魅惑
ナマエの濡れた唇に触れた瞬間に、火をつけられたように五色の腹の底が燃え上がる。キスをするのは初めてだったため、キスの仕方を知らなかったが、溢れ出る衝動に任せて、ナマエの下唇に噛み付いた。柔らかな下唇は簡単に歯を食い込ませることができたが、グミのような弾力で歯を押し返してきた。舌を這わせれば甘い味がするような気がする。ナマエの吐息がこぼれると、ミントの香りが口いっぱいに広がった。角度を変えてもう一度食らいつく。呼吸を合わせるように、五色の唇もナマエに咥えられた。ナマエの唇は優しく唇を包み込んできた。柔らかな唇に挟まれると、唇は飴のように溶けてなくなってしまいそうだった。五色よりも穏やかなナマエの触れ合いにキスはこうしてやるのか、と今度はそっとナマエの唇を口に含む。甘い声が聞こえてきて、我慢できずにやはり、歯を立ててしまった。ビクッと震える彼女が愛おしい。
一方的に掴んでいたはずのナマエの手は気がつけば互いに指を絡めていた。瞳を閉じて全神経を舌と唇に集めてナマエとの口づけを貪る。唇を合わせていると、体の熱は増していった。どうして唇を合わせただけでこんなにも体が熱くなるのだろうか。きっと触れ合いが体の内側に近ければ近いほど、分け与えることのできる熱量は増えるのだろう。舌をナマエの歯列に沿って這わせていく。滑らかな歯がでこぼこと並ぶさまを目で見るよりも鮮明に感じた。歯を割って口内へと舌を伸ばす。舌先と舌先が触れ合った瞬間に静電気が走ったような気がした。ザラッとした舌の上をなぞっていけば、舌の下をねっとりと舐められ、舌を掬い上げれば、舌の上にだらしなくナマエの舌が横たわった。そのままナマエの舌が、草根をかき分ける蛇のようにしなやかに五色の口内へ伸びてくる。もっと奥にナマエを招き入れたくてナマエの舌を吸うと、口の中がナマエで満たされた。このままナマエを飲み込んでしまいたい衝動に駆られる。引き寄せるように更に強く吸うと、痛みを訴えるような小さな呻き声が聞こえてきて、ハッとした。顔を離す。
「ごめんなさい」
「いいよ」
ナマエと五色の間を銀の糸が結んでいた。白い光が閃光のように糸を行き来している。重力にしたがってたわんでいった糸は真ん中の方からやつれていった。きっともうすぐ切れてしまう。この糸を切らせてはいけない気がして、繋いでいた手を引っ張り再び唇を交わらせた。
呼吸をすることも忘れ、顎に唾液を滴らせながら貪ったキスは廊下が騒がしくなったことで中断された。先程まで授業をしていた進学クラスの生徒たちが帰路に就くのだろう。どちらともなく離れると、唇は名残惜しそうに離れ、未練がましく引いた糸もすぐに断たれてしまった。
机に座ったままのナマエは、肩で息をしていた。頬を桜色に上気させ、瞳を潤ませている。さっきまでの挑発的な姿はすっかり
キスだけでナマエの姿をこんなにも変えることができるのか。
では、その薄らと汗ばむ首筋に吸い付いたらどうなるのだろうか。開襟シャツから覗く鎖骨を舌で辿っていき、シャツから透けて見えるウエストラインに手を這わせて、シャツの裾から手を忍ばせその先に触れれば、ナマエはもっと五色を喜ばせる姿を見せてくれるだろうか。
舌なめずりをすると、ナマエが耳元に顔を寄せてきた。
「また今度ね」
ナマエには、五色の胸の内が手に取るようにわかるらしい。手のひらで踊らされているようで面白くない。五色は、首を振って、膨らませてしまった欲望をかき消し、ナマエを睨みつけた。再び生意気な笑みをこぼしたナマエは五色の顎に残る唾液を舌で掬い取った。自らの顎に垂れる涎は手の甲で拭う。
「じゃあ、またね。五色くん」
軽やかに机から飛び降り、ひらひらと手を振って教室から出ていった。
五色は全身が脱力していくのを感じた。教室で一人残されると、先程までナマエと交わしていた行為は夢だったのではないのかと思う。しかし、周りで漂うナマエの甘い香りが夢ではなかったのだということを五色に囁いていた。
ふぅ、と長い息を吐き、冷めやらぬ熱を解放しようと、ネクタイを緩めた。再び、プリントと向き合う。ナマエの腿に敷かれていた数字たちが黒い芯を横に伸ばしていたが、そのまま提出した。
ナマエは、またね、と言ったにも関わらず、暫く、五色の前に姿を現さなかった。廊下ですれ違っても、いつものようにちょっかいを出してくることはなく、目すら合わせてくれない。バレー部の練習に顔を出しても、自分の彼氏を構うばかりで五色の方を見向きもしなかった。
ナマエは香水を身に纏っているし、化粧をしているし、スカートを短くしているが、不思議と清潔感を感じさせる生徒だった。笑顔を欠かさないからか、礼儀正しく挨拶ができるからか。傍目から見れば、ちょっと派手な普通の子にしか見えないのだ。時折サボっているようだが進学クラスでもある彼女は模範生にも近い生徒とも言えた。
ナマエが部活に顔を覗かせることを監督はよく思っていなかったようだが、ナマエが何も言われずに放任されているのは、おそらく、部に弊害をもたらしていないからだろう。休憩時間になると、気さくな様子で彼氏をはじめとした部員たちに声をかけ、場を和ませてくれるのだ。そして、練習が開始される頃には跡を濁さず去っていく。
五色も初めは、ドキドキしながらナマエを見ていた。誰を前にしても同じように浮かべられる彼女の笑顔が素敵だと思ったからだ。自分から話しかけることはしなかったが、たまたまナマエの彼氏のそばにいたときにナマエに話しかけてもらえると、しどろもどろになりながらもナマエに楽しんでもらおうと懸命に応えた。きっと何一つ面白いことは言えていなかっただろうけど、いつもナマエが可笑しそうに笑ってくれたから嬉しかった。それだけで十分だったのだ。だから、もっとその笑顔を見たいとか、自分のためだけに笑って欲しいとか、いつのまにか腹の底で燻っていたそういう欲望には気がつかないふりをしていた。だってナマエには彼氏がいるのだから。現にナマエも彼氏の周りから離れようとしなかった。
いつからだろうか、ナマエが五色の沈めた欲望を逆撫でしてくるようになったのは。
廊下で会えばちょっかいを出されるようになり、部活の休憩中一人でいれば、わざわざ、彼氏から離れてまでこちらに来て話しかけられるようになり、最初は今まで通り普通に後輩として接されていたのだが、周囲には気づかれないように体に触れられるようになり、耳元で囁かれるようになり、まるで恋人の名を呼ぶように、五色くん、と呼ばれるようになった。
そんなことをされれば、沈めた筈の欲望が浮かんでくるし、それは醜く形を変えてしまう。
生意気な笑みを浮かべるときに、口に当てられる細い指を触ってみたい。その指に自分の指を絡めてキスをしてみたい。そのまま押し倒して服に隠された体に触れてみたい。
きっと、距離が近くなることで香るようになったナマエの甘い香りが欲望の変貌に拍車をかけたのだろう。その香りを嗅ぐと、脳の裏側が痺れていって、大切にしなければならない何かを忘れてしまいそうになるのだ。
今日も、例のごとく休憩時間になると、ナマエは現れた。彼氏に声をかけ、その周辺にいる部員たちとも楽しそうな様子で話している。まるで五色に見せつけるように。
五色は壁を背にして、離れた場所からナマエとナマエをもてはやす部員たちを眺めていた。
「あの子最近工のとこに来なくなったね」
そう声をかけてきたのは天童だった。五色の隣に並んだ彼は満月のような丸い目で五色の顔を覗いてきた。
「良かったじゃん」
良かった、と言われて、タオルで汗を拭っていた手がピタリと止まった。
全く良くないのだ。キスをして以来、ナマエは全く五色に関心をなくしてしまったようだった。前は鬱陶しいほどに付き纏ってきたというのに。
あの女は五色と唇を合わせただけで満足なのだろうか。キスを交わしたあと、また今度ね、と言ったのに。
また今度を期待した五色には、まるで、今度はもうないと言うように、パタリと五色との関わりを持とうとしなくなった。
遠巻きでナマエを眺めていると、腹の底が疼く。
「え、嘘……まじで?」
五色は何も言っていないにも関わらず、天童は何かを察したように言った。実際、彼には、淑女の下に隠されたナマエの正体も、それに惑わされてしまった、哀れな子羊の姿もありありと見えているのだろう。多くの部員からは、後輩を猫可愛がりする先輩と、その可愛がりを恥じらう、女慣れしていない後輩としか見られていないだろうが。
「あの子はやめた方がいいよ」
「別にあの人とは何もありませんよ」
「ふーん……ならいいけど」
五色はタオルで汗を拭いながら、天童から顔を背けた。それでもじっとりとした視線を感じたので、タオルを床に捨て、ボールカゴへと向かっていく。確か次はサーブ練習だった。ネット側にあるカゴをエンドラインまで運んでおこう。
「俺、知らないよ」
後ろからボソリと聞こえた。
五色だって知らない。足を沈めてしまった先に何があるかを。
体育館に分け隔てなく転がる、ナマエの笑い声が耳に障った。俺の前でだけ笑っていればいいのに。
体育館の開けっ放しの扉からは、冷たい夜の風が入ってくる。それはしっとりとした雨の匂いを含んでいた。そういえば、もうすぐ梅雨入りだと今朝の天気予報で言っていた。季節の変わり目は近いらしい。