夏休みに入ったばかりのことだった。三日に渡る他校との合同合宿が行われた。
今日は初日だったが、練習試合続きだったからか、夕飯時ともなるとくたくただ。運動量は日ごろの練習と変わらない筈なのだが、常に考えてプレイすることを求められ、脳の疲労が半端なかった。
やっと終わった。半ばほっとしながら、仲間たちと食堂へ向かう。
食堂ではすでに食事がテーブルに並んでいた。腹を空かせるようないい匂いが立ち込めている。
ナマエさんはどこに座るのだろうか。
腹をさすりながら、他校の選手で普段よりも込み合っている食堂を見渡す。ナマエの隣や正面といった場所は無理でも、せめて斜め前といったような会話に入れる場所に座りたかった。
学校ごとに座っていくから、今、目の前にしている長机のどこかにナマエも座るはずなのだが、その姿は見えない。
マネージャーは食事の準備があるからといって、ナマエも他校のマネージャーたちと練習が終わる前に体育館を出ていった。
ひょっとしたら、マネージャーはマネージャーだけで集まって食事をとるのだろうか。普段、男連中に囲まれているだけあって、女子だけで話したい事もあるのかもしれない。
そう思い、他校のマネージャーを見てみたが、他校のマネージャーも学校ごとのテーブルで各々座っていた。
それならいずれナマエも白鳥沢のテーブルに来るはずだろう。
続々とテーブルが埋まっていく。
立っている人間も減っていき、とうとう白鳥沢のテーブルで、空いている席は二つになってしまった。五色とナマエの分だ。残念ながら、結構離れている。
「五色、何してんだよ。早く座れよ」
白布が迷惑そうにこちらを見上げた。
「いや、でも……」
ここまでくれば、もうナマエは食堂にいないのだということが分かった。
どこにいるのだろうか。普段、誰かに迷惑をかけるような人ではない。時間にはいつも厳格で、仕事もテキパキこなす人だ。
言いようのない不安が足元から登ってくる。
「俺、手洗ってきます!」
「さっき洗っただろ」
呆れたように言う白布を、まぁ、まぁと宥めたのは天童だった。
「賢二郎もそう言わずに。工、好きなだけ洗ってきなよ」
「ありがとうございます! 先に召し上がっててください!」
当たり前だと言わんばかりに、白布はもう手を合わせていたが、天童は手をヒラヒラ振ってくれた。五色は先輩方に一礼し、食堂を後にした。
ナマエの行き先は分からなかったが、体育館からここに来るまでの道のりにいなかったのは確かだ。廊下を体育館とは反対方向へ歩いて行く。
曇っているせいか、明かりの乏しい暗がりの廊下は日常とは別世界に見えた。進んでいくにつれ食堂の喧噪が離れていき、自分の足音だけが静かに響く。
やがて先ほど手を洗った場所とは別の手洗い場に行きついた。そこに黒い人影がぽつりと立っており、一瞬ドキッとしたが、雲の割れ目から姿を現した月がその正体を照らしてくれた。
「ナマエさん……」
「あ、五色くん? どうしたの?」
そういって微笑んだナマエが目元を拭った。しかも、月明かりに照らされたその白い頬は何度も強く擦られたのか赤みを帯びている。こんな姿を目の当たりにして、何も気づけないほど鈍くはなかった。
「どうして泣いて……」
「あ、あぁ……なんでもないよ」
ナマエは両手を振りいつものように明るく振舞ったが、余計に痛々しく見えた。
「そんなわけないでしょう。目だって真っ赤だし、頬だって……痛そうです……」
腫れているようにも見えるそこに触れると親指にじんわりと熱が伝わってきた。
ナマエは首を傾げるようにして、五色の指から離れる。
自然とした動作だったが、距離を置かれたのは明白だった。
自分はこの人の頬に気安く触れられる立場にないのだと思い知ったが、目の前のことを見て見ぬ振りもできなかった。
「何があったんですか?」
「え? いや、本当になんでもないよ」
ナマエが笑いながら誤魔化し、五色は先程ナマエに触れ、そして遠ざけられた手に拳を握った。
「どうして隠すんですか!」
「隠すっていっても……本当になんでもないから……」
「牛島さんでもそう答えてましたか?」
闇夜に誘われ、低い声が出た。
ナマエと牛島が特別な関係にないことは知っている。しかし、無力な後輩とは異なり、牛島のように頼れる人物にならナマエもその心の内を吐露していたかもしれない。
ギリギリと奥歯を噛み締めていたら、そんな五色の雰囲気にナマエは気づく様子もなく「え? 牛島くん?」と軽く言って見せた。
「まぁ、そうだね、牛島くんにも――」
「そうなわけないでしょ!」
叫べば、ナマエの肩がびくっと揺れる。
違う。怖がらせたいわけではないのだ。
落ち着こうと思い、一度、深呼吸をした。すると、あらぶっていた感情は抑えられたが、今までひた隠しにしていたはずの思いはさらに溢れ出てきた。
「たしかに俺にできることは少ないかもしれません」
自分で言ってて情けなくなる。
「でも、あなたが一人で泣いてたら心配になるし、助けたいです。どうか俺を頼ってください。あなたの力にならせてください……」
ナマエを怖がらせないように、今度は両手でそっと肩をつかんだ。自分よりはるかに薄い肩に少し戸惑ったが、離すことはしなかった。
「なんで泣いてたんですか?」
覗き込むようにナマエの顔を見下ろすと、気まずそうに視線を逸らされた。だけどここまで来て逃がす気もなかった。額と額を触れない距離のぎりぎりまで近づけ、ナマエさん、と促す。ここまでが、ただの後輩でしかない五色にできる限界だった。
暗闇の中で向かい合っている二人を月の淡い光が包み込む。しかし、雲が流れれば、その明かりはまた絞られていき、暗闇がまた二人を隠す。
これで拒絶されたら、もう諦めよう。そう決意し、再び好きな人の名前を呼ぶと、その声はひどくか細いものになった。まるで迷子の子どものようだった。
普段とはずいぶんと違う後輩の様子にナマエも驚いたらしく、背けていた顔を上げた。そうしてようやく視線が交わった。
「ね、ナマエさん……話してよ……」
かすれた声でそう言うと、ナマエも観念したのか、ようやく口を開いた。
「その、ね……本当に大したことじゃないんだけど……」
「それはあなたが決めることではありません」
「あ、うん……そうかもしれないけど……」
ナマエが苦笑すると、細められた目から押し出されるように、目に張られていた膜が厚みを帯びる。
やっぱり、泣いているじゃないか。そのくせ笑顔を作って。
胸が引き裂かれそうになりながらも、ナマエの涙を拭うのを我慢した。
「そのね。さっきまでみんなと夜ご飯を作ってたんだけど……」
「はい」
みんなというのは他校のマネージャーのことだろう。他校もマネージャーは一人か二人くらいしかおらず、ナマエを除けば全員で五人ほどだった。ナマエのように穏やかそうな子もいれば、気の強そうな子もいた。彼女らのことを一人一人思い起こしながら、ナマエの次の言葉を待つ。
「それで、それぞれが分担して野菜を切ってて……」
「もしかして、その時に怪我を!?」
「あ、いや、そんなんじゃなくて」
ナマエの言葉に、跳ねた心臓が元に戻る。ナマエも一瞬だけ笑顔を見せたが、月が雲に隠れてしまうとまたその笑顔が陰った。
ひょっとして、その時、他のマネージャーたちと何かあったのだろうか。
女子同士のことはよく分からない。それに関して言えば、五色はなんの役にも立たないだろう。きっと、あの牛島さえも。だからナマエは今まで言い渋っていたのだろうか。だけど聞いてあげるだけのことはしてあげたかった。
「続けて、ナマエさん」
「あ、うん……」
再び月光が差し、ナマエの濡れたまつ毛を照らす。ナマエが少し瞼を落としただけで、一緒に揺れたまつ毛は星のように輝いた。
「それで、私が玉ねぎを担当して……」
「はい」
「たくさん玉ねぎを切ってたら、涙が止まらなくなって……」
「はい」
「途中で他の子が変わってくれたんだけど、なぜか私だけ涙が止まらなくなっちゃったの。多分、一番すごいやつを切っちゃったんだと思う。それからずっと号泣状態だったから……」
「はい」
「それで今もまだ目がしぱしぱしてて……」
「はい……って、はい?」
「だからね、玉ねぎにやられて涙が止まらなくなっちゃったの。それでここで顔洗ってたの」
ナマエがはにかむように笑うと、ようやく事情を把握した。五色が危惧したことは全部全部勘違いだったのだ。全身から一気に力が抜け、へなへなと地面に座り込む。
「あれ? 五色くん? 大丈夫?」
慌てたような声が上から降ってきたので、とりあえず顔を上げた。
案の定、心配そうにナマエが五色を見下ろしていた。
「あなたになんともなくてよかったです……いや、あったんですけど……その、玉ねぎ……」
「そうだね、心配してくれてありがとう」
「いえ」
「じゃあ、帰ろっか」
ナマエが手を差しだし、とっていいものか迷ったが、一応手を乗せ、だけどその手に頼ることなく自分の足で立った。立った瞬間にナマエの手が離れ、指先が少し寂しい。
「もう目はいいんですか?」
「大丈夫。あまり遅いとみんなも心配するだろうし」
「そうですね……」
ナマエが歩きだし、五色も隣を歩いた。
空を覆っていた雲はいつの間にかどこかへ吹き飛んだらしく、来た時よりも廊下が明るく見える。
窓から差し込んでくる月光を踏みながら、しばらく食堂へ向かって歩いていたのだが、なにやら隣からチラチラ視線を感じ、むき出しの首筋がくすぐったい。
「なんですか?」
「ううん、なんでもないよ」
そう言いながらもナマエの頬は緩みっぱなしだ。
「どうせ俺のことカッコ悪いとか思ってるんでしょ」
先ほどは勝手に勘違いをして、随分と空回ってしまった。ナマエの瞳にはさぞ愉快なピエロに映ったに違いない。
「そんなことないよ」
ふふっと笑いながら言われ、これほど説得力に乏しいこともないだろう。
「別にいいですけど……」
小さく頬を膨らます。
目の前にはもう食堂が見えていた。暗い廊下に向かって明かりを煌々と放っている。
駆けだすように先に進んだナマエは、食堂に入る前にくるりと振り返った。
「今度は何かあったらちゃんと五色くんに相談するね」
いたずらっ子のような笑顔を浮かべながらも、彼女の頬はどこか赤く見える。きっと、涙をこすっていたせいだろうが、もしかしたら他にも理由があるのだろうか。
「ぜひ、そうしてください」
ここで、にやけてしまうと癪なので頬を膨らませたまま答えた。すると、五色くんも早く! と手を引っ張られる。
こちらが押せば引くくせに、引けば掴んで引っ張り戻してくるのだから、なんだか弄ばれているような気がした。だけど、やっぱり触れてもらえたことが嬉しくて、もうこの流れに乗ってしまえと勇気を出して一歩踏み出す。この一歩で前進していればいいのだけど、とりあえずその一歩のせいで、みんなのいる食堂へ手をつないで入る羽目になった。
瀬見版(夢主の元へ駆けつけたのが五色ではなく瀬見だった場合というif話です)