そこそこ大きな規模の法廷であれ、傍聴席の埋まり具合は疎らであることは、少なくとも晶にとっては救いとなった。公開の裁判で、友人であるミドラシュが晒し者になる姿を見たくはなかった。おそらく、最大の被害者であろうステラが最後まで法に訴えなかったことが大きいのだろう。クロエにそっと背中を押され、思わずと立ち止まっていた晶は恐る恐ると法廷に足を踏み入れた。革靴の音が嫌に反響する。羽目板張りの壁は光沢を持つほどに磨かれ、天井の大きな照明がぼんやりとひかりを零していた。ほのかなセピア色の明かりが満ちている。傍聴席と審理の進行を切り離す木柵が、まるで牢屋の格子のように見えた。晶はゆっくりと席について、隣にクロエが座る。南の魔法使い達は二列目の席へと進んだ。一番奥の中央には真っ黒な法服を纏う初老の裁判長が座り、両隣には同じくどんな色にも染まることのない裁判官がいた。その下では書記官と速記官が並び、退屈そうにも見える無表情で座っていた。検察官側の用意は既に整っている様子だったが、被告側の席は空いている。何よりも目を引いたのは、中心に木製の台と刃渡りの長いナイフが置かれていたことだった。胸がざわめく。言葉にし難い緊張感が背筋を泡立たせる。晶はできるだけ音が立たないように帽子を脱ぎ、それとなく振り返った。どうなることやらと楽しげな様子を見せるフィガロと、常と変わらぬ落ち着きを払ったレノックス。ルチルとミチルは晶と目が合うと、少しだけほっとしたように苦く笑った。傍聴席には宝石彫刻師らしき者達がひそひそと言葉を交わしている。見覚えがあった。魔女が訴えられたそうだと好奇心のままに語る者もいる。クロッキーを手にする者は法廷画家だろうか。大丈夫だよ、とクロエが囁き、晶の手を握った。晶は、彼の手が震えていることに気づいた。そのとき、ひとつの扉が重苦しく開いた。クロエが小さく驚いた声をあげる。
「シャイロック……」
 その声に気づいたのだろう、シャイロックは流れるように視線と笑みをクロエにやった。シャイロックは如何にも法廷に相応しい紳士然とした装いをしていた。月光のない夜に溶けこむように黒い気品あるシルクハットを被り、僅かに陰る目元で切れ長の洋紅の双眸が伏せられる。立襟のブラウスとベストの上には穢れのない白のスカーフが何重にも巻かれ、シャイロックの首筋を隠した。胸元にはいくつかのささやかなブローチがあり、彼は潔癖そうな手袋を嵌めていた。意匠を凝らした金縁の釦でふたつ止められた黒地のコートの前は短く、ベストの裾が覗いている。コートの背面には切れこみが入り、ひらりと長い脚で遊ばれていた。踵の高いロングブーツがこつりと迷いのない足音を立てる。クロエが仕立てた黒一色を軸とした法服は、一流のテーラーが仕立てたと言っても過言ではない出来栄えで、シャイロックの魅力を十全に引き出していた。被告側の席についたシャイロックはシルクハットを脱ぎ、緩慢に手を組んだ。法廷では咳払いや木製の椅子の軋み、座席で姿勢を変える音が淡々と響いている。しかし、静寂のなかのさざめきは終わりを告げた。
「被告人ミドラシュ・ミード、入廷しました。皆様、御着席ください」
 傍聴席にいる人々は、一斉に鎮まりかえった。憲兵達に連れられて、ひとりの女が入廷した。艶を失った真っ黒な髪はぼさぼさと乱れ、だらりとちぎれたように裾の長いドレスに垂れている。麻の布地は何の色染めもされていないくすんだ白色で、襟元がほつれたそれは如何にもみすぼらしかった。やつれた脚はやけに革の薄い靴を引っ掛けるように履いていた。ふらりと女の顔が持ちあがる。縋りつかれるように長い髪が、星月夜を閉じこめた瞳が、揺れる。色を失った唇は締まりなく開かれていた。まるで、言葉も忘れてしまったように。酒の入っていない彼女の膚はこれほどまでに白かったのかと、晶は純然に驚いた。血の気が引いた土気色の肌は死人のようで、彼女の顔はこの十日間で老けこんだようにすら見えた。お気に入りだというラリエットも四六時中持ち歩く酒瓶もそこにはない。無垢だとも下卑ているとも評される笑みも存在しない。両腕は後ろで結ばれ、ミドラシュはただ不恰好に突っ立っていた。ぎょろりと動く奇妙な青い眼球はただ茫然と自分を見下ろす人間達を見つめ、動かなくなったミドラシュを憲兵達は引きずっていく。シャイロックに振り向こうとしたミドラシュの髪を憲兵が引っ張り、前を向かせた。シャイロックの表情が険しくなるのを、晶は見た。ひとり座らせられたミドラシュは何が起こっているかわかっていないという様子だった。ミドラシュの顔は見えなかったが、怯えているようにすら映った。何よりも、長い髪ですら隠しきれない両腕を閉じこめた拘束具が彼女を痛々しく見せていた。あれは魔法使い専用の牢獄で使われているものだとフィガロが囁いた。
「それでは開廷します。被告人は前に出てください」
 裁判長の厳酷な声が響く。ミドラシュはびくりと大袈裟に肩を揺らして視線を彷徨わせたが、ふらふらと証言台の前へと向かった。真っ黒な髪を揺らす姿が、いつもよりも小さく見えた。
「名前は?」
「ミドラシュ。ミドラシュって、いうの」
「姓も答えてください」
「わ、わたし、わたし……」
 童女のような声に裁判長は怪訝な顔をした。酷く掠れて渇いた、泣き疲れた子供のような声だった。抑揚に欠けたそれは到底ミドラシュのものだとは思えず、クロエは恐る恐ると唇だけで彼女を呼んだ。裁判長が重ねて告げた言葉にあからさまに動揺している。音を繰り返して吃る姿は何かが喉にこびりついているようで、ミドラシュは息苦しそうに身体を丸めた。その両手が拘束されていなければ、きっとミドラシュは迷わずに己の胸に手を押し当てただろう。今の彼女は、自分を慰めることも構わない、哀れな罪人だった。そのとき、凛とした声を聞いた。
「裁判長」
 常の優雅で人好きのする品格よりも、冷ややかさを覚えるほどの研ぎ澄まされた格調高さが目立った。いささか赤らんだひかりがうつくしい横顔に不思議な陰影を縫いつけている。シャイロックは静かに言葉を続けた。
「この通り被告人には心身耗弱の症状が見られます。代わりに私が答えても構いませんか?」
「認めます」
 感謝します、とシャイロックは微笑を深める。迷子の子供のように逡巡した様子を見せるミドラシュに対して、彼はただ冷静だった。シャイロックは、冒頭手続として裁判長に簡潔に受け答えをしていった。年齢、職業、出身地……それらが起訴状に記載された被告人と同一人物であることを確かめた裁判長は、じろりと不躾な視線をシャイロックにやった。幾度となく見てきた、残酷でひとを騙す、嘘つきの魔法使いを映す瞳だった。憲兵がミドラシュの髪を引きずっていく。法廷には暗闇のように底知れぬ厳粛な空気が押しかかり、しきりに背筋やら首筋やらをくすぐる。晶はぐっと自分の手のひらを握りしめて、シャイロックを見つめた。裁判長はシャイロックの素性を尋ねた。
「私は西の魔法使い、シャイロック・ベネットと申します。神酒の歓楽街で酒場を経営していますが、現在は賢者の魔法使いとして中央の魔法舎で過ごしています」
「被告人との関係は?」
「古い友人です。何分魔法使いですから」
 明確な言葉と取れるものはなかったが、途端傍聴席はざわついた。検察官や裁判官の顔もあからさまな軽蔑に変わる。しかし、シャイロックは漣の如きざわめきが聞こえていなかったように、飄々と笑んでいた。これこそがスノウとホワイト、フィガロが危惧していた事態だった。魔法科学技術が急激に発展した西の国に於いて、魔法使いは軽んじられるようになった。西の国の人間は得体の知れぬ「魔法」を羨み、恐れ、支配したがった。そして、相成った。人間は石と機械で奇跡を起こせるようになったのだ。何百年と続く大いなる厄災の襲来とそれを迎撃する賢者の魔法使いの戦いですら、魔法使いが作りだしたおとぎ話だと豪語する者もいる。たとえあの月が迫ろうとも、魔法科学の力によって充分に追い返せると。されど、投げられるものが石であれ花であれ、賢者の魔法使いとはこの世界に訪れる厄災を迎える守護の象徴だ。パレードや叙任式を執り行い、彼らの顔は至るところで知られるようになった。ミドラシュが連行された際、憲兵がシャイロック達に見せた軽蔑の視線。あれは、彼らが嘘つきの[#「嘘つきの」に傍点]賢者の魔法使いであると理解していたからだった。裁判長が手を挙げてどよめきを制する。よろしいと彼は髭を撫で、裁判官のひとりに目配せをした。
「これから被告人に対する殺人未遂被告事件について審理します。検察官は起訴状を朗読してください」
「公訴事実として、被告人は呪いをかけた首飾りを渡し、依頼人ステラ・マリスに殺人未遂を起こしたものである。詐欺罪及び魔術偽計罪、殺人未遂罪、以上について審理願います」
「検察官が朗読した公訴事実について、弁護人に尋ねます。何か間違いや言い分はありますか」
 シャイロックは悠然と告げた。
「被告人の無罪を主張します」
 
 証拠品として、実際にミドラシュが作りあげ呪詛を込めたという首飾りが中央へと運ばれた。厳重に硝子で覆われたそれは決して派手で華奢なつくりではなかったが、実に見事な出来栄えだった。細やかな銀細工には純白の真珠が飾られ、磨き抜かれたバリオンカットのエメラルドが輝いている。
 検察官側が用意した証人は、数人の宝石彫刻師達であった。宝石彫刻師の組合で出会った男の姿に、晶は目を瞬かせる。彼こそがミドラシュに首飾りを渡されステラに届けたひとりだという男だった。ミドラシュはどうなるのかと、恐る恐る賢者と魔法使い達に尋ねたひと。証言台に立った姿は、以前よりもあどけなさを残した純朴で気弱そうな青年に見えた。ほってりとした少々丸みを帯びた顔は青白く、厳粛な場を恐れているようにすら映った。法廷内の者達に見られていることに気づいた彼は、ぱっと赤面する。とてもミドラシュを陥れたような人物には見えなかった。青年はたどたどしく説明し、徐々に俯いていく。その内容は、以前シャイロックが語った内容とほとんど変わりはなかった。彼は事件の三日前にミドラシュから確かに首飾りを受け取り、翌日ステラの下に直接届けたのだという。証人は全員で三人いたが、ひとりはこの純朴げな青年であり、ひとりは事件当日に居合わせた人物であり、最後のひとりはその三日前に組合でミドラシュと接したというやや年老いた男だった。ミドラシュという嘘つきでいい加減な魔女。酒に狂いろくに話もできない女。今までに起こした不祥事の数々。金に目が眩みマリス夫人の資産を狙って巧妙に魔法に使ったに違いないと、証人のひとりは捲し立てるように語った。続いて、検察官と弁護人の尋問が行われる。
「あなたにこの首飾りを渡した人物は、被告人で間違いはありませんね」
「は、はい。間違い、ありません……」
「それは、わたしが渡したものではないわ」
 ぽつりと、筆先から垂れたインクが紙に広がるようにか細い声だった。結ばれた両手ががたがたと痙攣している。生ぬるい熱気がこもった風通しの悪い法廷で、彼女だけが凍えたように震えていた。ミドラシュ、とシャイロックが驚いた顔をする。落ち着かなさそうに椅子を軋ませて、ミドラシュは茫然と証人を見上げた。星月夜の瞳は、まるで懇願するような、縋るような色をしていた。しかし、如何にも惨めたらしい魔女を証人のひとりはせせら笑った。老いた顔に喜色を湛え、異形の愚かさと厚かましさを嘲っていた。
「ならば、ステラ・マリスがお前を騙したとでも?」
「ステラは、そんなことしない!」
「静粛に。被告人、発言を謹んでください」
 裂けるような叫び声。ガベルを叩く音が鳴り響く。一瞬人々の息遣いすら止まるなか、ミドラシュの喘ぐような吐息だけはぼろぼろと静寂に落ちていた。なんで、と洩れた童女の声が沈黙に霞んでいる。それはおそらく、裁判官にも証人にも向けられたものではなかった。ミドラシュだけが未だに何が起こっているかわかっていないようだった。ぐしゃぐしゃと乱れた夜の髪は震え、ふらふらとぐずるように微かに頭が揺れる。よれた麻のドレスが如何にもみすぼらしかった。両腕の自由を阻まれ椅子に座らせられていなかったら、きっとミドラシュはその場に蹲っていただろう。
「これより双方の意見を伺います。では弁護人、弁論をどうぞ」
 裁判官はシャイロックに冷ややかに促した。熟れた無花果の如き赤い瞳は薄く見開かれ、ミドラシュを映していた。その視線に気づいたかは定かではない。だが、ミドラシュは不意にゆっくりとシャイロックを見た。縋りつかれるように長い髪から、疲弊しきった横顔が覗いた。シャイロック、と枯れた声が彼を呼ぶ。シャイロックは改めて証拠物を広げ、淡々と告げた。それは数十枚にも及ぶ皺だらけの古びた紙だった。複数の首飾りの精緻なデザイン画が深い焦茶色のコンテで描かれ、そのひとつひとつに大量の覚え書きが残されている。保存状態こそ悪かったが、日付とミドラシュの名前、そしてステラのサインまでもが書かれていた。
「先ほど説明した通り、こちらが実際に被告人がマリス夫人の依頼にあたり描出したすべてのデザイン画になります。あの首飾りと全く異なる形状をしているとご覧いただけるでしょう。こちらの証拠物はマリス夫人の下に被告人が来訪した際に確かに見たと当時居合わせたメイドが証言しています。被告人と証人の間で納品のやり取りがあったのは事実です。何らかの要因で別の首飾りが依頼人の手に渡った事故だと考えるべきです。検察官が提示した動機は憶測に過ぎず、信用性に欠けます。他ふたりの宝石彫刻師の証言も被告人ならやりかねないといった極めて曖昧なものに過ぎません。以上のことを考えると、被告人が本件犯行に関わっていないことは明白です。よって、被告人の無罪を主張します」
 不利な状況であると、誰もがわかっていた。しかしシャイロックの沈着した様は損なわれなかった。ミドラシュは茫とシャイロックを見ていた。だらりと骨のように白いうなじが弛緩して、右へと不気味に傾いている。汗か脂かてらてらと濡れた髪の毛がべったりと首や肩口に張りついて、毛先に向かうに連れてふわふわとほつれた綿のようになっていくそれは、足元でだらしなくあそばれていた。ミドラシュの姿は飾り気のないマネキンを思わせた。裁判官はよろしいと相槌を打ち、検察官を見下ろす。
「続いて検察官、論告をどうぞ」
 検察官はまだ若年の男だった。この法廷を仕切るほとんどの者は西出身とは思えない凍えるような空気を纏っていたが、特に氷河を削り取ったような冷たさが匂う。それが魔法使いに対する嫌悪から来るものだとすぐにわかった。几帳面に撫でつけた灰混じりの黒い髪を流し、一切の乱れもない法服を着た検察官は、隠す気もない侮蔑の籠る鋭い双眸をシャイロックに向けた。そして、堂々と言い放った。
「被告人に対する本件公訴事実は、当公判廷に於いて取り調べ済みの証拠によってその証明は充分であります。被告人が宝石彫刻師に首飾りを渡したことは紛れもない事実であり、それは両者の証言から明確となっています。弁護人が持ちだした証拠物はいくらでも偽造できる範囲であり、信用に足るものとは思えません。また、当時のステラ・マリスと被告人の会合を見たというメイドも正確な日時を覚えておらず、他に被告人のアリバイを証言できるものはいません。二ヶ月もの間邸宅に通いながら、何故被告人は事件当日は証人に任せてステラ・マリスの下に訪れなかったのか。本件犯行は莫大な資産を狙い数ヶ月をかけて念入りに計画された悪質な犯行です。宝石彫刻師の組合の尊厳を傷つけ、未だにステラ・マリスは目覚めておりません。以上の事情を考慮すると、被告人を懲役十年に処するのが相当であると判断します」
 動機のあたりはともかく、検察官の論告は筋が通っているように思えた。尋常ではない罰を課せられているわけでもなく、シャイロックの弁告の空白を的確に指摘している。しかしと、検察官は話を続けた。
「こちらの誓約書をご覧ください。これは被告人が宝石彫刻師の組合に加入する際に応じ誓約したものです」
 ひらりと掲げられたそれに、晶は何と書いてあるかは理解できない。しかし、あからさまにシャイロックの顔色が変わった。余裕を損なうことがなかった彼がまさかと目を見開く姿に、事態がさらに悪化したことを理解する。
「誓約書にはこう書かれています──『この組合に所属する魔女が顧客の心身を傷害したことが立証された場合、心臓に最も近い位置の肉を一ポンド切り取ることを承諾する』と」
 あーあ、とフィガロが呑気な声をあげた。やっちゃったねぇと苦く笑う彼を除いて、魔法使い達の顔は蒼白だった。ミチルはひゅっと息を飲み、腕に縋られたレノックスも唖然と木の柵で隔てられた審理の進行を見ている。ルチルは見るからに血の気が引き、クロエは嘘だろと思わずと声を洩らした。魔法使いは約束をしない。約束を破ると、彼らは魔力を失うからだ。本当に心を開き、寄せ、繋ぐときにだけ、心を解いて約束をする。しかし、ミドラシュは約束をしたのだ。顧客を傷つけたとき、代償として自身の心臓の周囲の肉を一ポンド支払うと。厄介なことをとシャイロックは舌打ちをしたくなった。逃亡する道は絶たれた。判決が下された時点で、ミドラシュは左胸の肉を抉りださなければならない。だが、当のミドラシュは放心して検察官を見上げていた。約束に憶えなどないというように、ただ茫然と。その惨めな姿に、理解こそ及んだシャイロックはああと嘆息した。この女は初めから騙されていたのだ。かつても今も、人間の甘やかな言葉に騙され続けている。己はその愚かさを眺めていた。寄せる波を愛おしみ、去る者達を追わなかったように。
「被告人は魔術偽計罪の罪状も課されております。この罪状に対する過去四百年の罰は火炙り、鞭打ち、両手指の切断であり、身体の何処かの肉を支払った魔法使いのケースもあります。一ポンドの肉を切り取るのは魔女への刑罰としては妥当かと」
 中央に置かれた台とナイフ。破綻しているようにしか思えない倫理観に晶はぞっと怖気が走るのを感じた。あれが脅しとして置かれているのか、判決が下されればすぐにでもミドラシュは裁かれるのか、晶にはわからなかった。だが、敗訴となればミドラシュは胸を切り開かれることを余儀なくされる。慄然する賢者と魔法使い達の姿を除き、傍聴席は奇妙な高揚感で包まれつつあった。これは滅多に見られるものではないと、人々は己の運の良さに悶えている。彼らにとってミドラシュは慈悲深い貴婦人を殺そうとした悪しき魔女だった。決して人間ではない異形の存在。人肉を差しだすべき女。うつくしさの欠片もない乞食のような粗末で薄汚い身なりがそれに拍車をかけていた。
「検察官の主張は憶測と所論に基づいたものに過ぎません」
 深いルベライトの瞳が剣呑と細まる。冷静さこそ保たれているが、語気を強めたシャイロックは感情的だった。普段の彼を知っているからこそ、シャイロックの憤懣が底を這い回るように伝わった。
「証拠物の偽造という言いがかりですが、こちらのマリス夫人のサインは筆跡鑑定にて彼女のもので間違いないと認定されています。次に被告人は資産を狙い犯行に及んだという動機ですが、これを立証する術はありません。被告人は事件当日に現場には居合わせず、神酒の歓楽街の酒場を転々としていました。その行動は極めて無計画なものであり、バーやパブで過ごす被告人の姿は多くの者が目撃しています」
 言いがかりという言葉に、実に不愉快そうに検察官は片眉を吊りあげた。しかしシャイロックは滔々と続ける。落ち着き払ってこそいるが苛立ちが滲みでたシャイロックと、凍えたように縮こまることしかできないミドラシュ。ふと、晶は証人のひとりの様子がおかしいことに気づいた。残りのふたりは緊迫感のある空気に嬉々とした笑みを思わずと踊らせていたが、あの気弱な青年だけ、がくがくと膝を震わせている。真っ青の顔には幾筋もの汗が垂れ、怯えた目つきがミドラシュとシャイロックに向けられていた。薄い唇は息苦しそうに何度も開かれ、今にも倒れるのではないかと思えるほどに顔色が悪い。不安にこそ駆られたが、傍聴席に座る晶には審理を妨げることは許されなかった。
「何よりも誓約書は法的効力は持ちません。この裁判に一体どう関係があるのでしょう」
「いいえ、大いに関係はあります。人ひとりが危うく死にかけ、善良な人々の尊厳が失われようとしている。これに社会的妥当性が認められないというなら、法そのものこそが疑われましょう。この神聖な法廷に於いて、悪しき魔女は裁かれるべきなのです」
 お言葉ですが、と検察官は嫌悪を滲ませた瞳でシャイロックを見た。多かれ少なかれ魔法使いも人間も偏見を持っている。この国では魔法使いに対する軽蔑や疑心がまさっていた。だが、この男には明確な憎悪があった。検察官は証書を広げた。そこには過去に裁判にかけられた魔法使い達の詳細が書かれていた。
「過去の刑罰を鑑みて処するべきです。何故これほどまでに魔法使いに対する罰が極端で数が少ないのか。それは魔法使いが人間を騙す嘘つきで卑怯な存在であるからでしょう。判決を目前にして逃げだす者、まともな証言のできない者、そして法の下皆平等であるべき神聖な法廷を血で穢した者。ここに書かれた者達は全員魔法使いです。潔白であると言うなら、法の下それを証明するべきでしょう。ここに集う皆様ならばご存知のはず。奴らが一体、この国に何を及ぼしたかを!」
 この化け物達は魔法使いだからと、法から外れ裁きから逃れる。正しく蛇のようで狡猾で狼のように残忍な存在であると、検察官は心からの侮蔑を贈る。シャイロックは検察官に微笑を返した。現実味のない出来事の数々は、まるでよくできた芝居を見ているようだと晶に錯覚させた。じわりと冷たい汗が滴っていく。台に無造作に置かれたナイフが、途端にじっとりと熱を持ちはじめたような気がした。まるで悪い夢を見ているようだと、晶は俯いて口元を覆った。しかし、誰かが背もたれに肘を置いた。なんだかデジャヴを覚えた気がすると、晶は顔をあげる。青ざめた嵐の海面のような双眸と、カチリと目があった。深みのある唇のあわいが、ふっと嘆息するように緩まった。
「魔術偽計罪なんて持ってきたと思ったら、そういうことか。奇妙だけど法に外れてはいない。シャイロック、持つかな?」
「フィガロ……」
 フィガロは相変わらず余裕に満ちたまま口元に弧を描いていた。傍観者らしい眼差しは静かな水面のようで、ついと緩やかな口角が持ちあがる。フィガロは思わずと開いた晶の口に、シュガーを滑りこませた。金平糖のような甘さがとろりと舌で溶けだして、晶の身体に染みこんでいった。魔法使いがつくるシュガーには様々な作用がある。食べるだけで守護の効果があり、心を安らがせたり体調を整える効能があった。心なしか落ち着いた気がすると、晶はそっとフィガロにお礼を言う。どういたしましてと笑ったフィガロは、雲行きが怪しくなる法廷に視線をやった。
「ミドラシュの心臓の肉を切り取られる前に、子供達を連れて出ちゃおうかな」
「フィガロ先生!」
「冗談だよ、ほんとほんと」
 ミチルに咎められたフィガロはへらりと笑ったが、そう冗談には聞こえなかった。きっとそれは、フィガロなりの気遣いだったのだろう。もしくはミチルに怒られると理解してあえて言ったかだ。
「検察官は被告人が魔法使いであること、日頃の素行から彼女が資産狙いで犯行を起こしたと決定付けるならば、事前に提出した彼女の識字能力の低さを考慮するべきではないでしょうか。それが偽造されたものではないのなら、客観的に考えて極めて悪質な誓約書だと思いますが」
「それが白痴を装った被告人の嘘ではないと立証する術はありますか? 魔法使いが人間に何を行ったか、それは歴史が証明しています。魔法使いのように特異な力を持たぬ人間が、嘘つきでいい加減な魔法使いに対して自衛行動を取るのは当然です」
 魔法使いに対する偏見や蔑視、差別意識はこの期に及んで言うべき事柄ではなかったが、恐怖と厳寒が支配する北の国がそうであるように、かつては何処の国であれ魔法使いとは畏敬の念を集めていた。人間より優れていると尊敬され、魔法使いは一族や集落の頭領となることも多かった。しかし、都と人間が増えるにつれ、魔法使いの人ならざる力を疎まれるようになっていったのだ。西の国は、人々は魔法使いが起こす奇跡を欲し、魔法使いを支配したがった国だった。そして、魔法科学技術を手にし、人々は魔法使いに関心を失った。西の国に於いて、魔法使いは淘汰されつつある存在だった。ある場所では魔法使いの立ち入りは禁止され、ある場所では魔法使いは狩られる。弱く幼くうつくしい魔法使いから搾取されていく。西の国には狂乱の時代が訪れ、ミドラシュは時代から篩い落とされた。魔法使いの淘汰が望まれ、それを正当化すべき正義が必要とされた。この法廷で、いつしか悪しき魔女を裁かれる日を待ち望んでいたように。
「神聖なる裁判長、並び裁判官の皆様。我々にはチャンスが残されています。魔法使いを正しく裁く時に恵まれたのです。魔法使いはその口で酒のように人間を酔わせ、その指で人間の首を切り裂く。被告人は一刻も早く裁かれるべきでしょう」
 検察官の脳は沸きあがるような高揚感に浸っていたが、芝居の如く腕を広げる姿は酷く静謐で風格があった。彼は達弁な男であった。視覚的な芸術に対する審美眼や鑑賞眼といったものに欠け、その知的で潔癖な情熱は法にこそ注がれる。法と自由と国家を貴び、残忍なまでに異端を擯斥する。規律で縛られた東の国らしい在り方だが、あの国の生まれは戒律を信仰しこれほどまでに能動的に訴えはしないだろう。偏屈というよりは独自の美意識が感じられ、彼の演説は法廷に影響を及ぼした。既に裁判官達の心は検察官の倫理へと動いていた。その声には荒れ狂った怒りと誇りすら感じられた。狂乱の時代へと到達した西の国で、法を信ずる矜持が存在していた。熟れたように赤い瞳が、眩しそうに細められる様を見た者はいない。
「口で酔わすのは詩人の性分ですよ。生憎酔わすためだけの酒を出したことはないので」
 しかし、酒場の主人たる男の皮肉が静まりかえった法廷を破った。形良い唇から淑やかな吐息が洩れる。熱も甘やかさも花の香りも纏わない溜息をつき、シャイロックは寂々たる洋紅の双眸で人間達を見据えた。
「言い分はわかりました。魔法使いはいい加減で嘘つきで、人間を陥れる存在だと。魔法使いの愚かさは人間を傷つけ、魔法使いの語る愚かさは偽りであると。あなた方はそれが紛うことない事実であると立証したい。だから、あなた方は私達の言葉を聞き入れない」
「魔法使いが関与した過去の裁判の事案を照合し、それぞれの供述から判断した結果です。被告人はあの通りで、事前に申請したはずの弁護側の証人はひとりとして訪れない。これは状況証拠に他ならないでしょう」
「──魔法使いは、目なしとでも言うのですか」
 シャイロックの嘲るような声は久しかった。そのうつくしい顔にはとうに笑みは失われ、血までが凍るように冷たい声音が法廷に響いた。シャイロックは如何なるときも微笑が様になる男だった。石を投げられ、嘘つきだと指を指され、血反吐を吐くような侮蔑と憎悪と嘲弄を向けられても、怜悧な容貌に浮かぶシャイロックの柔和な表情は崩れなかった。だが、はっきりと開かれた瞼の奥、法廷を映すルベライトの双眸は、底知れぬ憎しみで濡れていた。ミドラシュの髪が掴まれたときよりも彼の瞳には火炎が盛り、そして冷たく轟々と燃ゆる紅に悔恨に近い感傷が僅かに滲む。それは、過ぎ去った日の罪悪を表しているようだった。
 人生の幸福を追求し続ける哲人も、正義の名の下に命を懸ける兵士もいる。酒精に正気を見たイカれた魔女も、法と自由を冷酷なまでに信仰する役人も西の国で生きている。されど、この世界には清浄な流れなど存在しなかった。悪法もまた法なり。年に一度迫り来る天体に怯えながら、その月光の恩恵を甘受する。疎み蔑み畏れながら、審判の日には魔法使いに縋りつく。悪人が罰されないことも、善人が報いられないことも、この世界ではいくらでもまかり通る。人間の道徳生活が全く正しい美を産みだすのではない。罪悪と恐怖だけが人間の自由意思を奪うのではない。過剰な幸福感は退廃をもたらし、痛みの伴わない快楽には倫理が消える。だから思考している。苦悩し、葛藤し、各々の快感と欲望に飢えている。整然たる正しくうつくしい軌道のみが引かれていたならば、あの女は智慧を識り、家族に恵まれた、ひとを愛するだけの静かな女であったはずだ。
 裁判官の制止の声が鋭く鼓膜を突こうとも、シャイロックは構わずに哀れな娘の下へと向かった。ぼさぼさとした乱れた黒髪が震える。宝石の輝きを失った双眸が、ぼんやりとシャイロックを見上げた。色のない唇が、男の名前を呼ぶ。そして、微かに笑った。磨り硝子にあえなく霞むような、決して自分に届きはしない微笑がそこにはあった。その侘しさが、シャイロックの情念を揺さぶった。女は穢れていた。嫌忌と恥辱に晒されて、罪人らしい装束を纏い、穢れ続けたからこそ、冴え冴えとした若く無垢そのものの白い神経が際立った。何を思ったか、シャイロックはミドラシュの肩を掴み法廷の中央へと引きずっていった。彼の姿には一切の迷いがなく、拙い足取りでされるがままになるしかないミドラシュに振り返りもしなかった。極めて簡素なつくりをした木工の台に、刃渡りの長い一本のナイフ。厳重に硝子で囲われたエメラルドと白蝶真珠の見事な首飾り、それに見向きもせずに、シャイロックはミドラシュを台に押し倒した。台は悲鳴をあげるように軋み、女の苦しそうな息が湿った空気にほたほたと垂れる。夜を拐った髪は縋りつかれることを待つようにだらだらと床に広がり、不気味な黒影へと流れていた。その咽喉は一輪挿しの白百合の如き曲線を描き、大きく見開かれた双眸は人々を映した。シャイロックは台に片膝を乗せ、そしてミドラシュの弛む胸にナイフの切っ先を向けた。シャイロックの低い声が響き渡る。
「魔法使いは手がないとでも? 臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、何にもないとでも言うのですか? 同じものを食べてはいないとでも? 同じ刃物では傷つかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない。何もかもが人間とは違うのですか?」
 法廷に渦巻く人々の熱狂が、呑みこまれるように沈んだ。シャイロックの声はただ静かであった。しかし常の優美な外装を払った姿には、この沈黙を破る者は彼ひとりしか許されないような錯覚に陥る気迫があった。ナイフに力が籠められる気配に、誰かが息を呑む。愛した男にナイフを向けられたミドラシュの姿は滑稽だった。酩酊した彼女ならば刺されても気づかないだろうが、酒精を奪われたミドラシュの情緒は乱れるばかりであった。酒に浸されぬ唇をはくはくと何度も痙攣させ、絶望に濡れた青い眼球を揺らめかせる。後に嗚咽じみた飾らぬ息遣いが洩れだして、それが如何にも安っぽく馬鹿馬鹿しい芝居を思わせた。しかし、そこには憐憫を誘う愚かさがあった。愚鈍な女に対する優越感、あるいは同情心。シャイロックは鎮まった法廷を冷淡に見渡して、口上を続ける。ひとならざる身であれ、躰は傷つき、心は割れる。涙を流し、声を枯らす。
「針で刺して御覧なさい、我々の身体からは血が出ませんか? くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない。だから、酷い目にあわされても仕方がない、そう仰るのですか?」
 シャイロックは西の魔法使いだ。気まぐれで捉えどころがなく、哲学と快楽を愛し、何よりも約束をしない。しかし、人間と共に生きた数百年があった。人間と生きたいと望みながら、その夢を踏みにじられた女を知っていた。魔女だから何をしても構わないと、搾取され、作り替えられた女。放蕩し堕落しきった姿は確かに罪深く映るだろう。ミドラシュは決して潔白ではない。彼女を優しいと言うならば、それは頼まれたら死体と結婚するような歪さだ。女には初めからひとらしい尊厳と自由は與えられなかった。ミドラシュはただ、西の国に産まれた弱く幼い魔法使いであった。
「ただひとりの女ですら利用してでも手に入れたい欲望があるのなら、すべてを愛おしむために捧げた憎らしい犠牲もあったでしょう。たとえ此処に横たわるものが罪であろうと罰であろうと、あなた方人間にとって私達が悪夢を産みだす所以であればこそ、この問答に意味などありますか?」
 それは、ある意味初めて魔法使いが信じられた沈黙であったのかも知れない。発言する者は誰ひとりとしておらず、女の胸にナイフを立てる魔法使いを言葉を失って眺めていた。しかし、永遠に続くかと思われるほど重苦しい沈黙は、唐突に破られた。
 勢いよく扉が開かれる。星空を纏わぬ真っ黒なシルクハットを抑え、見目良い紳士が法廷に踏み入れた。続いて麗しい貴公子が現れ、淑やかに会釈してみせる。申し訳ありません。道に迷ってしまって。そう微笑んだ貴公子の双眸は、サファイアの如き煌めきを秘めた紺碧の色をしていた。彼らの姿を捉えたシャイロックの無表情が、ふっと緩む。そして彼はミドラシュを抱き起こし、目をまんまるにしたミドラシュにそっとはにかんだ。ルベライトの瞳には倦怠が滲んでいたが、長い指先は白い顔を覆う乱れた髪を払った。シャイロックはおもてをあげ、愛しい西の魔法使いに微笑を贈った。
「……間に合ったようで何よりです」
 あちらが申請した証人になりますと、シャイロックはおぼつかない足取りのミドラシュを抱きながら答える。紳士がシルクハットを脱ぐと、切り揃えられた冷たい菫色の髪がさらりと流れた。多少のあどけなさこそ残るが、男の顔は極めて端正で切りだしたような色が匂った。不躾なほどすべてを見透かす怜悧なエメラルドの双眸が覗き、男性的にうつくしい線を描く唇が開かれる。
「やあ、悪名高きシャイロック」
「遅いですよ、牡猫ムル」
「計画は狂ってからが本番なんだろう?」
 そういえばハンカチを返されていなかったとムルは笑い、知的な眼差しをさぞかし愉快そうに細めた。エメラルドの瞳は唯一無二の親友と壊れた女を見定めるように眺め、そして堂々と証言台に立った。クロエといったか、この服は気にいったと付け加えながら。上品な黒いサテンのマントを翻し、エナメル質の革靴が濡れたように艶めいている。ドレスグローブは穢れのない白で、手袋の上からも長い指先の正体が伺えた。ラスティカは弟子が仕立てた燕尾服を愛おしそうに身に纏う。裾の長いテイルコートはラスティカによく似合っていた。
「西の魔法使い、ムル・ハート。被告人ミドラシュ・ミードの証人です」
「ラスティカ・フィルチ。同じく証人として参りました」
 遅れて入廷したことに関しては考慮していただきたい。何しろ十日だとかいう期間で仕上げなければならなかった。大袈裟に肩を竦めて告げるムルには悪びれる様子はなかったが、人々にとっては最早それは些細な問題であった。魔法使いの無礼な態度すら気にも留めず、ただ騒然としていた。傍聴席からどよめきがあがる。世紀の智者、ムル・ハート。百カラットのダイヤも羨む宝石商。この世の法則を究明した数学者。大いなる厄災を研究する最中消息を絶った、月に囚われた男。その男が、証言台に立っている。
「出鱈目だ! 数学者ムルはとうに死んだはず!」
「だけど申請は受理されている。此処にいるのはまごうことなきムル・ハートだ。裁判長、発言に少々演出を加えても?」
 了承を得たムルが指を鳴らすと、壁にはつるりとした素材の真っ白な布がかかり、何処からともなくレトロで仰々しい機械が現れる。ふたつの特徴的なフィルムリールが取り付けられたそれには幾つもの歯車が回り、機台の上で黒塗りのモーターやランプハウスが接合されていた。全体的に古い映写機を彷彿とさせるが、何よりも目を引くのは、真っ直ぐに立てかけられた楕円形の鏡だろう。以前西の魔法使い達が楽しんでいた魔法科学装置だと、晶にはすぐにわかった。たとえばひとつの石ころ。たとえば一枚の花びら。記憶の残る何かしらのものを入れると、その記憶を壁に投影するムルの発明品だった。ムルは鏡をくるりと回して壁に向け、記憶を投影する。映されたのは、貴族の邸宅だった。
「こちらは記憶を投影する魔法科学装置です。マリス夫人の邸宅の談話室に置かれた硝子の燭台から、法廷の皆様には事件当時を振り返っていただきましょう」
 街一番の資産家に恥じぬ華奢なしつらえの部屋であったが、何処か慎ましやかで落ち着いた格調があるのは彼女の性格が滲んでいるからだろうか。恭しいメイドに案内されて現れたのは、あの証人たる気弱で純朴そうな青年だった。思わずと晶が視線をずらしたとき、彼の顔はさらに青くなっていることに気づいた。果てしない恐怖が彼の身体に吹きつけ、汗とも涙ともつかぬもので青年の顔は濡れていたが、無常にも映像は進んでいく。玉を掴む鳥の爪の如き優雅な曲線を描く脚のセンターテーブルを挟んで、ふかふかとしたサティ椅子にそれぞれ青年とかのマリス夫人は座っていた。ステラはうつくしい女だった。アシャーストと十数年と連れ添っているという彼女は少なくとも三十には差し掛かっているはずだが、彼女の生白い顔には何処か可憐な少女のような甘やかさが匂っていた。それは単純な造形美というよりも纏う表情や雰囲気から迫るものであった。悲劇に巻きこまれた少女のときから、その時を止めてしまったように。ステラのたっぷりとした髪は長いリボンで纏められ、滑らかな首筋を意匠を凝らしたレースが飾っている。エンパイアスタイルのドレスには堅苦しさは感じられず、しっとりと心地良さそうに彼女の小柄な身体を覆っていた。サティ椅子には華奢な杖が立てかけられ、毛の長い絨毯では踵の低い靴を履いた足が上品に揃えられている。訪れたのはミドラシュではなかったが、ステラは貴婦人として彼を歓迎したのだろう。テーブルにはきめ細やかな陶器が並び、ティーカップには温かな紅茶が注がれる。ステラと青年はしばし談笑を交わし、やがて青年は手袋を嵌め、小箱から丁重に首飾りを取りだした。エメラルドと白蝶真珠の煌びやかな首飾り。それは中央に置かれた「呪いの首飾り」と同じものであった。その後ステラは青年の手ずから首飾りをかけられ、そして。
「燭台は実に雄弁だが口なしだ。代わりに俺が証言しよう」
 映像は蹲ったステラが自身の首を絞めあげた場面で静止した。彼女の顔は見えなかったが、レースから覗くうなじは真っ赤に腫れあがっていた。青年の顔にははっきりとした恐れが刻まれ、事態を察したメイドが必死の形相で駆け込んだシーン。真っ白な布地に映された光景にはそれらしい偽りひとつ見当たらず、当時の事件が鮮明に浮かぶのみだった。上品に微笑むラスティカは厳粛な場に相応しい落ち着き払った物静かな男に見えたが、わざとらしい恭しさや如何にもこなれた振る舞いが鼻につくムルは、紳士的な外装を食い破っていた。純白のドレスグローブの手を組む仕草は絵になるものの、上面一枚の向こうに隠す気もない高慢さがある。軽薄にも思えるほど神経質さに欠けた緩やかな表情は、その場で巻き煙草に火を点けてもおかしくはなかった。ムルは青年に相違はあるかと尋ねた。エメラルドの双眸を細める姿に、青年は怯えながら首を振る。憲兵も検察官も、ミドラシュも口を閉ざしていた。映し出された情景は純然とした事実であり、被告人の無実を立証する術はないように思われた。さて、とムルは不敵で紳士的な笑みを描く。
「被告人は慈悲深いマリス夫人の資産を狙い、そのためにマリス夫人が組合に依頼するように仕向け、善良な宝石彫刻師の青年に呪いをかけた首飾りを渡し、そして罪を擦りつけている間、豪華な邸宅に忍び込むこともせず、丸一日酔いどれた挙句人間に捕まったそうだね。いくら魔法使いでもいい加減が過ぎる。さぞかし無垢で潔癖な人間が捜査したに違いない」
 シャイロックはさりげなく俯いたが、その肩は僅かに震えていた。ムルは唖然とした人々に一斉に視線で射抜かれていたが、ひとを怒らせることが得意な男は飄々とした笑みを深め、ちょっとしたジョークだよと悪びれなく付け加える。鈍くひかる翠眼は彼が愛する月のように歪められ、うつくしい唇のあわいが開かれた。
「悲劇的なことに、この杜撰な殺人未遂事件は嫌忌と虚栄で完成された。悪意に欠け、倫理を忘れている。悲しい事故だとも言っていい。しかし、仮に犯人と呼ぶ人物がいるとしたら──それは、きみだ」
 ムルの指先は、証人のひとりである青年を指していた。青年は酷い顔をしていた。数多の視線が彼を貫く。小柄とは言い難い身体はがくがくと慄然と震え、閉じきれぬ唇から金物のような歯軋りが響いている。眦から伝う一筋の涙はびっしょりと汗で濡れた顔へと垂れていき、ほってりとした肉付きの良い頬は打ち上げられた魚の腑のように哀れに膨れた。焦点が解けた赤ら顔はミドラシュの代わりに酒精を浴びたようで、彼は無意識に後退りをする。しかし、逃げ場はなかった。証人として立った彼に残されたのは、そこに佇むことだけだった。同僚たる宝石彫刻師が怪訝そうに青年の名前を呼んだが、彼はそれに気づいていないかのような眼差しで、切り裂くように真相を暴かんとするムルを凝視している。菫色の毛並みの牡猫は、喉の奥で笑った。
「きみはミドラシュから首飾りを受け取ったが、何らかの事故でうっかりそれを壊してしまった。しかし納品を遅らせるわけにもいかず、急遽同じエメラルドと白蝶真珠を使った首飾りをあつらえた。違うかい?」
 怯む青年が何か口にする前に、検察官が憎々しげに口を挟んだ。
「そうだとしたら、ステラ・マリスが呪われる要因はない」
「呪いなんかじゃないさ。単純に、マリス夫人は貴金属に対して拒絶反応を見せただけだ。ショック状態になるのは珍しいが、症例も医学的に存在している」
 ──あの、これってもしかして。たどたどしく仮説を口にしたのは、晶自身だった。何か致命的なことを忘れているような気がしてやまなかった違和感の正体だった。この世界がどれほど進歩し自分には知り得なかった魔法が生活に馴染んでいるかは晶に推し量ることはできなかったが、その症例は現代日本ではほとんどの者が知っている。アナフィラキシーショック。アレルゲンを摂取した際に複数の臓器や全身に症状が生じ、血圧低下や意識障害、呼吸困難が起こる反応。金属アレルギーによるアナフィラキシーショックは銀歯や入れ歯の金属部分といった口腔に入れた場合の事例しか晶は知らなかったが、ステラがどれほど貴金属に対して厳重に警戒していたかは、映しだされた応接間を見れば一目瞭然であった。その部屋には、目視できる限り貴金属は一切使われていなかった。金属特有の光沢や意匠が見られない部屋が慎ましく見えるのは当然だった。彼らが腰掛けるのは木製の華奢なフレームにクッションのような布張りの座面が接合されていることが特徴とされたソファであり、センターテーブルに置かれた食器はすべて陶器でできている。街一番の資産家と呼ばれるステラを飾りつけるのはリボンとレースで、事件を見届けた燭台は硝子製だった。
「マリス夫人は硝子と宝石でできた首飾りを依頼した。しかし、おそらく受け取った宝石彫刻師はそれを落としたか何かで、到底渡すわけにはいかない状態にしてしまった。型から留め具、チェーンに至るまで繊細な硝子でできた首飾りは、粉々に砕け散った」
 骨董品店でミドラシュが手がけたという輝かしいピーコック・ブローチは、宝石と見分けがつかぬ硝子で作られていた。いくら若く愚かな魔女と呼ばれても、ミドラシュは人間があらゆる約束に雁字搦めにされる人生の数倍の時を生きている。ミドラシュならば、本物と見間違うように煌びやかな装飾品を作ることが可能なはずだ。己は芸術家であるのだと胸を張る彼女は、才に没頭し、ひとつの芸術を産みだした。彼女の腕を何処かで耳にしたステラは、是非にとミドラシュに依頼したのだろう。悪評ばかりがさらに優美とは言い難い尾鰭を生やしていたが、少なからず目立つ女ではあった。
「では何故これほどまでに稚拙で杜撰な計画が魔女の一ポンドの肉を賭けた人肉裁判を招いたのか。それはこの法廷に集うすべての者が知っているはずだ」
 ムルは証言台から降り、公然と告げた。
「ステラ・マリスは盲目だった」
 彼女のすぐ側では、盲人が使う杖が立てかけられていた。ステラは少女であったとき、馬車の転覆事故で家族と自身の視力を失った。生涯治ることがないという傷を負った。貴金属でできた首飾りを差しだされても、目の見えないステラは気づくことはできなかった。
 人々のどよめきを聞きながら、シャイロックは二つ折りにされた文書を開いた。彼の口元には淡い笑みが浮かんでいた。
「こちらは医師、フィガロ・ガルシアが出した診断書です。ステラ・マリスが呪いとは何の関連もない、金属によるショック状態に陥っていたことが記されています」
 傍聴席に座るフィガロが、おや、と嬉しそうな声をあげる。まさかそれを使うとは思ってもいなかったという様子だった。そんなことをしていたのかと驚く南の魔法使い達に、フィガロはくふくふと籠るような笑い声を零す。鮮やかにミドラシュの無実を晴らしていく魔法使い達の姿に、晶は胸を撫でおろすどころではない高揚感を覚えつつあった。筆舌には尽くし難い感情が込みあげるが、ただひとつ言うならば、嬉しかったのだ。この世界にやってきて、魔法使いについていくと決めたとき、彼らは魔法使いを信じてくれて嬉しいと、心の底から笑った。それと似た情念が晶の胸を締めつけていた。ラスティカが優雅に証言台に立つ。彼の手には手紙が握られていた。
「この件は僕たちで定めるには難しいと、アントニオ殿下より推薦した法学者に助言を仰ぎました」
 最早閑静を守る者はいなかった。アントニオ殿下。国王の従兄弟であり、王家が所有する天空離宮の主たる伯爵。魔法使いが、王族を足に使った。以前に原始の精霊を神殿に定着させる西の祝祭を執り行うべく、対立した相手だった。妖精ファゴルタの幸運に取り憑かれた彼と離宮のサロンは欲望と快楽で狂っていたが、ファゴルタが祓われ幸不幸の均一は整えられた。有名なチェンバロ奏者であるラスティカはかつて天空離宮で演奏し、四歳の幼い子供であったアントニオに会ったのだという。ラスティカの魔法と演奏を大層気にいった子供は長い年月と歯止めのない快楽の中でラスティカを忘れていたが、ファゴルタの幸運が祓われたとき、在りし日の憧憬を思いだした。この老いぼれにできることならと、快く推薦状を出していただきました。まだ六十なのに老いぼれだなんて。本当に素晴らしい方です。嬉しそうに言葉を重ねたラスティカは、公文書を読みあげる。
「『我々は被告人ミドラシュ・ミードの公訴事実は証拠不十分かつ主観と憶測に基づいたものに過ぎないと結論付けます。客観的かつ社会正義に基づいた視点から、ミドラシュ・ミードは濡れ衣を着せられた被害者であり、彼女の待遇は極めて悪質であります。我々は善良な市民のひとり、ミドラシュ・ミードへの公正かつ平等な判決を望みます』」
 めちゃくちゃだと、裁判官が思わずと呟いた。シャイロックが微笑んだ。
「どうかお許しになって。私達はいい加減な魔法使いですから」
「しかし、どういう訳か証人の人間のメイドは現れなかった。さて、検察官。此処までの左証に異論は?」
 蒼白で引き攣った顔が、シャイロックとムルを睨みつける。鋭い双眸は証人達をも強く睨んだ。その拳は怒りで震え、唇をわななかせている。荒々しさと忌々しさが骨にまで流れこむような気迫すら感じられる。しかし、彼は拳を押さえつけ、ゆっくりと告げた。それは、迷いのない静かな声だった。己の矜持を守り抜いた表情に恥辱は滲んでいない。薄く開かれた瞳は凪いでおり、検察官は毅然とした態度を貫いた。何にも染まらぬ黒い法服に相応わしい姿だった。
「……法とは万人のために存在します。すべての貧しい者、病める者、飢える者に平等に與えられるべき清規であり恩恵です。法の下には神も悪魔も、聖女も魔女もいない。ただひとが在るだけだった。論告に変わりはありません」
 偏屈で審美眼に欠ける、魔法使い嫌いの男。しかし男は人間と魔法使いの間にある根本的な永遠の断絶を否定した。矛盾し屈折した在り方だった。完璧なまでの法を貴び平等な人間と魔法使いの隷属を望みながら、異形の化け物への憎悪と嫌悪を孕み、それを圧し潰すことは叶わない。願えば願うほど動的な感傷が溢れ中絶を拒否する。それを聞いたシャイロックは、法廷の中央を見やった。そこにはナイフが載る木製の台と、意味もなく厳重に硝子で囲われたエメラルドの首飾りと、鏡をひっくり返された過日鏡が置かれている。
「……昔、人間を愛した魔女がいました」
 男が怪訝そうにシャイロックを見る。しかし、シャイロックは構わずに話を続け、あれほど疎んでいる魔法科学装置の鏡を覆した。媒体が硝子の燭台であるのなら、必ず見届けているはずだと。壁に垂れる布地にぱらぱらと本の頁を捲るように映像が映しだされる。現れたのは、ふたりの女性だった。同じサティ椅子に腰掛けて、仲睦まじく談笑している。ミドラシュはお気に入りだというラリエットを着けてはおらず、代わりにカクテルハットを被っていた。センターテーブルにはたくさんの首飾りのデザインのスケッチが積み重なり、ミドラシュはステラの手にエメラルドを握らせている。
「しかし、人間はそうではありませんでした。魔女は人間に搾取され尽くし、やがてがらくたのように捨てられた」
 女は何もかもを奪われた。忘れられるはずがなかった。それを見つけたのは他でもない自分なのだから。何ひとつ聞きいられなかった忠告も、宝石にもならずに伝った涙の筋も。何の糸も結びつかなかった小指も。シャイロックはエメラルドと白蝶真珠の首飾りを見た。古来より、ひとはうつくしいものに惹かれる習性があった。ひとの姿をした異形よりも煌びやかな無機物を好む。燃ゆる炎の赤を閉じこめたルビーに、蜂蜜漬けにしたように甘やかにひかるトパーズ、薄氷のなかに菫が咲いたアメシスト。そのひとつひとつに名と祈りが籠められたのだ。柘榴石は魔除けとなり、紫水晶は酒気を払い、水腫石は月の色を奪い、透明石膏は月の満ち欠けに応じて膨張と収縮を繰り返す。ミドラシュは誰が見てもこれは西の魔女だと認めるほどに西の国らしかったが、彼女が得意とする呪文は祝福の類だった。確率論が試されるお守りやおまじないと言った方が正しい。宝石を磨き、手がけ、宝石が持つとされる効能を最大限に引きだす。南の魔法使いのように人間を愛しているミドラシュが祝福の魔法に帰結するのは、当然であったのかもしれない。
「エメラルドは目を癒すと言われる宝石です。魔法科学技術により人々は飛躍的に進歩を遂げ、経済力や軍事力は目まぐるしく発展しました。勿論、医術も」
 魔女は、まだ愛してる。そう囁くように言ったシャイロックに、罪を暴くべき男は何も言わなかった。納得して欲しかったわけではない。同情も望んではいなかったからこそ、彼の沈黙が心地よかった。弁護人の言葉を聞き届けた裁判官は、この法廷に於ける主役であり悪役であった女に問う。
「被告人。最後に述べておきたいことはありますか」
 ミドラシュはようやく我に返ったようだった。乱れた黒い髪に埋もれがちの蒼白の顔を恐る恐ると持ちあげる。濡れた頬に髪の糸が張りついていた。星月夜の瞳は暗く、青い深海に星影を残す。彼女の瞳は何かを探し求めるようにいつまでも不鮮明に揺れていた。ミドラシュは相変わらず断頭台に向かうような足取りで、ふらつきながら証言台へと向かった。皮膚は滑らかさを失い、眼窩は余計に窪みを増し、酒で膨れていた頬はすっかりと痩けている。あれがかの酔いどれの西の魔女であることも、そしてかつては愛らしい娘だと偶像として褒めそやされた美々たる女であったことも、一体誰が信じるだろう。愛する宝石はひとつも纏わず、正気たる酒は一滴たりとも残さずに抜けてしまった。酒精の消えたミドラシュは、心と頭の成長を途中で止めたことが顕著に現れていた。ミドラシュは落ち着かなさそうに足を擦りあわし、垂れ下がる大きな布へと振り返った。少女のような甘やかさを纏う貴婦人が微笑んでいる。
「あ、あのね、ステラは、大丈夫なの?」
 ミドラシュが何よりもそれを恐れていたことは、瞭然であった。冷酷に進みゆく法廷で、一体どれだけそれを聞きたかったことだろう。ぎゅうと小さく縮こまるミドラシュに、穏やかな声が返された。
「お元気そうにされていましたよ。ミドラシュに伝言を預かっています」
 はっと目を見開いて縋るように見つめるミドラシュに、紺碧の瞳を緩めて、ラスティカが微笑んでいた。その表情は、ただただ優しかった。
「また、あなたと話がしたいわ、と」
 大きく開かれた碧眼から、大粒の涙が溢れた。ぼろぼろと溢れるそれは宝石にもならずに白い頬に伝い、顎から首筋へと落ちていった。それを拭うこともできず、ミドラシュは涙を零す。その表情は、幸福で満ちていた。ミドラシュは人間を愛した魔女だった。耐えきれずに開いた唇からは嗚咽が洩れ、彼女は息苦しさに喘いだ。彼らはその海水を拭ってやらなかったが、ミドラシュが泣き止むのを待っていた。俯いた顔をすっかりと濡らしたミドラシュは、宝石彫刻師達を見据えた。青年がびくりと肩を震わせ怯え切った様子でミドラシュを見たが、彼女は表情を崩さなかった。幾度か息を吐いて、ミドラシュは眉を下げた。その顔に、魔法使い達は少なからず驚いた。痩けた頬に赤みが差す。ぐしゃりと溶けいるように青い瞳を歪ませて、口角を薄くあげる。彼女の顔にあったのは、恥じらいだった。一糸纏わぬ姿になることに全く抵抗を見せない彼女が恥じいる姿を見るのは初めてだった。ミドラシュは自嘲するように細い首をあげて、精いっぱい背筋を伸ばす。その姿に安っぽさはなかった。どうしようもない現実に諦観した、女の哀れな香りが匂った。
「彼が、やってくれたの」
「わたしね、馬鹿で、勘定ができないから。だから、彼がやってくれたのよ」
 ミドラシュは騙されやすい女だった。ひとの嘘が見抜けない。彼女を丸めこむことに二枚の舌は必要ない。計算と読み書きを不得意としていて、ひとを信じることを得意としている。晶はミドラシュが紹介状を書いてもらったという話を思いだした。あれはミドラシュの才能を見込んだものではなく、彼女の頭の弱さゆえではないのかと。組合には縛りが多い。しかし、所属すればミドラシュは自分の不得意で失敗する可能性は限りなく低くなる。箱庭は楽園にも砦にもなる。ミドラシュは証人達の前に立ち、そして、跪いた。首を深く垂れる。長い髪が床を這い、ドレスの荒い裾が広がる。ムルは、この裁判で必要なのは人間への従順さと献身さだと言った。ならばミドラシュは、自分を守るために正しく役目を遂げたのだろう。
 そこには、人間を愛したひとりの魔女の姿があった。




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歌屑とひやおろし