満月が降る千夜を越えて、ただの一夜で半数もの仲間を喪った。それはかつて月に親友の魂を砕かれたシャロックにも初めての出来事であった。あの惨憺たる夜はいっそ色鮮やかなまでにシャイロックの深い瞼に焼き付いて、時折その睫毛をふるわせていた。忘れられるものでも忘れていいものでもなかった。肩を並べ親しんだ者たちが石となり崩れていく姿も、それを抱きとめられなかった自分も。シャイロックは彼らを愛していた。
 賢者の魔法使いは国別に四人、例外として五人選ばれる。北の魔法使いは皆生き残ったものの、西と東と中央はふたりずつ仲間を石にされた。南の魔法使いは優しさゆえに仲間を庇いあって全滅した。数多の犠牲を払ってもなお、不気味なほどに燦々とふりしきる月光はあの日大いなる厄災を迎撃した者たちに深い傷痕を残した。月に近づきすぎたのだ。ある者は夜になれば絵画に閉じ込められ、ある者は辿る夢路が幻想として現実に可視化された。シャイロックもまた例外ではなかった。
「……っ、あぁ……ッ!」
 あたえられたのは、業火の如き苦しみだった。実際にそうなのかもしれないと、シャイロックは熱で浮かされるなかで皮肉を笑う。太陽に近づきすぎた人間が蝋の翼をもがれ地に墜とされるように、月に近づきすぎた魔法使いも罰を受けるのだ。かつて世紀の智者と謳われたムルも、恋焦がれた天体に逼り魂を砕かれてしまった。
 閉め切った暗い部屋でちりちりと火花が散った。夜ならば寝息で穏やかに軋むだけのベッドでは呻き喘ぐ男の声ばかりが続き、なだらかとは程遠いほど乱れた白いシーツに、ぼたぼたと玉の汗が染み込んでいく。うすく濡れた膚をシャイロックは掻きむしった。哀れなほどに刻まれた爪痕は、しかしたやすくその痛ましさを損なう。開いたシャツからは百合の紋章が覗いている。そして、その左胸には、赤々と炎が燃えあがっていた。偶発的に心臓が燃える。それがシャイロックが負わされた厄災の奇妙な傷だった。頭痛がする。肺が張り詰め、呼吸が上手くできない。血管が焼きつき、血肉は炙られる。衣も皮膚も焦げつかず、その浅ましい火は一ポンドにもならない心臓だけを器用に燃やす。身を這わせることもかなわない。此処に縋りつけるものは何もない。ただ燃える心臓に喘ぎ、ベッドにひとり蹲り、鎮火を待つ他ないのだ。もしくは。ぶちぶちと引きちぎられるように霞み揺らされる意識を、いっそすべて奪い去ってくれと祈るしか。惨めに呻き続ける唇に、ふっ、と淡い自嘲が浮かぶ。何度心臓を燃やされて咽ぶような苦痛に蝕まれたところで、己は冷たい石にはなりやしない。遠のく脳裏に過ぎたのは憎らしい友人の姿だった。
「きみの欲望が知りたい」
 そう宣った菫色の牡猫に。自分は。
 
「しゃい、ろっく?」
 ぼとりと誰かのハンカチが落ちた。酒に焼けた声が、童女の如き響きで湿った室内をふるわせる。のけぞった白い喉笛が、ひゅっと痛々しく痙攣した。恐々と顔をあげれば、そこには、彼の心を土足で踏み荒らすことしかできない女が立っていた。呆然と扉の前に立ち尽くし、女は魚の目のように瞳を見開いてシャイロックを凝視している。水の膜が張った双眸が境界線を曖昧にする。夜闇を拐った長い髪はだらだらと伸び、真っ黒な影に溶け込んでいるようだった。ぷらりと棒切れのような腕がぶら下げた酒瓶が如何にも馬鹿らしく、シャイロックの苛立ちを煽る。ミドラシュの唇は開いていた。シャイロックの唇も開いていた。されど、みっともなく喚いたのは、その胸に傷痕も爪痕も花の跡もないミドラシュだった。潰れたような叫びが喧しく、シャイロックの指先がこわばる。哀れな手は血の色を忘れ、月のように青ざめていた。絵の具を塗りたくったような瞳を情けなく歪ませて、ミドラシュは男が呻く寝台に駆け寄る。受容的に生かされた身からは引きずった酒瓶も下駄もとうに転げ落ち、床に無造作に散らばっていた。シャイロックの砦が無惨に崩されていく。ミドラシュはシャイロックの苦しみを理解しなかった。
「ねぇ、ねえ! あんた、どうして、」
 ぎしりと寝台を軋ませる女の重みにもぞっとする。蝋のような手が無遠慮にシャイロックの肩に這い、そして老いぼれた瞳が厚かましく彼の俯した顔を覗き込んだ。長い前髪の向こう、あらゆる色を煮詰めた双眸が醜くひしゃげている。伝う汗は毒のよう。かすかに濡れた毛先がべたりと茹だる額に張り付き、衝動的に男のくたびれた指先が小さな手に食い込んだ。びくりと身体を跳ねさせたミドラシュは、穴が空くほどシャイロックを見つめていた。開きっぱなしの口が鰓呼吸を繰り返すかのようにふるえている。神経は麻痺する。皮肉なことに、その女の顔こそがシャイロックの激痛で支配された意識を一瞬奪った。目の前には、ちりちりとまろい火炎のひかりを浴びて、疼痛も何もかもが抜け落ちた迷子の子どもの顔が浮かんでいた。忌々しいと吐き捨ててやるつもりだった。口汚く罵ってやってもよかった。しかし、そこにいたのは己の焦燥も憎悪も知り得ない、愚かな愚かな白痴の魔女だった。青白い手が虚脱する。解放されたミドラシュは、その腕を躊躇いなく窓辺へと伸ばした。シャイロックの部屋には大きな窓がある。想い人に出会うに相応しい場所だと夜毎ムルが袖を引くようにカーテンを捲る風窓は、虚空も地上も明らかにする。深いラージャルビーの帷幕からは既に月光の微粒子が零れ、怯むシャイロックの額に沙漠の砂のようにはらはらと散った。それがどれだけ高価であるかも知らないミドラシュは、容赦なく重苦しいカーテンを引っ張った。
 金属の音がキンと響いた。ばらりと陰りに沈むカーテンが燦然たる月夜の姿を露わにし、真夜中の部屋は薄気味悪いヴェールで覆われる。満月を識る海底の景色に似ていた。あたし、あんたがちっとも見えないんだ。シャイロック、ごめんね。銀色にさざめく月光を浴びた身体がやけに生白い。開かれた双眸の中心で、濡れた星屑がちかちかと何度もひかった。鮮烈な月明は灯火となる。胸元で燃ゆる火炎が轟々と激しさを増したような気がしたが、シャイロックには瞭然としなかった。激情を奪うかのように心臓が蒸発され、冷たくかたくなな臓器へと成り果てようとしている。息が、詰まる。その爪はとうとう皮膚を抉り、ぎちりと骨か肉かも判別がつかない嫌な音が立った。月に導をあたえられ、青々とした眼球が、はっきりと火炎と爪痕を捉える。
「っ、」
 売女に似つく手でミドラシュはシャイロックの肩を掴んだ。ぞろりと鎖骨に触れ心臓の真上をなぞる痩せた指の腹に不快感が込み上げる。炎はミドラシュを焦がしはしない。たとえどれだけ衰えた身体であれ、呼吸もままならずに呻く男ひとり押し倒すことはたやすかった。弛緩する体躯に重く柔らかな女体が這いずり、伸びっぱなしの夜更けの蓬髪が月から隠すようにシャイロックを覆った。帷のようだった。唇のあわいがそっと祈りを紡げば、鉱石のように角ばったシュガーが数粒現れる。あろうことか、ミドラシュはそれをシャイロックの口に無理やり押し込んだ。血を彷彿とさせるほど赤黒く艶めくシュガーは、ねっとりと口腔に溶けだし、シャイロックの舌を嬲る。熟れすぎた果実のような甘さが舌先をひりつかし、その甘露はアルコールの刺激を思い出させた。この傷が、この口寂しさが、こんな女のシュガーのひとつやふたつなどで癒えるはずがないのに。苛立ちはあからさまな嫌悪感へと変じる。シャイロックは情に深い男だったが、決して厚いわけではなかった。いっそ殺した方がいいと何度も思うほどに疎んだ女を痛めつけることに躊躇はない。しかし、縋りつかれるように長い髪が彼の滑らかな五指の邪魔をした。彼女の首筋には細い蛇がとぐろを巻くように髪がまとわりついていた。凍りついた青い双眸が緩やかに焦点を解いていく。そして、何を思ったのか、ミドラシュは白く萎びた首を首輪を求める家畜のようにシャイロックに差し出した。項垂れた首の嫋やかさは撓む花の角度に似る。女の背からは豊かな黒い髪が溢れ、ミドラシュはシャイロックへと帷の如き長いそれをおろす。シャイロックは、その輪郭から目を背けることができなかった。すっと短く伸びる鼻梁の下、厚みのある唇が噛み締められている。ぼたぼたと雫が滴る音が聞こえる。シャイロックはミドラシュをうつくしいと思ったことはなかった。華やかなりしかつてですらシャイロックにとってミドラシュは下品で無粋な馬鹿な女だった。それはこうして見下ろされた今も何も変わらない。されど、逆光を背負った女の輪郭が、やけに滑らかな仕上がりをしているように見えた。こうして自我も心臓も熔かされて蒸発してしまう前に、その柔らかげな形を、何にも結びつかぬ指先に、憶えてみたいと。女の輪郭など、幾度となく描いてきたというのに。寄せ集めの身体がシャイロックに覆い被さっている。長い睫毛が祈るように偲んだ。月光に映える豊かな乳房に、うっすらとしろい産毛が生えている。もう、この無慈悲な女の首を絞めてやる気にはならなかった。
「あんたは、あたしに何をしたっていいんだ」
 
 それからのことはよく憶えていない。火傷に雁字搦めにされ、ぶつぶつと意識が途切れ、気づけば心臓の炎は鎮まっていた。結局、その首にも髪にもシャイロックは縋らなかった。小さな肩甲骨に触れたとき、女の身体がぴんと驚いたように脈を打ったのは確かであることを思い出す。月明かりにあたる寂しい顔のすじ、潰えたように蓬髪をまとわりつかせる身体つき、真夜中に匂い立つ安っぽいアルコールの香り。生ぬるく籠った部屋にとろとろと洩れる吐息が熱かった。名の知れた詩を耳触りの良い旋律に乗せた甘いさやぎは、きっと子守唄であった。
「魔女は真の口ぶりを覆い隠し……」
 いっそ凌辱するかのようにシャイロックにのしかかったものの、シャイロックの奇妙な傷がおさまると、ミドラシュはまるで飼い猫のようにベッドにおとなしくまるまった。すっかりとよれたシーツはだらりと力なくふたりの身体にかかり、その先は寝台の足元へと伸びている。窓辺からは燦々と月光が降りしきり、ゆらゆらと水面を波打たせているようだった。夜を拐った髪と白い四肢は、シーツの乱れと合わさりまるで長い尾鰭のように揺れ、浅い呼吸を繰り返しているように見える。不意にミドラシュはもぞもぞと身動きをして、シャイロックの胸板にぺとりともたれかかった。丁度肋骨の一番下にあたる位置に顎を乗せ、星月夜の瞳でシャイロックを見つめ、やがて心地良さそうに厚い瞼が伏せられる。シャイロックは骨が浮き出るほどに痩せてはいなかったが、しなやかな線を描く腰は細かった。
「二度と来ないでください」
 自然と洩れた言葉はあの時己が親友に言い放ったもので、シャイロック自身少なからず驚いた。猫のようににゃあにゃあと喧しいあのふたりは実のところ全く似ていなかったし、特にシャイロックは決してあれを重ねないようにするきらいがあった。馬鹿げたことだからだ。ムルのような男はムルしかいないし、ミドラシュのような女はミドラシュしかいない。しかし、唇から吐息のようにまろびでたそれは。傷が現れているときは、と付け足した言葉がいかにもわざとらしい。己はここまで意地汚かっただろうか。オズやミスラのように一時的に処置する手段がない以上その方が俄然ましであったが、この馬鹿な女に強いたことは、心臓が燃える自分を放っておけということだ。シャイロックはミドラシュの幼さをよく知っていた。その愚かさも、情け深さも、犯した罪も。
 月明かりが目に滲みて、水っぽい眼球がわずかと緩んだ。ミドラシュが自分の言葉を理解したのかは定かではなかったが、奇妙な碧眼はじっとシャイロックを見上げていた。どうせわかってはいないだろう。それでいい、もうそれでいい。などと、シャイロックは言えなかった。沈黙を肯定とする狡猾さで騙し、偽り、春を待ち続けていたつもりが、季節はとうに過ぎ去っていた。だから、私は、此処で。
「シャイロック」
 石ころにもならない滴に濡れて、女の輪郭はふやけていたのだろうか。ゆらりと持ちあげた顔は惨めたらしかった。いやらしく酒精で膨れた頬は渇き、微かに白い痕が残っている。けぶる睫毛を伏した先、襟をくつろげた胸元には爪痕と百合の花が刻まれている。ミドラシュはそっと痛々しい膚に耳を寄せた。シャイロックの心臓は、とくとくと、一定のリズムで穏やかに脈打っている。とくんとくんと柔らかく響き、西の魔法使いが識る孤独を包みこむ。孤独は良い。身を寄せ合って眠る夜を忘れがたくさせる。
「あんたはね、かみさまより素敵なひとだよ」
 愛でられることしか知らなかった女は、随分と大層な口を叩くようになった。未だ火照る身体にとって女は冷たく滑らかで、膚の心地をシャイロックは受容する。男の胸にはあの牡猫に踏み荒らされた傷の痛みと甘い疼きが焼きついている。決して錆びつくことのない高尚で高慢な美意識が、そこにはある。シャイロックが神よりも信仰するそれに、ミドラシュは静かに額を押し付けた。月光に浮かびあがる背に幾筋もの髪が滴り、シーツのなかを泳いでいる。真っ黒な頭を垂れた姿は、ひとに忠誠を誓い傅いた愚かなけだもののようだった。
 
 月と同じ日々を過ごしている。月が眠る頃に寝台に横たわり、月がひかりを息づく頃に身を起こす。月下の独り歩きに影がふたつ重なった経験は幾度となくある。何百年と時が経つに連れてその手の欲はなりを潜めていったが、少なくとも、彼が孤独を識るかぎりはひめやかに続いている。
 迎えた朝は千年と生きたシャイロックにも見覚えのないものだった。あらゆるウイスキーやブランデーが保管された彼の部屋は薄暗く、常ならばカーテンで閉め切られている。遮り切れぬか細いひかりを感じ、ぼんやりと目覚める朝こそが彼の一日の始まりだった。されど。瞼の裏にまで染み込む陽の真っ白なひかりに、微睡みを彷徨っていた意識がゆっくりと浮上する。黒く長い睫毛がひそやかにふるえ、やがて、澄んだルベライトの瞳が朝影に濡れた。そこには、世界が一度、跡形もなく壊れたかのような朝があった。深紅のカーテンは中途半端な位置で捲れ、広々とした窓より眩い日差しが流れこむ。ほうと洩らした吐息が朝の空気に冷やされていく。室内は明るく、取り散らかった部屋に酒瓶や下駄までもが転がっている様子が目視できた。漆の緩やかな輪郭線が蜘蛛の糸の如く淡く澄んでいる。おろされた髪がいやらしく膚にまとわりつき、毛先が垂れかかる喉が砂を口にしたように渇いていることに気づいた。身ばかりが炎の残滓を残している。湯を浴びたかった。
 消え入りそうな寝息が聞こえる。波打たれたシーツはまっさらなほど白く、そして境界線に似る夜を拐った髪がゆらゆらと流れている。シャイロックが視線をやった先で、しなびたうなじが薄く上下していた。細々とした髪の房が存外張った筋でせき止められて、大ぶりに弛みながら肩や腰を辿る。ぱっくりと背面が開いたドレスを纏い、白い世界で横たわる女の裏側には、数多のケロイドが蔦のように這い尽くしていた。蒼白の肌に馴染む淡い青や浅黄に変色し、至るところの皮膚がうっすらと盛りあがっている。なだらかなおうとつが広がる背中は月面のようで、ふと、シャイロックはこの女もまた月に狂わされていたことを思い出した。真っ直ぐに伸びる背筋に手の甲が触れる。因果が巡ったのだと、初めからあれらはおかしかったのだとわらえきれない己を知っている。ムルも、ミドラシュも、月光の狂気に侵されてしまった。自分ひとりの正気を置いて。
 眠れない夜もあればひと恋しくなる夜もある。左様ならば、互いの温度を知るだけの夜も。何もしなくとも夜明けは過ぎる。ひび割れずに凍えた指先は無防備な腰椎にまでを辿り、寄せ集めた身体を哀れんでいる。焦点が解けていく。黒々と伸びた境界線に目もくれず、シャイロックはその柔らかな肩に顔を埋めた。深いボルドーの髪が土気色の膚へと滑り落ちる。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。ミドラシュが眠るとき、ふざけた口が物言わずにあえかな吐息を洩らすとき、彼の心象は最も鎮まった。月面を象った哀れな背に触れ、小さく小さく、シャイロックはミドラシュを指す名前を呼ぶ。凌ぎきれない想いを零すように、まるでよすがとしてしまったように、酒精に正気を求める狂い女の名を、呼ぶ。白々しい世界にふたりきり、あなたは私の手の内にあり、あなたのなかで薄らいでいる。
 静寂ごと女を抱き寄せて、シャイロックはそっと瞼をおろした。この女がやがて泡になることを知っている。しかし、未だ此処に息づいている。 




目次
歌屑とひやおろし