイロックは溜息を吐いて、正気の箍が外れたとしか思えない部屋に踏み入れた。この惨状を作りあげた犯人は、部屋の隅で震えていた。引き裂いたカーテンを巻きつけた身体は何年も日の光を浴びていないように青白く、覗いた裸足はごつごつと骨の形が目立っていた。男は白いカーテンの他に何も纏ってはいなかった。
「ムル」
 恐る恐るとあどけなさを残す顔があげられる。触れればぱらぱらと毛先が切れるほどに乾いた菫色の髪が揺れ、その奥で、エメラルドの瞳が開かれた。しかし、その目には凡そ正気と呼べるものはなかった。かろうじて己の名前という符号を理解し、反射的にこちらを見やっているだけだ。シャイロックは踏みにじられただろう乱れた衣服を拾いあげ、ムルのもとへと向かう。その間も、ムルは獣のように唸り続けるだけだった。そこにかつてのムルの面影はない。あの挑発的な眼差しも、ひとを食ったような微笑みも、知的で靦然たる内的世界も、今のムルは持っていなかった。
「服を着て」
 シャイロックが衣服を差しだせば、怯えたようにムルは身を縮ませた。どれだけの時間が経ったことだろう。ぼろぼろのカーテンからゆっくりと顔を覗かせたムルはか細く唸り、じっとシャイロックの手を見つめた。やっと落ち着いたかと安堵したのも束の間、ムルはその秀でた指に噛みついた。ひとの顎は指一本などゆうに噛みちぎれる力がある。理性が消えたムルなど尚更だった。肉が抉られギリギリと骨すら軋む気配に呻いたシャイロックは、ムルの顔を掴んで押し倒した。咽びながら嫌がる口に親指を入れ、こじ開ける。抵抗するムルは激しく床をのたうち、泣き喚いた。唾液混じりの血がムルの蒼白の唇や鼻梁を汚し、だらだらと赤と銀の糸を伸ばしている。まるで毒蜘蛛がムルの顔で巣をつくったような光景だった。指先と口腔が繋いでいた糸がぷつりと切れ、シャイロックは脱力したようにムルを見つめた。叫び疲れたらしいムルは、涙で濡れた瞳でぼんやりと虚空を見上げていた。
 ムルは壊れてしまった。愛しい月に近づきすぎて、魂を砕かれ、獣のような姿に成り果ててしまった。世界を変革した代償を、支払った。シャイロックは血塗れの手を伸ばし、ムルの輪郭に触れる。腥い香りが漂っても、その五指が首にまで辿り着いても、ムルは無反応だった。欲に塗れたはしたない言葉が恐ろしいまでに自ずと洩れそうになり、シャイロックは喉を引き攣らせる。ムル、とかろうじて呼んだ声も如何にも哀れっぽく、惨めだった。頸部を押し潰そうとしていた手はやつれたうなじへと回り、シャイロックはムルを抱きあげる。弛緩した彼の首ががくりと人形のように己の肩に重みをかけ、菫色の毛並みが喉をくすぐる。いっそ、泣いてみた方が楽になれるだろうかと思った。




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歌屑とひやおろし