空気がゆらゆらと揺れて見える外は、きっと、出た瞬間に汗ばむほど暑いのだろう。今日みたいな日にプールに行けば、気持ちが良さそうだ。
それにも関わらず、ナマエは今日という日を蝉の声よりも紙の擦れる音の方が響く図書館で過ごしていた。夏休みに入ってからは、毎日ここで勉強しているのだ。なんせ受験生なのだから。
気分転換もこの辺にしておかなければならない。古紙の匂いに包まれながら、ぼーっと窓の外を見る時間すら、許されないのであった。
夕食に間に合うように図書館を出る頃には、青空はすっかり分厚い雲の後ろに隠れてしまっていた。それでも外が明るいのはきっと夕方になっても太陽が雲の後ろで張り切って仕事をしているからだろう。たまには休んでくれてもいいのに。
涼しかった空間を出たばかりの体を生ぬるい風が包み込んだ。
駅へと向かっていたナマエはびくりと肩をあげる。首筋に何か重量感のある雫が落ちてきたからだ。もしかして、鳥に爆撃でもされたのだろうか。確認したくはないが、確認しなければと首筋に手を伸ばせば、予想に反してさらりとした感覚。あれ? と疑問に思い液体を触った手を確認する頃には、それが鳥による爆撃ではないことが体全体を打ちつけてきた無数の水滴によって判明した。
重みを感じるほどの大粒の雨は瞬く間にアスファルトの色を変えていく。
傘を持たぬナマエは手提げ袋に入れた参考書が濡れぬように手提げ袋を胸に抱きかかえて走った。
駅までの道のりにコンビニがないことは分かっている。住宅しか並ばない道なのだ。もう完全に濡れ鼠のナマエであったが、水溜りを踏みながら懸命に未だ遠い駅に向かって走った。
きっと。その道中に彼とぶつかってしまったのは下を向いて走っていたからだ。雨のせいで張り付く前髪が視界を狭めていたせいもあるかもしれない。
「いたっ!」
鼻に残る衝撃を手で押さえながら見上げれば、久しぶりに見る顔。
「大丈夫?」
彼も傘を忘れてしまったのだろうか。真ん中で分けた前髪を顔の横にへばりつけている。
「大丈夫。角名くんも大丈夫?」
「俺は大丈夫だよ」
穏やかな笑顔を滴る雫が艶やかに彩った。
時間ある? と角名に聞かれ頷けば、こっち、と言われて腕を捕まれ向かった先は駅とは反対方向。え? どこいくの? と広い背中に問いかけたが、返事はない。雨が地を叩く音量の方がナマエの声量を上回ってしまったようだ。でも、もしかしたら聞こえていたかもしれない。ナマエが口を開いた瞬間に返事が聞けるかもと思うと、もう一度問うことは躊躇われた。しかし、いつまで経っても返事が返ってこないところを見ると、やっぱり角名には聞こえていなかったようだ。もう一度聞こうと思った瞬間、角名の目指していた場所はここだということが分かった。
「どうせすぐ止むだろうから。ここで雨宿りしよ」
ブランコしかない小さな公園。その端にある屋根に守られたベンチには誰もいなかった。
屋根の下に入ったナマエが、空を見上げると、少し先には夏の眩い太陽が黄色に染める空が見えた。確かにもうすぐ雨は止みそうだ。抱えた参考書をぐしょぐしょにしてまで遠い駅に向かうより、ここで雨を凌いだ方がいいだろう。手提げ袋にまで雨が及んでいないことにホッとしたナマエは後ろでベンチに座る角名の隣に腰掛けた。
「ありがとう、角名くん」
「別に」
濡れた前髪をかき上げた角名は素っ気ない物言いをしたが、角名の細められた瞳は柔らかかった。
走ったせいで暫くナマエの心臓は強く鼓動を打っていたが、角名と肩を並べていると、鼓動の音は体の奥深くに沈んでいった。
外を歩く人は誰もいない。まるで世界にはナマエと角名の二人っきりしかいないかのような錯覚に陥る。
公園の土の上では水溜りが広がっており、滝のように降りつける雨が無数の波紋を作っていた。先程まで生ぬるかった空気は冷たい風に吹かれていき、汗は冷やされていく。
図書館を出た時に、たまには休んでくれたらいいのに、と太陽に願ってしまったナマエは少し後悔しながら、泡立ち始めた腕をさすった。
「ミョウジさんはこの辺に住んでんの?」
「ううん、住んでるのは隣の駅。今日はこの近くの図書館で勉強してたの」
「あぁ……受験勉強?」
うん、と言ったナマエの声は寒さで少し震えてしまった。
「角名くんは?」
「俺は部活の帰り。寮この辺なんだよね」
「へー知らなかった」
やっぱり声が震えてしまう。雨雲が過ぎ去るまでの我慢だ。両腕を抱えながら角名を見上げると、じっと見つめ返された。いつ見ても綺麗な黄色い瞳。どうしたの? と言おうと思った瞬間、目の前で白煙が立つ。
「え? 角名くん?」
煙の中からは濡れそぼった狐が現れる。随分と貧相に見えるのはきっと濡れた毛が元気を無くしてしまい重く体に張り付いているからだろう。無防備な角名の姿にナマエは、笑いそうになってしまったが、笑ったら可哀想だと思い、緩む口に力を込めた。
角名も自分の体毛が多分に水分を含んでいることを感じたのだろう。濡れてしまった犬がやるように体をブルブルと震わせ、水分を撒き散らす。隣に座っていたナマエが顔に飛んでくる水滴を手の平でガードしていると、動きを止めた角名は、しまったと言うような顔をした。
「ごめん、わざとじゃない」
「分かってるから大丈夫だよ」
気にしないで、と思いながら微笑みかけると、すっかりふさふさに戻った角名は、先の尖った耳の先をふにゃりと折り曲げた。
そういえば、以前も狐姿の角名はこういう仕草をしていた。これは何を示す仕草なのだろう。
ナマエが疑問に思っていると腕の中に飛び込んできた狐。思わずキャッチすると、じんわりと熱が腕を伝っていく。
あったかいなぁ。湯たんぽみたい。
優しい温もりがナマエの体を温める。
もしかして、角名は湯たんぽになる為に狐になってくれたのだろうか。
きっと、そう尋ねれば、角名は、別に、と返すだろう。だから、ナマエは聞かなかった。
膝の上でお座りをする角名を腕に抱えるのは、校舎裏で角名と初めて会った日以来だ。久しぶりだなぁ、と手のひらサイズの小さな頭を眺めて、あっと、思い出す。
「そういえば角名くん、この間侑くんのことバレー部に言いつけたでしょ」
「なんの話?」
「狐姿を人に見られてもいいってやつ」
「あぁ……別に口止めされてないし」
いけしゃあしゃあと答える角名に、もー、と溢してしまったナマエはちょっとした仕返しのつもりで、角名の両頬をむにっと摘んでやった。思いの外、角名の頬が柔かったので、そのまま暫くむにむにとマッサージを繰り返す。
角名のクッションのような頬の感触を堪能しながら、ナマエは夏休みに入る少し前に起こった事件のことを思い出していた。
角名が、ナマエから聞いた”狐姿を人に見られてもいい”という侑の発言をバレー部に報告したことでナマエは偉い目に遭ってしまったのだ。知らない人がいっぱいいるバレー部員の中に座らされ、侑が説教をされている姿を見守らされ、侑を慰めようとすれば北に怒られた。侑をただ甘やかしたナマエにも悪いところはあったかもしれないが。
北のあの身が凍るような冷たい瞳はもう二度と見たくない。
「あの時の侑、面白かったよね」
叱られている時の侑を思い出す。
確かに、狐姿でブルブル震え、力なくへたり込み、背中を丸めている侑の姿は愛らしかった。でも。
「自分が原因で侑くんがあんな目に遭ったのかと思うとそんなこと言えないよ」
角名のほっぺを軽く引っ張る。角名が気にする素振りを見せないので、そのままぐるぐる回してみた。なされるがままの角名は口を開く。
「ミョウジさんはほんと侑に揶揄われ過ぎ」
「そうかなぁ」
「あいつ、最初は本気でビビってたみたいだけど、絶対途中から遊んでたよ」
「そうなの?」
途中と言うのはいつからだろうか。常に、瞳に涙を浮かべてナマエを見上げていた侑。
そういえば、ナマエの胸に飛び込もうとした侑が北に首根っこを掴まれ短い手足をバタバタさせていた姿は可愛かった。すごい必死な様子で、ナマエにはちっとも遊んでいたようには見えなかったのだが。
角名のほっぺをいじることに飽きたので、今度は顎の下を撫でてみる。撫でやすいように首を伸ばす角名は猫と一緒でここを撫でられるのが好きなのだろうか。
顔を上げてナマエと目を合わせた角名は鋭く瞳を細めた。
あれ? やっぱり撫でられるの嫌だったのかな?
「ミョウジさんはもっと危機感持ちなよ」
「危機感って……」
顎の下を撫でたことへの文句ではなかったことに安心する。しかし、危機感とはまた、急な話だ。ナマエは一度、危機感、と言われた言葉を頭の中で反芻してみたが、ピンとこなかった。
「だって、君たちこーんなに可愛いんだよ。危機感なんて感じないよ」
見上げる角名の両頬を摘んでやると、菱形になる顔に、ナマエはつい頬が緩んでしまう。
「可愛い」
「ミョウジさん、自分が今何してるかちゃんと分かってる?」
「あ、ごめん。嫌だった?」
「そうじゃなくて……」
慌てて手を離せば、俯いた角名の耳の先が折れ曲がった。また、この仕草。
困った時にでるのかなぁ。
俯いてしまった角名の表情は見えなかった。
雨の音が弱まった気がして、空を見上げれば、黄昏の空が近づいてきていた。雨が止むのも時間の問題だ。もう温かな日差しを必要としないナマエは憂鬱になる。きっと神様は意地悪だから、楽しい時間だけ早く針を進めてしまうのだろう。
「ため息ついてどうしたの?」
下から聞こえてきた声に視線を落とすと、狐が心配そうに眉尻を下げていた。
「え? ため息ついてた?」
「俺の頭の上で思いっきり」
「ごめん……最近受験勉強で夜寝るの遅くて。眠いなぁって思って……」
言葉を口にすると、睡魔が欠伸をさせにやってくる。手で口を押さえて、思いっきり欠伸をしてやると、本当に眠くなってきて目を閉じてしまった。腕の中には、人肌の湯たんぽ。このまま寝ちゃいそう。
まどろみに向かって船を漕ごうとしたら、ほっぺに冷たい感覚があたる。ぱちりと目を開けたら目の前には切長の目。黄色い光彩の中にある黒点がキュッと絞られるのを確認すると、瞳は横に逃げてしまった。
なんだ、角名くんの鼻か。
頬に当たった冷たい感覚の正体を知る。
「寝たら風邪ひくよ」
ナマエの肩に前足をかけていた角名は、ナマエの耳元で囁いた。
「そうだね。起こしてくれてありがとう」
ナマエが礼を言うと、角名はナマエの膝に座り込み、ぷいっとナマエから顔を逸らして、耳の先に小さな三角を作った。
あ、またこの仕草。心配している時に出る仕草なのかな。
角名の仕草の正体はよく分からぬが、心配してくれてありがとう、と思いながら耳の間を撫でてあげると、耳の先に作られていた三角はどんどん大きくなっていった。
「雨、止んだみたいだよ」
俯く角名に言われて、顔を上げると、目が眩むほどの太陽がこんにちは。地平線付近の空は赤く染まっていたが、頭上に伸びる空はまだまだ青く、日が暮れるには随分とまだ時間があるような気がした。
「ほんとだ。虹あるかな?」
角名がぴょんと膝から飛び降りて、人の姿に戻ったので、ナマエは立ち上がり虹を探す。
「ないみたいだね」
隣で角名が眉を落として笑った。
「そういえばさ、ミョウジさん。一学期の間、校舎裏に来てくれなかったよね」
「あ、そうだったね。ごめんね」
「忙しいの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
普段、昼休みは友人と過ごすことが普通なので、校舎裏に向かうという発想になかなかなれなかったのだ。
「冬は流石にあそこで昼寝なんてしてないから」
顔を背けた角名に、寒くなる前に遊びにいくよ、と言えば、別に待ってたわけじゃないけどミョウジさんがいてくれるのといてくれないのとじゃ、気の張り具合が変わってくるんだよ、と返ってくる。
「熟睡しちゃって狐になっちゃうと大変だもんね」
ナマエが狐の彼らのためにしてやれることなんて何もない。それは侑の件で北に怒られた時に感じたことだ。でも、見張りぐらいなら任せてよ。そんな気持ちでいたら、じゃ、帰ろ、と言って、当然のように角名は駅の方向へと向かう。
「寮もそっち方面なの?」
「え、まぁ……」
「でも、ぶつかる前、駅とは反対方面に向かって歩いてなかった?」
「いいから、行くよ」
角名はここに来た時みたいにナマエの腕を掴み、ナマエの方を全く振り返らずにぐんぐんと進んでいく。ちょっと駆け足気味にナマエが歩き出すと、すぐにペースを落としてくれる彼はもしかしたら、駅まで送ってくれるつもりなのかもしれない。そんなことを聞いたら、だから違うって言ってるでしょ、と返ってくるだろうから、ナマエはあえて聞かなかった。
もうすぐ沈む太陽が、本日最後の仕事と言わんばかりに、ナマエたちが歩く濡れた地面を蒸していく。夏はまだ、始まったばかりだ。