「ムル、これは、絶対に絶対に食べちゃ駄目ですよ」
「んあ?」
「ああ、駄目ですってば……!」
既に大きく口を開けて瓶に噛みついていたムルを、晶は慌てて制した。ムルはわかったと返事をして、晶に渡されたそれを持ってぱたぱたと去っていく。ムルを見送った晶は安心感が込みあげるのを感じながらも、ただ祈ることしかできなかった。
図書室にやってきた晶は、幾つかの本と今までに得た情報を個人的に纏めた文書を見返していた。何度も読みこんだ文書だが、どうも何かを見落としているような違和感を晶は覚えていた。抜けるように高い天井を持つ広い書庫で、頁を捲る音がやけに大きく響いている。シャイロックが言った通り、裁判はあの夜から十日後に行われることとなった。今日で丁度七日が経つが、これほどまでに長く慌ただしい一週間があっただろうかと晶は思う。ミドラシュの無実を証明するための証拠を集めて奔走するなかも、魔法舎への依頼は次々とやってくる。準備こそ整えているが、はっきり言えば、ミドラシュの無罪を証明することは無謀だった。晶も彼らと共に過去の魔法使いが関与した裁判に関して調べたが、公開もされているものはこの一週間ですべて洗いだせるほどに少なかった。魔法使いの寿命は数百年から数千年と長く、魔法使いが産まれる確率は一万人にひとりとされるほど低い。約四百年にも及ぶ間の判例情報は、当然の理であるのか闇に葬られた結果なのか、晶にはわからなかった。数少ない判例も到底法の下で行われたとは思えない判決を下されており、晶は西の国における魔法使いへの差別意識を痛感する。その中には非人道的な裁きも存在していた。どれほど理にかなった言動を取っても、魔法使いのいうことは信用ならない、その一言で切り捨てられる可能性など大いにあった。
「賢者よー?」
「賢者ちゃんー?」
共鳴するようなおさないふたつの声に、晶ははっと顔をあげた。渦のある奇妙な金色の瞳がひょっこりと本棚から覗き、晶の姿をまあるく映す。可愛らしく駆け寄ってきたのは、瓜二つの双子の少年であった。大きな双眸は黒く艶やかな睫毛で縁取られ、甘い曲線を描く頬は雪に溶けこむほどに白い。お揃いの柔らかく翻る深緑のローブに首元の大ぶりのリボン、ふわふわとした真っ白な袖はまるでおとぎ話から飛びだしてきたような装いで、端正な顔とほっそりとした長い手脚は観賞用のドールのそれを思わせた。鏡を合わせたように立つふたりに、晶は口許を綻ばせた。
「スノウ、ホワイト。どうかしましたか」
同時に傾げられる小首、お互いに視線をやった煌めくゴールドの瞳。何処か白雪姫を彷彿とさせるフレーズ。これでは本当に精巧な人形のようだと、晶はふたりを見つめた。スノウとホワイトは北の国の魔法使いであった。彼らは稚い子供の容貌に反して数千年と生きており、かつてはあのオズとフィガロの師としてふたりの面倒を見ていたのだという。愛くるしい見た目とは裏腹に北の魔法使いらしい冷酷で破綻した貌を見せることもあるが、彼らは晶に親しさらしいものを覗かせた。少なくとも彼らは厄災討伐に協力的であり、人間や大陸の国々の間に軋轢を生まないように動く一面もあった。曰く、魔法使いは賢者に従うという。それを確かだと理解するほどの実感は湧いていないが、自分が魔法使いに庇護されていることも、スノウとホワイトがかつて賢者として喚びだされた者達を可愛がっていたことも知っていた。ふたりはわかっていたように広がった文書を眺め、その小さな手でそれぞれ晶の両腕を引いた。
「賢者よ、おぬし、随分と疲れているであろう?」
「今日は我らに付き合ってもらうぞ」
思わずと立ちあがった晶は、へ、と抜けた声を洩らす。疲れているだなんて。むしろ言葉に甘えて休息を取っているくらいだ。しかしふたりは有無も言わせずににこりと笑い、お互いの手を重ねた。呪文を紡ぐ甘い声が響いた。
「いらっしゃいませ、賢者様。どうぞ、こちらへ」
それは一瞬の出来事であった。ふわりと身体が重力に逆らう浮遊感に襲われたかと思えば、目の前の景色は一変していた。心地良いクリーム色の壁紙に、常に閉ざされた深紅のカーテン。大きなキャビネットには数々の洋酒が並び、その隣の本棚では分厚い書物が几帳面に収まっている。上品な赤色を軸とした格調高くも心地良い部屋の主はシャイロックだとすぐにわかった。それでも何処か初めて招かれたような新鮮さを晶に覚えさせたのは、金の貝殻の装飾がついた控えめなカブリオレ・レッグの寝台がなく、代わりに円い甲板のテーブルとそれを囲む四脚の椅子が置かれていたことだろう。トーンを抑えた淡い灰色のテーブルクロスが敷かれ、縁が花のように波打った食器の優美さが際立っている。中心の三段のケーキスタンドは金の鳥籠を思わせる形状をしており、小さなサンドイッチやタルト、スコーンが積み重なっていた。ただ品が良いというだけではなく軽やかな可愛らしさが演出されており、思わずと呆気に取られる晶に、シャイロックが微笑んだ。スノウとホワイトに背中を押され、シャイロックに招かれるままに晶はこわごわと椅子に腰掛けた。
「甘いドリンクも用意しておりますよ。よろしければいかがですか?」
「きゃー!」
「流石シャイロックちゃん!」
シャイロックがぱちんと指を鳴らせば、歓声をあげるスノウとホワイトの前に硝子のボトルのようなタンブラーがふたつ置かれた。ふわりと芳る果物の香りはレモンとブルーベリーだろうか。タンブラーにはミルクとそれぞれのフレーバーのシャーベットが注がれ、ひとりでに動きだしたマドラーがくるくると舞うように混ぜている。てっぺんにはたっぷりとしたホイップクリームとチョコレートソース、ミントの葉、宝石のように艶めくチェリーが最後にと添えられた。パステルカラーの可憐な一品に、晶はシャイロックはこういうものも作れるのかと目を瞬かせた。スノウとホワイトは金色の双眸を星を融かしこんだように煌めかせている。幸せそうにドリンクを味わうふたりの姿に晶が頬を緩めさせていれば、シャイロックが緩やかに振り向いた。
「賢者様は?」
「え、でも……」
「たまには、ね」
うっそりと目を細めて、少しだけ首を傾げる。さながら幼子を思わせるあどけない仕草に、晶はドギマギとし気づいたときには頷いていた。それとは裏腹に彼の僅かに擦れながら抑えられた声は筆舌に尽くし難い色気があり、ああきっと、こうやっていくらでも丸めこんでしまうのだろう。晶の素直さに愛おしそうに口許に弧を描いたシャイロックは、ふわりと指を浮かせた。スノウ達と同じタンブラーに淡い抹茶のようなシャーベットとミルクがかき混ぜられ、ホイップクリームにはきらきらと金箔が散る。仕上げには猫の形のクッキーが添えられ、晶はぱっと顔を華やがせた。差しこまれたストローにそっと口をつけた晶は、賛嘆で目を見開いた。イエローグリーンの正体は、ピスタチオのチョコレートのシャーベットであった。口いっぱいに程よい甘さの冷たいシェイクが広がり、人知れず渇いていた晶の舌を癒していく。人間は本能的に甘味に悦を感じるようにできていると聞いたことがあるが、それほどまでにチョコレートシェイクの滑らかな濃厚な甘さは心地良かった。おいしいです、と思わずといった調子で吐露した晶に、シャイロックは嬉しそうに笑った。
晶には、彼らが自分を気にかけてくれたのだと充分にわかっていた。自分よりも彼らの心労こそを不安に思っていたが、きっと、疲れが滲んでいたのだろう。シャイロックはいつもと変わらぬ貌をしていた。どんなときも余裕があって、大人びていて、端麗で艶やかな情調を纏う。気を紛らわせるために甘いお茶会を開いてくれたのだろうが、しかしシャイロックは晶の気掛かりを正しく感じ取っていた。明るい話題に花を咲かせるのではなく、シャイロックは裁判の流れのひとつひとつを丁寧に話し聞かせた。そして気品のある一息をついて、くすりと晶に微笑みかける。
「そう心配なさらないでください、賢者様。万が一が起こったら、私が法廷の天井を吹っ飛ばしますから」
「えっ」
笑顔でさらりと告げられた言葉に、晶は硬直した。優雅な物腰を持つシャイロックとは思えぬ破天荒な台詞に、スノウとホワイトはやれやれと肩をすくめた。
「西の魔法使いじゃな」
「西の魔法使いじゃのう……」
「その昔、法廷の天井を吹っ飛ばして逃亡した西の魔法使いがいたのう……」
西の国と中央の国は現在緊張状態にある。西の国からは魔法舎の場所を自国へと移すようにと要求されており、それゆえに余計な揉め事を起こすなと。憲兵がシャイロック達を軽蔑したように、西の国では魔法使い、さしては賢者の魔法使いは快く思われてはいなかった。ひとは異端に過敏だが、魔法科学技術が普及した国の人々の多くは、魔法使いを軽んじていた。これ以上魔法使いの印象を下げられては困ると北の魔法使いたる双子が頬を膨らませてみても、シャイロックの表情は揺らがなかった。冗談なのだろうとは思いつつも、シャイロックはさも当然のように告げたのだ。彼は懐かしむように長い睫毛を伏せて、整った唇を三日月の形に描いた。
「ムルも何度か訴えられていますが、すべて勝訴していますよ」
「ムル、訴えられたことがあるんですか……!」
「ええ、あの性格ですから。侮辱罪、詐欺罪……ああ、姦通罪もあったかな」
傲慢で理知的で、不慥かで挑発的な、月に恋をするエキセントリックなひと。現在の魂の砕けたムルもその面影を残しているが、知的好奇心ばかりが先走りひとを怒らせることが得意な彼のひとが訴えられるというのは、はっきり言って想像に容易かった。私も訴えてやりたいですね、と告げた声色の方が冗談とは思えず、晶は苦さを含んだ愛想笑いを浮かべる。ピスタチオのチョコレートシェイクは、すっかりとホイップクリームと混ざりあっている。金箔を失って、どろどろと溶けて、境界線を曖昧にした瓶底。エメラルドとミルクが濁るまで溶けあってしまったように。もったりとしたそれを含めば、何も変わらない甘い冷ややかさが口腔を満たしていく。
「だからどうか、その肩の重荷を下ろしてください、賢者様」
彼の声も、何も変わらずに優しかった。シャイロックの纏った優雅で静謐とした鎧は、されど恐ろしいほどに自然にその美貌に馴染む。深いボルドーの髪がはらりと嫌味なくほっそりとした頬桁から顎へと垂れ、輪郭の形良さを際立たせた。熟れた無花果の如き瞳が細まると、涼やかに切れた眦は厚みを増した。されど、シャイロックを何よりも引き立てるのは、内面から滲みだすような美や気品が見事なまでに彼の外装と吊り合うことだった。ありがとうございます、と本心を伝えれば、シャイロックははにかんだ。不意に、晶の口からついと言葉が洩れる。
「シャイロックは、ミドラシュを大切に思っているんですね」
「あれを大切にするのは難しいでしょう。だからですよ」
うっそりと緩やかにした彼の口許は優しげで、春の日のような暖かさすら感じられた。はぐらかすように見えて、きっとそれは衷心だった。矛盾を孕んでいるように見えて、案外シャイロックの美意識の筋には通っている。シャイロックはしなやかな細い指で小さなタルトをつまみ、晶へと向けた。一口大の可愛らしいパートシュクレにはぎっしりとチェリーが詰められ、てらてらと宝石のように輝いている。晶がおずおずと口を開けば、シャイロックは笑みを深めた。さっくりとした軽いタルト生地の香ばしさが口いっぱいに広がり、赤ワインの芳醇な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。チェリーと煮詰めただろう大人びた味わいは甘さが控えめなアーモンドクリームと絶妙にあっており、とろりと溶けだしたシロップと絡み合う。甘ったるいドリンクと合わせて用意されただろうお菓子は絶品で、気恥ずかしさを忘れてうっとりとした表情をする晶を、シャイロックは愛おしげに見つめていた。
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歌屑とひやおろし