公園を走る彼女と運命の出会いを果たした五色はそれから毎日、同じ時間に寮を出て、同じペースで、同じコースを走った。公園の同じところで、おじいちゃんに引かれる、麦畑のような色の毛をフサフサと生やした小型犬に今日もいい天気だな、と心の中で挨拶をして、同じところで、今日も馬の尻尾だな、と思いながら長い髪を一つに結った女子の背中を追い抜く。
 そして、コースの中腹。緩やかなカーブの先で、彼女は現れる。
 今日、彼女の着る、袖が手の甲まで伸びているパーカーの色は桜のような淡いピンク。昨日は早朝の空のような淡いブルーだった気がする。いつも履いている太ももの半分の長さもない黒のショートパンツからは同じく黒のレギンスを履いた長い足が伸びている。相変わらず、つば付きの帽子を被った彼女の日焼け対策はバッチリといった様子だ。
 彼女も五色と同じく、毎日、同じ時間に、同じペースで、同じコースを走っているらしく、いつもここで五色は彼女とすれ違う。
 軽やかな足取りを崩さない彼女は眩しくて、直視できない。けれども、やっぱり見たいと思う五色は飽きもせず、いつもしているように今日も、ドキドキしながら、すれ違う瞬間に目だけを彼女に向けた。
 前を向いて走る彼女は風と共に横を通り過ぎていく。
 今日も麗しい姿をありがとうございました! と。五色は叫びたくなる口を必死に塞ぎ、天を仰いだ。そして、溢れ出す興奮に任せ手足をがむしゃらに動かしたくなるが、それは初日で懲りている。焦ったい気持ちでペースを一定に保ちながら、コースの残り半分を進むのであった。
 それだけで、五色は幸せだった。満ち足りていた。
 しかし、桜を落とした木がたっぷりの若葉を蓄え込む頃。五色は気づいてしまった。運命の相手だというのに彼女は瞬きのような短な一瞬で通り過ぎていく。毎日、毎日。目すら合わせることなく、通り過ぎていく。
 このままだと、俺、一生彼女と仲良くなれなくね?
 
「あぁぁぁぁっ……」
 夜。お風呂から上がり、宿題を持って談話室に向かった五色であったが、ノートも開かず早々に机に突っ伏した。眠いからではない。重く苦しく、深刻な悩みがあるからだ。
 どうすれば、すれ違ってばかりの彼女と仲良くなれるんだ。
 どこの誰かも知らない。同じ高校生かどうかすらも知らない。彼女に関して知っていることは、ただ、あの公園で毎日同じ時間に同じコースを走っているということだけ。彼女は友達でもなければクラスメートですらない、ただの通りすがりの人だ。
 すれ違うあの一瞬で彼女と仲良くなる方法がまるで思いつかない。
「あぁぁぁぁっ……」
「なに、この世の終わりみたいな声出してんのさ」
 二度目の嘆きを放った五色の背中から声がかかり、五色は顔だけを向ける。五色を見下ろす彼もお風呂あがりなのだろうか。いつも元気に逆立っている赤い毛は、本日の仕事は終わりましたとでも言うように、力なく垂れ下がっている。
 鬱陶しそうに長い前髪を流す天童は、いつもとは別人のように見えた。
「天童さん……実はですね……」
 と言いかけて、口をつぐむ。この人にだけは知られちゃまずい、と思ったからだ。
 何か理由があるわけではない。天童のことを頼もしい先輩だと思っているし、尊敬できる先輩だとも思っている。いつも五色を時期エースと持ち上げ、モチベーションを上げてくれる天童は、五色にとって良い先輩に他ならないのであった。ただ、常に何か面白いことを探しているような大きな目を前にすると、この人にだけは、思春期特有の恥ずかしさを帯びる自分の悩みを知られちゃまずいと五色の本能が告げるのだった。
「なにこいつには知られたくないみたいな顔してんの」
 五色はギクっと体を震わせる。考えていることを言葉にしただろうか。いや、していない。
「そんな顔せずにさ。先輩に話してみなよ。工より二年長く生きてんだから」
 そう言って当然のように五色の隣にある椅子を引いて座った天童は、頬杖をついてこちらを見る。面倒見のいい先輩ですよとでも言いたげに穏やかに目を細めて。
 なんだ、この人でもこんな優しい顔するんだ、とちょっと驚いた五色は、迷ったが意を決して突っ伏していた顔を上げた。どうせ、このまま一人で抱えていても悩みが解決に向かうとは思えないのだ。それに、天童に話すときに自分の話だと言わなければ良いのだと閃いたことも背中を押してくれた。人の話として天童に話すのなら五色の悩みを天童に知られたことにはならないからだ。
 今日の俺冴えてる、と思いながら微笑む天童に話し始める。
「友達の話なんですけど……」
「うんうん」
 朝のランニング中と言えばちょっとピンポイントすぎるなと思い、良くある話にすげ替える。
「毎朝の通学の電車で――」
「え? 工、寮じゃん。電車使ってないじゃん」
「だから友達の話ですってば!」
「はいはい。で?」
 最初に友達の話と言ったのにどうして天童さんは俺の話かのように言ったんだ。聞いていなかったのか。
 疑問に思った五色だったが、気を取り直して、相変わらず柔らかな笑みを浮かべる天童に話を続けた。
「通学の電車で一目惚れした子がいて……どうやったらその子と仲良くなれるんですか?」
 言い切ると五色は少し顔が熱くなるのを感じたが、お風呂上がりなんてこんなものだろう。髪を下ろして普段よりも落ち着いて見える天童をじっと見つめる。
「普通に話しかければいいじゃん」
 何をそんなことで悩んでるんだ、と言いたげにサラリと返ってきた。
「そうなんですけれど」
「何? 工そんなこともできないの?」
「話しかけようにも……」
 答えようとして、ん? と五色は首を傾げた。今天童さん、工そんなこともできないの、と言ったか?
「だから、俺の話じゃないですってば!」
「はいはい。で?」
 だから、どうして、天童さんは友達の話だと言っているのに、俺の話にしたがるんだ。
 五色は不満に思ったが、話を戻す。
 話しかけようにも、彼女はランニング中なのだ。声をかけるなどといった、真剣に走る彼女の足を止めるような真似を見ず知らずの人間がしてもいいのだろうか。話しかけずとも仲良くなれる魔法のようなものを五色は天童に期待している。
「だからですね、友達が! 友達がいうにはですよ」
「はいはい。で?」
「なんていったらいいんでしょう。その子はずっと本を読んでるんですよ」
 そうだ。本を読んでいるということにしよう。ずっと本を読んでいるから、話しかけられないのだ。
「何がまずいの?」
「読書中を邪魔しちゃまずいでしょ!」
「読書なら良くない?」
「た、確かに……」
 言われてみればそうかもしれない。
 そう思った五色は視線を下げ、目の前に置いていた教科書、ノートを見て閃く。
「じゃあ、その子が課題をやっていたら!」
「別に連絡先聞くぐらいならよくない?」
 ぐぅっと喉を鳴らした五色の視線はますます下がっていく。
「じゃ、じゃあ、その子がずっと寝てたりしてたら……」
「流石に、乗り降りする時は起きてるでしょ」
 ですよね!
「そうなんですけれど! そうなんですけど、違うんですよ!」
 天童になかなか言いたいことが伝わらず、歯痒い五色は、あぁあっ、と言って、ドライヤーで乾かしたてのホカホカした頭を掻きむしる。なんと言えばいいのだろうか。電車という設定から、彼女がランニング中で話しかけ辛いということを示す丁度いい例が浮かばない。
 今日の俺は冴えてるんだ。何か、何かいい例を考えろ。
 五色が冴えている頭をフルに回転させていると、隣で陽気な声がかかった。
「うんうん、だから電車の話じゃないんでしょ? 変に例え話入れるからよく分からないことになるんだよ」
「そうですね……」
「で? 工はどこで出会ったのよ。その子と」
「その子とはですね……」
 答えようとして、ん? と頭を掻きむしっていた手を止め、頬杖をついた天童に視線をやる。蛙を見つけた蛇のようなニヤリと笑う笑顔を見てしまった。
 バレてる……今までの話、友達の話じゃなくて、全部俺の話だと天童さんにバレてる。
 五色の本能が悟った。
「だから俺の話じゃないですってば!」
 思わずバンっと机に両手をつき、立ち上がる。さっきまで五色の隣にいた面倒見のいい先輩ですよ面をした人はどこへ行ったのやら。天童は可笑しそうに腹を抱えて笑っていた。
 顔から火が出そうだった五色は机の上に置いていた筆箱、教科書、ノートを手際良く集め腕に抱える。
「もう、大丈夫です! 相談に乗ってくださりありがとうございました!」
 涙を擦する天童にそう言って勢いよく頭を下げ、宿題は自室でしようと、蛇に遭遇してしまった哀れな蛙に同情しながら急いで部屋に向かうのであった。

 五色が天童に相談を持ちかけたその翌日。五色はいつものように朝五時の目覚ましで布団から飛び出し、スキップでも踏むような心地で寮を出発する。
 今日も会えるだろうか。彼女に。
 いつもの場所でおじいちゃんに引かれた小さな犬に挨拶し、馬の尻尾だなぁと思いながら女子の背中を抜く。
 会えるだろうか。会えるだろうか。毎日飽きもせず、コースの中腹に近づくにつれ、ワクワク、ドキドキが増す。
 それにしても、本当にどうすればあの一瞬で彼女と仲良くなれるのだろうか。やはり話しかけるしかないのだろうか。
 思案しながら走っていると、見えてきた緩やかなカーブ。その先に、今日は白色パーカーの彼女。いつもと同じつば付きの帽子を被っている彼女は重力を感じさせない軽い足取りでこちらに向かってくる。そして、ほんの一瞬の煌めきの時。五色は目だけを彼女に移す。どうしたらお近づきになれますか、と。
 瞬間、五色の心臓が跳ねる。時が止まったような気がした。
 すれ違い側にこちらを向いた普段は黒い瞳。その虹彩が朝日を反射させ茶色く輝き、浮き出た小さな黒い瞳孔まで五色はしっかりと見えた気がした。
 そして、風は彼女を連れて行く。
 五色は走り続けながら、ぐるりと首を回転させ振り返った。何事もなかったかのようにただ前を見つめて走る彼女の背中が離れていくのが見えた。
 五色は大声を出したくなる口を必死に閉じる。空を仰げば、透き通るような晴天が広がっていた。
 目があった、目があった!
 五色は心の中でそう叫んだ。叫べば叫ぶほど、満たされた心は弾んでいった。
 目があった、目があった!
 心の中で叫び続ける五色の手足の回転は速まっていく。
 目があった、目があった!
 いつも走っている道だ。何も考えていなくても、五色の体は勝手に寮へと向かっていく。
 進むにつれて、五色の息はどんどん上がっていき、足はだんだん上がらなくなっていった。それでも、目があった、目があったと。今日の戦果を心の中で叫び続け、どこまでも遠い空を見上げるのであった。

 ゼーハーゼーハー言いながら、寮のロビーで四つん這いになっている可愛い後輩を見つけた天童は、大丈夫? と声をかけた。
「だ、だいじょう、ぶ……です……」
 顔をあげた五色の顔色は全く大丈夫そうには見えないが、本人が大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。天童が初めて五色を見た日も五色はこんな顔色をしていたが、二時間後とびきり元気な様子でバレー部の体育館へとやってきた。
 あぁ、そういうことか、と何か閃いた様子の天童は尋ねた。
「仲良くなれた?」
「誰とですか?」
「仲良くなりたい女の子がいるんでしょ」
「あぁっ……! そ、それがですねっ……! 今日っ……! その子とっ……!」
 よほど嬉しいことがあったのだろう。話すのも苦しそうなほど呼吸を荒げていた五色だったが、五色の声色は弾み、目には星の煌めきのような輝きが宿っていた。しかし、言葉の途中であっという顔をし、ただでさえ赤かった顔をさらに赤くして叫んだ。
「だからっ! 俺の話じゃないですからっ!」
「別に工の話とは一言も言ってないじゃん。工のお友達、は、仲良くなれたの? ってつもりで聞いたんだけど」
 確かに。ニヤニヤ笑う天童が先程発した言葉の先頭には、工は、と付いていなかった。
 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした五色は、ただ、ぐぅっ、とだけ漏らして、四つん這いになったまま首を垂れた。