午前中、始業式を終えて、お昼を食べたナマエは友人に手を振り教室を出る。残暑厳しい日々が続くが、汗を拭う日が来なくなるのもあっという間だ。せっかく、あんな風に言ってくれたのだからと中庭へと向かった。
中庭に出ると、頭をジリジリと太陽が照りつけてくる。少し歩けば汗ばんできたが、校舎の角を曲がれば伸びた影が日差しから守ってくれた。やはりここにくると体感温度が二、三度くらいは下がるような気がする。首筋にうっすら浮かんでいた汗は嘘のように引いていった。
「角名、くん?」
横向きに転がるその人は眠っているのだろうか。そっと声をかけると、気怠げにこちらを向いた角名は体を起こした。
「来てくれたんだ」
うん、と答えながら角名の隣に座る。
「それよりごめんね。起こしちゃった?」
「別に」
そっぽを向いた角名はポンと音を立てて狐になった。狐姿の角名は耳の先を折り曲げている。未だこの仕草が示す意味は解明できていない。ナマエが首を傾げていると、ブルブルと首を振った角名はピンと耳の先を所定の位置に戻して、当然のように横座りするナマエの膝の上に登ってきた。しっかりと閉じている腿の上に座り、体を丸めて揃えた前足の上に顔を乗せる。侑には未だ抱っこはしません、と言っているナマエではあるが、角名に関して言えば、あまりにも自然に抱っこまでの一連の流れをこなされるので、まぁいっか、とつい受け入れてしまう。ついでに背中の硬い毛並みを撫でてしまう。こういう風に流されていると、また北くんに怒られそう。そんなことを考えながら狐になってしまった角名を眺めていると、あ、と思う。
「誰かが来たら教えてあげるけど、狐姿は隠せないよ」
「別にいいよ。誰かが来てもぬいぐるみだって言えばいいから」
「角名くんはそれでいいかもしれないけど、こんなところでぬいぐるみ抱えて一人で座ってたら痛くない?」
校舎裏で一人、狐のぬいぐるみを膝に乗せながら座る女学生の姿を思い浮かべると、居た堪れない気持ちになり、そんな寂しい役割を押し付けてきた張本人の両頬を引っ張ってやった。
「ミョウジさんでもそういう感覚はあるんだ」
「あるよー」
角名の言い方が少し引っかかる。”ミョウジさんでも”の、”でも”って? “そう言う感覚は”の、”は”って?
まるで、ナマエには何かの感覚が欠けているかのような言い回しではないか。ナマエが持つべき感覚について、痛い女に見られることを懸念する感覚以外にどう言う感覚があるというのだ。
「他にどういう感覚があるんだって顔してるね」
ぎくりと体が強張り、そういえば角名は心を読むことができるんだった、と思うと、ミョウジさんは分かりやすすぎるんだよ、と笑われた。やはり心を読んでいるとしか思えない。角名のことは段々と分かってきた気はするけど、毛皮の中に隠された本当の心は見えないまま。現に耳の先尖らせ問題はまだ解けていない。自分だけがいつも見透かされるのは少し不公平だと思い、柔らかなほっぺをまた摘む。相変わらず柔らかい。
「じゃあさ、今こうしてほっぺ引っ張ってるけど、それ。俺が人の姿でもできる?」
「できるよー」
人の姿となった角名の両頬を頭の中で伸ばしてみる。ナマエの描いた絵の中では、角名の頬は餅のように良く伸びたので、頬が緩んでしまった。
ふーん、と言って口の端を吊り上げた角名は膝から軽やかに飛び降り、ポンと音を立てて人の姿へと戻った。狐から長身の男となった角名はナマエの方を向いてあぐらをかくと、顔を近づけてくる。
「じゃあ、やってみなよ」
「いいよ」
いつも狐角名にやっているように、思いっきり引っ張ってやろうと両手を角名の両頬に伸ばしてはみたが、触れる直前で手は止まってしまった。
「どうしたの?」
射抜くような瞳がナマエの赤く染まる顔を映している。まるで金縛りにあったかのようにナマエは緑の光を帯びる黄色い瞳から目を逸らせなかった。激しく運動した後のように心臓の音が近づいてくる。どうして、角名の頬に触れることができないのだろう。そう考えた瞬間に、ナマエの顔は大きな両手にすっぽりと包まれてしまった。びくりと震えてしまったが、角名から目が離せない。離してはいけないのだと思わされる。
「俺もずるいけど、ミョウジさんもずるいよね」
ずるい、とはどういうことだろうか。考えるための思考がきちんと巡ってくれない。
「本当はこのまま食べちゃいたいんだよ」
現状を理解できないままでいるナマエを置いて角名は話を進めていく。
「知ってた? 狐は肉も食うんだよ」
そう言った角名は額をナマエの額にコツンとぶつける。聞こえてくるのは角名の呼吸音。ナマエの心臓の音はきっと角名に聞こえてしまっている。風邪をひいた時のようにナマエの顔は熱くなってしまい、目からは涙が滲み出た。
「狐の時も人間の時も俺は俺。狐姿を利用してミョウジさんに飛びつく侑だってそうだよ」
これだけは覚えてて、と付け足された言葉は酷く官能的な響きを持っていた。
「狐の時に俺が言ったこともしたことも、全部俺の気持ちだから」
静かにそう言われ、ナマエが乾いた口から言葉を発せない代わりに頷くと角名はようやく離れていった。訪れた開放感に溜め込んでいた息を吐き切るが、未だ心臓は元気に暴れていた。
狐の時に角名が言ってくれたこととはどんなことがあっただろうか。狐の時に角名がしてくれたこととはどんなことがあっただろうか。
思い出そうとするけど、脳はまだ時が止まってしまっていた。
どうして、角名は唐突にこんなことを言ってきたのであろう。
そう思った瞬間だった。ポンという音と共に目の前には夏の空に浮かんでいた雲のような煙が噴き出る。煙が薄れると、現れた狐はそっぽを向いて丸くなっていた。先程せっかく上を向かせた耳は根本から折れ曲がり力なく角名の顔に張り付いている。
急にどうしたんだろ。
心配になったナマエは背中を向けている角名の顔を覗き込んだ。
「ごめん。ちょっと見ないでくれる?」
ナマエを避けるように逸らされた顔は、ナマエに負けず劣らずの赤みを帯びていて、ナマエは、なんとなく、角名の言った言葉の意味を理解してしまったような気がした。