あるとき星と月の帽子をかぶった魔法使いがやってきて、ぐるりと機械仕掛けの楽園を見渡して、こういった。
「四肢を奪われた腹這いの生き物が示したものは、聖人の純潔ではなく、愚者の智慧ではなかったか」と。
かの魔法使いが手がけたダリオールは、仄かに洋酒の香りがした。円筒形を描いた小ぶりなチョコレートケーキに、ミドラシュは瞳の星屑をきらきらと澄み渡った夜空のように輝かせた。ホイップと西のルージュベリーが添えられたそれは如何にもおしゃれで高級感に満ちており、フォークを手にしたミドラシュは既に期待で頬をだらしなく緩ませている。このダリオールは魔法使いの間でも名の知れた一品であったが、ミドラシュが訪れたのは、不意にある西の魔女の「お友達」の言葉を思い出したからであった。ミドラシュの思考は常に酩酊のなかにある。その物覚えの悪さは生来に近しかったが、酒に呑まれた彼女の記憶はまばらだった。しかし、とぽりとぽりとグラスに狂気を落っことしているときに、不意にそういえばと奇妙なダリオールの話を追想したのだ。その子はいつも華やかな赤色のカクテルハットを被っていた。見事なまでの赤髪の持ち主で、可憐な容姿と優雅な振る舞いはミドラシュを魅了し、彼女はミドラシュに呆れていた。もう、ミドラシュったら。あなたって、本当におばかさんなんだから。そんな様子では、意中の殿方に振り向いて貰えませんわよ。彼女がそう言っている間も、ミドラシュはカクテルハットのふわふわとした羽根に夢中になっていた。また会いたい。次はいつ会えるのだろう。くふくふと含むような笑い声を零したミドラシュは、強欲に一口大ほどに切り分けたダリオールをぱくりと食んだ。程よいベリーソースと濃厚なチョコレートの甘美な味が口いっぱいに広がる。そして、カラン、とミドラシュの手からフォークが滑り落ちた。その黒い頭がぐらぐらと揺れ、ミドラシュはすぐそばのベッドへと倒れこむ。彼女の思考は混ぜこまれたように何度も揺蕩って、やがて、ぷつりと意識の糸が切れた。穏やかな寝息を真っ白なシーツが聞いている。
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(永いゆめをみている)
明けきれない朝の清々しい空気と暗く青い世界を、ミドラシュは知らなかった。人工的な白いひかり、うつくしい宝石、決して枯れることのない花。自分にすべてを與えたもうた人間たち。それが彼女の世界だった。マナ石の切れかけた硝子球がちかちかと点滅する気配に、ミドラシュはぼんやりと瞼を持ちあげた。柔らかな寝台には艶やかな髪がたっぷりと蜜のように溢れ、きめ細かなリネンのシーツに惜しみなく弛んでいる。天蓋の真っ白なレースは何重にも重なりあい、その裕福さを物語った。ミドラシュはあらゆる色をとけこませた碧眼をゆったりとひらかせ、天上からひかりが降りそそぐようにしつらえたラッセルレースをいつまでも見上げていた。多色性の青い宝石を思わせる瞳には重たげな睫毛がかかり、奇妙なほどに物珍しい色彩を精巧な人形のように飾り立てていた。その両腕は一度も重みを課されたことがないように細く柔らかく、薄く上下する胸元で祈るように組まれている。どれほどの時間が経っただろう。やがて重厚な扉から若い男がふたり無遠慮に女の寝室へと足を入れ、ミドラシュの横たわる寝台へとやってきた。ミドラシュの身を起こし、彼女の纏う明け透けのシルクのワンピースを躊躇なく脱がしていく。ミドラシュの顔立ちは年頃の少女から妙齢の女性へと差し掛かるほどに見える。泣き叫んでもおかしくはない辱めであったが、ミドラシュは豊かな乳房や一糸纏わぬ下腹部を男の目に晒されても無抵抗だった。むしろほのかな微笑すら浮かべ、彼らを見つめている。男達は召使いのような行動にいっそ軽蔑すら感じられるような無表情を貼りつけ、白い裸体を濡れたタオルで拭き、その滑らかな肌の色や身体のラインがはっきりとわかる薄手のドレスを着せた。ふたりはミドラシュを鏡の前の椅子に座らせ、そして縋りつかれるように長い髪を梳る。ミドラシュはうつくしい髪を持っていた。膝をゆうに超える髪はつむじから毛先までもが長年一日も欠かさず手入れされてきたことが窺える艶を持ち、冴え渡る夜を地に拐ったような濃藍の髪は、さながら異国の鳥の濡れた羽根の色を思わせた。彼女の髪は薔薇油でさらに艶めきだし、いっそ動的なまでの美が完成されている。余すことなく髪に櫛を通された後、男はミドラシュの耳と首、そして腕に大ぶりな装身具をつけ、最後にと彼女の頭に花冠を被せた。それは金細工と銀細工で編みこまれた円環にあらゆる宝石の花と真珠の蕾を咲かせた恐ろしく煌びやかな宝飾品であった。男達は最後にミドラシュの柔らかな足底を掬い、その爪先に口付けた。彼らは祈りを捧げるように足の甲に唇や額を押しつけていた。ミドラシュは微睡むように茫とした瞳に、そっと瞼をおろした。長い睫毛からほろほろと輝く石屑が零れ、音の立たない絨毯へと落ちていく。ミドラシュは安寧を希う呪文をひとつ唱え、男の頭に子供のように触れた。此処には男しかいない。ただひとり、ミドラシュを除いて。
テーブルについたミドラシュは、薔薇の大輪からシルクのように滑らかな花びらを一枚一枚剥がしていき、柔らかい手のひらに真紅の雫を載せた。砂糖をまぶしたわけでも水飴を垂らしたわけでもない、ただ愛でられるためだけに育てられた赤い花。それを、ミドラシュは躊躇なく口に含んだ。水分を吸って口腔にべたりと張りつく感触や喉に思わず突っかえるような苦さと青臭さが舌を嬲ったが、ミドラシュは薔薇の残骸を幸せそうにも見える微笑で食んだ。白磁の円い皿には薔薇以外にもパンジーやゼラニウムといった様々な花達が載せられている。うつくしいものを食べてうつくしい姿になろうとするように、ミドラシュは見た目ばかりが綺麗な花びらを唇に押しこんでいく。やがてミドラシュは、花の残る皿をそのままに、ふらりと椅子から立ちあがった。傷ひとつない滑らかな素足で冷たい大理石を踏みしめ、背中を覆い尽くしても未だ余る豊かな黒髪を両手で抱きしめ歩きだす。彼女の頭部や耳朶を飾る装身具が、歩く度に涼やかな音を立てていた。重苦しく垂れる帷幕を引き、ミドラシュはその先に存在する光景を蕩けるようにぼんやりとした青い眼で見つめた。そこには、ミドラシュの父達が楽園と呼んだ、うつくしい世界があった。教会を思わせる構造の天井より眩いひかりが降り、硝子張りのアーチからは星々の微睡みを残す薔薇を透かしたような夜明けが見えた。群青から柔らかな桃色、うっすらとした杏色へと変化していく薄明の空は、しかし、魔法科学技術が見せた幻影だった。常に一定の温度で保たれた暖かな空気も、宝石が埋まる大理石の円柱も、枯れることのない咲き誇る薔薇園も、マナ石が尽きない限り半永久的に存在する仮初の理想郷だ。
「あなたはだあれ?」
しかし、その日の楽園の様子はいつもと違っていた。夜のような帷幕の向こう、大理石に人影が伸びた先、ひとりの年若そうな男が立っていた。そのひとは星と月の帽子を被っていて、ミドラシュが見たこともない夜空の色のマントを翻す。限られた人間しか立ち入ることが許されない魔法と機械仕掛けの温室で、彼はあたかも当然のように、いっそ不躾なほどの視線で夜明けを象った天井を見上げていた。白く照るつくりもののひかりを受けた菫色の髪は絹のように滑らかで、すっきりと切り揃えられたそれは、形の良い輪郭でさらりと揺れる。そして、始めからミドラシュに気づいていたかのように、男は堂々と振り返った。猫のように細められた双眸はエメラルドの煌めきを秘め、明かりが移り変わるごとに、変彩効果を彷彿とさせる不思議なひかりの筋を産む。怜悧で見透かすような宝石の眼差しに、ミドラシュは目を離すことができなかった。童女のように棒立ちになって問いかけるミドラシュを見下ろして、帽子を取った男は知的な微笑を描いた。
「初めまして、麗しき白痴の君。西の魔法使い、ムル・ハートと申します」
小柄なミドラシュと目線を合わせるように会釈をし、ムルは流れるように彼女の爪先ではなく手の甲に唇を寄せる。ミドラシュは彼が言ったことも、彼が何者であるかもわからなかった。にしのまほうつかい。うるわしきはくちのきみとは、いったいどういう意味なのだろう。細い首には不釣り合いな装身具を冷ややかに鳴らし、ミドラシュは目をまるくしてムルを見つめる。隔絶された環境で育ったミドラシュは、魔法使いに出会うのは初めてだった。しかし、その青い目はすぐに三日月のように細く蕩けだした。あどけなく頬を緩ませて、ミドラシュは無邪気に笑った。その表情は純粋そのものであったが、隠しもしない好意があった。
「初めまして、ムルさま」
ムル・ハートは素晴らしい人物なのだと、ミドラシュの父達は老いぼれた顔に喜色を湛えて褒めそやした。数学者。宝石商。名誉教授。魔法科学技術を産みだした偉大な魔法使い。ムル・ハートはお前を気にいった様子だと、父達はミドラシュを抱きしめて喜んだ。彼らの様子に、ミドラシュはぱちぱちと幾度も瞬きをして驚いた。父達は、魔法使いとは、人間を虐げて傷つける、迫害されるべき生き物だと言っていたからだ。だから、人間である私達が魔女であるお前を育て、愛してきたことに、感謝しなければいけないのだと。外の世界は恐ろしく汚れているから、私達は楽園でお前を守っているのだと言い聞かされ、ミドラシュは物心ついたときには、父と慕う人間の宝石彫刻師の組合で育てられていた。しかし、彼らがそう言うのならば、ムルは素晴らしい人物なのだろう。実際、ムルは恐ろしいひとではなかった。彼は人間を虐めるようにも傷つけるようにも見えなかったし、ミドラシュを痛めつけるような真似もしなかった。ただ彼はミドラシュの眼窩や口腔からぼろぼろと零れ落ちるそれを初めは興味深そうに掬いあげ、マネキンを扱うかのようにミドラシュの首や腕を抑えてみせて、やがて何もしなくなった。その理由はミドラシュにはわからなかった。ミドラシュがわかるのは、同じ魔法使いであるムルが、時折この楽園を訪れることだけだった。
「ねぇムル、どうしてあなたはすぐに帰ってしまうの? あなたがずっとここにいたら、きっとお父様たちも喜ぶわ」
愚かでおさない西の魔女は、孤独という言葉も知らなかった。ここはとても素敵なところなのに、とミドラシュはムルに話しかける。長く艶やかな黒髪に星の欠片を溶けこませ、ミドラシュは世界一幸福な場所を見渡した。父と慕った人間達が此処は楽園なのだと言ったから、ミドラシュは此処が楽園なのだと思っていた。事実、ミドラシュは幸せだった。硝子ごしの夜明けの幻想も、時を止めたように咲き誇る薔薇園も、百人が一年は食べていけるだろう宝石の数々も、富と幸福の象徴だ。しかしムルはそのすべてには興味がないと言うように首を振り、エメラルドの瞳でミドラシュを見下ろした。さも皮肉げに口角をあげ、ムルは返事をする。
「此処は面白い場所ではないからね。俺のパトロンは同じ話しかしないし、同じ空を見上げるのも飽きた。暴言と暴論を聞いている方が気が紛れるくらいだ」
同じ思考、同じ言葉、同じ時間。それをどれほど繰り返しているかに気づかないミドラシュは、微笑んだまま首を傾げた。ムルの言葉の裏も表も、ミドラシュは理解しなかった。ムルにとってミドラシュは退屈を椅子に座らせたような女だった。そそるような知識も嗜好も持たず、ぬるま湯の安寧と快楽を甘受する、白痴美に似た娘。ミドラシュは長椅子に腰掛けるムルの隣に甘えるように膝をつけ、彼の瞳を覗きこんでいる。あたかもそうすることが当然であるように、ミドラシュは上目遣いでムルを見やった。長い長い髪が座面を超え、滑らかな大理石へと伝っている。
「お父様がね、あなたは享楽を愛するひとだって、いってたわ」
「それで?」
「だって、ここはうつくしいでしょう? それに、あなたもいったわ。ここは快楽の場だって。ここにいれば、痛い思いも、怖い思いもしないの。だから……」
父達は快楽を悪しきことだといっていた気がする。初めてムルが楽園をそう喩えたとき、ミドラシュはそれは違うといったが、ムルの踊るような舌にすぐさま言いくるめられた。そもそもミドラシュは快楽の意味を知らなかった。楽園には常に甘い蜜の香りが立ちこめている。ひかりの降り注ぐ厳かかつ華やかな空間が、実のところそう広くはないことを物語っていた。此処は人間達がしつらえた、ミドラシュひとりぶんの箱庭だ。狭く小さな世界しか知らないで、楽園たる此処が一番素晴らしいのだと宣うミドラシュの、酷く滑稽なこと。ミドラシュの生い立ちは数奇なものであったが、彼女の姿は人間に巣食われ節度を失った西の国を体現しているように見えた。目先の煮しめたような欲望に囚われて、思考せず、怠惰に微笑み、そして流されるままに白々しい快楽に身を埋める。シャイロックが最も厭うだろう欲望の形。彼女の貪る快楽はあまりにも脆い。
「馬鹿だな、ミドラシュ。きみは恐ろしい思いなどしたことがないだろう」
快楽に伴う苦痛も苦難も知らないで何を宣うのかと思えばと、ムルはミドラシュの愚盲を嘲った。彼は行儀悪く肘掛けに頬杖をつき、視線をやる。さらさらとうなじに流れる菫色の細い髪。触れたら冷たそうだと思ったミドラシュは、そっとムルの毛先に触れた。ミドラシュのおさない指からは、はらはらと彼の髪の一本一本が零れていく。青白い顔をほのかに色づかせた薄化粧。宝石と貴金属を纏う肢体。身体つきがはっきりとわかる銀糸を織りこんだドレス。色めいた身体を振りまくように煌びやかに飾りながら、ミドラシュの手は男よりも花に触れるようだった。やがて花を撫でる手のひらはムルの輪郭へと辿り、ミドラシュは両手で挟んだ顔を自分へと向かせた。青い宝石の瞳に、とろとろと星の欠片が溶けこまれている。
「それが、あなたのいう快楽主義ではないの?」
「感覚的な快楽を幸福とする一側面だけを言うならね。さてミドラシュ、俺は哲学者だから当為の側面から捉えようか。倫理的観点からひとは快楽を産出する行為をなすべきという規範の話だ」
ムルはさりげなくミドラシュの手を振り払い、言葉を続けた。
「そもそも本来の快楽主義者《エピキュリアン》とはきみのように通俗的に使う意味とはかけ離れている。その快楽とは肉体的放縦ではなく、むしろ心の平静《アタラクシア》のことだ。苦痛を伴わない喜びを得ること、喜びのない苦痛を避けること、より大きな喜びを禁じる喜びや喜びより苦痛を齎す喜びを避けること、より大きな苦痛から解放する苦痛や大きな喜びを齎す苦痛を得ること。これを主な教えとし、精神的快楽に到達すべく清貧と隠匿を課しもがきながら生きる在り方を指す。きみとは極めて異なる在りようだ」
アタラクシア、とミドラシュはたどたどしく呟いた。鏡のように物をうつすだけだった碧眼に、わずかな愕きが過ぎていく。偽りの星屑を見つめるムルの脳裏には、ひとりの男の姿があった。あの男はどんな欲望も愛しているという。事実、男は享楽も苦痛も刹那的な快楽も愛していた。それらを苦とするエピキュリアンと彼を称するには語弊があるが、自然で不可欠な欲望を貴び、節操のない快楽を嫌う姿勢には通ずる一面はあった。しばらくムルの顔を見ていたミドラシュは、それならと口を開く。
「エピキュリアンの苦痛とは、何なのかしら」
「現実の煩わしさ。社会、政治、世俗、欲望……それから、肉体。最も、この倫理学を唱えた哲学者は健全な肉体を重要視したが」
ミドラシュはムルの頬に触れていた両手を広げて見下ろした。そこには花束の重みにすら耐えかねるような細い指が十本存在している。ふっくらとした桜貝を思わせる爪は珠のようにやすりで磨き抜かれ、その裏の指の腹は存外肉付きがいい。ささくれやひび割れはひとつもなく、円く短く伸びている。不意に、小さくも肉の厚みのある手のひらに、ぼたりと何かが零れ落ちた。北の空のオーロラを閉じこめたような石ころが、ミドラシュのおさない手に伝う。何かが融けだしている。ぼた、ぼたと雫が滴っては、すぐさまそれは虹色の無機物へと姿を変えた。ミドラシュは茫と自身の手を見つめていたが、喉を痙攣させ、大きく咳きこんだ。薔薇色に染められた唇から、鍾乳石を彷彿とさせる泡混じりの液体が留めなく溢れていった。飾られていた顔はべったりと白濁の液体で塗れている。音の出処は女の眼窩と口腔だった。液体は肉体から離れる頃には歪な宝石へと変化を遂げ、ミドラシュが咽せる度、虚しい魔力の欠片がぼろぼろと銀糸混のドレスへと落ちていく。ミドラシュは思わずと喉を抑え、背を丸めた。彼女の喉は刺青のように繊細な首飾りで締まっており、ムルはしなやかなうなじへと腕を回した。髪を払い首飾りを外す間もミドラシュは石ころを吐きだし続け、だらだらと白濁を零す潤んだ瞳で、ムルを見上げる。
「肉体、って?」
その目元には結晶化した魔力がこびりつき、鉱床に埋まるダイヤの表面のように輝いていた。下手なキスをしたように赤く汚れた唇から石屑を掬ったムルは、ミドラシュの額に指を置く。大きく目を見開かせたミドラシュの青い瞳には、無垢以外のものが混ざりはじめていた。質問ばかりの女に目を細め、ムルは告げた。
「きみの此処には舌も指も四肢も心もある。正確にはそれを感じ動かす機関、手と口が極端に肥大化した|脳の中の小人《ホムンクルス》が存在している。きみが無防備に触れたがる正体はこれだ。霊魂とは五体的感覚を超越した永久の存在を指すが、此処にあるのはきみの心と感覚、一般的な人格を司る機能。即ち魂といってもいいだろう。肉体とは器であり、きみも俺も魂でこの重い器を動かしている……肉体は重すぎる。空を飛ぶときですら重圧に逆らい、重力に囚われている。一説にはこの中身は宇宙空間で生まれる素粒子より小さな物質であり、重力と空間、及び時間に囚われない性質を持つらしい。死こそが肉体からの解放だと死の恐怖への克服は何百年も議論されてきた問題だが、名の通り生きたまま肉体を捨てることは理屈としては可能だ。最も、肉体の生命活動を停止した状態が生きていると言えるかは別の論題になるけどね。魂だけの存在となったとき、果たしてそれが生きていると言えるのか、そして魂が砕けたとき、残された肉体が生命維持を続けることに関しては、興味がある」
そのときには、愛しい月との距離は縮まっているだろう。そう低く囁いて、ムルは重たげな瞼をゆっくりとおろした。自身の前髪を最後にそっと払った指先の熱を惜しむように、ミドラシュは額を抑えた。ミドラシュは鈍くひかっている石屑を魔法でかき集め、ムルに触れようとした手を宙に彷徨わせ、やがてぺとりと膝に置いた。そして、ムルが愛しているというひとつの星に思いを馳せた。それはとても大きな衛星で、一年に一度この星にやってくるのだという。ムルはその星に、大いなる厄災とも呼ばれる月に恋をしていたのだ。魔法使いは何にでも恋をすると聞いた。男にも女にも、風にも花にも魔法使いは恋をする。心で魔法を使う魔法使いは感受性が強く、それゆえに愛情深い一面を持った。作りものの星空しか知らないミドラシュは、いったいどんな輝きをしているのだろうとムルの愛しいひとを思った。天上からひかりを零す大きな三日月。夜明けの薄明の空を箒で軽やかに飛ぶムルが、弓形の細い月に手を伸ばし、口づける。それはとてもうつくしい情景だった。
「ムルは、月を愛しているのね。だから、外の世界が面白くて、うつくしいのね。わたしはお父様を愛してるから、楽園がうつくしいのだわ」
エメラルドの双眸が、微かに見開かれた。意表を突かれたような表情は傲慢な男が浮かべるには酷く珍しかった。ミドラシュは汚れた顔で無邪気に笑い、如何にも幸福そうに星屑を飼った瞳を細める。自分がどんな姿かも知らず、眉も眦も蕩けたように下げてみせる姿は、飼い慣らされた犬に少しだけ似ていた。人間に従順な、愛玩動物に。
「……エピクロス主義の支持者は楽園と呼ばれる庭園で生活し研鑽を積んだ。隔絶された閉鎖的な環境は、社会という肉体的快楽からなる苦から遠ざけるためにしつらえられたものだ。つまりは、楽園とは世俗を識らなければ成立しない」
ミドラシュ。麗しき白痴の君。宝石彫刻師の娘。死に損ないの魔女。人間を父と仰ぎ深く愛する女。その実態は、見た目ばかりを華やかに着飾った恐ろしく愚鈍に完成した無知な娘だった。あたえられた食事を拒むことはなく、硬く閉ざされた世界を不思議がることすらしない。楽園とは名ばかりの甘い蜜の立ちこめる部屋で行きずりの快楽を貪り、あたえられる永遠と偽った安寧を甘受する。その異様なおさなさに見合う絵本すらない小さな温室で、女はいったい何を得たというのだろう。艶やかな黒髪を大理石に広げて戯れるミドラシュの腕を、ムルは引きあげた。ぱちぱちと青い宝石の瞳がただの少女のように瞬き、女の姿には今まで散々その無垢さを愛でられ嘲られてきただろうことが垣間見えた。ミドラシュは笑う。稚く微笑み、ムルの輪郭へと空いた手を伸ばす。ムルの言葉などすべて忘れ去ったように。
「愚かなミドラシュ、きみは禁じられた俗世に踏みだすことで得られる快感に興味はある?」
夜明けと薔薇の温室で、青い瞳に、エメラルドの欠片が零れた。
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歌屑とひやおろし