魔法使いは魔法を行使する際にそれぞれ魔道具という装具を使うことがあるが、その他にもアミュレットとマナエリアと呼ばれる魔力を高め安定させる効果を持つ心のよすがを持っている。そのふたつは関連性がある場合が多く、例えばシャイロックのアミュレットはワイングラスであり、マナエリアはワイナリーであった。シャイロックのかつてのマナエリアは生家の醸造場であったが、現在はいくつかのお気に入りのワイナリーを転々としているのだという。今日は酒場とワイナリーに用があるのだというシャイロックに付き添い、晶とムルは西の国きっての高級リゾート地である神酒の歓楽街を訪れることになった。同じく富が集まる場所ではあるが、神酒の歓楽街は豊かの街よりも洗練された、言うならば瑞々しい賑やかさを纏っているような気がすると晶は思う。空の青さが目に染みる。街の活気こそはリゾート地に相応しい精彩で溢れていたが、耳を澄ませば、静かな海の波音がした。シャイロックは在りし日の情景を懐かしんでいたが、その街並みは晶が目を輝かせるには充分だった。何処にいても潮の香りが漂っていて、今でこそ行き交う人々の波は穏やかだが、日が落ちれば不夜城の如き喧騒と盛況に包まれるのだという。かつてベネットの家が存在していた、シャイロックの愛する地だった。
 西の魔法使いはいつも賑やかでマイペースだが、シャイロックとワイナリーとなれば必ずや飛びつくだろう一際騒がしい魔女が今日はいない。宝石彫刻師であるミドラシュはどうやら依頼された装飾品を納品しに行ったらしく、魔法舎ではここ数日間姿を見かけなかった。顧客は裕福層に集中する。このあたりもよく彷徨いているようですし、もしかしたら出会うかもしれませんねと、シャイロックは冗談めかして言った。そのとき、何か喧騒じみた音が耳に届いた。何やら騒ぎがあったらしいとひとの垣間を覗いた晶の顔が固まり、続けてシャイロックの微笑も硬直する。ムルだけが呑気に愉しそうな声をあげ、その光景を覗きこんでいた。
「出てけこの酒狂い!」
「ああんそンなァ! お優しい旦那サマ、どうかご慈悲を! あと一杯……ボトル一本だけ! 哀れなあたしに──ギャンッ」
 そこには店主らしき壮年の男の足にしがみつく、黒い髪の女がいた。如何にも泥酔した様子で抱きつき、涎を垂らしながら懇願している。近くには何本も酒瓶が転がっていた。縋りつかれるように長い髪からは蕩けたような赤ら顔が覗き、焦点はとっくに何処かに消えていた。暫く言い合いを繰り返していたが、とうとう女は勢いよく顔面を蹴られて振り払われた。べしゃりと地べたに転がった女は髪で見えない顔を両手で抑えながら起きあがろうとするものの、横転。そして、女はその場で盛大に嘔吐した。びしゃびしゃと水分過多な胃の内容物を戻す女の姿に、周囲は引いた様子で踵を返していく。シャイロックの表情は徐々に感情を失っていったが、彼は狼狽する晶に振り返った。にこりとひとの良さそうな笑みをつくるシャイロックに、晶は思わずと背筋を伸ばす。
「さて、参りましょうか。賢者様」
「で、でもシャイロック……あれはミドラシュじゃ……」
「……ん……ンよォ……?」
 何も見ていなかったことにしてにこやかに案内しようとするシャイロックの後ろで、のっそりと顔をあげたミドラシュが、うろうろと四つん這いで声の在処を探しはじめていた。地面を這う己の髪を手足で踏んづけたらしく、汚れた赤ら顔を何度か地べたにぶつけては哀れな猫のような鳴き声をあげている。その姿は喜劇を通り越して悲劇的な憐愍を漂わせ、わかりやすく同情を買った。仕方がないとシャイロックが溜息をひとつ吐いたとき、ミドラシュの小さな耳がぴくりと動き、細い首が持ちあがる。そのまろい肩や胸元、覗いた太腿までもが火照り、浮いた鎖骨にたらりと雫が伝っていく。不健康なミドラシュの皮膚は薄かった。黒い房や糸が湿っぽく張りついた顔はぼんやりと晶達に向けられていたが、ゆっくりと焦点を取り戻していった青い瞳は、見る見る間に輝きだした。星月夜の瞳をちかちかと幾度も煌めかせ、何年も待ち侘びた旧友にようやく出会えたような胸迫る表情を湛えたミドラシュは、腕を広げながら三人に駆け寄った。
「ジェリーロラム! ジェミマ、カサンドラ!」
 誰ひとりとして合っていなかった。
 
 どうやらそれはミドラシュの友達の魔女の名前らしかった。ぐったりと動かない様子を見かねた隣のムルに水を飲ませて貰ったミドラシュは、もごもごと幸せそうに氷を頬張っていた。熱のこもった身体には丁度良いのか、ミドラシュは口で氷を味わいながら、両手ですりすりと冷たいグラスを撫でている。拭かれて幾分か綺麗になった髪は、艶やかにミドラシュの肩や背中に垂れていた。路上で放置されるのは些か哀れだとミドラシュを連れた彼らは、近くのパブを訪れていた。観光客に人気なのだという昼時のパブは騒がしい。客の話し声や笑い声、フォークやナイフが皿を擦る音がひっきりなしに響き、調理場から運ばれる出来立てのスペアリブの食欲を誘う濃厚な匂いが漂った。薄汚れたメニュー表にはずらりとビールの名前が並び、ベタベタと貼られたシールにも妙に心をくすぐる味がある。晶はベネットの酒場とは全く違う意味で心地良い空間だと思った。先ほどまでの痴態はどうしたのか、ミドラシュはすっかりと上機嫌になって話しだす。三日前の晩に彼女は依頼された首飾りを手渡し、それからずっと神酒の歓楽街で呑み歩いていたらしい。ミドラシュは元々何処にも所属せずに生計を立てているフリーの宝石彫刻師だったが、以前依頼を引き受けた貴族に組合への紹介状を書いてもらったのだと、鼻高々にしていた。
「シャァ〜〜イロックぅ、それ、あたしにも呑ませてェ〜〜」
 ミドラシュはけろりとした様子で興味津々にシャイロックのグラスを見つめ、そろそろと手を伸ばした。しかしその指先が触れる前に、シャイロックは流れるようにグラスをずらす。失望した顔をするミドラシュに、水を差しだしてすげなく言った。
「いけませんよ。あなたにはそれで充分です」
 今でこそ落ち着いたが、先ほどまでのミドラシュは、それはそれは酷い姿をしていた。あからさまに泥酔した姿でふらふらと千鳥足でうろつき、愛するシャイロックをこの美貌は友人のジェリーロラムだと繰り返す始末。シャイロックが頭を引っ叩いたところこれはシャイロックのような気がすると認めたが、その後も吐いたり倒れたり野良犬と喧嘩したりと、様々なハプニングを巻きおこしながらようやく此処に辿りついたのだ。尤もミドラシュの酩酊ぶりはいつものことだが、今日ばかりは禁じられても仕方がない。ミドラシュはあからさまに肩を落とし、テーブルにぺとりと頬をつけた。しかしきゅるきゅると収縮する奇妙な碧眼は楽しげで、ミドラシュはグラスの溶けていく氷が浮き沈みする様子を眺めていた。ムルは同じくテーブルに転がったラリエットに指を引っ掛けて遊んでいる。ミドラシュは感情の起伏が激しい人物だったが、どんな時でも明朗な、底が抜けたような情緒の持ち主だった。彼女の無邪気さは色めいた陰鬱げな雰囲気をかき消し、ちぐはぐとしたあどけない印象を残す。ミドラシュを前にしたときの大体の者達は、単純な好悪よりも奇人や変人への一驚が勝った。だが、こうして見ている限りでは酔いどれの女性にしか見えないと、晶は頬を緩めた。そのときだった。賑やかだった店内にざわりと不穏な空気が混ざり、入り口の方から何やらどよめきが聞こえる。何かあったのだろうかと晶が首を伸ばせば、そこには同じ制服に身を包んだ複数の男の姿があった。彼らは店主と話し込みながら、店の中を見渡している。
「憲兵だね。何か事件があったのかも」
「んふふふ……神酒の街の治安は良いが、たまァにこういうこともあるのだな……」
 ムルの隣でミドラシュは何故か得意げに片眉を吊りあげている。行儀悪く椅子に膝をつけて憲兵達を見つめる様は野次馬そのものだが、わくわくと輝いている碧眼に邪気はなかった。そして、ミドラシュと憲兵のひとりの目が、ばちりとぶつかった。憲兵の瞳が、大きく見開かれる。
「──いたぞ! ミドラシュ・ミードだ!」
「ほよ?」
 ミドラシュは抜けた声をあげた。如何にも不思議そうな眼差しをして、知り合いだろうかと首を傾げている。しかし彼らは恐ろしい形相でミドラシュの下へとやってきて、晶が止める隙もなくその腕を乱暴に掴んだ。両脇を固められ無理矢理立たされたミドラシュは星屑の住む青い瞳を白黒とさせており、唖然とシャイロックを見つめていた。他の客達は、見つかったか、早く連れていってくれと嬉しそうに憲兵を見上げた。歓声をあげて拍手を贈る者までいた。ミドラシュは訳がわからないと抵抗こそしたが、酔っ払いの女のそれが日頃から鍛えている複数の男に敵うはずがない。そのままミドラシュを連れて立ち去ろうとする憲兵達に、シャイロックが制止をかけた。
「お待ちになって。一体何の騒ぎですか。彼女にどのような関係が?」
 低く落ち着いた声色だったが、その微笑は取り澄ましたように冷たかった。警戒と緊張感を纏うシャイロックの前に、ひとりの憲兵が侮蔑を隠さずに立ち現れた。その面差しを、シャイロックはよく知っていた。己を魔法使いであると確信し蔑む顔。もしくは、魔法使いと付き合うなどろくな人間ではないと卑しめる顔。神酒の歓楽街はいつ魔法使いの立ち入りが禁じられてもおかしくはない場所だった。憲兵は徐にシャイロックに一枚の文書を見せ、ミドラシュの髪を鷲掴んだ。無理に首をあげさせられたミドラシュの顔が苦痛で歪む。そのとき、晶はシャイロックの瞳に湛えられた一瞬凍りつくような冷ややかさを見た。容赦のない腕にさらに力が籠められ、ミドラシュは息苦しさに喘ぐ。だらりと生理的に垂れていく涎に穢らわしいと言わんばかりに顔を顰めた憲兵は、厳酷に告げた。
「この悪しき魔女、ミドラシュ・ミードには多くの容疑がかけられている。善良な宝石彫刻師の組合に呪われた首飾りを渡し、そして依頼人マリス夫人を危うく死に追いやりかけた。詐欺罪、魔術偽計罪、及び殺人未遂の容疑で連行する」
 
 ミドラシュが逮捕されたという衝撃的な事態は、瞬く間に魔法舎中に知れ渡った。あの魔女は四六時中酩酊している。酔いどれて不祥事を起こしたのだろうというのが多くの賢者の魔法使い達の見解だったが、純粋に心配の念を寄せる者も少なくはなかった。ミドラシュは無自覚にあらゆる災難を振り撒くトラブルメーカーだ。決して人好きのする女ではなかったが、彼女の人畜無害な気質はそれなりに評価されているらしかった。ミドラシュは誰かに騙されたに違いないと言い切ったのは、意外にもリケだった。ミドラシュは下品でだらしないですが、信心深いひとです。悪徳に目が眩んだ何者かが、彼女を陥れたに違いありませんと。リケとミチルはミドラシュが心配だと起きていたがったが、夜はすっかりと更け、子供達はベッドに入るべき時間帯だった。昂奮で目が冴えてしまっているだろうと、名残惜しそうなふたりをルチルとレノックスが部屋まで送ることになり、それと同時に幾人かの魔法使いも去っていく。談話室には賢者と西の魔法使いが残された。シャンデリアの蝋燭と大きな暖炉が甘いオレンジ色のひかりを零し、ぱちぱちと薪が燃える心地良い音が鼓膜をくすぐった。話の主題とは裏腹に談話室は暖かく穏やかで、そこにはいつもと変わらない夜があった。
「一度話を整理しましょうか」
 マイペースな西の魔法使いは話が脱線しやすい。リケが去った後は、シャイロックがその場を仕切った。彼は西の国の先生役としてムルとクロエ、ラスティカに授業を行っている。妥当な配役だった。シャイロックはいつもと変わらないように見える微笑みを浮かべていたが、それゆえに、パブで見せた冷たい目を晶に思い起こさせた。温度はなくも無感情的とは言い難かった。晶を戸惑わせたのは、彼の瞳に一瞬宿ったものが、いっそ憎しみに近かったことだった。凍りつくように冷ややかな、憎悪を灯した洋紅の双眸。しかし今の彼の横顔にあの苛烈さは滲まず、シャイロックは冷静に話し始めた。
 ミドラシュが宝石彫刻師の組合に紹介状を書いてもらったのは、半年近く前のことだった。現在は西の国の「欲望に堕落した」姿により職人業の体制も変わりつつあると聞く。だが、特に宝石彫刻師の、古来より引き継がれてきた技術は門外不出だったという歴史は長い。ミドラシュの喜びようは当然と言うべきそれだった。それからミドラシュは暫く組合の名義で活動してきた。一連の事件の始まりといえば、今から二ヶ月前のことだ。是非とも女宝石彫刻師のミドラシュ・ミードに首飾りを作って欲しいと、一通の手紙が届いたのだ。手紙の差出人は街でも名のしれた資産家であるステラ・マリス夫人であった。ミドラシュは快く引き受け、この二ヶ月間定期的に彼女の下へと通いながら首飾りのデザインを構想したのだという。そして三日前、ミドラシュは宝石彫刻師の組合へと納品しに向かい、同じ組合に所属する職人にステラ宛ての首飾りを渡した。その後ミドラシュは依頼を遂行した達成感を覚えながらリゾート地の酒場を楽しく呑み歩いていたが、彼女の預かり知らぬ場所で騒動は起こっていた。翌日届けられた首飾りをかけたステラの容態が、見る見るうちに悪化したのだ。彼女の滑らかな蒼白の膚は真っ赤に腫れあがり、うつくしい顔を塗りつぶすように大量の水痘ができた。彼女は息苦しそうに喘いで蹲り、痙攣する腕で己の首を絞めあげたのだという。その姿は、正気を失い、自死を謀ろうとする狂人のようであったと。ステラは伯爵の位を持つ貴族の出だ。すぐさま医師と憲兵が駆けつけ、首飾りをつくった宝石彫刻師たる魔女の捜索が始まった。つまりミドラシュは、自分が容疑者として指名手配されていることなど全く知らず、丸一日呑んだくれていたのだ。
 その後シャイロックとムルは拘置所に収容されているミドラシュとの面会が僅かに許されたと聞くが。ミドラシュの話すことは相変わらず瞭然としなかった。しかし、ミドラシュは「ステラはそんなことをしない」と主張を譲らなかった。
「典型的な騙り詐欺だね」
「フィガロ……」
「こんばんは、賢者様。シャイロックも」
 頭上から降ってきた声に晶が慌てて振り返れば、そこにはソファの背もたれに肘をつくフィガロがいた。にこりとひとが良さそうに微笑んだフィガロは、そのまま流れるようにシャイロックに視線をやった。
「こんばんは、フィガロ様。こんな夜更けに一体何の御用ですか?」
「ルチルとミチルが随分とミドラシュを気にかけていたからね。それに、君も可愛いあの子を心配してると思って」
 慰めてあげようかと重ねるフィガロに、シャイロックの微笑がゆったりと底に沈むように深まった。凍りつくような表情に楽しそうに笑ったフィガロは、そして晶の隣に無遠慮に腰掛ける。現在は賢者の魔法使いとして生活を共にする間柄だが、度々ベネットの酒場を訪れていたフィガロはもとよりシャイロックと知人であった。フィガロはひどく愉快だと顔を歪め、大袈裟に足を組み、晶に微笑みかけた。彼の色彩は北の海の水面を思わせる。柔らかく波打つ髪にはくすんだプルシャンブルーがうっすらとかかり、緩やかな輪郭を描く灰色の双眸の中心で、鮮緑の瞳孔が爛々と輝いていた。フィガロは二千年という途方もない年月を生きている。今でこそ南の魔法使いとして穏やかな表情を浮かべているが、かつてフィガロはオズと共に世界の半分を征服した北の魔法使いだった。人間と魔法使いの調和といううつくしい理想を語りながら、冷酷で道徳心に欠ける人ならざる一面を覗かせる。しかし、時折子供のような姿を見せるひとだった。フィガロはあのシャイロックを青く怒らせ、それを宥めている自分という構図が好きなのだという。フィガロは善良な弱い魔法使いを演じている。長命の酔狂な享楽を思わせる役割演技は、しかし冷気のような侘しさを纏っていた。
「まあ、街一番の資産家を巻きこむのは、いくら何でも下手を打ちすぎているけど」
「俺も、そう思います」
 暗に、ミドラシュを追いだすための宝石彫刻師の一芝居だけとは思えないと。確かにそう考えるにはあまりにもリスクが大きいと晶はフィガロに同調した。ミドラシュが厭われる理由はよく理解できるが、たったひとりの魔女を追放するためだけにそこまで大掛かりな芝居を打つだろうか。それともステラが何かしらの思惑を秘め身を犠牲にしてまで招いた事態だったのだろうか。しかし、そう単純に事を語るには不可解な箇所がいくつも存在していた。顧客の大半が裕福層であろう宝石彫刻師が信用に関わる事件をわざわざ引き起こすとは思えないこと。そして、ステラからの答弁が一切ないこと。彼女は現在昏睡状態にあると聞くが、その周囲が何かしらの声明を出すのは至極当然のことであった。いっそのこと、他の魔法使い達が言ったようにミドラシュが酔った勢いで不詳事を起こしたという方が納得できた。けれどと、晶はミドラシュの純粋さを思う。軒下を気に入った猫のように自由気ままに魔法舎に住みつきながら、時折思いだしたように姿を消す酔いどれ魔女。ミドラシュはいい加減だが、ひとと酒と宝石に対しては誠実だった。ミドラシュが好かれる理由をあげるとするなら、それは彼女がひとを好いているからだ。誰もが彼女を愚かで俗世に塗れているというが、ミドラシュは不思議なほど愛情深かった。ミドラシュはひとを呪い傷つけるような魔女ではない。きっと依頼人の期待に応えようと、足しげく通い、丁寧に貞実に首飾りを作りあげたはずだ。
「あの……」
 黙りこんでいたクロエが、おずおずと手を挙げた。大きな紫水晶のような瞳はただただ不安そうに揺れる。クロエは肩を強張らせ、誰ひとりとして傷つけまいとするような、慎重な声色で告げた。
「えっと、ステラ・マリス……さんって、どんなひとなの?」
「元伯爵令嬢の貴族です。莫大な遺産を引き継いだ美貌の貴婦人ですよ」
 クロエの疑問に、シャイロックは口元に弧を描き、さらりと滑らかに答えた。人間と魔法使いといえど変わらぬ情勢を受ける同じ街の住人だ。ステラが名の知れた貴婦人であるのは勿論だが、酒場の主人であるシャイロックは彼女に関して知ることも多いのだろう。 
「貴族に相応しい優雅な立ち振る舞いをしながらも、敬虔で慎ましやかな方だと街の人々から親しまれている女性です。先代が築いた財産を多くの教会や孤児院に寄付されていて」
「遺産って……」
「不慮の事故で家族を亡くされているんです」
 彼女がまだ少女であったとき、泥濘に車輪を取られた馬車の転覆事故で両親と弟を失っているのだという。幸いにも生きながらえた彼女も、生涯治ることのないとされる傷を負った。以来彼女はマリス家が代々治めた領地を国に返上し、政に関与することなく慎ましく生きてきた。現在の西の国は急激な発展を遂げ、この数年だけでも所謂成金貴族と呼ばれる者達が数多く生まれている。同時にあえなく蹴落とされ、路頭を迷うことになった人々も。後ろ盾もなく権威と財産を手にしたうら若き令嬢が、毒に塗れた策略と権力争いに巻きこまれることは明白だった。彼女の選択は賢明であったのだろう。それからと、シャイロックはなだらかに言葉を続ける。
「特筆することがあるなら、内縁の夫がいらっしゃるところでしょうか」
 ステラには十数年と連れ添った恋人、アシャーストがいるのだとシャイロックは語った。アシャーストは平凡な庶民の生まれだったが、その善良な人となりは周囲に評価されていた。体制上婚姻を結ぶことは難しいが、だからこそ彼らを知る人々は彼女のことを「マリス夫人」と呼ぶ。シャイロックの言葉を聞いたクロエは、ますます難しい顔をした。話を聞く限り、マリス夫人は不幸な生い立ちを持った、慈悲深く奥ゆかしい女性であった。とても二ヶ月もの間ミドラシュを騙すようなひとには思えないと、事態は迷宮の入り口を叩きつつある。そもそも彼女にはそれらしい動機が見つからなかった。一体誰がミドラシュを陥れたのか、それとも本当にミドラシュがと顔を青くしていくクロエの手を、ラスティカがそっと握った。
「大丈夫だよ、クロエ。ミドラシュへの疑いはきっとすぐに晴れる」
 鮮やかな紺碧の瞳は、ただ凪ぐように穏やかで、優しかった。クロエとラスティカは、ミドラシュの無実を信じていた。あの困った西の魔女は、しかし心からひとを愛しているのだと。それはシャイロックもムルも同じであった。フィガロだけが盲目的だとからからと笑った。だが、真にミドラシュが罪を犯していたとしても、西の魔法使いは彼女を見捨てはしないだろう。ミドラシュが彼らの友人であるからだ。シャイロックは組んだ両手を悠然と膝に乗せ、ひとりひとりの顔を見渡すように視線を流し、背筋を伸ばした。シャイロックはたおやかな気品に満ちた男だった。落ち着いた物腰にはひとに慕われる慥かさがあり、赤く色づいた双眸は静謐な印象を纏った。とろとろと蝋が滴る音がする。ルベライトの瞳で仮初めの炎が燃ゆる。シャイロックの美貌は絵画のように完成されていたが、不意に、その形良い唇のあわいが緩んだ。
「……仕方のないひと」
 僅かに見えたそれに、晶は目を見開いた。ふっと褪せるようにつくられたのは、シャイロックのうつくしい顔には不釣り合いな、あどけなさすら含む表情だった。眉を下げ、少し遠くを見据え、本当に困ったという様子でシャイロックは笑みを零す。シャイロックは重い事態を受け入れながらも、そこに微かないじらしさを見出していたのだ。西の魔法使いは恐怖に歓喜する。迫り来る危険の前で、彼らは沸き立つ感情のままに笑う。だが、シャイロックの表情は悪戯ばかりをする仔猫を咎める飼い主のようで、ふたりの関係性を垣間見た気がした晶は、彼の顔から目を逸らすことができなかった。シャイロックはミドラシュを疎うことを隠しはしない。けれど、彼が月のように浮かべたそれは、あたかもシャイロックがミドラシュを可愛がっているような表情だった。シャイロックは伏せていた瞳を凛と細めて、うつくしい顔に何処か影の匂う微笑みをつくった。シャイロックは高貴な花の如き佇まいを持つ。されど、切り取られた薔薇のような儚さよりも、土壌に深く根を張って咲き溢れる気丈さが彼にはあった。
「明日には送検が済み、ミドラシュは最低でも十日は拘留されます。不起訴処分はおそらく不可能でしょう。その後ミドラシュは被告人として裁判にかけられます。人間が裁き、判断する、圧倒的に不利な法廷で」
 晶の脳裏に、魔女裁判という言葉が横切った。本来は魔女であることを立証し残虐に裁く異端審問の意味合いだが、彼にはどうしても葬られた歴史の負の遺産を彷彿とさせた。魔法使い専用の牢獄は知っていたが、魔術偽計罪という罪状も、魔法使いの裁判を聞くのも晶には初めてであった。大陸のほとんどの国がそうであるように、西の国でも魔法使いは快く思われていない。一体どれほど不利で不公平な状況が舞台となるのだろう。しかし、シャイロックは苦く笑った。
「それまでに手筈を整え、ミドラシュの無実を証明しなければなりませんね」
 クロエの顔が、ぱっとひかりを灯すように輝いた。ラスティカが嬉しそうに手を握り、ムルはわかっていたという猫のようなしたり顔で歓声をあげた。談話室に重苦しくのしかかっていた静かな緊張感は瞬く間に霧散し、西の魔法使いらしい賑やかさで包まれる。ムルはくるりと宙返りをして、シャイロックの頬を両手で挟んだ。エメラルドの輝く瞳をうっそりと細め、八重歯を見せてムルは笑う。冷たい菫色の髪がさらさらと逆さに垂れ、秀でた額が覗いた。彼はシャイロックの姿を興味深そうにも嬉しそうにも見つめていた。シャイロックはされるがままにおとがいを持ちあげ、口許を柔らかく綻ばせる。
「そう来なくっちゃ! どうする? 拘束して尋問する? 正面から行っちゃう?」
「王道は嫌いではありませんが、それは今度にしてください。ムル、私達がミドラシュを弁護するにあたり、必要なのは何でしょう」
「人間への従順さ、献身さ、多少のエンターテイメント性!」
 お見事です、とシャイロックは褒美をやるようにムルの頬を撫でた。ムルはごろごろと喉を鳴らし、そのままシャイロックの隣にぽすりとソファの座面に埋もれるように座りこんだ。シャイロックはムルの姿を愛おしげに洋紅の双眸で映し、さて、と口を開いた。時に夜の似合う刺激的な言葉を紡ぐ端正な唇は至って真摯で落ち着いた話を語り、されど何処か高揚感を覚えさせる。それはいけないことだと晶は汗を握る手を隠したが、シャイロックは晶の思考など見透かしているように目を細めた。まるで愛らしいものを目に入れるように。シャイロックの口ぶりは軽やかだった。シャイロックは晶に時折意見を仰ぎながら、穏やかに指示をした。まだ晶がこの世界に招かれたばかりの頃、彼は魔法使いについて語った。シャイロックは語り部のようだった。落ち着いた声音で、世界の汚さもうつくしさも呼吸をするように口にする。魔法使いは心で魔法を使う。感受性が強く、心に身を委ねてしまう。だから、愛を愛し、憎んでいる。それなのに、魔法使いは何にでも恋をしてしまう。自身の厄介な性質と周囲の思惑に辟易しながらも、奇妙な日々を楽しんで、ささやかな幸福を探しているのだと。西の魔法使いの根本の気質は快楽主義だ。曇り空に火花の大輪を咲かせ、投げられた石を鮮やかな花に変える。ミドラシュへの危惧と懸念を抱えながら、シャイロックは己の苦悩だけに酔いしれなかった。シャイロックは不道徳もイカれていると愛するだろうが、そこにはただ彼の倫理と信念があった。どんなときも楽しむことも忘れずに、薄氷に湧いた僅かな冀望も恋人を抱くように抱きしめる。
「それなら、俺たち南の魔法使いも協力しよう」
「おや、どういう風の吹き回しですか?」
「ミドラシュがあえなく有罪になったとき、きみを慰める役が必要だと思って……冗談だよ。俺も気になることがあるからね」
 囚われのお姫様を助けるためには手札が多い方が便利だろうと笑うフィガロに、シャイロックは溜息をついた。しかしその顔には穏やかな苦笑が浮かんでいる。以前に剣呑な雰囲気を纏ったふたりの姿を見たこともあったが、シャイロックとフィガロを取り巻くものも始終和やかであった。魔法使い達は宝石彫刻師の組合に向かう者、マリス家の邸宅を尋ねる者、図書館で魔法使いが起訴された過去の判例を調べる者で分かれ、それぞれの計画を練っている。囚われているのはお姫様ではなく酔いどれの魔女で、そして助けにいくのは王子様ではなく魔法使いだ。何処か不思議な高揚感をまとわりつかせ、蝋燭の炎がほんのりとぼやけ、そうして夜は更けていく。




目次
歌屑とひやおろし