インクとチョークの匂いがすると、ミドラシュは今度はぐしゃぐしゃと積み重なった紙の寝床から獣のように身を起こした。灰簾石を彷彿とさせる瞳が、洋燈の明かりにちろちろと舐められた薄暗い宙を彷徨っている。その碧眼には星屑の如き奇妙な色彩が混ざり、ミドラシュの眼球はまるで夜空を映した海面のようだった。縋りつかれるように長い見事な髪は汚れるのも構わずに散らかった床に艶めく蜜の如く滑り落ち、上等な銀糸を織りこんだ白いヴェールも、頼りない滑らかな膝も、べったりと引きずるように伏している。床の至るところには学術書や数式の書かれた紙切れが散らばり、ひとの気配を思わせる埃っぽさすら漂っていた。何よりも目を引くのは、拓けた天井と巨大な望遠鏡だ。彼女がいる場所はうつくしい楽園ではなかった。贅を尽くした宝石の花冠は角度を変える度にきらきらと色を変え、金や銀の細工が黒い髪と白い額にまで零れた。そのほっそりとした首や小さな耳朶も装身具で飾られ、貴金属特有の音を立てている。荒波の寄せる断崖の丘に立つ、未開の天文台。西の国では珍しく自然の地形や風景を残した、華やかなりし街の人工のひかりすら届かない場所。かつてムルが建設し、女学者パティアが初代所長を務めたというそこでは星空や大いなる厄災を観測でき、ムル本人も入り浸り、今でも盛んに研究が行われていた。ミドラシュはずきずきと骨が痛む背筋を伸ばして、真っ直ぐに伸びる螺旋階段の向こうの一際明るい光景を見つめた。初めに見えたのは白無地のシャツに肩甲骨が浮いた背中だった。常のマントやジャケットを脱ぎ捨てた男が、一心不乱に黒板にチョークを滑らせている。普段ならば壁に貼りつけられている複数の黒板は地べたから浮かびあがり、まるで無重力空間を形成するように男の周りではあらゆる物が宙に混在していた。大量の紙切れが挟まった学術書は積み重なったまま浮上し、月球儀はぐるぐると回転し続けている。男自身も重力に逆らっていたが、あるときべたりと床に膝をついた。冷たい菫色の髪が垂れる。そして、男は汚れた床にまで書き殴りはじめた。ミドラシュはその姿を静かに見つめていた。
「ねぇムル、ターリアの話をしてもいい?」
「どうぞ」
ミドラシュは露出の多い身体をストールのようにすっぽりとヴェールで覆っていた。花びらを綻ばせた白い薔薇のような装いだった。袖からそっと小さく覗いた指で空の魔法瓶を抱えながら尋ねるミドラシュに、ムルは顔も見ずに返事をする。寝食も惜しまずに研究に没頭したムルの姿は、中々にくたびれていた。しばらく日の光を浴びていない顔は不健康に生白く、猫のような双眸の下にはくっきりと深い隈が刻まれている。さらさらとした紫色の髪筋もどこか重たげに空いた首にかかり、纏ったシャツも白衣も皺が目立った。まだ余韻が抜けきれていないのか得意の饒舌もなりを潜め、論文を見返しながら新聞紙に包まれたバゲットのサンドを大人しく口にしている。柔らかいバゲットに切れこみを入れ、バターとパテを塗り、野菜やハーブ、チーズ、鶏肉の炙り焼きを挟んだ手軽かつボリュームのあるそれは、ムルの様子を見かねた研究者達が用意させたものだった。意外にも大口なムルはそれをぺろりと平らげて、珈琲に角砂糖を二個加えた。灰色の脳細胞には糖分が必要だった。ミドラシュはムルの返答に顔を華やがせ、あのね、と話しだす。ミドラシュはひとがすきだった。人間も魔法使いもすきなのだと、ムルに出会った今ならわかるのだと。
「あなたは前に、いばらの魔女ターリアの話をしてくれたでしょう。月に行こうとした、面白いひとだったって」
いばらの魔女──いばらの古城ターリア。呪われた嫌われ者の魔女。彼女は月にまで届くように古びた城でいばらを編みつづけ、そして己の身を薔薇香る古城と同化させたという。その髪はいばらの蔦に、その手は城壁に、その足は城門に変質した。ターリアは月に行こうとした。あの煌めく月面に足をおろして、自身とも同化したいばらの古城を根付かせようとした。
「どうしてターリアは城になって、月に行こうとしたのかしら」
ターリアはムルの友人だったと聞いた。どうして、とミドラシュは愚直に問う。ミドラシュにとってターリアは、おとぎ話のような人物だった。尤もミドラシュは絵本も童話も読んだことはなかったが、いつしかムルが語り聞かせた月と薔薇の乙女はそのようにミドラシュの胸を打った。きみは本当に疑問ばかりだ、とムルは呆れたようにいう。しかし、ムルは立ちあがり、床に座り込んで己を映すことしかできない稚い魔女を見下ろした。不意に額を指先で押され、ミドラシュは抗うこともせずにどさりと仰向けに倒れこんだ。宝石の花冠が地べたに転がる。白いヴェールがふわりと薄く覆い尽くすように広がり、一際深い夜の髪がその上を滑らかに飾りつけた。生々しく横たわる肢体は大百合のように静かで、膨らんだ乳房がうっすらと上下している。弛緩した身体ときょとんと目を瞬く様子は無垢そのもので、ムルはその身の隣に座りながら、ミドラシュの長い前髪を掬った。星屑を飼った青い双眸に、ムルが映りこんでいる。
「きみの此処が空であることはよくわかったからね。少しだけ手伝ってあげる」
目を閉じて、とムルが囁いた。鮮やかな碧眼が閉じられると、躊躇なく伸ばされたムルの両手がミドラシュの耳を塞ぐように覆った。暖かな手のひらがぐっと輪郭を包み、微かにひび割れた親指の腹が耳介を撫でる。俺のパトロン。きみは今、あの愛しき月の煌めく土地にいる。ムルの低い声を聞くごとに、瞼の裏にまで透けていた洋燈の明かりが見えなくなっていく。そして、徐々に夜が近づくようにあたりは真っ暗になった。
「さぁミドラシュ、目を開けて」
色づいた瞼が、重たげにゆっくりと持ちあがる。そして、大きく見開かれた。
そこには、薔薇といばらに覆われた厳かな古城が聳えていた。果てしない天は濃藍で深く深く染めあげられ、暗く澄みわたるような夜の世界で、真紅の花びらがはらはらと舞い落ちている。帷の向こうでは白や青、はたまた赤の小さな星々が沈むようにほのかに輝き、ミドラシュはムルの話した量子論を思いだした。ひとは死んだら星になるという誰もが知っているおとぎ話も。平面に広がる大地は月桂樹の葉でひしめき、ミドラシュがその裸足で恐る恐ると踏みだすと、くしゃりと乾いた音があがった。気づけば耳に寄せられていたムルの手はなく、背後からは彼の響きを殺した笑い声が聞こえた。あのむせかえるような薔薇園の香気はない。甘く心地良い香りが延々と流れ、何処からか吹き抜けた冷ややかにも清々しい風が肺を満たした。これはターリアの夢を幻視したものだとムルは言ったが、ミドラシュはただその青い灰簾石の双眸で、囚われたように古城を見つめていた。彼女の情景は、ただ、うつくしかった。うつくしいと思った。己の頼りない細腕で抱きしめて、父のように傅いて口付けをしたいと思うほどに。星屑を織りこんだ黒い夜はターリアのヴェールで、薔薇といばらを纏う古城は彼女のドレスで、月桂樹の葉を飾った煌めく月面は、彼女の硝子の靴だった。
「永遠に続く静かな夜の世界。月に根付いた薔薇香る古城で、振り返れば」
ムルのうたうような声を聞いていたが、ミドラシュには最早彼が何処にいるのかもわからなかった。脳に直接響いているような心地ではない、すぐ傍で低く囁かれているように聴いていたのに、男の姿はなかった。しかし、その声に呼び寄せられるように、ミドラシュは悠然と振り返った。
「そこには、きみの好きなひとが立っている」
あなたはずっと夢を見ているのでしょう、と、そう言ったひとがいた。あなたは外界とは隔絶された場所で過ごしてきたから、理想を抱いて私に触れて、別の存在に手を伸ばそうとしている。恋を甘美で可憐で、いじらしい、素晴らしいだけのものだと思いこんでいる。あなたはその悍ましさを知り得ないと、老いも触れもしない、うつくしいひとが、そう言った。彼が言ったから、無知なミドラシュはそれを信じることにした。けれど、そこに立っていたのは。高い位置で柔らかく纏められた髪がさらさらと解けるように靡き、形良い鼻筋に垂れる髪の房があそばれる。すっと眦の切れた双眸はこの世界を映しこむかのような薔薇色で、ゆったりと綻んだ唇は花と煙の香りを纏った。月桂樹の葉に彩られた星の地で、薔薇の花びらが踊る世界で、彼のひとが立っていた。名前を呼べば、うつくしい幻想がすべて泡になってしまうような気がした。けれど、ミドラシュはその意地汚い口を閉じることができなかった。
✵
わたしと似ているひとだと思った。だって、たくさんのひとに好かれていたから。綺麗な顔も、綺麗な仕草も、綺麗な言葉も、きっと、わたしと、同じ。誰がための身体を持つひと。愛されるべき魔法使い。でも、あなたの方が素敵だった。だから、ずっとあなたに夢を見ていた。夢を見て、夢を見て、目覚めてしまった。
目覚めた場所は、ミドラシュが愛してやまない酒場だった。背の高いカウンターで、真鍮製の横木に接続されたスツールが見え、ミドラシュはその中のひとつに腰掛けていた。テーブルやボックス席には誰ひとりとして客はおらず、ベネットの酒場は暗い静寂に包まれている。ひりひりと痛む肘に気づいて見下ろせば、そこは僅かに擦り切れていた。その先ではしっかりと魔道具たる一升瓶の口を握りしめており、現実に引き戻されたようにミドラシュはあたりを改めて見渡した。ずらりと並ぶアルコールのボトル。ムルが寝転がるために置かれたカウチ。ミドラシュが幾度となく髪を巻きこまれた蓄音機。そして、カウンターの向こうには、シャイロックがいた。くし切りにされたレモンやライムが入った瓶を仕舞っている。ミドラシュは長く量のある髪をかきあげた。細いラリエットがさらさらと手のひらに溢れる。その頭に、宝石でできた大きな花冠は存在しない。背筋がきりきりと妙に痛むのを感じたミドラシュは、だらしなく身体をまるめた。朝焼けとカンテラの琥珀を融けこませた髪は、常よりもしっとりと濡れていた。一筋はたらりと首筋に張りつき、二筋は柔い肩甲骨をつたい、艶やかに汗ばんだ髪筋は止まり木の縁をなぞる。鈍い銀細工の装飾品が涼やかに波打った。ミドラシュはあからさまに媚びた声をあげた。
「ねェねェシャイロックぅ。いつものぉ」
「残念ながらもう店仕舞いです。出口はあちらですよ」
「ええん、シャーリィのけち……」
閑古鳥が鳴くほどに静まり返っているのは至極当然であった。窓からは淡い黎明のひかりが零れ、ベネットの酒場を照らしている。ミドラシュはぺしょりとカウンターに突っ伏した。伸びっぱなしの蓬髪の狭間には赤らんだうなじが覗き、ぽつぽつと冷めた露が浮かんでいた。あからさまな泣き真似はどうしたのか、ミドラシュは随分と穏やかな顔で瞼をおろした。目を閉じると、ミドラシュのぎょろりと瞳が窪んだ不健康な顔は幾分かマシになった。自身の腕に顎を埋め、ミドラシュは器用にゴロゴロと喉を鳴らす。収縮する青い瞳も、不思議な喉鳴らしも、まるで猫のようだった。
「ねェ、あんた、聞いておくれよ。夢を見たンだ。あんたにこいをする夢だよ」
ミドラシュはくふくふと笑いながら言った。うつくしい曲に耳を傾けるようにうっとりと奇妙な碧眼を瞑り、鮮やかな夢を思い返す。地上の楽園と月下の古城の情景を、忘れたくはなかった。それでもミドラシュはいつも忘れてしまう。
ミドラシュはシャイロックが好きだった。この世で誰よりも正しいひとだと思いこんでいた。多くの西の魔法使いがシャイロックという高尚でうつくしい男を愛したが、ミドラシュもそのなかのひとりだった。愚鈍なミドラシュは彼の美意識を理解し得ない。だが、たくさんの人々に好かれているシャイロックがたまらなく好きだった。ミドラシュには教養はなかったが、彼の洗練された仕草や物腰柔らかな言動、そして正気たる美酒を振る舞い数多を喜ばせてきた人生が、とてもうつくしく貴いものに見えたのだ。何よりも、とミドラシュは曖昧な記憶を手繰り寄せる。この止まり木で、ミドラシュはシャイロックに恋をした魔女と魔法使いを幾度となく見てきた。胸が高鳴るような情熱的な口説き文句や、彼のひとの審美眼が色づくような贈り物の数々。そして、その愛には応えないのに、何処かほのかに、艶やかにもあどけなくも見える微笑みを浮かべて、萌え立った恋心をそっと包んで、穏やかな台詞と一酔の夢を添えながら、彼らを見送っていく姿。シャイロックは決して向けられた好意を無下にはせず、それどころか何処か嬉しそうにはにかむのだ。愛らしいものを識った声で、密やかに囁いて。そんな彼の横顔と魔法使い達の恋愛を何年も眺めて、時には飛び交う口説き文句のなかに嬉々として乱入して、そしてミドラシュはたったひとつわかったことがあった。愛が好きなのだというこの男は、恋をされるのも好きなのだと。
「シャイロック、あたし、次はあんたになりたい。シャイロックになって、あんたにこいをしたい」
抱いていた盲目的な愛は、醜く芽吹く前に薔薇達が食い尽くしてしまった。それでも未だに夢みる夜があった。夜には恐ろしい虎が忍び寄るのだと、わかってはいても。ミドラシュは星月夜の瞳で、シャイロックをぼんやりと見つめた。ミドラシュは己の身体を恥じたことはなかったが、この長い黒髪も豊かに膨らんだ乳房も、切り落としても構わないと少しだけ思った。
「こいがしたい。シャイロック、あたし、知ってるよ。あんた、こいをされるのが、すきなンだろ。恋いされて、乞いられて、こいねがわれることが、あんたはすきなんでしょ。それってネ、すてき。だから、あたしもこいがしたい。こいをして、あんたの声をずっと聴いてたい。ずぅっと聴いてたいよ、シャイロック」
「ミドラシュ、呑みすぎですよ」
尤も、四六時中酒を舐めているような女だったが。喘ぐような声を聞いたシャイロックは冷たいレモン水を出したが、ミドラシュはグラスに手すらつけなかった。ただとっくに焦点を何処かにやった碧眼でシャイロックを見つめ、それがどうしてか酷く濡れているように見えた。仕方がないと、シャイロックはぎうと枝の如き手首を握りしめた。ささくれた膚は大人しく委ねられたが、その指の節はよく目立つ。痩せた五指を己の手のひらに閉じこめれば、細々とした関節は数度思いだしたように痙攣した。もうあまりもなかろうに、それはミドラシュの残り少ない正気のように思えた。ミドラシュの唇は開いていた。ら、ら、と掠れた声が溢れる。うすらに開いた口の向こう、拙い歯列がきれいなうそを奏でている。シャイロックはミドラシュの輪郭を掬いあげた。触れたとき、彼女の頬が以前よりもやつれていることに気づいた。既にマナを吐きつづけた肢体だ、肉の削げたあの指のように痩せ衰えれば、この女はいずれ人間と同じ皓い骸骨になるのだろうか。なんて。くだらない。シャイロックがずるりと弛緩しきった手首を引きあげれば、その脚は易々と傾いた。ミドラシュはシャイロックに寄りかかり、されるがままに彼の顔を見あげている。鮮やかな青の双眸は大きく開かれ、中心ではぱちぱちと星が飛び散った。何か言いたげな唇のあわいに、よりにもよってとシャイロックのなかで筆舌に尽くしがたい憎らしさが込みあげていく。滴り落ちるような髪を梳けば、指先の凍えた温度に気づいたミドラシュが、仔猫のように目を細めた。酒精に焼かれた声ばかりを吐きだした唇からは柔らかさは損なわれ、喉とは裏腹に冷たく濡れそぼっている。今日だけですよ、とシャイロックは呪文を唱えた。
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歌屑とひやおろし