月に砕かれたムルの魂の欠片は至るところに散らばった。かつて世紀の智者と呼ばれた魔法使いを構成していた、パープルサファイアの輝き。浜を埋め尽くす真砂のように無数になり、何処かに消えた。初めは必死にムルの魂の欠片を探していたシャイロックだったが、現在は巡り合わせに身を任せている。あるときは元の姿に戻すべくシャイロックがムルに食べさせ、またあるときはシャイロック自身がその薄い腹に憎らしい親友の一片をおさめた。身に蔓延る矛盾は慢性だった。シャイロックを仮初めの主人とした魔法舎のバーカウンター。そこではムルの魂の欠片のひとつひとつが瓶に詰められ、隠されている。
「やあ。久しぶりだね、ミドラシュ」
右手にはコルク、左手には宝石が入った瓶を持ったミドラシュは、ぽかんと口を開いて声の持ち主を見上げていた。ぼさぼさとした蓬髪のかかる窪んだ瞳をさらにまるくさせ、唖然と棒立ちになっている。在りし日に出会った女の成り果てに、彼はうっそりと笑みを深めた。男は魔法使いらしい大きな帽子と紺碧の星空を縫いつけたマントを纏っていた。如何にも紳士然とした燕尾服を着込み、怜悧で無遠慮なエメラルドの瞳でじっくりとミドラシュを観察している。さらりと輪郭と耳にかかる髪は見慣れた冷たい菫色。人差し指には見覚えのあるレッドベリルの指輪。されど男の凛々しげな目つきは久しく見ていなかったもので、ミドラシュは夢から覚めた子供のような顔で、ゆっくりと口にした。
「……あなた、ムル……?」
おさない声が、泉の水面のように静かだったバーに波紋を広げた。すぐさま茫洋たる酩酊の海へと消え去ったが、その一瞬、彼女の瞳には確かな正気があった。目の前の男にはシャイロックが育てた少年のように愛らしいムルの面影はない。しかし、彼は世紀の智者と謳われたムル・ハートそのひとだった。ミドラシュはうつくしい花に触りたがるように小さな手を伸ばしたが、ムルの輪郭に触れることはなかった。白い手袋で包まれた指がミドラシュの顎をついと掬う。
「そう、いつかの日、きみをあの箱庭の楽園から連れだした」
砕かれた魂の欠片が実体を持つ。それがムルの負った厄災の奇妙な傷だった。高慢で紳士的な微笑は魂が砕かれる前のムルのもので、ミドラシュは相変わらず現状が呑みこめていない様子でされるがままにエメラルドの双眸を見つめている。端正な顔に猫のような好奇と蛇のような狡猾さを滲ませて、ムルはミドラシュの頼りない腰を抱き寄せた。酒精と香水、そして花の紫煙の香りが入り混じる。
「──ああ、泥棒猫が二匹も紛れこむなんて」
この場にはいなかったはずの男の声が、這いずるように聞こえた。紫煙がゆらゆらと立ちこめて、すきなかおりだと瞳を瞬かせたミドラシュの肩に重みがかかる。現れたシャイロックはミドラシュの無防備な背に抱きついて、その萎びた首筋を隠すように手を回した。ミドラシュはびくりと身体を縮ませたが、シャイロックの腕に仔猫のように大人しくおさまっている。形良い唇にほっそりとした煙管を咥えながら、シャイロックは長い睫毛の下で漂う流し目を気怠げにムルにやった。その振る舞いに普段の気品に満ちた姿はなく、酷く退廃的で言葉にし難い婀娜な雰囲気をまとわりつかせている。実にうつくしい微笑を描くこの男は、しかし夜に相応しい陰鬱な表情もよく似合った。しなやかな指で煙管を離し、シャイロックは億劫そうに薔薇の煙を吐きだした。くゆらせた紫煙の向こう、覗くシャイロックの顔に表情はなかった。流れるようにふたりの仲を引き裂いて、シャイロックはミドラシュを己の胸へと拐った。しかし瞳を硝子玉のように大きくしたミドラシュを捉えれば、腕からは力が緩やかに抜けていく。この女を手放すことなど蜘蛛の糸を切るように容易かった。シャイロックは凍りついた双眸でムルを見据え、言い捨てる。親友を映す瞳は、盛る炎のように赤かった。
「全く以て最悪な夜です」
「最悪なのが最高なんだろう? きみの嗜好はよく知っている。愛しい親友を瓶に閉じこめてカウンターに並べる、束縛趣味でコレクターなところもね」
シャイロックとは対照的に、ムルは傲慢なほどの微笑を浮かべた。ムルはひらりと流れるようにカウンターチェアに腰かけ、役者のように長い足を組む。招かれざる客とは思えない堂々とした様子で帽子をカウンターに置いて、ムルは冷ややかな目をするシャイロックと如何にも哀れっぽく眼球をぎょろぎょろと揺らすミドラシュを眺めた。そして、しかしとわざとらしく肩を竦め、驕慢な笑みを深める。
「趣味が変わったな、シャイロック。下町の花売りのように、下卑た女が好みだとは知らなかった」
ンぁ、とミドラシュがくぐもった声をあげた。その言葉の意味も、それが自分を指していることにも気づかずに、ただ本能的に困惑に近しいものを覚えながら、ミドラシュはシャイロックを見上げた。晶が猫の親子のようだとふたりの姿を例えた理由がよくわかる光景だった。流しっぱなしの蓬髪も、かろうじて繋がったような黒いドレスも、品がないほどに色めいた容貌も、彼女を売女に思わせた。自身がどんな姿をしているかもわかっていない様子で、ミドラシュはシャイロックを見つめる。シャイロックの横顔はただただ冷たかった。その整った顔には軽蔑すら浮かび、シャイロックはムルの厚かましさを蔑んだ。
「笑えない冗談ですね。下品なものは嫌いです。特に、他人の嗜好を邪推し、土足で心を踏み荒らす、礼儀のない迷惑男は」
最も、この男は土足などという可愛らしいものではなかったが。何百年とシャイロックは愛する酒場の扉を開いているが、それは剥き出しの心臓を知らない客の靴底で踏まれる覚悟をするということだ。それこそが酒場の主人であるシャイロックの矜持だった。優雅にステップを踏める出会いもあれば、無残に踏み荒らされる別れもある。ある日焼けた鉄の靴をはいた客がやってきて、シャイロックの剥き出しの心臓に消えることのない焦げ跡を残していった。憎らしくも愛おしかった。滑らかな裸足でやってきたとしたら、その爪先にキスをしてやっただろうに。
ムルは不敵な微笑を描き、指輪の嵌められた指をくるりと回した。カウンターには瞬く間に赤らんだ琥珀色のブランデーの瓶と銀のポット、分厚い硝子のグラスが三つ現れ、ミドラシュがきらきらと瞳を輝かせる。魔法で蕩けた蜂蜜をグラスに伝わせながら、ムルは隣のカウンターチェアの座面をシャイロックの立つ方角へ向けた。白い片瞼が愉快そうに閉じられる。
「……手癖が悪いひと。勝手にバーを荒らさないでください」
「趣味の良い友人の背中を四六時中見ていれば、嫌でも詳しくなる」
先ほどまでの迷子のような顔はどうしたのか、ミドラシュはムルの魔法に夢中になっていた。ふらりとシャイロックの手を握りしめたまま、洋燈の淡く円いひかりに照らされた場景に魅入っている。とろとろと暖かな色のブランデーを注ぎ、ポットの熱湯でグラスを満たす。淑やかな香りが鼻腔をくすぐり、ミドラシュはそわそわと落ち着きなく身体を揺らしていた。意地汚い女だとシャイロックは呆れたが、最後にクローブとシナモンを振って完成したホットブランデーに、隣からはまたたびを目にした猫のようにごろごろと喉を鳴らす音が聞こえはじめる。ひとつ溜息をついたシャイロックは、ミドラシュを連れてムルのもとへ向かった。彼が招いたカウンターチェアに腰掛け、その切れ長の目つきをムルに向ける。ムルの表情は揺らがなかった。
「つれないな。好奇心のままに箱を開けたのはミドラシュだろう」
好奇心に殺された猫がよく宣うと思う。己を暴こうとするだけでは飽きたらず、思考も正気も生きてるか死んでいるかもわからないミドラシュを暴こうとしたのは、他でもないこの男だろうに。当のミドラシュは両手で大事そうにグラスを抱いて、猫舌を傷つけないようにちろちろと少しずつホットブランデーを味わっていた。とろりと口に広がる蜂蜜入りのブランデーは甘ったるくもスパイスが効いていて、ミドラシュの冷えていた身体にゆっくりと浸透していく。ムル、おいしいと背後からまるい声が聞こえて、シャイロックはようやくホットブランデーに口をつけた。悪くはなかったが、この男が出すには随分と飾り気がなく、誠実な味がした。行儀悪く肘をつき、ムルはくつくつと低い笑い声を零している。
「あなたに自由を許した覚えはありませんが」
「探究心は抑圧されるべきものではないからね。きみは俺にミドラシュを会わせたがらなかったから」
そこまで可愛がっていたとはとムルは大袈裟に告げる。すっかりとグラスを味わいつくしたミドラシュはゆらゆらと忍び寄り、半分中身の残ったブランデーの瓶に乞食のように手を伸ばしていた。ミドラシュは無知に無為に生きていた。しかしその手が瓶口を掴む前に、ムルは小さな鼻先をつまんだ。みぎゃっと踏まれた猫のような奇妙な声があがる。ばたばたと両手を翼のように揺らしてささやかな抵抗を見せるミドラシュは相変わらずの飛べない金糸雀で、華やかなりし頃の貌はなくも、こうして見れば女の病的な愚かさ自体は変わってはいなかった。酒精でむくんだ輪郭を躊躇なく掬いあげれば、ルベライトの双眸は興に醒めたように細まった。突如ぐわりと噛みつかんばかりに 開かれた大きな口にハンカチを押しつければ、ミドラシュはもごもごと頬を膨らませる。これでは獣と相違ない。以前はまだ静かに藁に身を横たえる家畜のような行儀の良さがあった。あのムルは過去の記憶がまばらであるというが、自身は魂が砕ける前のことは明瞭に覚えている。あの海の色、あの酒の味、あの駆け引きに胸を躍らせた日々。暖かなグラスを傾ければ、琥珀の海を境にまた違った景色が見えてくる。愛しい厄災が見える窓があった。涼しげな風が吹き抜けて、火照る頬を心地良く撫でていく。美酒を味わい、友と哲学や議論に花を咲かせ、そして、置き物のように座るひとりの女。ありのままを愛するというには女は汚濁に塗れ、ああしかし、愚かな目つきはあの女のものだった。跡形もなく石を吐きだしたはずのミドラシュは、今ではあのムルと仔猫のように身を寄せ合って、親猫を慕う眼差しでシャイロックを信仰する。白紙となったはずの高貴な実験の結末にグラスをかざし、ムルはシャイロックに微笑んだ。
「シャイロック。俺のパトロンは、きみがお気に召すままに仕上がったかい?」
✵
夜はやさしくない。だが、皮肉なことに安らぎを識っている。
訪れた雨雲が大いなる厄災を覆い隠し、暗闇から地上へと、しとしとと翠雨が降っている。真夜中になれば激しさを伴うだろうそれは、しかし今ばかりは穏やかに窓を濡らしている。てらてらと濡れる光景が花瓶の硝子に映りこみ、華やかなガーベラには陰鬱な雰囲気が混じっていた。心地よい香りがキッチンを包む。大きな深鍋がことことと煮えている。縛った牛肉、まんまるの玉ねぎ、香りつけにはセロリの葉とローリエを。一晩置いた翌朝には、にんじんとじゃがいも、その他の季節の野菜、それから林檎と蜂蜜を少し多めに。ローリエを取り、スープに塩胡椒を振る。今日はリケとミチルが享楽のうたを歌っていた。兄様が、ルチルが教えてくれて。それでミドラシュさんも歌ってたんですよ。子供たちは屈託なく笑う。ネロさん、ネロ、今日もご飯、おいしかったです。あの雪原に蔓延った感情を抉りだし、雨の街でひたひたと夜露で濡らしていた胸に、じんわりと暖かなものが広がっていく。血飛沫の温度を忘れてなどいないが、それでも永久凍土は自分には寒すぎた。獣のような苛烈も孤高も、もとより自分は持ちあわせていなかったものだ。東の国で料理屋を営む日々は静かで穏やかなものだった。賢者の魔法使いとなったのは不本意だが、こうして魔法舎で料理を提供する日々に、自分は満足しているのだと思う。深鍋をぐるぐるとかき混ぜながら、ネロは昼間に聞いたうたを小さく口ずさんだ。ネロ以外誰もいないキッチンに、ほろほろと声が洩れている。しっとりと冷たくなった窓に行き場のないうたを拾わせて、今度はぷくぷくと浮いている香りを出し切った残滓を捨てていく。夜はやさしくない。明けない夜はないというのは案外残酷だ。ひとりの夜は変わらない朝を執拗に追想してしまう。朝食の仕込みをして、幾分煮えた鍋の火を止めて。そうして摩耗した感情に塩を振る。
「ネロ、こちらにいらっしゃいましたか」
ただし、一時中断など珍しくはないが。溶けていく氷のような窓ガラスには、いつの間にか男がふたりいる。初夏の雨は降り止まず、濡れた窓辺は男達の他にもぼんやりとキッチンの光景を映していた。まるで蜃気楼、これでは砂漠だ。ネロはひくりと喉があえかに引きつるのを感じた。耳に残る声の持ち主に視線を向ければ、シャイロックは口元に手をやりながら微笑んでいた。良いものを聞いたと言いたげに目が細まる姿に、やってしまったとネロは苦虫を噛みつぶす。この男にとって客の秘密を守ることはバーテンダーの生業と矜持であると知ってはいるが、生憎此処はバーでも酒場でもなかった。何しろシャイロックは享楽を愛する快楽主義のタチの悪い西の魔法使いなのだから。
「そんな顔をしなくても。あなたが可愛らしく歌っていたことは私の秘密にしておきますよ。ひけらかすには勿体ないですから」
「いっそ笑ってくれ……」
「ふふ。ああそれと、あなたにはこれを」
たとえばそう、ひとの恥を大層可愛がってポケットに仕舞いこむところとか。シャイロックは淑やかな振る舞いをし他者を尊重する男だったが、実のところ恐ろしく自身に忠実だ。大胆で強引な手段に出ることも厭わない我欲の強さは、時折ネロを慄然とさせた。シャイロックはどんな欲望であれ愛しているのだという。形の良い唇から紡がれる刺激的な言葉の数々は、しかしすべて真実であるのだろうとネロは思う。ムルへの態度はそれが顕著であるように思えた。愛し、罵り、軽蔑し、庇護する。ただ歪というにはシャイロックはあまりにもムルを好いていた。おそらく、ミドラシュのことも。姫のようにあやすわけではなかったが、それでもシャイロックはミドラシュの膚に蔓延る荊は取ってやっただろう。
シャイロックは粗い編み目のバスケットをネロに手渡した。かかっている白いハンカチを捲れば、そこには星屑糖といくつかの小瓶が丁重に包まれていた。ラベルには上品な書体で見慣れないスパイスの名前が連なっている。星屑糖には覚えがあったが、この質の良い調味料に心当たりはない。ぽかんとそれを見下ろしていれば、シャイロックがゆったりと目を細めた。
「ミドラシュの忘れものと、私からのささやかなお礼です」
気に入っていただけたでしょうか、と甘やかな声が耳朶をくすぐる。ささやかなお礼とは一体何のこと──どれのことなのだろうとネロはぱちりと瞬きをした。以前アフタヌーンティーにデザートを差し入れたことか、魔法舎のバーの清掃を手伝ったことか。それとも「シェフを呼べ、うますぎる!」とステーキを頬張り騒いだミドラシュに困惑しながらキッチンから出てくれば、西の魔法使いどころかそれに便乗した各国の魔法使いに褒めちぎられたことなのか。だが、ひとまずネロはシャイロックの善意を受け取ることにした。気に入ったとネロが返せば、シャイロックは薄い唇を楽しげに綻ばせた。シャイロックは一種の造形美とも言える顔には不釣り合いなあどけない表情を浮かべることがあった。それがどうも、シャイロックを慕う人々には刺さるのだろう。
物珍しいスパイスに胸を躍らせるネロの横顔を盗み見て、シャイロックはひっそりと笑った。ネロが思う以上に、シャイロックはネロが好ましかった。ネロの心根も、ネロが生みだすものも。ベネットの酒場が羨ましい、魔法舎の食堂の改装をガラリと変えてしまおうか、などとネロはぼやいていたらしいが、既に此処はネロのささやかな夢が滲みでているのではないかとシャイロックは思う。じっくりと煮込まれた牛肉とローリエの香りがふわりと心地良く食堂にまで流れ、シャイロックはネロが朝食の仕込みをしていることを悟ったのだ。つめた貝のようなタイルはよく磨かれて、ネロの影がほんのりと伸びていた。中心のテーブルにはボトルや野菜の入った籠など、おそらく朝食に使われるだろう食材が並んだ。調味料のいくつかのラベルはネロ自身が貼ったものだろう。銀色のシンクに水滴が跳ね、その向こうの窓では洗い流すような雨が降り注いでいる。シャイロックは雨の音の幻聴を聞いた。ひたひたと雨が降っている。日が経つにつれ、キッチンはネロと調和する。きよらかな水に身を潜め、窓が別った遠い遠い一インチ向こうにある、麗かな春の目覚めを聴いている。
シャイロックはテーブルに置かれた硝子のドームカバーに視線を落とした。可愛らしいチェック柄の布に、見慣れた貝殻の形の焼き菓子と、何やら不思議な形状のお菓子が積み重なっている。それは丁度賢者の世界でいう人形焼きに似ていた。全体的に楕円の形をしているが、髪の長い女の半身に魚の尻尾らしきものが生えている。おそらく人魚の形が浮き彫りにされたそれは、半分に割られ、間には赤いジャムが挟んであった。シャイロックの視線に気づいたネロが、ぱかりとドームカバーを外す。
「ああ、それはマドレーヌと……メリュジーヌだな」
「メリュジーヌ?」
「ベニェ・メリュジーヌ。じゃがいもと薄力粉、あとは砂糖とオレンジかレモンの皮を混ぜて揚げたやつ。あんまり甘くないからさ、それはジャムを挟んでるけど。西でも見ないか?」
この時間だけど、と控えめに切りだされた誘いに、シャイロックは切れ長の双眸を鏡のようにひらかせた。シャイロックはネロの静寂と孤独を愛していたつもりだった。吹雪から立ち去った、雨の降り続ける彼の内的世界を好ましく思い、それを貴んでいた。だが、告げられた言葉は。こうして魔法舎で共同生活を送るようになり、シャイロックは魔法使い達の心の変化を感じ取っていた。魔法使いは心で魔法を使う。心が生みだす奇跡も、ひとの心の移ろいの情調も。出会った頃の彼では信じられなかっただろう言葉に、シャイロックはいじらしいことだと顔を綻ばせる。その慎ましやかさを愛おしく思う。しかし、ネロが食堂の内装を変えたい、などと打ち明けたとしたら、喜んで自分は手を貸すのだろう。
ネロと密やかな晩酌を楽しんだことはあったが、夜更けのお茶会は初めてだった。背もたれのない質素な椅子に腰掛け、シャイロックは人魚を象った揚げ菓子を口にする。さくりと口に広がってほろほろと崩れていくそれは素朴な味わいで、ラズベリーのジャムのさっぱりとした甘酸っぱさとよくあっていた。シャイロックはネロがつくるお菓子が好きだった。北の国ではマーシアの実のジャムを付け合わせにするのだという。賢者が何処か懐かしい味がすると口にして、嬉しそうに頬張っていたとネロはいった。交わしたのは当たり障りのない会話だ。彼らはハーブティーとお菓子で酔ったりはしない。今日はミスラとオーエンが殺し合っていたとか、スノウとホワイトがステンドガラスを張り替えていたとか、廊下で行き倒れていたミドラシュをリケとミチルが突いていたとか、それに気づいて起きあがったミドラシュとの追いかけっこが始まったとか。また倒れて動けなくなったミドラシュをカインが談話室まで運んでやっていたとか。ふたりの会話の主題は自然と魔法舎に住み着いた酔いどれ魔女へと変わった。そういえばと、ネロはシャイロックに尋ねた。
「ムーンシャインって、何なんだ?」
前にミドラシュが言っていた。あんたが教えない、この世一番の美酒の名前なんだと。ネロの問いに、シャイロックは動揺こそは見せなかった。変わらない淑やかで落ち着き払った様子でローズマリーのハーブティーを楽しみ、その洋紅の双眸でネロを見る。しかし、シャイロックの纏う雰囲気が一瞬ひやりとした、例えるなら冬の朝が広がる扉の向こうに足を踏み入れたときに纏う冷気に似たものになったことを感じ取り、ネロは単純な疑問は余計な詮索に繋がったかと、途端に甘ったるい口腔が苦くなったような気がした。らしくもないと思う。魔法使い、それも何百年と生きた古い魔法使いとなれば、その胸にひとつやふたつでは収まらない厄介ごとを抱えるものだ。現にネロはシャイロックとムル、そしてミドラシュの唯ならぬ関係の気配を察しており、特にあの酔っ払いについてこの男に尋ねたことはなかった。共に大いなる厄災を追い返す賢者の魔法使いとして共同生活を送ることになった、今はそう悪くはないハーブティーと残りもののお菓子をつまむ程度の、関係。しかしシャイロックはその静謐とした指でティーカップを置き、今日の天気を答えるような調子で告げた。
「密造酒ですよ」
雨ですよ、というような。笑んでこそいるが、常よりも愛想が欠けていた。さして興味のなさそうな声色だった。シャイロックは雨垂れる窓を、果てはその遠くを見るような眼差しをしていた。するりと手を組んで、ルベライトの双眸のその奥で、シャイロックはミドラシュを映す。赤い瞳に愚直に潜むものにそそられるような性質ではない。ネロがシャイロックから目を逸らせなかったのは、彼の返答に納得したからだった。ムーンシャイン。月光と呼ばれた酒に、聞き覚えがあったのは。
「重税や禁酒令から逃れ、山間で月の光を頼りにひっそりと酒を蒸留し、密造酒を月光と洒落て呼ぶようになったものです」
質の悪い密造酒が数多く流通し、メタノールといった非飲用のアルコールが混入したそれに、命を落とした人間も多かったと。そしてシャイロックは、恥じらうようにも嘲るようにも言った。如何にも品のないことを吐きだす口ぶりだった。
「さしては、人を手頃に依存させる安酒とも」
あれはかみさまより素敵なお酒なのだと、心底幸せそうに褒め称えた昼間のミドラシュの姿が、脳裏によぎった。いっそ信仰じみた笑顔に、最早ひとつのことを幼く信じる微笑ましさはなかった。シャイロックを見ていると、あの黒い髪に埋もれた赤ら顔が鮮明に浮かんだ。シャイロックを愛しているのだと豪語するミドラシュとは裏腹に、シャイロックはそこそこに付き合いがある程度の間柄だとミドラシュをあしらっている。けれど、ふとしたときのシャイロックの影に、ミドラシュの姿を垣間見ることがあった。ふたりが過ごしてきた時間を語るように。シャイロックは決して非情な男ではない、付き纏われている間に情が湧いたといってもおかしくはなかった。しかしシャイロックはミドラシュとの関係性に他者がたやすく察せるような隙間こそ残しながら、緩やかに隠した。そこで、ああとネロはようやく思い至った。
「……話が長くなってしまいました。今宵はこれでお開きにしましょうか」
シャイロックはネロに微笑み、椅子から立ちあがった。ネロを見下ろす顔の表情は常とは変わらない穏やかなもので、唇のあわいが緩やかに伸びている様に、あれはこけおどしめいたものだったのではないかとすら思える。秘密と冗談こそ好むが、ワインを手に微笑むこの男の語ることなど、真実ばかりだというのに。また誘ってください、今度は私もとっておきのものをお持ちしますからと狐のように目を細める姿を見るあたり、この空間に安らぎは得たらしい。薄暗い思考を振り払ったネロも頬を緩め、去っていくシャイロックを見送った。キッチンには束の間の沈黙が訪れる。ネロは座る椅子にぎしりと行儀悪く踵を乗せ、溜息をつきながらまるまった。シャイロックは気にしてはいないだろう。だが、いかんせん踏みこみすぎた気がする。身を縮ませていれば、温かなハーブティーに微睡んだらしい、ゆっくりとした脈拍の音が聞こえてくる。それが幻聴であるかそうでないかは最早どうでもいい。漂うローズマリーの香りと己の体温に身を埋めながら、ネロは一度打ち消した思考を再び明かした。シャイロックのミドラシュに対する判然としない態度。あれはおそらく、ミドラシュにさえ気づかれなければいいのだろう。ミドラシュは白痴じみているほどに愚かな魔女だ。計算や読み書きにも、他者の感情の機微にも疎い。何よりもミドラシュが最も貴んでいるのは、「シャイロックを愛している自分自身」なのだから。あからさまに忌まわしい態度をシャイロックが取ろうが、それがミドラシュの心を蝕むことはない。これはただの仮説に過ぎないが、シャイロックはミドラシュに満潮のような想いを寄せられるなかで、きっとあの娘にほだされている。根気良く面倒見の良い、情の深いシャイロックがほだされる光景は想像にたやすかった。そして、とネロは相変わらずやさしくもない夜に吐露することはなく、胸中でひっそりと言葉を紡ぐ。密造酒を呑み月光に狂った女が自身の振る舞う酒に好意を寄せることは、少なからず、あの男のこだわりを刺激しているのではないかと。そこまで思考を巡らしたネロは、やめた、と薄花色の髪を掻いた。ムーンシャインの意味、加えてあのふたりの歪さを垣間見た、それだけで夜更かしした甲斐があったというものだ。ティーカップのぬるくなった中身を飲み干して、ネロはもう一度溜息を吐いた。西の魔法使いはイカれている、と。
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歌屑とひやおろし