向かい合うように並べられた長椅子に、十人ほどの男子バレー部員達は膝を突き合わせて座っていた。対面する彼らの間にいるのはお座りをする黄金の小さな背中。黄金の狐の正面には腕を組んで仁王立ちする北がいる。
 せめてナマエちゃんのお膝の上に、という侑の要望は北の視線だけで却下され、ナマエは侑から一番近い席に座っていた。足をしっかりと閉じ、膝の上に両手を乗せて、狭い肩身をすぼめる。ナマエの右隣には治。左隣には角名。部屋の扉付近でもたもたしていたナマエに、角名が、こっち来なよ、と声をかけてくれたのだ。
 知ってる人がいて少し安心かなと思ったけど、割とそうでもない。
 治は今日もおもろいことしてんな、とニヤリとナマエを見たきり、眠そうに侑を見下ろしている。最初はナマエに向かって穏やかに微笑んでくれた角名も、今は不機嫌そうに組んだ足の上で頬杖を付き侑を見下ろしていた。他の部員たちも、ナマエがロッカールームに入った時は、不思議そうにナマエを見ていたが、今は、はよ終わってくれと言わんばかりに白けた顔で侑を眺めている。
 静寂を支配するのはピリついた空気。帰りたい。
 それでも、ナマエが手を挙げないのは目の前にもっと帰りたいであろう人物が体を震わせながらも懸命に耐えていたからだ。
 流石に命の危機は訪れないのだろうけど、その辺の大人よりも体の大きな人たちに囲まれ、吹雪のような冷たい視線を向けられ、トドメには北の仁王立ちだ。部外者の一人、二人を呼びたい侑の気持ちが、ナマエにはよーく分かってしまったのだ。
 というか、この人たち皆侑くんが狐って知ってるんだ。もしかしたら、皆、狐なのかな?
 そんなナマエの疑問は、緊迫したこの空気の中で口にできるわけがない。判決を待つ罪人のように怯えきった様子の侑を固唾を呑んで見守る。
 これから何が始まるのだろうか。
 北は落ち着いた口調で話し始めた。
「なにも、でけへんことをやれ、言うとるわけやないねん。分かるやろ?」
「分かります」
 北の穏やか過ぎる言葉は逆に恐怖を煽る。でも、素直に答える狐侑はちょっと可愛い。いつも上に向かってピンと伸ばしている耳は前髪のように顔に張り付き、ふさふさの尻尾は床に横たわっていた。
 頬が緩みそうになってしまったナマエだったが、明らかに笑っていい雰囲気ではないので、表情筋に力を込め無表情を装う。
「くしゃみで狐に戻ってまうって言うならしゃーないとは思ってんねん。勝手に狐に戻ってまう感覚は俺には分からんけどな」
「はい」
 あぁ、その話か、とナマエが納得していると、侑は思い出したかのように、俯いていた顔を上げた。
「でもさっき転んだとき、狐には戻らんかったですよ!」
 当たり前や、とでも言うような北の鋭い視線に侑の体は固まった。
「す、すんません。どうぞ話を続けてください」
 首を垂れた侑に北は続けた。
「侑が意図せず狐に戻ってまうのは、しゃーないと思っとる。でも、人前で狐に戻るたびに俺ら全員が大変な思いしてるんも分かるやろ?」
「分かります」
「ほな、分かるよな。人に見られても別に構わんって思っとることがあかんっていうことを」
「分かります」
 北と侑の会話を聞いて、ナマエはドキッとする。人に見られても構わないという話を侑にされたのはナマエだ。そして、侑がそう言っていたとナマエは角名に話した。もちろん、侑を貶めようとして、その話を角名に話したわけではない。笑い話の一つとして、角名に話したのだ。
 侑が他のバレー部員にそう言ったという可能性はある。でも、もしかしたら、と思ってナマエは角名に視線をやる。ナマエの視線に気づいたのか。角名もナマエを見た。
 うわぁ……
 ナマエは悟る。
 やっぱり私が情報源だった……
 角名の切長の目は楽しそうに細められたのだった。
 ごめん! ごめん、侑くん!
 いつかはこういう日が来たかもしれないが、今この状況を作った責任の一端はナマエにある。ナマエは心許ない侑の背中に謝罪の念を送った。
 侑は顔を上げることなく言う。
「今まで迷惑かけてすんませんでした。これからはちゃんと気引き締めて人間やります」
 少し投げやりのように聞こえる口調であったが、侑が言い終えたことでこの議題もここで終わりなのだろう。振り向いた侑は、ナマエを見つめ、やり切ったで、とでも言うように涙で瞳を揺らした。
「ナマエちゃーんっ!」
 後ろ足を蹴った侑はナマエの胸へと飛び込もうとする。ナマエも自分のせいでこうなってしまった侑が哀れで、両手を広げて侑を迎えようとした。しかし、侑の前足はナマエの胸に届く直前で止まってしまった。
「なにしとんねん。失礼やろ」
 そう言った北に侑は首根っこを掴まれてしまったからだ。
「私は全然大丈夫だよ」
「さすがナマエちゃんやー」
 侑は首根っこを掴まれ宙ぶらりんになったまま手足をばたつかせる。
「そのでかい耳は飾りか?」
 その声色も。表情も。色は無く。絶対零度の空気が流れ、ばたついていた小さな手足はピタリと止まった。
「いえ、飾りとちゃいます」
 後ろで自分を掴む北と絶対に目を合わせまいとするように、そろりと侑の瞳が下を向く。
「ほな、俺がさっき言うたことちゃんと聞こえたよな?」
「はい、ちゃんと聞こえてました」
 北はため息を吐き、ナマエに向き直った。
「侑の話はこれで終わりやから。ミョウジさんはもう帰ってええよ。ほんま悪かったな」
 手を下ろした北に未だ首根っこを掴まれ左右にブラブラ揺れている侑をチラリと見ると、丸い瞳が、帰らんとって、とナマエの後ろ髪を引っ張っていた。帰りづらい。
 でも、私がこんなところにいても迷惑だよね。
 ごめんね、と思いながら侑に苦笑すると、絶望した様子で眉を落とした侑は手足で宙を漕ぎ出す。
 そんな顔しないで、侑くん。私だって傷ついた侑くんのそばにいてあげたいよ。
 そんなナマエと侑の無言の会話を北が遮った。
「ミョウジさんのそういう優しいところ。俺は好きやけど――」
 北に向き直ったナマエはぼうっと北を見てしまう。瞳を真っ直ぐにこちらに向けてくる北の表情は読めない。それは恐ろしくも見えるが、無機物のような美しさも感じたからだ。透けるような白銀の髪がそう思わせるのか。それとも、陶器のような滑らかな肌がそう思わせるのか。
 まるで人形のように美しい北にナマエがごくりと生唾を飲むと、ナマエをじっと見つめる北は口を開いた。
「優しさを向けるんと、甘やかすんは別もんやで」
 眉目秀麗な男の子から吐かれた息にナマエの体は氷漬けにされてしまった。
「北さん! 今のはないで! ナマエちゃん、可哀想やわ!」
「元はと言えば、ミョウジさんを身内話にまで引っ張ってきた侑のせいでこないなことになってんやろ。ミョウジさんの優しさに付け込むんもいい加減にしい」
 同じく氷漬けにされた侑だった。
 ふぅと、疲れたように息を吐いた北は、ももええやろ、と言って侑をポイと離す。離されたと同時に侑は人の姿に戻った。
 侑が人の姿に戻ると、なんとなくもう大丈夫なんだろうなとナマエは安心する。侑の表情も狐の時に見せていた、いかにも小動物ですと訴えるかのような幼気な表情とは違い、バツの悪そうな高校生のものになっていた。
「ナマエちゃん、沢山困らせてごめんな。ちょっと調子に乗りすぎたわ」
「ううん、私の方こそ、いろいろごめんね」
 侑がこんな目に遭っているのは自分のせいだ、とは言えなかった。
「でも、ナマエちゃんがここまできてくれたんはほんま嬉しかったから。ありがとーな」
 片手をあげて苦々しい笑みを浮かべる侑に、私は何もしてないんだけど、と思いながらも、手を振り返す。そして、バレー部の皆さんに頭を下げ、治と角名がひらひらと手を振ってくれているのを見て少し安心し、ロッカールームを出た。
 ロッカールームを出ると、後ろから北がついて来ていることに気付く。北を見ると、先程言われた正しすぎる論を思い起こさせられた。
 正直、骨身に染みた。確かに北の言う通りだと思う。侑に言われてここまでついてきてしまったが、それは優しさでも何でもなかったのだろう。結局侑のために何もできなかったのだし、ナマエがいるせいで度々話を長引かせ、バレー部の人たちに迷惑をかけただけだったのかもしれない。
 一番迷惑をかけたであろう北にも謝らなければ。ナマエはそう思い、スカートを握った拳に力を込め、強張る喉に新鮮な空気を通した時だった。
「そんな顔させたかったんとちゃうねん。ごめんな」
「え……ううん、大丈夫……北くんの言ったことは正しいから……」
 まさか逆に北から謝られるとは思わず拍子抜けする。
「いや、さっきのはちょっと……ムキになってもうたんかもしらん」
 ナマエから視線を逸らした北は窓の外へ視線をやりながら頬を掻く。
「え? ムキに? なんで?」
「いや、なんでもないよ」
 ナマエに向き直った北は朗らかな笑みを向けた。あ、いつもの北くんだ、と思うと、なんだか泣きそうになってしまう。
「とにかく今日はうちの部員が迷惑かけてすまんかった。さっきはああ言ってしもたけど、これからもあいつらと仲ようしたってや。あいつらにとってミョウジさんは……なんて言うんやろな、特別……みたいやし」
 確かにナマエは特別なのかもしれない。侑が真っ先にナマエを頼ってきたところを鑑みると、彼らを狐と知ってる人間はナマエ以外そうそういないのであろうから。
 しかし、今日もそうであったように、きっとナマエは彼らに何もしてやることはできない。
 ナマエはそのことをきちんと理解していたが、うん、とだけ答えた。
 すると、北が、でも、と言って、途端に難しい顔をするのでナマエは身構える。
 釘を刺されるのだろうか。優しくするのと甘やかすのは違うのだと。
 チラリと北を見上げると、北は力を抜くかのように表情を緩めた。ナマエは一瞬目を細める。雲の切れ目から柔らかな日差しが差し込んできたからだ。眩い光に目が慣れてくるのに合わせゆっくりと目を開けると、白銀の髪の上で黄色い光がキラキラと反射していた。
 輪郭を窓から差し込む光に預けた北は、眉を寄せ慈しむような目でナマエを見下ろす。
「あいつらに関して困ったことがあったら今度はちゃんと、俺に相談して欲しい」
「うん……ありがとう……」
 そういえば、朝、相談に乗ると言ってくれた北の申し出を断ったのだった。
 いつも優しい北であったが、今見せてくれた北の優しさは何か特別なものを感じた。きっと、釘を刺されるのだろうかという大きな不安が去った後だったからかもしれない。北が優しいのはいつものことなのだから。
「じゃあ、私は戻るね」
 ぎこちなく手を上げると、北は困ったような顔をして微笑む。ぐるりと回って北に背を向けたナマエは、早くこの場を去りたかったのに、足は重たく。一度振り返ると、まだこちらを見ていた北に、早よ行き、と穏やかに言われ、頷き、今度こそ真っ直ぐ前を向いて教室に向かって歩き始めた。真っ直ぐ歩き、角を曲がってロッカールームが見えなくなる直前になると、後ろから扉の開く音がする。振り返ると、ロッカールームに入っていく北の丸い後頭部が見えた。