枝々の間から舞い込んだ風が運ぶ初夏の香りは、泡の街で味わったザクロのソーダに似ているような気がした。すっと鼻腔をくすぐっては緩やかに溶けていく、少しだけ刺激的な、彼らのような匂い。涼風は暖かな日差しのなかを駆け抜け、大木に背を預けた晶の甘い黒髪と子供向けの可愛らしい詩集の頁を揺らした。はらはらと頁が捲れた先ではいつかの日に貰った押し花の栞が挟まっており、晶はくすりと小さな笑い声を零した。雨上がりの穏やかな木漏れ日は読書を楽しむことにも物想いに耽ることにも向いている。そう知ったのは、この不思議な世界に招かれてからだ。
酷く澄んだ清らかな小川が流れ、光り輝く苔に覆われた樹木が橋のように横たわっている。手入れの行き届いた中庭から少々遠ざかったそこでは、あらゆる木々がしなり、不可思議な草花が伸び伸びと茂りながらも、居心地の良い空間が形成されていた。お昼寝をするには最適なのだとトリッキーな猫のようなひとが教えた通り、太陽が柔らかく照り、絹のような影が織りなしたその場所は、読み慣れぬ文字を追っていた晶を心地よい眠りへと誘っていた。不意に手脚を絡め取られたように身体がくたびれ、彼の意識だけが浮上する。こっくりと舟を漕ぎ出した晶は、夢現を彷徨いつつこれまでの出来事を思い返していた。炭酸水のような毎日だった。忘れられないほどにぱちぱちと鮮やかに弾けながらも、気づけば炭酸がすっかりと抜けて、そのまま何処かへと消えてしまいそうな。月光で満ちたこの世界は、壊れかけていて、されどうつくしい。かけがえのない日々は紛うことなき現実だとはとうに認識していたが、夢のような世界は夢のまま完結するのではないかと、晶はぼんやりと霞む思考に諦観を委ねてしまうことがあった。心で魔法を使う、彼らと友達になりたい。君のことを知ろうと思った、知りたいと思った。彼の想いに偽りはなかったが、それほどまでに晶が目にする光景は、彼が生きたテクノロジーが飛び交う多忙な現代日本とはかけ離れていた。月を畏れ糧とする、人間と魔法使いが共存した世界。とろりと落ちかけた瞼の向こうにさらに熱を帯びさせる。真っ青な空に浮かぶ月は白く、大きく、ぼつぼつと穴が空いたそれは、澄んだ遺骨のように見えた。昼間の月は穏やかな白百合色をしている。地学の授業にて星は死ぬ時に跡形もなく爆発するのだと耳に挟んだ覚えはあったが、まるで死んだ星を眺めているようだと晶は思った。
この世界では一年に一度月が降る。地上を滅ぼさんと襲撃する禍々しい天体を追い返すべく、魔法使いは訪れる月を──大いなる厄災を迎撃する。その魔法使いを選ぶために、異界からは賢者が呼び寄せられるのだという。それが晶だった。風が強く猫が騒がしい日に、晶は賢者としてこの世界に招かれた。魔法使いは賢者に従う。大いなる厄災から世界を救う役目を担う魔法使いたちは、賢者の魔法使いと呼ばれた。賢者と慕われることはあれ、晶は己が到底聡明な人物ではないことは自覚していた。自身には相応しい思慮も常識もなかった。実のところその名通りの賢さは賢者には必要ない。防波堤になるのは魔法使いで、今更賢者の指示を仰がねばならぬ愚鈍な者はいない。だが、晶は誠実な人間だった。脆弱で凡庸で騙されやすかったが、猫をこよなく愛し、異質なものを理解し尊重しようとする姿勢は、多くの賢者の魔法使いたちにとって好ましくうつった。
敵を退け謎を明かし、叙任式を無事に終え、二十一人の魔法使いたちと共に各地で起こる異変を解決する慌ただしい日々。近づいたり離れたりして、またひとつ知り得た何かに胸を躍らせる。例年など非にならない大いなる厄災に襲われた彼らは、来たる日に備えるべく中央の国に構えた魔法舎で過ごしていた。
「ンン、この気配は……くんくん、賢者さまだァ!」
「わっ……!」
木の後ろから何者かが晶を覗き込む。晶は目の前に暗い藍色のカーテンがかかったのではないかと錯覚したが、そこには彼を爛々と見据える魚の瞳のように見開かれた双眸があった。チャシャ猫を彷彿とする眼球の様子に、晶は一瞬で眠気から解放される。だらだらと伸びきった女の髪が首にまでまとわりついて、夜ならば叫んでいたかもしれない。黒々とした睫毛は広がった瞳を円を描くように縁取り、その一本一本の長さや巻かれ方すら窺うことができた。奇妙な双眸だった。昔にこういう目をした猫を見たと、晶は一周回って落ち着いた思考を巡らした。碧眼の中心には星の如く煌めく琥珀があり、クレヨンで描いたように鮮やかな青藍の瞳孔がきゅるきゅると楽しげに収縮している。とりわけ珍しいダイクロイックアイを持つ女を晶はひとりしか知らなかった。
「ミドラシュ!」
「はろー、賢者さまァ。ご機嫌いかが?」
「とっても楽しいですよ」
「そりゃアよかった!」
ドレスの裾や長い髪が地面につくのも構わずに、ミドラシュは晶の隣にすとんと腰をおろした。気持ち良いほどに投げ出された脚は辿れば辿るほど不健康な細さを帯び、何となく気まずくなった晶はミドラシュの顔へと視線をやった。まず初めに見えたのは黒い頭のてっぺんにあるつむじで、そういえばこのひとは意外と小さいのだと何度目かの彼女への印象を脳裏で紡ぐ。人間が考えることの九割以上は昨日と同じなのだという。ミドラシュがシャイロックやムルと戯れているとき、彼女のつむじが彼らから頭ひとつぶんほど離れた位置にある様子を見かける度、晶は不思議な気持ちになった。無邪気に向けられた笑顔がこてりと傾く。ミドラシュは仔猫のように稚く笑う。
「ミドラシュは?」
「めでたいくらいサ。なンつったって、ネロのごはんにありついたンだ」
まずはカフェオレ。ミルクもシュガーもたっぷり入れて、やさしい甘さが寝ぼけ眼を解きほぐす。香ばしく焼けたクロワッサンはムルのお気に入り。一思いに半月に齧りつけば、サクサクから転じるもっちりとした食感がたまらない。隠し味には星屑糖を少し。オムレツはふわふわとゆめいっぱいに膨らんで、まろやかなバターが香り立つ。じっくりと煮込んだトマトソースで仕上げれば、テーブルクロスにはしあわせが並ぶ。
「ネロのごはんはしあわせの味がする。シャイロックも、ネロのお菓子がすきなんだってさ」
くるくると指先で縁を描きながら告げるミドラシュは如何にも上機嫌そうで、晶の顔にもおのずと笑みが浮かんだ。ミドラシュはひとが好きだった。欲望のままに自堕落的な愉しさを謳歌するミドラシュは、周りにアクシデントやハプニングを振りまきながらも、同時に痛快で賑やかな幸運をころころと真珠のように溢していく、何処か憎みきれない魅力を持っていた。それは彼女が西の魔法使いたる所以なのだろう。酒と宝石をこよなく愛する魔法使い。おびただしいほどの酒精を纏わせた、夜を拐った毛並みと流れ星の堕ちた海底の瞳を持った、酔いどれの西の魔女。ミドラシュは賢者の魔法使いではなかったが、時折猫のように姿を消しながらも居心地良さそうに魔法舎に住み着いていた。
晶がミドラシュと出会ったのはこの世界に招かれたばかりのことだ。緊迫感の解けない空気を壊して不審者だと捕獲され、無様に首根っこを掴まれてやってきた女の姿は到底忘れられるものではない。黒い髪と黒いドレスからは熟れた顔と赤らんだ膚が覗き、ランプブラックのシルクを押しあげる乳房の間へとたらりと垂れていく柳の髪の艶かしさに、若く不慣れな晶の目が一瞬眩んだのは致し方なかった。しかし、何よりも晶の肝を抜いたのは、見事な達筆で「酒」と書かれた一升瓶の口を小さな手が握りしめていたことだった。言葉こそ何不自由なく通じるが、この不可思議な世界で漢字はおろか晶の知る文字が使われていないことは招かれた夜に図書室で確認している。拘らず、そこに存在しているのは正しく晶が識っていた文字で。吊るされている女は唖然とする晶を煌めく星で捉えると、ぱちくりと瞬きを数度して、いっそ愛おしそうなまでに色鮮やかに笑った──「ニホンシュをめぐんでくれ」と。次いで聞こえたのはムルの笑い声とシャイロックの辟易を隠さない溜息、カインとヒースクリフによる驚愕の声で、晶はぐるりと三回はひっくり返されたような脳でああきっと彼らはこのひとの知り合いなのだと思うと同時に、夜空を身に堕としたような魔女の名前を知った。ミドラシュと「そこそこに」付き合いがあるらしいシャイロックによれば、彼女は以前から定期的に魔法舎に訪れていて、前の賢者にとても懐いていたらしい。彼女は同郷のムルとも知人であり、スノウとホワイト、はたまたアーサーとも顔見知りであった。あの一升瓶や彼女の口にする言葉、和食や日本酒を愛する姿は異文化交流の賜物のようだった。
(そこそこに付き合いがあるという感じは、しないけど)
あの日ミドラシュは見事な手捌きでシャイロックに頭を叩き落とされていた。妖艶で優美な魔法使いが曲がりなりにも女性であるミドラシュに物理的に手をあげた光景は晶の目にしっかりと焼き付いている。しかし、シャイロックとミドラシュにとっては日常というべきそれらしかった。シャイロックとムルのあらゆる情で絡んで縺れた縁は言わずもがなだが、曰く西の魔法使いたる三人は酒場の主人とその常連客という名でおさまる関係らしい。そうは言ってもと、晶は自分の隣でゴロゴロと喉を鳴らしている女を見やった。それがあこがれであるのは確かだが、恋情や親愛、はたまた信仰といったものに結びつくかはわからない。けれど、誰の目から見ても、ミドラシュは明らかにシャイロックが好きだった。飛びついてくるミドラシュをあしらうシャイロックの姿を見かける日々ばかりがあった。何か込み入った事情があるのではと思うのは邪推だろうか。
「賢者さま、それ、あんたのご本?」
「ああ、これはルチルが貸してくれた詩集なんですよ。文字の勉強にって」
「勉強! 賢者さま、あんた天才だァ〜〜! えらい! すごいぞ!」
「それほどでも……」
何も取り繕わないだろう素直で稚いミドラシュに手放しに褒められて、悪い気はしない。小さな指で詩集を開いた途端、青い鏡にはぱっとあかりが灯った。ミドラシュは弾かれたように晶を見上げる。
「あたし、これならすらすら読めるよ。賢者さま、あたしが読んだげる!」
「いいんですか? じゃあ、お願いします」
「んふふ、任せなァ」
すらすら読める、なんていつぶりに聞いただろう。小学生のときは国語の授業で音読の発表があって、母や父に幾度となく練習に付き合ってもらっていた。今日は懐かしいことばかりを思い出すと、晶は破顔して頷いた。ミドラシュは自分が読み聞かせをしてあげられるのだと、詩集の頁をすりすりと嬉々として指の腹でなぞっている。厚みのある触り心地の良い紙には、読みやすそうな大きな文字が連なり、その下では星空をうつした煌めく湖畔が描かれていた。子供向けに改訂され収録された詩のひとつは、南の国に訪れた時に、光り輝くティコ湖の前でルチルが朗読してくれたものだ。だからこそ彼は是非にと晶に貸してくれたのだろう。じっと詩集を見つめるきらきらと瞬く碧眼はカシオペヤの星を飼っているようだった。ミドラシュは気取り損ねたようにくふくふと吐息じみた笑声を零した。そして、豊かな生白い胸がぴんとばねのように張る。
若い魔女のまやかしに騙されてみせる
虚ろの音を響かせて
無知な青さが揃いだと
魔女が信じているのなら
付き合うのもまた一興
ところがやけに聡かった
女はとおい若葉の落葉を知り
背景を見せぬのはお互いさま
魔女は真の口ぶりを覆い隠し
私も口を閉ざしている
零れる陽のひかりはまろく、枝葉が生み出した影は柔らかく、ミドラシュの声は子守唄のようにやさしかった。とうに酒に焦がされた声だった。けれど、何処か囁くように詩を紡いだ、そっと抑えられた女の声音は、聴いていて心地よかった。彼女の面倒を特に被っているだろうシャイロックの前では口にしたことはなかったが、晶はミドラシュの酔いに酔ったふわふわとした呂律と、甘く掠れたコントラルトが好きだった。そんな彼女が謳う詩が、まるで子をあやすように穏やかなものであったから。
「ンン、賢者さま、眠い?」
「ごめんなさい、少しだけ」
「あはは。あんた最初ッから眠そうだったモン。寝たいときに寝るのが一番サ」
甘い声に侵された晶の脳裏にはいつしかくらくらと酔いが回り、彼はあたたかな大木に重い頭を預けた。押し寄せる微睡みに身を呑まれる。海綿が水を吸うように、思い出したばかりの眠気がさらさらと彼の身体に染み込んでいく。酒を嗜まない晶にとって、ミドラシュと四六時中過ごすことは難しい。朝から晩までおびただしいほどの酒精を貪るミドラシュの身体は、一滴も呑まずして酩酊に誘う香りがぬらぬらと滲み出るようだった。晶はそれを魔性だと錯覚する。けれど、シャイロックを愛してやまない、このとびきりイカれた西の魔女を識りたいと思う。晶の瞼は睡魔に圧し潰されかけていて、しかし逆らうように掴んだものは、ミドラシュの煤けたような黒で染めあげられた外套だった。飾り気のある細々とした鎖や長ったらしい髪の毛先を巻き込んで、晶はミドラシュの一部を握りしめる。
「ゆっくりおやすみ、あたしのアキラ」
小さくも柔らかくはない手のひらが、晶の弱々しく握られたそれに重ねられる。無数の泡を閉じ込めたサンチュールでは、ありとあらゆる洋酒の小瓶がたぷたぷと波打っている。長い髪が深海のように晶を包み、さらなる奥深くの膚にて、いやに赤みを帯びた唇が朝の花弁のように濡れていて、ああ、笑っているのだ。
次に瞼を持ちあげたとき、空は未だに明るかったが、彼方では夕暮れの兆しが見えた。しなる枝々からまろびでるひかりはあたたかく、風は甘酸っぱい匂いを晶の下へと運んでいる。小川には蜂蜜色の鱗が反射して、傍で咲き乱れる色とりどりの花々が存分に煌めいている。肩には見慣れた黒い外套がブランケットのように掛かり、すぐ隣では、広げられたハンカチに丁寧に詩集が置かれていた。ほろ苦い薔薇とアルコールの香りが漂った。
✵
古びた蝶番の音ですら何処となく気品がある。扉を開けば空間を切り拓いたかのようにホールが広がり、あたりはとろりとした微酔で満ちていた。西洋建築の天井は抜けるように高く、ぐるりと広間を囲む三階の通路が見えた。吊り下げられたシャンデリアの洋燈はまろく、膨らんだ鈴蘭に似る。滑らかな硝子のひかりを浴びた壁はバターのようにあたたかくも格式高い雰囲気を纏っており、いっとう明るい場所ではビリヤードやクラシック様式のソファが置かれていた。円状のテーブルには天秤の他に散らばったトランプが残され、舞台の小道具のような様子に、まるで小さな劇場に迷い込んだようだと晶は思う。魔法舎の二階にはバーが併設されている。無人であったそこは共同生活にあたりある西の魔法使いが気まぐれで営みはじめ、現在は大人たちの憩いの場とされていた。カウンターには二人の男の姿があった。優雅に視線をやるルベライトと弾かれたように振り返ったエメラルドがうつくしい。数々の洋酒が仕舞われた棚の前で、グラスの雫を拭き取るシャイロックが微笑んだ。
「いらっしゃいませ、賢者様」
「こんばんは、シャイロック。ムルもこんばんは」
「うん、こんばんは! 賢者様、いい夜だね」
確かに心地よい夜だった。室内こそしっとりと毛布のように包み込むぬくもりがあるが、訪れたばかりの夏の夜は少し肌寒い。しかし夜空ははっと目が醒めるほど蒼く澄み渡り、雨上がりの甘い空気で紺碧のドレスを飾り付けている。虫の歌のひとつも聞こえず、そのまましじまにとぷりと落ちて、溶けてしまうように。
シャイロックの黒壇の髪と洋紅の瞳には、蜂蜜のような淡い明かりがたっぷりと染み込んでいる。物言う花の如き美を識る顔が浮かべた微笑みの妖しさに、晶は目にちかちかと星が舞ったような気がした。シャイロックはうつくしかった。嫌味のない癖がかかる髪は上品なバーガンディー。覗く両耳はまっさらな象牙色。秀でた額や冷ややかな線を描く輪郭には細い髪の房が滑り、その瓜実顔をさらに飾り立てている。端正な唇は甘い微笑を浮かべ、鼻筋はすっと高く通り、そして磨き抜かれたルベライトの双眸。彼の瞳はまるで月のひかりに咲きでた薔薇のように赤く、吊り上がった桃美眼は華やかな睫毛に縁取られ、深く切れた眦は横顔を一際映えさせるのだった。凄みがあるほどにはっきりとした双眸はしかし彼の淑やかさが滲みでるように柔和な印象を湛え、何よりも目眩すら覚える色香がある。上背があるほっそりとした体躯はしなやかに佇みながらも、決して痩せぎすではなく、男性的な影を損なってはいない。身を包むバーテンダーらしい服装は彼曰く趣味であり、シャイロックのためだけに用意されたかのように似合っていた。実際、そうなのだろう。彼の前でくつろぐムルもあどけなさと愛くるしさを持った負けず劣らずの美青年で、晶は魔法使いとは美男美女しかいないのかと熱に浮かされた吐息を洩らしそうになる。おずおずと落ち着かない様子で近寄ってきた晶に目を細めたシャイロックは、彼が何故ここに訪れたかを既に理解しているようだった。その視線はやんわりと意図を察せない仕草で晶の抱えたそれに向けられて、シャイロックはにこりと口角をあげる。
「ああ、ミドラシュですね」
「はい。見かけていませんか?」
「さっきまでシャイロックが遊んでたよ。でも、どっかいっちゃった!」
肩を竦めるシャイロックとは対照的に、ぱっと振り向いたムルは楽しげに口を挟んだ。その肩が揺れる度、彼の手にあるカクテルが──「暗闇に輝ける星のカクテル」がちゃぷちゃぷと危うげに波打った。夜を沈めたように深い紺色のうみのなかで、星と花火を思わせる気泡がぱちぱちと弾けている。それはムルのお気に入りのカクテルのひとつで、彼の想い人たる月がムルを見つめた姿を表しているらしかった。
ムルの見ていて気持ちが良いほどの笑顔に一瞬納得しそうになったが、シャイロック「が」遊んでいたとはどういうことなのだろうと晶は背筋を泡立たせた。何かよからぬ考えが脳裏によぎったわけではなく、それを聞いたシャイロックの笑みが深まりながら凍りついたように寒々しい気配を持ち始めたからだ。ふたりのさりげない言葉の応酬に度々ナイフのような鋭さがある様子は呑気な自分にでも窺えたが、何よりシャイロックが憎らしく感じているのはムルが意図的なのかそうではないのかがわからないことだろうと晶は思う。ムルは無意識下でありながら無邪気に殊更に探る男でもあった。表面上はにこやかなシャイロックが背後に火花を立てている。言いかける言葉を失った晶はおろおろとしばらく視線を彷徨わせたが、やがてそれは少し驚いた様子でシャイロックの腕に止まった。完成された佇まいは、いつもよりひとつ欠けている。
「あの、シャイロック。そういえば──」
「にゃはははは! どうやらあたしを呼んだようだナ!」
「そ、その声は……!」
奇妙な高笑いにぎくりと肩を強ばらせ瞳をまんまるにした晶の前で、シャイロックとムルは悠然とまでに落ち着いた仕草で三階の通路を見上げた。揃った方角を向く気ままな猫みたいだった。シャイロックに至ってはおやおやとのんびりとした調子で軽やかな吐息を洩らしてすらいる。彼らはまるでこのときを待ち侘びていたかのように愉快そうに笑んでいて、晶は今度は見開いた目を白黒とさせた。恐る恐ると晶が首を持ちあげれば、そこには夜空の髪と流れ星の瞳を持った魔女が立っていた。
「ミドラシュ!」
「んふふ、待たせたねェ賢者さま。ごめんね!」
ミドラシュは晶めがけてばちんと左目の星屑を散らした。片方の踵が折れた下駄で器用に手すりに這いあがり、腕を組んで豊かな胸を押しあげて仁王立ちする姿は堂々としているにも拘らず、同時に情けなくも見える。満面の笑みでこちらを見下ろすミドラシュに、晶は思わず声をあげた。彼女が羽織る赤い格子じまのストールが、紛れもなくシャイロックのものであったからだ。上品な真紅のストールはミドラシュのまろい肩にかかり、襤褸のようなドレスから覗くほってりとした肢体を覆い隠していた。ミドラシュのドレスはとにかく肌を露わにする。うなじで結ばれたリボンを解けば一糸纏わぬ姿に近くなる有様だった。胸元の膨らみはかろうじて繋がった紐で窮屈そうに締められ、脇腹から腰にかけ頼りなく編み上げられた飾り紐には生白い膚が綻び出している。深すぎるスリットからは惜しげもなく太腿が覗いた。黒衣のシルクは薄く、そのメリハリのある身体をくっきりと浮かばせる。晶の驚愕した表情と集まった視線に満足したのだろう。かたりと下駄を鳴らしたミドラシュは自信満々に左手で髪を靡かせて、そして両脚に力を込めた。
「とうっ!」
「おや」
「わあ」
黒く豊かな蓬髪が、ぶわりと円を描くように舞う。シャンデリアのひかりを受けたラリエットは光輪の如く煌めき、鮮やかな逆光に晶は目を眩ませた。ひゅっと喉を鳴らした晶とは裏腹に、西の魔法使いらは呑気な声を零している。死ぬような高さではないが危険なことに変わりはない。あの折れそうな女の脚を思えば尚更焦燥感に捉われる。しかし、三階から二階へと飛び降りるミドラシュの表情は、何処までも愉しげであった。赤ら顔に挑発的な笑みを乗せ、作り抜かれた映画のワンシーンのようにミドラシュはストールをはためかせる。濡れた唇が最後と音を吐き出した途端、今にも床に堕落せんと落下する身体は、次の瞬間ふわりと浮遊した。軽やかに宙で停止する姿は、風に誘われて踊る落ち葉のようだった。縋りつかれるように長い髪の房のひとつひとつが舞いあがり、晶の目の前で両の星屑がちかちかとひかる。ちかちかと、ひかる。
「んふふ、ムル直伝の着地さネ! 賢者さま、どうもありがとう!」
「お礼をいうのは俺です。シャイロックも……」
「さて、何のことでしょう」
数瞬時間を止めたかのように身軽に到着したミドラシュは、ふらりと晶に飛びついた。そのまま晶の手にあった外套とハンカチを受け取って、ミドラシュは朗らかに礼を告げる。賢者さまが持ってきてくれたのだと見せびらかす姿は、共に一升瓶を掲げているにも拘らず、不思議と可愛らしく見えた。晶が思わずとシャイロックを見上げても、彼は口元にしなやかな手をやって微笑を返すのみだった。自分は何も関与していないといった姿勢を見かけたのは一度や二度ではなかったが、やがて彼はミドラシュに向かって手招きする。
「ミドラシュ、こちらにいらっしゃい」
「ンなァ?」
ぽてぽてと千鳥足でカウンターへと向かい、シャイロックの前で首を傾げるミドラシュは警戒心のない仔猫に似ていた。するすると流れるようにストールを奪われたミドラシュは、ほんの少し残念そうに眉を下げる。シャイロックはさりげなくミドラシュの乱れた髪を一筋耳にかけた。愛おしいひとに向けるような仕草とは裏腹に、シャイロックの顔にはそれらしき表情は浮かんでいない。まるで猫の親子のようだとその光景を見つめていた晶を、ミドラシュは振り返った。
「賢者さま。このあと、お仕事とかお勉強とか、ある?」
「いいえ、特に何も」
「そりゃアいい! ねェあんた、あたしのお隣においでよ」
ひらりとシャイロックのもとから離れたミドラシュは、危なっかしい様子で駆け寄ってくる。ムルもシャイロックもこちらに柔らかな視線を向けていて、歓迎されていることを悟った晶はミドラシュの手を取った。そのやつれた腕は何処から力を湧かせているのか、ミドラシュはぐるんと大袈裟に晶を一回転させる。軽快なステップを踏んで賢者たるそのひとをカウンターの止まり木へとエスコートするミドラシュは、紛れもなく西の魔女であった。
魔法使いは出身によって性質が異なるとされる。たとえその土地の生まれではなくとも、身を置いた場所の精霊に好かれることにより、魔法使いはその国に染まる[#「染まる」に傍点]のだ。ゆえに、生まれが北でありながらも東出身の魔法使いと呼ばれる者もいる。北の魔法使いは強靭な力を持つ孤高の存在に、南の魔法使いは人助けを好む温厚な気質に。東の魔法使いは執念深く人嫌いな者が多いとされ、中央の魔法使いは主導者に相応しい正義感の強い気質になる。そして西の魔法使いは悪戯好きで快楽主義者的な性情を持ち、他国の魔法使いからは狂人や変わり者と呼ばれていた。実際に西の魔法使いが三人揃うところを見ても、やはり彼らは変わっている。彼女の狂気がたとえ酒から得たものであったとしても、極度の楽天主義者であるミドラシュもまた西生まれの魔女だ。その名は西端が最も似合う。別の土地にすべてを包む夜を縫いつけた長い髪を下ろしても、ミドラシュはきっと羊の群れに紛れた狼のように浮くのだろう。
「う、うぐ、ゥ、おええええ……」
「うわ、きたない! シャイロック、ミドラシュがまた吐いた!」
「放っておきなさい、いつものことでしょう」
そして、どうしようもない酔いどれの野良猫であった。少なくとも晶はこれほどまでの酔っ払いを見たことがなかった。隣ではミドラシュが大きな桶に突っ伏している。彼女の右手は愛するひとの手を掴むようにボトルを掴んでおり、晶は恐る恐るとミドラシュの夜の髪を掬い、シャイロックがそうしたように赤く色づいた小さな耳に一房かけた。貝殻のような耳は柔らかく、晶の指の腹にしっとりと熱を帯びさせる。生々しかった。彼女の丸まった背中は、既にムルが撫でていた。ミドラシュはおびただしいほどの酒精を煽る。朝も夜も、夢も現も、呼吸の合間に狂い水を舐め、溢れんばかりの酒を呑み干す。いっそ身体からアルコールが抜けることを恐れているのではないかと思うほどの有様で、以前シャイロックは彼女が酔いから醒めた姿を五十年は見ていないと口にしていた。酒狂いのミドラシュと彼は厭う口ぶりで呼んだ。彼女と付き合いがある西の魔法使いらは「そういうこと」に関しては何も言わなかった。彼らは沈黙を置いた以上言葉にはしなかったが、ミドラシュは所謂依存症なのだろうと晶は思う。
「シャイロックぅ……」
ミドラシュはぐらぐらと如何にも重そうに頭を持ちあげた。彼女の肩は真っ赤に腫れ上がり、そのうえ死にかけた魚のように小刻みに痙攣している。見ているだけで不安になるような様子だったが、しかしそれを見下ろすシャイロックの貌は冷ややかなほどに飄々としていた。カウンターの洋燈の側にはぷくぷくと縁部が波打った可愛らしいカクテルグラスが並んでいる。ミドラシュが口にした「金魚を追いかける猫のカクテル」は酒飲みの彼女を狂わすようには見えなかったが、明け暮れ酔いどれとっくに縁を満たした彼女を最後に崩し去ったらしかった。濡れそぼった花びらのような唇からたらりと細い銀の糸が伝っていく。双眸は泡立ちすぎた。ぎょろぎょろと膨れた奇妙な眼球はとっくに焦点をほどき、浮き沈みするようにシャイロックを捉えた。震える手が恐る恐ると伸ばされて、やがてシャイロックの前で、やつれた人差し指が立てられた。
「もういっぱい……とびっきりキツイやつ」
「……」
ゴツ、と硝子と頭蓋骨が突き当たった。ミドラシュの丸い後頭部がボトルの底で容赦なく打ち付けられている。ボトルのネックを掴む手は男性ながらに白魚の如き滑らかさがあり、遮光性の高い翡翠の瓶に曇りのない爪が際立った。ぐじゅりと吐瀉物がさらに潰れる音が聞こえ、晶はとうとう隣を見られなくなった。ただでさえ色を失っていたシャイロックの顔が、にこりと冷笑を浮かべる。
「私の酒はあなたのような客には高いですよ」
とっぷりと酔気が広がったカウンターで、閉店だって、とムルがきゃらきゃらと笑う。朗らかな低い声は随分と澄んだ響きを持っていた。またねと彼はミドラシュの頭を撫でる。そのまま止まり木から飛び降りるように腰をあげたムルは、急かすように晶の手を奪った。脚の高い椅子に慣れずに身をぐらつかせた晶の腰を軽やかに抱き、ムルはシャイロックに振り返る。
「じゃあね、シャイロック!」
晶も続けて振り返れば、シャイロックは艶然と微笑んでいた。そこにはミドラシュに向けた白々しさと全く異なったかんばせがあり、慈しまれているのだとじんわりと胸が火照った。ミドラシュは大丈夫だろうかと不安に駆られはしたが、実のところシャイロックの面倒見の良さを晶は充分に理解していた。ひとを狼狽させて弄ぶずるい一面に純情な晶はよく餌食になっていたが、まだ濡れていた髪を乾かしてもらった覚えも、寝付けない夜にハーブティーを淹れてくれたこともある。矢面に立ち、晶をその身で守ったことだって。晶にとってシャイロックは優しい友人であり、良き魔法使いであり、何処か兄のような影を覗かせるひとだった。シャイロックは目に見えてミドラシュを疎ましく扱っていたが、きっとそればかりが本心ではない。心からミドラシュを厭っているのなら、ベネットの酒場というシャイロックの城に足を踏み入れることも許されはしないだろう。
ミドラシュは死んだように桶に突っ伏している。浮きあがる肩甲骨が随分と生々しかった。
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目次
歌屑とひやおろし