番外編
※角名の幼少期を捏造。
※角名の祖母宅を捏造。
友人など自分以外の人間は狐にならないと知った時、なぜ自分は狐になるのか、と思ったが、それ以上は考えなかった。狐になることは生まれつきのものなのだ。同じように生まれ持ったものである、髪の毛にちょっと癖があることや目が細いことなどについてなぜかなんて考えない。そうやって生まれたのだから、そういうものなのだろう。角名にとって、狐になるということはその程度のものだった。
その少女と出会った時のことはよく覚えている。それは幼稚園の年長に上がる直前の春休みのことで、兵庫にある祖母のうちに遊びに来ていた時のことだった。
祖母の家で一人で留守番をしていると、玄関の方から日本家屋のスライド式の扉がガラガラと開く音がした。夕食の材料を買いに出かけていた祖母が帰ってきたのだろう。再び、ガラガラと扉の閉まる音がして、一人で出かけたはずの祖母が話す声が聞こえてくる。
「うちにもなぁ、同い年くらいの孫が遊びに来てんねん」
子どもに話しかけるようなゆっくりとした口調だった。
誰か客でも来たのだろうか。そう思ってあくびをした時、角名のいた部屋の扉が開かれた。
「倫太郎ってゆうてなぁ、あっ、倫っ! あんた、またっ……」
こちらを見るなり驚いたように目を丸くした祖母は辛うじて言葉の続きを飲み込んだようだった。きっと、祖母の言葉の続きは、あんたまた狐に戻って、というようなものだったのだろう。角名は部屋の隅で狐になって丸まっていたのだ。普段であれば角名が狐になって丸まっていても、そこが外であったり公衆の面前でなければ、祖母はこんなにも驚くことはしないし、何か言ってくることもない。何かしてくるとしたら、あんたはそういう子やでなぁ、と頭を撫でてくるくらいだ。きっと、今は事情が違うのだろう。祖母の隣には、角名と同じ年くらいの初めて見る少女が立っていた。もしかしたら、祖母はその少女と角名を引き合わせたかったのかもしれない。自分の孫が人の姿で遊んでいることを期待して扉を開いたが、その孫が狐になって丸まっていたため、固まってしまったのだろう。気まずそうに少女を見下ろしたが、何も事情を知らないのだろう少女は、角名を見るや否や、笑顔をパッと咲かして、祖母を見上げた。
「わんちゃん?」
「せ、せやねん。犬飼っててなぁ。噛んだりはせぇへんのやけど、ナマエちゃん、犬大丈夫か?」
狐の角名はどうやら犬になったらしかった。
祖母の問いかけに、ナマエと呼ばれた少女は、待ちきれない、という様子で何度も頷く。
「大丈夫だよ。わんちゃん大好き」
「あぁ、よかったわぁ」
そのよかったには、先ほど話していた孫の話を忘れてくれているようでよかったわぁ、が含まれていたに違いない。
祖母はナマエに微笑みかけた。
「ほな、ここでお母さん達帰ってくるの待っとこか。あそこにお絵描きするのあるし、あの辺にはお人形さんとか車とかあるさかい。好きに遊んでてええから」
「うんっ!」
「ほな、ばぁちゃんは夕飯作らなあかんから、なんかあったら台所においで」
「うんっ!」
祖母は、部屋の隅にいる角名に、仲良うな、というように目配せをし、去っていった。
祖母を見送ったナマエは角名へ視線を戻すと、角名の元に駆けてきた。子ども用の小さなローテーブルに置いてあったお絵描きセットにも、棚にしまってあった人形やミニカーにも目もくれず真っ直ぐにこちらへ向かってくる。角名の前に立つとしゃがみ込んで角名の顔を覗き込んできた。
「わんちゃん?」
その距離五センチ。女の子にこんなに顔を近づけられると、なんだか、胸がこそばゆくなり、普段はピンと上に向けている耳の先が曲がっていく。ふい、とナマエから顔を背けた。
「あっ……」
寂しそうな声が聞こえてきたので、大丈夫かな、と心配になり、振り向こうとしたが、その前に、回り込んできたナマエがまた角名の顔を覗き込んできた。やはり距離が近い。角名の耳の先が曲がり、また、ナマエから顔を背けるが、再び、寂しそうな声が聞こえてきて、ナマエが顔を覗き込んできた。またしても近すぎる距離に角名が顔を背け、ナマエが追いかける。そうして、しばらく左右に顔を振ってナマエと顔だけで追いかけっこをしていたが、何度か繰り返すと、ナマエが追ってこなくなる。諦めたのだろうか。チラッとナマエの方を盗み見ると、ナマエは不貞腐れたように頬を膨らせていた。なんだか、とても申し訳ない気持ちになる。肩を落としたナマエは立ち上がり角名に背中を向けた。どこかに行っちゃうのだろうか。後ろ髪を引かれて、角名は尻尾でナマエの背中を叩いた。すると、振り返ったナマエが嬉しそうに目を輝かせるので、たったこれだけのことでそんなにも喜ばれると照れ臭くなってしまう。でも、そんなにも喜んでくれるならちょっとだけなら遊んでやってもいいかな、という気持ちになり、その旨伝えようとしたが、今は狐なのだ。いや、犬なのだ。人間の言葉を口にすることはできなかった。代わりに、彼女の胸に飛び込んだ。びっくりした顔をしたナマエだったが、ちゃんと角名をキャッチしてくれた。そのまま、角名を腕に抱きかかえて座り込む。膝の上に乗せて、角名の頭や背中を撫でてくれた。揃えた前足の上に頭を置いていた角名は彼女の優しい手つきに眠くなってしまう。尻尾は無意識の間にゆらゆらと宙を泳いでいた。
ところで、この子はなんでここに来たのだろうか。祖母が預かったのだろうか。祖母はここで母親達を待っていようかとナマエに言っていた。この子の両親は出かけたのだろうか。じゃあ、この子の母親が迎えに来たらこの子は帰っちゃうんだ。
出会ったばかりだったが、一度心を通わせば、別れは口惜しくなる。帰らないでよ、と顔を上げると、さっきまで笑っていた子が心細そうに眉尻を下げていた。その瞳は窓へと向けられ遠いどこかを映している。釣られて角名も窓へと視線を移すと、先ほどまで青く広がっていた空は真っ赤に燃えあがっており、建物や木々は暗い影を落としていた。ナマエは、その建物や木々の先を見ているようだった。
どうしたの? と聞く代わりに鼻をナマエの頬に当てた。
「何?」
大丈夫? と聞けないことがもどかしい。鼻を鳴らせば、心配してくれてるの? と聞かれ、思いが伝わったことが嬉しくなる。角名が頷けば、眉尻を下げたままのナマエは角名の頭を撫でながら教えてくれた。
「お母さんがね、夕方には帰ってくるって言ってたんだけど、まだ帰ってこないの。おばあちゃんを連れて病院に行ったんだけど……」
角名を見下ろしていたナマエの瞳が揺れる。
「おばあちゃんね、腰怪我したの。でも、もうすぐ治るって言ってたのに……何かあったのかな? おばあちゃん治らなかったらどうしよう……お母さん達帰ってこなかったらどうしよう……」
言い終えると、ナマエの下まつ毛に溜まっていた涙はついに弾けた。夕陽に染まった丸い頬へと伝っていく。
大丈夫だよ、と涙を拭ってあげたかった。でも角名の手には今、先の尖った爪がついている。それは柔らかな肌を簡単に裂いてしまいそうだった。もし自分がナマエを傷つけてしまったら、と考えると、胸が潰されそうになる。手を使えない代わりに涙を舌で掬い取ってやった。少ししょっぱい。
「ありがとう、わんちゃん」
くすぐったそうにしたナマエが笑ってくれてよかった。でも、俺はわんちゃんじゃない。倫太郎。角名倫太郎っていうんだ。
ナマエには、自分のことを名前で呼んで欲しかった。狐姿の角名はそう伝えることはできないのだけど。
ナマエがまた撫でてくれたので、その小さな手に頭を擦り付けた。すると、家の呼び鈴が鳴った。玄関の方を向いたナマエがソワッとしたのがわかった。はーい、はい、はい、はい、と独りで喋る祖母の軽やかな足音が聞こえてくる。ガラガラと扉の開く音がすればすぐに、ナマエちゃーん、と祖母の声が響いた。沈んでいたナマエの顔に光が差す。
「お母さん、迎えにきたでー」
「はーい!」
角名はナマエの膝から飛び降りる。じゃあ、またね、わんちゃん、と角名の頭を撫でてくれたけど、ナマエはすぐに身を翻し、走って部屋を出て行った。
一人残された部屋で、ぽん、と音を立てて人に戻った角名はボソリと呟く。
「だから、俺はわんちゃんじゃない。倫太郎だよ」
その言葉は、玄関の方から聞こえてきたお母さーんっという感極まった声にかき消された。
ナマエが帰った後、祖母からナマエのことを聞いた。
それは祖母がスーパーから帰る道でのことだった。角名の家から通りを二つ挟んだところにある、ミョウジさん、という知人の家の前で、ナマエは警官と二人で立っていたらしい。ナマエは初めてみる子だったが、不安そうに俯いているし、その隣に立っている警官は困った様子で頭を掻いているしで、世話焼きの関西人らしく、でも半分は興味本位で祖母は事情を聞いてみたそうな。警官によると、ナマエはミョウジさんの家に遊びに来ていた孫で、その孫が警官と一緒にいたのは公園からの帰り道で迷子になっていたところを警官が保護したからとのことだった。そして、警官が無事にミョウジさんの家にナマエを送り届けたものの、ミョウジさんは留守で、家に入れなかったため、ほな、交番でミョウジさん帰ってくるまで待ってよか、となっているところらしかった。先日、ミョウジさんと、うちの孫が帰ってくるねん、うちもやねん、と楽しく話していた祖母は、他人事とも思えず、気がついたら、ほなうちで預かったるわ、と胸を叩いていたらしい。そういうわけで、ミョウジさん宅にはナマエを預かっている旨を書いた手紙を置き、ナマエを連れて帰ってきたのだった。
サヤインゲンのヘタを取っている祖母の隣で座っていた角名は机に身を乗り出して聞いた。
「そのミョウジさんの家ってここから通りを二つ渡ったところにあるんだよね」
「せやで。今度遊びに行かせてもらったらええわ」
優しくそう言った祖母は、ヘタをとったサヤインゲンをボウルの中に入れ、角名の頭を撫でた。なんだか、祖母に考えていたことを見透かされたような気がして、耳の先が熱くなる。
「今日はおしゃべりでけへんかったやろからなぁ」
ますます耳の先が熱くなった。机の上に視線を落とすと、先がくるんとなったサヤインゲンのヘタが山を成していた。
「別に。おしゃべりできなくても楽しかったし」
「よかったなぁ」
祖母に頭を撫でられ、渦を巻く緑から顔を上げられなかった。
きっと、次に会った時はナマエとは初対面になるのだろう。ちょっと寂しいけど、今度はちゃんと自己紹介をして友達になろう。人の姿でも仲良くしてもらえるだろうか。次こそは名前で呼んでもらえるだろうか。
そう思ってその日を待っていたけど、再び、ナマエと会うことはなかった。祖母に連れられて、ミョウジさんのところへ訪れた頃には、ナマエは自分の住む街へ帰った後だったのだ。
「大丈夫や。また会えるわ」
俯いた角名に祖母はそう言ってくれたけど、地元に帰り、幼稚園が始まり、目まぐるしく変わっていく環境に、日に日にナマエのことは忘れていった。
結局、祖母が言った“また”が訪れることはなかった。
それから十年。
高校二年生になった角名は、その日もいつものように、昼休み、お気に入りの場所で昼寝をしていた。そこは一年生の時に見つけた場所で、校舎裏だからだろうか人が来ない上に、校舎から大きな影が落ちてくるため直射日光が当たらず、春から秋にかけて快適に過ごせる場所だった。それにも関わらず、騒がしい足音が近づいてくる。寝ている間にうっかり狐に戻ってしまうといけないので、寝ながらも意識の半分を現実に残していた角名は急速に眠りから引き上げられた。誰だよ、騒がしいな、と思いながらあくびをしてうっすら目を開ける。すると、視界に飛び込んできた顔にドキッとした。あの時の子だ、と思った。
あの時――それは、十年ほど前に祖母の家に遊びに行ったあの時のことだ。祖母が連れてきた女の子の顔はもうとっくに忘れてしまっているし、名前すら思い出せないけど、あの時に感じた言葉を発せない焦ったさや、名前を呼んでもらえないもどかしさ、再び会えなかったときの切なさは心のどこかに傷として残っていた。
瞬間、ぽんと音が鳴る。やってしまった。
白煙に包まれると同時に、ありえるはずのない夢物語から目が覚めた。
どうして、あの時の子などと思ってしまったのだろうか。彼女の顔も名前も覚えていないというのに。きっと、あの時の子だと思ったのは勘違いだ。
白煙が薄れると、角名の顔を覗き込んでいた女子生徒は、じっとこちらを見つめていた。角名が目の前で狐になったというのに、驚かないのだろうか。もしかしたら、この子も狐なのだろうか。そんなことを考えていたら、気まずそうな顔をした彼女は逃げようとする。なんで、逃げるんだよ。そう思いながら、ねぇ、と声をかけた。びくりと肩を上げられ、恐る恐る振り返られる。だから、なんだよ、その反応。ビクビク怯える彼女が面白くてちょっと笑いそうになってしまったが、堪える。彼女も狐なのか、と聞いてみたが、どうやら、そうではないらしい。じゃあ、その反応おかしいだろ。そう思って色々と聞いていけば、どうやら、侑や北の知り合いらしく、彼らが狐であることも知っているらしいことが、ナマエと名乗った女子学生の分かりやす過ぎる表情から推察できた。ナマエは狐の彼らに気を使って嘘をついているようなのだが、それにしても、嘘が下手すぎだろう。そんな彼女がおかしくて、そんな彼女と狐姿で話しているうちに、心のどこかにあった傷が癒えていくのを感じた。だからだろうか。別れ際に、また来なよ、なんて言ってしまった。すると、ナマエが嬉しそうに笑うから、なんだか耳の先が熱くなる。あの少女と出会ったあの春の続きが始まったような気がした。
それは、最後の桜が宙を舞う頃のこと。