彼女のことを、思い出しながら。
この季節になると、待ち合わせをしたかのように毎年寒さが彼女を連れてくる。恋焦がれた時間よりも遥かに短い、彼女との星の瞬きのような思い出とともに。
日が登ってまだ間もない頃。白鳥沢学園の学生寮のとある一室で、目覚ましが鳴った瞬間、パチリと目を開いた青年がいた。かるたでもやっていたの、というくらいの反射神経で目覚まし時計を叩いた彼は低血圧とは無縁らしい。さっと体を起こすと同時に、さらりと前髪が眉の上で揃うと、相部屋の友人を起こさぬようそっとベッドを出る。昨夜のうちから枕元に置いておいたウィンドブレーカーをとり、これまたこっそり着替え、ひっそりと部屋を出た。目を爛々に輝かせ向かった場所は食堂。誰もいない、しんと静まり返った食堂を進んでいき、共有の冷蔵庫から、”五色”とマジックでデカデカと書かれた200mlパックの100%オレンジジュースを取り出すと、ストローを突き刺し、片手を腰に当て一気に飲み干す。さぁ、これから輝かしい新生活の幕開けだ。萎んだ容器をゴミ箱に投げ捨て、五色は弾んだ足取りでロビーへと向かった。
ランニングシューズを履いた五色は、寮を出てすぐにストレッチを始める。怪我でもしたらかなわない。念入りに体の筋を伸ばし、朝五時。この時間に起きて走っている俺はきっと新しいチームでもエースになれるはず! そんなことを考えながら、深呼吸し、朝の新鮮な空気で肺を満たしたら、ジョギングスタートだ。目指すは近くの大きな公園。広い学内でも良かったのだが、努力は隠れてしたい。入寮した昨日のうちに地図を見て、調べておいたジョギングをするには最適な公園へ向かって。それはきっとエースへの道だ。ただ前を向いて突き進め。
この時間帯でも結構人いるんだな、と。走りながら五色は思った。満開の桜に囲まれたその公園はバーベキュー場もあるような広い公園だ。園内を一周するようなジョギングコースは、車一台が通れるような舗装された道で、ぐるりと回ろうとすれば恐らく五色の足で一時間。ほぼ直線的な道を、芝に覆われた広場や、噴水のある石畳みの広場、バーベキュー場はこちらと書かれた看板を眺めながら、犬を連れて歩くおじいちゃん、ランニングウェアを着た見るからにガチなおっさん。どこでも井戸端会議という感じで三人でせかせか歩くおばちゃん達や髪を馬の尻尾のように垂らした五色と同じ年頃の女子。追い抜き、追い抜かれ、すれ違いを繰り返しながら進む。
程よく息が上げる、五色のペースで。
そして、丁度コースの折り返し地点だろう緩やかなカーブに差し掛かった頃。この程度の距離なら全然余裕だなと思った五色は目を見張る。
コマ送りにしたかのように全てがゆっくりに見え始めた。視界の端に映る過ぎゆく木々も。飛び立つ鳥も。聞こえてくるのは自分の息遣いだけ。感じるのはいつもより少し早めの鼓動だけ。
止まってしまったかのような五色の世界。その中心には一人の女子がいた。
前方から走ってくる彼女は、同い年だろうか。それとも少し上だろうか。女子の年齢は見た目からはよく分からない。すらっと伸びた手足に、小さな顔。つば付きの帽子を被り、弾むような軽やかな足取りでこちらに近づいてくる。彼女が一歩足を進める度に五色の鼓動は大きくなっていく気がした。
どんどんと詰まっていく彼女との距離。
うわーすれ違う。すれ違っちゃう。そう思うと五色はつい彼女から目を逸らしてしまう。でも見たい。ちゃんと見たい。と、すれ違う瞬間に五色はチラリと彼女を盗み見た。五色が手を伸ばせば、その長い手で触れることができてしまいそうな距離。小さく口を開けて走る彼女の横顔は――眩しかった。
んーっ、と震える口から感嘆の声を上げてしまった五色の顎は上がってしまう。
この日この時間のこの場所で五色が彼女に巡り会えたのはきっと運命だ。いや、運命に違いない。もし、五色の入寮が一日遅れたならば。早朝にロードワークに出なければ。この公園に来なければ。きっと会えなかった。いや、絶対に会えなかった。
先程まで一定のペースを維持していた五色であったが、大きくなった鼓動によって全身へと送られた熱を力に変えて、がむしゃらに手足を振った。春の風をきってどんどん突き進む。途中、うぉおーなんて、変な声をあげながら。誰に見られようと、振り返られようと、関係ない。だって、今日は運命の人に出会えたのだから!
その結果――
当然ながら一歩進む度に高まる体の熱は手足を重くしていき、寮に着く頃には息も絶え絶えとなり、なんとか到着した寮のロビーで五色はぶっ倒れる。そして、切れた喉でゼーハーゼーハー言いながら、両手を床についてやっとの思いで重い体を起こし、だらだら汗を流しながら、廊下の壁に手をつき、寄りかかりながら自室へと向かった。
「あれ、今年の一年じゃない? 噂の。なんか期待されてるっていうおかっぱ」
食堂に向かっていた天童はすれ違ったおかっぱ少年の背中を指差す。中学の名前が背中に書かれているウインドブレーカーを着たおかっぱ少年は足元がおぼつかない様子でふらふらと歩いていた。かと思えば立ち止まり、ウッと苦しげな声を上げて口元に手を当てる。天童の隣を歩いていた牛島は再びヨタヨタと歩き出した丸まった背中を一瞥し、答えた。
「いや、知らない」
「多分そうだよ、あれ。おかっぱだもん。でもあいつ大丈夫かな。今日から練習参加するんでしょ? もう死んでんじゃん」
「自己管理のできぬものなど知らん」
なんて会話をされていたおかっぱ少年だが、この二時間後。彼は誰よりも元気に白鳥沢学園バレー部の体育館の敷居を跨いだのであった。
「俺は! このチームのエースになります!」
自己紹介の時に、部員一の大きな声で言い放った五色に天童は両手を腹に当てて、しかし空気を呼んだのだろうか。声を殺して笑った。
「あのおかっぱさいこー」
自己紹介を終え、フフンと満足げに鼻を鳴らした五色はきっと、新生活は最高のスタートをきれたと思っている。