人々のざわめきは遠く。鼓動は早くなっていき、息も上がっていく。汗ばんだ手で握るパンフレットをもう、皺くちゃだ。
先が見えないほど広い展示会場であったが、地図通りに進めば、天井から垂れ下がる、探していた企業の大きな看板をすぐに見つけることができた。
大した距離は歩いていないのに、上がってしまった息を整える。息は整っても鼓動は暴れていた。
ナマエさん、ナマエさん、と頭の中で彼女の名を繰り返しながら、見渡せるくらいの広さしかないブースを覗く。
スーツを着た若い二人の男性が話しながら、テレビ画面くらいのモニタを眺めている。その隣、一際大きなモニタの前では、スーツを着た男性が座る椅子が並んでおり、モニタの横では女性がモニタを指し示しながら、何かを話していた。けれども、その人はナマエではない。
ナマエさん、ナマエさん、と心の中で何度も繰り返し、どこにいるのと心が波立つのを感じながらブースの端まで目をやると、発見した、薄い冊子を数冊抱えて立つ女性――白い膝丈のワンピースに企業ロゴと同じ緑のベルトを腰に巻いたその女性の横顔は、何度も、何度も。あの公園で見てきた横顔だった。
心臓が飛び跳ねると同時に五色の足は勝手に伸びていた。段々と近くなっていく彼女。近づく五色の気配に気づいたのだろうか。振り向いた彼女はにこりと柔らかな笑みを浮かべて、持っていた冊子を差し出してきた。
「ナマエさん! 俺ずっとナマエさんのこと探してて!」
差し出された冊子には目も暮れず、口から出てしまった言葉。人々のざわめきを打ち消すほど綺麗に響いてしまった声に、周囲の注目が集まり、肝心の目の前にある彼女の顔は困惑したように曇っていく。しまった、と五色はようやく我に帰った。
やっちまったぁあああ!
熱くなる顔に変な汗が流れていくのを感じる。握っていたパンフレットを更にきつく握りしめた。
まだ、目の前の女性がナマエだと決まったわけではないのだ。もし、ナマエであっても、五色のことを覚えているとは限らない。見ず知らずの人に、探していた、と言ってしまったようなものだ。しかも、こんな公衆の面前で大声を出して。
とりあえず、目の前の女性を困らせてしまったことを謝らなければ。
「す、すみま――」
「工くん?」
「え?」
呼ばれるはずはないと思っていた自分の名前が目の前の女性からこぼれ、五色は下げかけた頭を止める。
「白鳥沢の工くん! バレー部の! 五色、工くん!」
「はい! はい! そうです! 白鳥沢バレー部の五色工です!」
驚いたように見を見開き、先程の五色と同じように声を張り上げた彼女は、ナマエだった。五色のことも覚えてくれているナマエだったのだ。
二人して声を響かせ再び注目を集めてしまった二人は、周りに向かって、ぺこぺこ頭を下げ、小さくなって、向き合う。
「でも、どうしたの? 探してたって……」
目をパチパチさせるナマエに五色はこれまでの経緯を話そうとする。展示会でナマエを探してて。いや、SNSを見て。いや、その前にたまたま見た広告の話を。いや、話の本質はもっと遡った先にある気がする。
何から話せばいい。口をパクパクさせるが、言葉が出てこない。記憶を遡ると同時に記憶に付随する心を締め付けた感情までもが蘇り頭の中で洪水が起きていた。段々と喉が渇いていき、ますます声が出てこない。
俯いてしまった五色は片手で自分の汗ばむ髪を掴んだ。
せっかくここまで来たのに、彼女に会えたのに、情けなく黙り込む自分に歯を噛み締める。
「工くん?」
呼ばれてハッとして顔を上げると、にこりと笑った彼女と目が会い、途端に泣き出しそうになってしまった。本当に駄目だ。彼女に話しかけられずにうじうじしていたあの頃から自分は何も変わっていない。
「すみません、俺……」
「大丈夫だよ」
小さな子に話すように優しくそう言った彼女は、私三十分後に休憩だから、と言って、くしゃくしゃになったパンフレットを持つ五色の腕を両手で持ち上げる。そして、五色が開きっぱなしにしていた地図のページを指し示しながら。
「ここのお化粧室の前で待ってて」
「……っ、はい! ではまた三十分後に!」
穏やかに笑う彼女に勢いよく頭を下げた反動で、五色の瞳からは涙が一つ。地面に落ちた。
彼女に指定されたトイレ入り口横のコンクリートが剥き出しになっている壁に背を預けながら、五色は彼女を待っていた。スマートフォンを見ることもなく、ヨレヨレになったパンフレットを開くこともなく、ただ、何から彼女に話そうかと考えながら、そわそわするようなワクワクするような落ち着かない気持ちで待っていた。
まだかな、と思う間もなく、彼女はすぐにやってきた。ブースで立っていた時とは異なり、五色が背を預けているコンクリートと同じ灰色のパーカーを着ている。パーカーのチャックはしっかりと閉められており、パーカーの下からは衣装の白い膝丈のスカートだけが見えた。
「お待たせ!」
「いえ、全然待ってません!」
クスクスと笑う彼女は五色の隣に並び、五色と同じようにコンクリートの壁を背中にした。
今度こそ、ちゃんとナマエと話をしなければと五色は思ったが、彼女の方を向いて、話そうと思っていたことを口にしようとした瞬間に、また、目の前が霞んでいった。
「あの、えと……俺……その……」
言わなければ。公園の休憩所で話した日からずっと、会いたくて、探していたのだと。
それなのに、ずっと、会えなくて、何日も何日も探して、それでも会えなかったのだ、とか。彼女はもうこの世にはいないのかもとまで考えた日もあったんだ、とか。余計なことまで頭に浮かんで口がうまく動いてくれなかった。
「私もね」
いつまでも話が切り出せずにいる五色を慮ってか、代わりに彼女が切り出した。
「工くんのこと、ずっと、心に引っかかってたの」
え、と漏らした五色に彼女は包み込むような優しい笑顔を向けた。
「工くんとお話しした日、工くんと話せるのはその日が最後だって分かってたけど、ちょっと話しただけの人に言うことじゃないなって思ってあの日、言えなかったの。でも、ちゃんとお別れを言えば良かったなって思ってて」
私たち毎日、顔合わせてたもんね、と彼女が笑う。彼女の笑顔はどうしてこうも、五色の涙腺を刺激するのだろうか。
彼女が五色のことを覚えてくれていただけでなく、五色と同じようにとまではいかないかもしれないが、彼女もあの休憩所で話した日のことをずっと心に留めてくれていたのだ。
「あの後ね、私、東京に引っ越したの」
「そうだったんですね」
真相は聞いてみれば案外普通。けれども、知らないから五色はあれだけ振り回されたのだ。神様はきっと意地悪だ。
それでも、こうして再開させてくれた神様はやっぱり性格が良いのか。やっぱり悪いのか。
休憩所で話した日から五色の彼女の記憶には、あの日と同じ今にも雪が降り出しそうな厚い雲がかかっていたが、段々と雲の割れ目から光が差し込んで来ていた。
「それにしてもよく、見つけてくれたね。私、全然有名じゃないし、本名で活動してるわけでもないし」
「たまたまWEBの広告でナマエさんを見かけたんです。そこからナマエさんのSNSを発見して、今日の展示会のことを知ってここまで来ました」
「あぁっ! え? そこから探してくれたの?」
そこからというか、その前から探してはいたのだけど、と驚いた様子の彼女に心の中でだけ伝える。
これ以上彼女に気を使わせる必要はないだろうから。
「へー。たまたま広告で見つけて、会いにまで来てくれるって」
独り言のように呟く彼女の横顔を見ると、少し心配になった。ストーカーだと思われただろうか。振り返れば、五色がこれまでしていた行為はストーカーに準ずるものがあったような気がする。
「ありがとう!」
「え……いえ……こちらこそ……」
彼女は喜んでくれたのか。五色の心配など想像すら及ばない様子の満面の笑みで彼女からお礼を言われてしまった。
「私広告の仕事はあれしかしたことがなかったんだ」
「そうだったんですね」
彼女を見つけることができたのは本当にラッキーだったのだろう。しかも隣で友人がたまたま見ていた求人サイトで。たまたま五色がバイトに興味を持って。
これはまるで――
「運命みたいだね」
「運命っ!?」
五色の心の声が、彼女の言葉と重なり思わずおうむ返しをした声がひっくり返ってしまった。
「え……ごめん、変なこと言って」
「変じゃないです! 全然変じゃないです!」
今は運命の人なんて、馬鹿なことは五色も考えてはいない。でも、彼女が運命の人だったらいいのになって。そのくらいの夢は見てしまってる。
やっぱり彼女と仲良くなりたいという五色の気持ちは今も昔と変わらないのだ。
「ナマエさんは、芸能人なんですか?」
「いやいやいや。全然全く。自称モデルみたいなものだから」
「自称モデル?」
慌てた様子で両手を振る彼女から発せられた聞き慣れない言葉に五色は首を傾げた。
「今日みたいな仕事も好きなんだけどね。本当は、雑誌とかショーとかに出られるモデルになりたいの。でもなかなか厳しくて。実際は今日みたいなバイトで食い繋いでる」
さっきまで元気に振られていた彼女の両手は力なく下され、彼女は五色の方を向くことさえもやめて、前を見ながら言った。
釣られるように彼女の向いた先を見た五色は、祭りのように賑やかなブースの合間で人混みが流れていく様子を眺める。誰もが五色達を見ることもなく、思い思いに目的地に向かって歩いていっているようだった。
「だから、私は自称モデル。誰がどう見ても私はモデル、じゃなくて、私はモデルなんだぞって自分で言って、ようやく私はモデルなの」
そういうことか、と五色は納得した。それなら、自分も一緒だ。俺はエースだ、牛島さんを倒す男なんだ、と自分に言い聞かせ、ひたすら突き進むと言うことだ。
「夢に向かって頑張ってるってことですね! 素敵です!」
彼女の方に向き直り、一緒に頑張りましょう、と言う気持ちでその言葉を言ったのだが、彼女には伝わらなかったようで、同じく五色の方に向き直った彼女は力なく微笑みながら言った。
「五色くんは前向きだね」
彼女の言葉に五色は違和感を覚える。休憩所で話したあの頃の彼女であれば、ありがとう、と笑ってくれた筈だ。だって、彼女は言ってくれた。俯いてしまった五色に。まだまだこれからなんだね、と。
「でも、まだまだ私なんか全然だよ。夢からは随分遠いところにいるわけだし。素敵なんかじゃないよ」
「夢に向かって頑張ってるところが素敵なんです!」
「そう、なのかな」
俯いた彼女は、一年の時に春高で負けた後の五色と似ている。きっと、彼女の瞳は曇ってしまっているのだ。
けれども、まだまだこれからですよ、と言えなかった。あの頃の五色と似ているけれど、彼女は違うのだ。曇った瞳で笑ってしまっている。きっと、これからだって、必死に言い聞かせて、細い道の上を歩いているのだろう。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。ありがと」
これ以上彼女には、踏み込めない。踏み込んではいけないのだ。名前しか知らない関係なのだから。
もうクシャクシャのヨレヨレになってしまったパンフレットをペタンコになるほど力強く握りしめた五色は、息を大きく吸った。
「ナマエさん!」
「はい」
五色の通る声に彼女は思い出したかのように、背筋をピンと伸ばす。
「お、俺の!」
「五色くんの?」
「と、と、ととと……」
「ととと?」
しっかりしろ、と五色は自分を鼓舞する。運命は待つものじゃないと分かっている。嫌と言うほど思い知らされている。
「友達に!」
手を伸ばせ! 掴み取れ!
「俺と友達になって! もらえませんか!」
キョトンとこちらを見た彼女は柔らかに、いいよ、と微笑んだ。
温かな風が吹き抜けた五色の脳内には盛大に春がやってきた。青く澄み渡った空の下で、芽吹いた草には色とりどりの花が咲く。裸だった木は淡いピンクに彩られた。彼女と出会った春をやり直そう。
「じゃ、じゃあ、じゃあ! ナマエさんの連絡先を!」
「うん」
彼女がパーカーのポケットから、スマートフォンを取り出すのを横目に五色も慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。取り出した五色のスマートフォンは勢い余って手の平からすり抜け、五色は、あ、お、あ! なんてわけの分からない言葉を繰り返しながら手の平で何度か踊ったスマートフォンをなんとかキャッチした。
「セーフ……」
逃げ出そうとしたスマートフォンを手の平で挟むと、こぼれた言葉。隣でぷっと笑う声がした。
「どうしたんですか?」
「公園で走ってた時、工くん、スマホ落として絶叫してたなって思い出して」
「あぁ! あれは……」
ナマエさんと仲良くなるために先輩と頭を悩まして考えた作戦を失敗した結果でした、なんて恥ずかしくて言えない。
「あの時、面白そうな子だなって思ってたの」
やっぱり運命だ! なんて、馬鹿なことはもう考えていないと思っていた五色はもういない。やっぱり運命だったのだ! そんなに早くから彼女が五色のことを意識してくれていたなんて。これが運命じゃなくて、何が運命だと言うのだ!
踊り出しそうな心地で彼女と連絡先を交換する。五色のスマートフォンの中で表示される、ミョウジナマエ、という文字。
これで、会える! いつでも、会える!
初めて会った日に彼女に惹かれ、仲良くなりたくて。でもどうしたら仲良くなれるか、分からなくて。話しかけようにもなかなか話しかけられなくて。やっと話せたかと思えば、突然会えなくなって。やっと、やっと再開して。糸を――結べた。
ミョウジナマエ、という文字がどんどんと滲んでいく。画面にはポタポタと雫がこぼれ落ちていった。
「え!? どうしたの?」
「すみません! なんでもないです!」
目を腕でゴシゴシ擦る五色を覗く彼女は、涙のせいか、いや、違う。その笑顔自体が眩しいのだ。
太陽が登り切らぬ未だ暗い住宅街の道を。一定のリズムで白い息を吐きながら、五色は走っていた。
彼女のことを、思い出しながら。
この季節になると、待ち合わせをしたかのように毎年寒さが彼女を連れてくる。彼女と少しずつ重ねていった、星の瞬きのような思い出とともに。
「何笑ってるの?」
隣で走る彼女から声が上がる。
「なんでもないです」
それは、彼女と再開して、初めてやってきた指先が凍るような寒い日のこと。
昨日彼女は五色の部屋に泊まったのだ。流石に今日は、五色もジョギングを休もうと思ったのだが、持ってきたんだぁ、と彼女に自慢げにウインドブレーカーを出され、一日休んだら三日も休むことになるんだよ! と窘められてしまい、こうして並んで走っている。
「やっぱ、工くんっ、先行って。ついてけない」
「えー、ゆっくり走るんで一緒に走りましょ」
「それじゃあ、工くんのトレーニングにならないよ」
「今日だけでいいんで! お願いします!」
「なんで?」
理由は照れ臭くて、言えない。
どうか、今はこの幸せを噛み締めさせて。
五色は隣で走る彼女の手をギュッと握った。