降りしきるロンドンの街角は、随分と暗くなっていた。人気が疎らになった帰り道、通りすがったブティックのショーウィンドウに、ずぶ濡れの自分の姿が映りこむ。硝子に幾筋も滴る雨水が、陰気な輪郭を曖昧にしている。
携帯はビニールに包まれたトランクの中で、手袋を嵌めた凍えた指先が、ただただわたしを見つめ返すばかりだった。わたしは、決して要領の良い人間ではなかったから。靴にまで雨水が溜まり、不恰好に歩くたび、ぐじゅりと何ともいえない音がする。前髪から鼻筋へと、ぼたぼたと留めなく水滴が流れる。螺旋階段を目指して路地裏を歩いていたとき、不意に足が止まった。痺れが回り感覚を失いつつあった手から、ごとりとトランクが離れる。その代わりに部屋の鍵もトランクに仕舞っていることやわたしの部屋は遠い三階にあることなどを思い出して、ばかだなぁと力なく眉が下がった。
どうにもこうにもついていない日というものがある。それが今日だった。仕事ではミスをして、お気に入りの靴の踵は折れ、帰りには土砂降りの雨に見舞われた。イギリス人は傘を差さないというけれど、量のある髪がぐっしょりと水を吸った雑巾のように濡れ、身体の何処も彼処にも衣服が張りついた姿には、笑うしかなかった。笑うしか、なかった。笑っていなければ、とてもやってはいけなかった。どうにかなってしまいそうだった。けれど、口角は簡単に崩れて、涙腺は緩みそうになる。不意に、甘えたいだとか縋りたいだとか、いわゆるわるい感情が、ぐるぐると茹だったような頭を回った。ただ調子が良くないだけなのに、どうしてこんなにも。瞼に溜まる雨粒が涙よりもあふれて、震えるくちびるのあわいにぼたぼたと染みこむ。これがロマンス小説だったなら、きっと星よりも早くすきなひとが現れるんだろう。なんて。
「アデライン?」
だってそれが、フィクションの魅力だ。心を踊らせる運命的な物語は、いつだって装丁されている。それなのに。わたしと違う低い声が、わたしと違う温度の声が、わたしを呼んだ、気がした。幻聴だろうかとのろのろと顔をあげれば、狼のような琥珀の瞳がわたしを見下ろしていた。常とは違う視線の高さに、息を呑む。年季の窺える古びた重厚な扉の真上には見慣れた数字の表記があって、随分と高い位置にドアノッカーが取り付けられている。その前で、ひとりの男のひとが、ギアさんが立っていた。心なしか驚いたように目を見開いて、陰る目元にうそのように綺麗な睫毛を飾りつけている。
爪先が一定の間隔でずきずきと鈍い悲鳴をあげた。雫が伝うに連れてあげていた口端が溶けていき、今朝に整えた眉がさらに情けなく下がる。あ、駄目だ。そう思った瞬間、くちびるから嗚咽じみた声が洩れそうになって、そして。
「ごめんなさい」
最悪の言葉だった。先に踏み台をつくって、相手の善意のつけ込んだ、へたくそな口説き文句。
「連れてって、ください」
部屋まで肩を貸してほしいだとか、トランクを持ってほしいとか、もっと慎ましくてわかりやすい台詞があったはずだ。少なくともわたしがいやらしくも望んでいたのはそういうもので、ああいやだ、こんな言い方、余計にギアさんを困らせてしまう。
幾筋も髪が張ったうなじを何やらふわふわとしたものが触れて、背中が滑らかな布地で包まれる。ずぶ濡れの状態には心地良い状態ではなかったけれど、雨の香りに混じり、なんだか良い匂いがした。平衡感覚が崩れた。身体が浮いて、呼吸がわずかに乱れる。訂正しなければと口を開いたときだった。行き場のない手が反射的に縋ったものは彼の肩で、その硬さにびくりと身体が強ばる。すぐそばにはギアさんの顔があった。さらさらとした黒髪とは対象的な、雪をのせたような白い睫毛。不思議な瞳孔を持つ金色の双眸。通った鼻筋の下には浅くも深くもない形の良いくちびるがあって、冷たいナイフのような美貌に思わず目を逸らせば、黒い襟から覗く喉仏が視界に広がった。目ざといという言葉が、脳裏をよぎる。冷たかった頬がかっと一気に熱を持ち、わたしはようやく現状を飲み込んだ。
「お前が私に言ったんだろう」
低い声が鼓膜をくすぐって、ひくん、と喉が引き攣る。気づけばなんてつけるのはおかしいけれど、いつとはなしにわたしはギアさんに抱きかかえられていたのだ。身体を覆っているのは彼の上着だった。雨に紛れて彼の足音が聞こえなかったなんてあるだろうかとか、そもそもわたしとギアさんの距離はそこそこ離れていたはずだとか、つまるところいったいどのくらいの時間をわたしは黙りこくっていたのだろうとか。なんだかベラとエドワードみたいだとか。そんな疑問を煮しめたような思考があったのに、結局わたしの目を一番引いたのは、わたしの方が上背があるのに彼の表情は涼しげなことで。無論そんなずるさもわたしのせいで濡れてしまったギアさんの前では霧散したけれど、抵抗したわたしのずり落ちかけた帽子を彼は平然と自分の頭に被り直したものだから。豊かなネイビーブルーの帽子は見る影もなく、ずぶ濡れの状態でギアさんの頭に乗せられている。水滴などと可愛らしいものではない雨水が溶かすようにギアさんの目元や輪郭を伝っていき、彼のくちびるを濡らした。
ギアさんが向かった先は螺旋階段ではなかった。彼はわたしを抱えたままあの玄関へと戻って、変な声をあげそうになる。いつから持っていたのかトランクは扉の前に置かれ、彼は真っ暗な廊下を迷いなく進んでいった。輪郭だけが窺える双眸は、暗闇など見通しているようだった。ぽたぽたと床に落ちる派手な水の音に、思わずと縮こまる。髪と衣、どちらから零れているのかもわからなかったけれど、きっと両方だ。触れあった両手は冷たさも感じなくて、思いだすように指の腹に爪を立てた。ギアさんは足で乱暴に扉を開くと、ぱっと眩しささえ覚える光で視界が覆われる。途端に軽快な音声合成が流れて、幾度も聞いただろうそれに、はしたなくも安堵しそうになった。細やかな引き出しが並ぶスチールラックに、絨毯で稼働し続けている自動掃除機。骨董品と最新の電子機器が混ざり合った不思議な世界は、ギアさんと羊太郎さんのお城だった。
「ギアさん……?」
俯いた彼の顔が酷く濡れている。頬や鼻梁を伝う水滴が、ぱたりと膚に跳ねた。ギアさんの視線はわたしの指へと注がれている。居心地の悪さに棒切れのようになった指を擦り合わせていれば、金色の双眸は苛立ちを湛えるように細まった。何か、これ以上の無礼を、してしまっただろうか。恐る恐るとギアさんを見つめていれば、その白い喉笛が、わたしに覆い被さるように晒された。獣の毛並みのように艶やかな色をした黒髪が、はらりとほのかに手首をくすぐる。ペトリコールの香りと混じる、苦くて甘い、不思議な匂い。ギアさんの匂い。わたしの帽子から垂れる雨粒が、ギアさんの髪筋でひかっている。植物の滑らかな葉についた、早朝の露みたいに。
上質なシルクは台無しになった。ずぶ濡れになった、薄いレースの手袋。その人差し指を、彼のくちびるが咥えた。背筋が大袈裟に泡立って、わたしの口ははくはくと酸素を求める魚みたいにふるえる。そのうちあだとかうだとか要領を得ない音が零れて、わたしは呆然と彼のくちびるを見ていた。柔らかく第一関節をなぞるものがあったと思えば、覗く真白のエナメル質は、何処か慎重そうに手袋の先を食む。感覚をほとんどなくしていたはずの指に、燃ゆるような熱がほとばしったような気がした。彼のくちびるが濡れている。わたしなんかに、あてがってしまって。雨水ではないものが額に伝い、頬の赤みは先ほどとは最早比にはならないことを自覚させられる。貝殻の渦を描く、うつくしい耳がそこにはある。伏せられた睫毛も、一際目立つ金色の目も。獣を思わせる歯列が薄手のそれを噛み、くん、と引いた。濡れそぼった手袋がずるりと抜けて、抵抗感はわずかと皮膚を裂いた。わたしの手が呆気なくあらわになる。その指先は、萎びた花のような紫に染まっていた。あ、と如何にも抜けた声がまろぶ。たらりと赤黒い血が垂れて、色のない爪を赤く汚している。ギアさんは手袋から口を離せば、それはぼとりとわたしの胸元へと落下した。人差し指の部分が、ほのかに色づいている。凍瘡かと呆れたような声が降ってきて、びくりと身体が震えた。雨の日。ずぶ濡れの格好。密着した手袋と靴は、極端に皮膚の温度を下げる。わたしはギアさんの顔を見ることができず、おそらく同じことになっているだろう、爪先のもとへと視線を向かわせようとする。しかし、凍えた双眸がじっとりとわたしを見つめる気配に、怖々と首が持ちあがった。化けの皮が剥がされるとは、きっとこのことだった。衝動的な寂しさはわたしの見栄と要領の悪さから由来するもので、赤ら顔を隠すパウダーもなけなしの薄いルージュもすっかりと色を落として、ぐしゃぐしゃと乱れた格好はいかにもみすぼらしい。不意に、うなじに張りつく髪をかきわけられる。ばたたっと滝のように水が滴り落ちて、てんてんと彼の指に雫を残す。
羊太郎、と何処かにいるらしい同居人の名前を、ギアさんは温度のない声色で呼ぶ。
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歌屑とひやおろし