誘惑

 クスクス、と笑う声が落ちてきて、目の前のプリントに集中できない。今日中に提出しなければならないのに。早く終わらせて部活に行きたいのに。
 放課後、教室にたった一人きり。今朝、提出しなければならなかった数学の課題に向かって五色が懸命にシャープペンシルを走らせていたら、彼女はやってきた。
「なーにしてるの? 五色くん」
 歌うようにそう言った彼女は、教室の扉からひょっこり頭を出してきた。一度は彼女に視線をやったが、すぐにプリントに戻った。プリントを提出するまで部活には行かせない、と数学の教師に言われているのだ。この人の遊びに付き合っている暇はない。
「ねー、無視しないでよー」
 彼女は不満そうに言った。それでも、彼女を無視してガリガリと数式を連ねていれば、足音が近づいて来た。ペタペタという音が数字の間に入り込んでくる。
「ねー五色くん?」
 スリッパを履いた足が視界の隅に映った。鬱陶しいな。そう思った瞬間だった。耳元に吐息がかかる。
「ねーってばー」
 耳元で囁かれた甘い声に、全身が逆立ち、思わず、手を止めてしまった。苛立ちに、シャープペンシルを握る手が震えてしまうと、クスクスと五色の反応を揶揄うような笑う声が落ちてきて、ますます集中を削がれる。
 自分はいつもこうだ。廊下ですれ違ったときも、部活の休憩中にあったときも。この雌猫に捕まってしまうと、こうして、目の前のことから無理やり引き離されてしまうのだ。
 どうして、この人は俺の邪魔ばっかりするんだ。
 眉間にぐっと力を込めたとき、くしゃ、とざら紙のヨレる音がしたかと思えば、向き合っていたプリントは白鳥沢カラーのスカートで覆われてしまった。彼女が机に座ってきたのだ。シャープペンシルを乗せていた人差し指に柔らかな肉が当たる。彼女の太腿だった。ひんやりとした感触に、慌てて手を引っ込めた。離れたというのに、人差し指の関節には、滑らかな肌の感覚が残っている。すると、また、クスクス、クスクス。背中がこそばゆくなるような笑い声が頭や肩に降ってくる。不愉快だった。
 机の上に乗った、青い血管の浮き出る腿から目を背けた。冷静になれ、と自身に言い聞かせて、視線は下に落としたまま口を開いた。
「邪魔なんですけど」
「五色くんがこっちを見てくれたら、のいてあげるよ」
 風が吹き込んできたのか、彼女の後ろで白いカーテンが膨らむ。彼女が纏う香水の香りだろうか、甘ったるい香りが五色に絡みつき、脳の裏側を痺れさせていった。
 五色は長く息を吐いて、吸ってしまったものを全て体から追い出し、机に座る彼女を見上げた。
 彼女は二つ上の先輩だと言うのに、睨みあげてしまったのは、きっと、防衛本能なのだろう。この人のペースに飲まれてはいけない、と必死に本能が足掻いているのだ。
「やっぱり五色くんは可愛いね」
 何がやっぱりなのかは知らぬが、そう紡いだ唇は、油物を食べた後のようにテカっていて、動くたびに、ユラユラと白い光を揺らした。思わず、それを咥えてみたいと思ってしまう。とても美味しそうなのだ。口の中に溜まった唾液を飲み込むが、慌てて首を振った。何が美味しそうだ。食べ物でもなんでもないのに。きっと鼻を通って脳にまで侵食してきた甘い香りが頭をおかしくしているのだろう。
 早くこの人から離れなければ。戻ってこれなくなる前に。
「俺に付き纏うのはやめてください!」
「なんで?」
「なんでって……あなた彼氏いるでしょ!」
「あなたじゃないよ。ナマエ」
 湿っぽい視線が五色をネブる。全身がゾワゾワとした。
 女性を名前で呼ぶのには少し抵抗があった。名前にちゃんを付けて呼んでいた幼馴染でさえ、今はもう、名字にさん付けで呼んでいるのだ。しかし、彼女に臆するわけにはいかなかった。
「ナマエ、さんには彼氏がいるでしょう」
 ぎこちなく彼女の名を口にすると、可愛い、と笑われる。
「俺は可愛くありません」
「可愛いよ」
 口角を上げたナマエは手を五色の頬へと伸ばす。何をするのかと思えば、ナマエの親指がそっと五色の唇に触れた。ビクっとしてしまったが、唇を結んだまま静止する。ナマエの親指は紅を差すように五色の下唇を右端から左へとなぞっていった。触れられたところから熱を帯び始める。下ろしていた手に拳を握ってしまったが、ナマエから目を逸らすことはしなかった。挑発的な笑みを浮かべるナマエへ強い眼差しを返す。
 五色の唇に触れていた親指が左端にいくと、あっさりと親指は離れていった。張り詰めていた体から力を抜けば、ナマエは、五色の唇に触れていた指を自身の唇に当てた。ふっくらとしたナマエの唇に先程まで五色の唇をなぞっていた親指が沈む。火がついたかのように顔が熱くなり、ナマエの手を掴んだ。
「やめてくださいよ!」
「ほら、可愛い」
「可愛くなんかありません!」
「じゃあ、それでいいよ」
 簡単に手のひらを返したナマエだったが、余裕のある笑みを浮かべて、また耳障りな笑い声をごほした。
 うるさいな。この女を黙らせてやろうか。
 低い声が腹の底で囁いた。
 五色にとってナマエを黙らせることは容易いことだった。五色より華奢な腕を持ち、細身の体でそこに座っているのだ。その気になれば、ナマエを泣かせることだって赤子の手を捻るよりも容易にできるのだ。ナマエのぬらぬらと光る唇をじっと見つめる。やはり涎が垂れそうなくらい美味しそうだった。
 食い散らかしてやろう。
 誰とも思えぬ声が頭の中で響き、濡れた歯の光る口から熱い息を吐く。そのときだった。進学クラスの授業が終わったことを知らせるチャイムが鳴る。冷たい水を頭から被ったように、我に帰った。
 自分は何を考えていたんだ。五色は首を振った。夢から覚めたように、おぞましい声はすっかりと頭から消えていた。
「しないんだ」
「え?」
「キス、しないんだ」
 ナマエには五色の肉体など見えていないのだろう。五色の心を細めた瞳で見透かしていたのだ。クスクス。クスクス。五色の上を転げ回る声。ナマエの後ろでは白いカーテンが膨らんみ、吐きそうなほど甘美な香りが五色の脳を焼いていく。理性がじわじわと息絶えていくのを感じた。艶やかな唇からは目が離せない。
 耐えろ。耐えるんだ。
 唇を噛んで痛みに縋った。この人は同じ部の先輩の彼女なのだ。五色が手を出していい人ではない。手を出したって、碌なことにならないことは目に見えている。
 早く、机からどいてもらおう。そして、何事もなかったかのように、プリントを終わらせて部活に行きいつも通りに練習すればいい。そうすれば、きっと、さっきまでの出来事なんてすぐに忘れられる――
 五色が必死に巡らせていた思考をナマエの一言がぶった斬った。
「かーわい」
 五色は目を見開く。全身の血流が増した気がした。ナマエの手を握っていた手に力を込める。
 ナマエを飢えた獣のような瞳が捕らえた。
「ナマエさんのせいですよ」
「それでいいよ」
 五色は乱暴にナマエの手を引っ張り、弧を描く口を塞いだ。