番外編


※治と侑の幼少期を捏造。
※治が侑にちょっと暴力的。

 例えば、腹が減って人間姿でいるのが億劫になる程、力が出ない時。
 なんで俺らは狐になるんやろ。
 そんなことを考えてしまう。しかし、それはただの疑問だった。きっと深刻に考えずに済んでいるのは、隣にいる能天気な片割れのお陰なのかもしれない。
 治も気安く狐に戻るところは侑と同じだったが、人目のないところを選んでいた。人が狐になるということは常識から離れたことだという認識がちゃんとあったのだ。そして、その非常識が人に知られたらどうなるかということも十分に理解していた。
 しかし、侑はというと、人前だろうとなんだろうと事あるごとに平気で狐に戻っていた。そんな片割れは狐に戻った時、一応は、あ、やってもうた、と思うらしいのだが、まぁ、ええか、とそのまま狐姿で闊歩するようなやつで、そのおかげで、こっちは大変な目に遭っているにも関わらず、何が問題やねん、と言ってのける大したやつでもあった。しかし、その侑も狐になることに対して思うところがあるようで、狐姿で街を歩いている時に、あ、狐や! と人に指を指されて、暗い瞳をする時がある。だからと言って、そのまま落ち込んだり、何か愚痴ってきたりすることがないどころか性懲りも無く狐に戻るところは流石で、そんな侑を見ていると、なんで俺らは狐になるんやろ、とつい考えてしまう治も、別にええか、と思ってしまうのだった。例え、悩んだところで狐になってしまうことには変わりないのだから、狐になる人生を楽しめばいい。考えるだけ損なのだ。
 というのは、頭で理解していたことで、心の底からそんな風に思えるようになった日が確かにあった。
 それはいつのことだったか。侑がもうすぐ年長さんになるんかぁ、と腑抜けたように言った時のことだったから、きっと、そういう時期のことだった。その日、治は公園で侑とバレーボールを使って対人パスをしていた。
「侑は年長さんになれるかどうか怪しいやろ」
「はぁ? なんでやねん。お前がなれるんやったら俺もなれるやろ」
「侑、知らんのか? 年長さんになるためには試験受けなあかんのやで。進級試験ってやつや。昔一回だけ行ったプールの教室でもそんなんあったやろ。年長さんになるためにはその試験に合格せなあかんのやで」
「え、そうやったん? 俺、その試験受けてへんわ。先生、忘れとったんかなぁ」
「侑だけ留年やな」
 もちろん治も受けていない。そもそも幼稚園に進級試験があるなんて話を聞いたことがない。ちょっと侑をからかっただけなのだ。しかし、からかわれたと気づきもせず、だからと言って年長さんになれないことを焦りもせず、先生、忘れとったんかなぁ、と言ってのけるところが、呑気なやつやな、と治が片割れに対して思う所以だった。きっと、この呑気な片割れにはやりたいこと以外に対して割く脳みそはないのだろう。侑だけ留年やな、と笑ってやった。きっと、いつもであれば、俺が留年やったらお前も留年やろ! と返ってきたのだろうが、今日は、代わりに汚いくしゃみの音が響いた。すると、ぽんと音が鳴り侑がいた場所から煙が上がる。どうやら、侑はくしゃみをしたついでに狐になってしまったらしかった。こいつ、またか、と思いながら、狐になる前に侑から宙に返されたボールをキャッチする。汚いな、とこぼし、白煙が薄れるのを待っていると、薄れた白煙の向こうに人影が見えた。白煙が完全に消えると、その人影が自分達と同じ年くらいの少女だということが分かる。彼女は、侑が狐に変わる瞬間を見てしまったのかもしれない。公園の入り口にある、自転車侵入禁止の柵に捕まりながら目を丸めていた。やばい、と思った。逃げるか。それとも、手品やで、と笑ってみせるか。どうしよう、と思って侑を見下ろすと、侑は何かを企んだような顔をしている。どうせ、みぃーたーなぁー、なんて言って目の前の少女を驚かせてやろう、と思っているのだろう。こいつはそういうやつだ。ここは治が場を収めなければ。ひとまず、向こうの出方を見て、と思い彼女に視線を戻すと、可愛い! と黄色い声が上がった。その声は少女のもので、目にたくさんの星を宿せた少女は狐になった侑の元に駆けてくる。侑の前に立つと、侑が何か言う前に侑の体を両手で掬い上げた。
 嘘やろ、まじか。
 もし、この黄金の毛を生やした生き物が侑ではなくその辺の犬猫だったら、どうするのだろうか。少女は顔を引っ掻かれて、場合によっては怪我をするのではないだろうか。治が目の前の光景に呆気に取られていたら、侑をしっかりと抱きしめた少女は夢見るような声で再び、可愛い、と漏らす。抱きしめられている当の本人は初めて女の子に抱きしめられたからか、びっくりしたような顔で固まっていたが、やがて、少女の胸に体を預けると、だらしなく頬を緩ませた。なんやねん、その顔。きもいな。
 女の子はひとしきり侑に頬擦りをした後、満足したのか顔を上げて治に尋ねた。
「あなたのわんちゃん?」
 治が答える前に、アホが、なんでやねん、と突っ込む。
「わんちゃんとちゃうわ。どう見ても狐やろ」
「喋んな、ボケ」
 お気楽な頭をハタいてやった。
 今なら、侑が狐に戻ったのは人を鳩に変えるような手品、ということにできた。しかし、鳩の役割である狐に人間の言葉を発せられたら、その仕組みを説明するのは流石に厳しい。ロボットということにするか? と考えていると、頭をハタかれた侑は、また、呑気に、痛いなぁ、と喋り出すので、だから黙っとけ、と睨んでやる。
「あなた喋れるの?」
「喋れるで!」
「だから、喋んな!」
 ほんまこいつは一回痛い目にあった方がええんとちゃうか、と思っていると、少女がクスクスと笑い出すので、ポカンとしてしまう。
「狐が喋っとんのに、驚かんのか?」
「驚かないよ。テレビでよく喋ってる動物見るから」
 そうかぁ? と治が侑と同時に首を傾げると、また、ぷっと笑われた。よく笑う子やなぁ、なんとなくそう思った。
 女の子は幸せそうに狐を抱きしめて言う。
「朝のテレビでね。女の子が戦うんだけど、それでね。熊みたいな動物が喋るの」
 あぁ、と侑と一緒に漏らした。日曜の朝にいつも侑と並んで見ている戦隊モノの番組が始まる前にそういうアニメがあった。その中では確かに熊のような生き物が喋っていた。その熊は人に変身もする。彼女は侑をその熊のような妖精の類いとでも思っているのかもしれない。だから、先程は平気な顔をして侑を拾い上げ抱きしめたのだろう。
 治も侑もサンタはいるとまだ信じていたけど、人間の言葉を話す動物やアニメに出てくるような妖精の類いが存在しないことは知っていた。しかし、今は侑をそのアニメに出てくるような妖精ということにしておいた方が都合がいい。それに、いつか壊れる夢を今壊さなくてもいいと思った。それなのに、侑はニタニタ笑うので、嫌な予感がした。
「アホやな。それアニメやで。嘘話や、うそばな――」
「お前はもう黙っとけ」
 人でなしの頭をハタいてやった。
「なんやねん、うっさいなぁ」
「うっさいのはお前や。せっかく、えぇ感じで誤魔化せそうやったのに。あと人の夢をぶち壊すな」
「別にええやん。親切でそれは嘘話やでって教えたったんやから」
「誰がそれを望んどんねん。余計なお世話やろ」
「お前のが余計なお世話やろ」
「はぁ?」
「はぁあ?」
 睨み合いになり、いつもであればここでお互いがお互いに飛びついていた。だけど、治達を見ていた少女がおかしそうにするので、なんだか照れ臭くなってしまう。侑も同じだったようで、上に向かって元気に尖らせていた侑の耳が萎れると同時に、がんの飛ばしあいは鎮火した。
「二人は仲良いんだね」
 良くないわ! と二人で声を合わせると、また笑われる。
 やっぱりよく笑う子やなぁ。
 彼女が笑うとこちらまで笑顔になる。侑がゲラゲラ笑っていても、うるさいなぁとしか思わずそんな風にはならないのに、彼女の笑顔を前にしたら、腹一杯飯を食った時のように胸の辺りがぽかぽかして、自然と笑みがこぼれてしまうのだった。それは、少し不思議な気分だった。
 侑が、自分名前は? と少女に聞くので、少女はナマエ、と名乗る。すると侑が、俺は侑や、と言うので、何を張り合っているのか自分でもよく分からなかったが、俺は治や! と声を重ねた。
 この後、三人でバレーボールを使って遊んだ。侑が、狐姿で尻尾や背中を使って器用にボールをリフティングするとナマエが手を叩いて喜んだ。それで嬉しくなったのか、侑は何度もその芸をナマエに見せていた。お前何回それやんねん、と思いながら、ナマエと並んでバレーボールが何度も宙に跳ねるのを眺めていた。
 一応、ナマエに今日のことは口止めしておこう。
 そう思った。それは治達のためでもあるし、ナマエのためでもあった。
「こいつが喋れる狐っちゅうんは――」
「うん、内緒でしょ。人になれることも内緒」
 ボールをヘディングした侑を見ながら少女が言った。その横顔はどこか大人びて見えた。夢見がちな少女だと思っていたが、実はそうではないのかもしれない。
 ナマエは治に向き直るとニッと笑う。
「私消されたくないもん」
「は?」
「大丈夫! 喋らないから!」
 先程までテレビで喋る動物をよく見ると言っていたくせに、そんな物騒な言葉をどこで覚えてきたのか。笑顔を浮かべてそんな物騒な言葉を言って、本当にその言葉の意味を理解しているのか。どこから突っ込んでいいのか分からないけど、気がついたら、ぷっと吹き出していた。
「おもろいな」
「何が?」
「そういうとこがや」
 ナマエは不思議そうに首を傾げたが、治に釣られるように笑った。
「お前ら何自分らだけで楽しんどんねん! 俺も混ぜろ!」
 狐の侑が飛び掛かってくる。ナマエの、きゃー、という黄色い声が響く。いつの間にか追いかけっこをしており、笑顔がそこら中に転がっていた。
 なんで俺らは狐になるんやろ。たまにそう考えてしまう。だけど、例え、狐になっても、こうして笑って生きていけるなら、それでええか、と片割れの狐と少女と走り回りながら大笑いして思うのだった。
「ほな、またな」
「またね」
 日が沈む前に、ナマエと別れた。この時は、明日も公園に行けば彼女に会えると思っていた。しかし、彼女とはこれっきりだった。

 それから十年近くが経ち、少女の顔も名前も彼女との出来事も忘れた頃。同じように、少女も、誰にも言わないを実践しているうちにアニメから飛び出したような不思議な記憶を忘れた頃。
 腹が減って、人間姿でいられるほど気張れなかった治はいつもサボっている場所である、体育館横に設置されたベンチで狐に戻り丸まっていた。ここは狐姿で休憩するにはうってつけの場所なのだ。人の行き来は体育館の出口がある方にしかない。そこからこのベンチは自動販売機に隠れて見えないのだ。
 ふぅ、と力の抜けた息を吐いて、そろそろ四限目も終わる頃だろうか、と綿飴のような雲が横に伸びた青空を眺める。すると、体育館の出口の方から足音が聞こえてきた。その足音には聞き覚えがあった。最近、侑によく絡まれている女子生徒のものだ。その足音はこちらに向かってくる。いつもであれば、すぐに人に戻っていた。この街では、どこぞのアホが不用意に狐姿でうろついているおかげか、狐がいること自体はあまり珍しくないようなのだが、校内に猫が歩いていても、女子の目を引いてしまうのだ。狐であってもそれは同じだろう。余計な注目を浴びることはめんどくさかった。今、白煙を上げれば、こちらに近づいてくる女子生徒に気づかれることなく人の姿に戻れる。
 だけど、狐姿のままでいてしまった。どうしてだろうか。
 一度侑とその女子生徒の会話を聞いたことがあった。
「俺の可愛い狐さんボディを抱かせたろか?」
「そ、そんな大きな声で狐なんて言ってもいいの?」
「大丈夫やろ。皆聞いてるようで聞いてへんからな」
 ケラケラ笑う侑にひそひそ声で話す彼女はどうやら、侑が狐であると知っているようだった。あいつ、とうとう普通の人間に狐であることがバレたんか、と頭が痛かったのだが、しばらく彼らをぼんやりと眺めてしまった。もしかしたら、彼らが楽しそうに秘密を共有する姿が、少し、羨ましかったのかもしれない。だからだろうか、狐姿で丸まって、彼女と劇的でもない邂逅を果たしたのだった。
 名前の知らない彼女は反応がいいので、ついからかってしまった。慌てたり、拗ねたり、忙しい子だったが、きっと、こんな子が隣におったら毎日笑顔でいられるんやろな。そんなことを思った。
 すると、複数の足音が体育館の入り口の方から聞こえてきた。治がぽんと音を鳴らすが、その音に被せるように、彼女の友人と思われる女子生徒から声がかかった。
「お待たせー、ナマエちゃん」
 この子、ナマエちゃんっていうんや。なんや、懐かしい名前やな。
 どうしてそんなことを思ったのか、分からなかった。それに、すぐに思考は別の方へ向かった。友人達から声がかかると同時に治に背中を向けたナマエが慌てた様子でいたことに興味を引かれたからだ。もしかしたら、ナマエは先程治が鳴らしたぽんという音が聞こえず、後ろにいる治はまだ狐姿で丸まっていると思っているのかもしれない。そんな治を近づいてくる友人たちに見られまいと守ろうとしてくれているのかもしれない。生徒達に狐姿を見られてしまうと、めんどくさいことに変わりはないのだが、この街では狐が馴染んでいるため、狐姿を見られたからといって、特に害があるとも思えない。つまり、今治が狐姿であっても、ナマエの友人達にその姿を見られてもかまわないのだ。しかし、ナマエはそのことを知らないのだろう。こちらに向かってくる友人達に向かって、静止のポーズを取ったり、治を隠すように両手を広げたり、咄嗟のことで声が出てこない様子だったが、両手だけは元気に動かしていた。治はナマエのその姿が愉快で、何も言わずに眺めていた。すると、自動販売機の向こうから姿を現したナマエの友人が、あ、治くん! と呼ぶ。治が狐姿でいると思い込んでいるのだろうナマエは、友人が治が狐だと知っていたのか、と思ったのか、驚愕した顔で振り返るので、吹き出さずにはいられなかった。
「慌てすぎやろ。やっぱおもろいな」
 人に戻っていたのなら早く言ってよ、と言わんばかりにナマエは目に見えてふくれっ面をするので、また笑ってしまう。
 ちょっと意地悪かもしれないが、狐がこの街では珍しくないことを彼女には黙っていようと思った。きっと、その方が面白いに違いない。
 ナマエが不貞腐れた様子で友人と共に去ろうとするので、治は、その背中に、またな、と手を振った。
 きっと、この子にまた会える、と思ったのだ。もう忘れたいつかのあの日とは違って。
 でも、侑が気に入っている子だ。手を出したらめんどくさいことになりかねない。
 分かっていたけど、また、会いたかった。
 ナマエが去った後、ナマエに向けた手を力なく下ろした。見上げた空はいつのまにか綿飴をどこかに吹き飛ばしていた。
 それは、空の青さが目に染みる五月のこと。