「じゃあ、体育館出たとこのベンチで待ってるね」
 四限目の体育が終わり、制服を着ているナマエは体操服姿の友人二人に手を振った。体操服を忘れてしまったのだ。最近は夜遅くまで張り切って勉強をしていたからかもしれない。朝はギリギリまで寝てしまうことが多く、今朝も慌てて支度をしていたらうっかり忘れてしまったのだ。
 友人二人の更衣室に向かう姿を見送り、体育館を出る。右に曲がり、前方に見える自動販売機に隠れたベンチへと向かおうとしたのだが、やはり体育館へと戻ろうと思ってしまった。冷たい風が吹き抜け、体を急速に冷やしていったからだ。ブレザーの上から体をさすり、踵を返しかけたが、足を止めた。まだ教室にはストーブが出ていないのだ。せっかく外に出たのだから、体を温めてくれるような飲み物を自動販売機で買って帰ろう。そう思い、再び自動販売機へ向かって足を進めた。
 お腹すいたなぁ、と自動販売機の前に立った瞬間だった。目の端にとても異様な光景が映る。見間違いだろうか。そんなことある!? と思いながら、異様な光景を視界の中心に持ってくると、やはり見間違いではなかった。色褪せた青いベンチの上で、伏せをした黄金の狐が、揃えた前足の前で本を開いていたのだ。狐は今開いているページを読み終えたのか。器用に爪を引っ掛けてページを捲った。
「流石にそれはおかしいでしょ!」
 本から顔を上げた狐は口の端で笑う。
「ええ突っ込みやな」
「突っ込んでないよ!」
「そのボケはおもんないで」
「ボケてないよ!」
 こういう絡みをしてくるのは治だ。まだ四限目の授業は終わっていないというのに、ここにいるということはきっとサボりなのだろう。サボってばかりいちゃだめだよ、と言いながら治の隣に座ると、ナマエちゃんもやろ、と言われ、私は体操服忘れただけでちゃんと授業出てました! と返せば、体操服忘れたんや、と笑われた。そして、ぐぅの音も出ないで顔を顰めると、おもろいな、とほくそ笑まれるまでがセットである。
「何読んでるの?」
 気を取り直して質問すると、前足でパタンとハードカバーの本を閉じた治は本のタイトルを黄金の前足で指す。
「キツネにも分かる経営学? え?」
 タイトルを読み上げたナマエは首を傾げた。猿にも分かる、という文言は良く聞くのだが。
「狐にも分かるは流石にピンポイント過ぎない?」
「ここも”おかしいやろ”でええんやで」
 ツッコミのレクチャーをしてくれた治はキツネと書かれたところを前足でポンポンと叩いた。
「これはツムの落書きや」
 よくよく見たら、黒いマジックのようなもので書かれたキツネという文字の下にはサルという文字が見えた。侑くんらしいな、と笑みがこぼれれば、心底呆れた様子で、アホやろ、と呟いた治はまた、閉じた本を開いた。
「こういうの好きなの?」
「いや、どちらかというと、こういう難しい話は嫌いや」
「じゃあなんで?」
「今度文化祭あるやろ。それでいろいろ実験しよと思ってんねん」
 実験? とナマエが首を傾げると、治はイタズラを考える男の子のような顔をしたかと思えば、フサフサの尻尾をゆらゆら揺らしながら続けた。
「チラシの書き方とかSNSで宣伝したメニューの売れ行きとかいろいろと試したいねん」
「将来そういうことしたいの?」
「まだ明確に決めとるわけや無いけど、ぼんやりとはな」
 こともなさげにそう言って見せた治がナマエには随分と眩しく見えた。少し、自分が恥ずかしくなってしまい、俯く。
「治くんはすごいね。私はそういうやりたいこととか何もないから」
 受験生だから一応は勉強している。志望の大学も学科も決めている。しかし、志望を決めるまでには随分と時間がかかったし、何がなんでも志望している大学に行きたいのか、と問われれば首を縦に振れる自信はない。自分の学力に合っている大学で、興味がないわけでもない学科を選んだのだ。いわば消去法だ。だから、積極的に道を選べる治を真っ直ぐに見れなかった。いつの間にか握ってしまっていた拳を眺めていると、ええやん、と言われ、顔を上げた。
「なんで? 私には何もないんだよ」
「何も無いってことはこれから何にでもなれるってことやろ。可能性は無限大や」
「そんなこと言ってていいのは子どものうちだけだよ」
「人生百年時代やで。それ考えたら俺らなんてまだまだひよっこやろ」
 いつも揶揄ってくるばかりの治が、いつか見た穏やかな笑顔を浮かべてナマエを見ていた。口調も随分と柔らかく。ナマエは目の縁が熱くなってしまう。鼻を啜ると、治はぷっ、と吹き出したが、口元には優しく弧を描いてくれているから、余計に鼻がむずむずしてしまった。
「ナマエちゃんはナマエちゃんで今受験勉強してんねやろ」
 うん、と頷けば、頑張り、と微笑まれた。
「ありがとう」
「大丈夫やで」
 治にそう言われると、そんな気がしてくる。今は目の前の受験勉強に集中しよう。ナマエは背筋を伸ばした。そして、ナマエの道を照らしてくれた治に再びありがとう、と伝えようとした時。
「安心しぃ。ナマエちゃんが何者にもなれんくても最悪俺が漫才の相方として引き取ったるから」
「漫才なんてしてないよ!」
 結局はこうなるのである。
 もうっとナマエが頬を膨らます頃には、治の顔にはいつもナマエに向けてくる意地悪な笑顔が戻っていた。
 治は開いた本に視線を落とす。食い入るような瞳からは治の真剣さが窺えた。
 私も何者かになれるだろうか。
 ナマエがそう思った時、治の尖った片耳がピクリと動く。どうしたんだろう、と思ったのも束の間。治は白煙をあげて人の姿に戻った。
「え、どうしたの?」
「お迎えやで」
 気怠げにベンチに腰掛ける人間姿の治に言われ、お迎え? と首を傾げると、後ろからナマエちゃん、と呼ばれる。友人の声だ。
「今行く! じゃあね、治くん」
 友人二人に向かって駆け出そうとしたナマエであったが、治が、自販機で何も買わんでええの? と聞くので、そうだった、と思い出す。友人二人に断りを入れて、自動販売機に小銭を入れた。
「ナマエちゃんのそういう真っ直ぐ過ぎて前しか見えへんくなるところ。俺は好きやで」
 ニヤニヤ笑う治に言われても褒められた気はしない。どーも、と返しながらホットココアのボタンを押した。
「じゃあ、またね。治くん」
「またな、おもろいナマエちゃん」
「だから、私は面白くありませんっ!」
 そう返しては見たが、心は澄んだ秋空のように晴れやかだった。治に向かって手を上げれば、分厚い本を片手に持った治も手を振り返してくれた。