工くんの声が響いた。工くんは悔しそうに顔を歪ませており、その顔は真っ直ぐに私に向けられている。工くんのこんな顔を見るのは初めてだったけど、工くんにこんな顔をさせたのは、他の誰でもなく私だった。思わず、下を向く。でも、引き下がることはできなかった。スカートを痛いくらいにきつく握って、掠れそうになりながらもなんとか言葉を絞り出した。
「でも工くん、ずっと家にいてくれるわけじゃないじゃん……」
「だからって、こんなの浮気ですよ! 信じられないです!」
そう言われて弾かれたように顔を上げた。私だって、好きでこの選択をしたわけではなかったのだ。これしか方法がなかった。それを、浮気だの、信じられないだの言われると、心が痛い。工くんは私の気持ちなんて何もわかってくれていないから、平気でそんなことを言えるのだろう。私まで大きな声で叫んでしまった。
「だって毎日辛かったんだもん!」
たった一言こぼせば、今まで我慢してきたことが、堰を切ったようにどんどんこぼれ落ちていく。
「毎日仕事が忙しくて帰るのも夜遅くて! 疲れてたんだよ! でも、私だって、家に帰って工くんがいてくれたら、なんだって頑張れたよ! でも、最近はずっと工くん、遠征とか、チームメートとご飯とかで、家にいないじゃん! それなのに、毎晩、頑張れないよ!」
じゃあ、と絞り出した工くんは悲しそうな顔をした。
「じゃあ置いておいたらいいじゃないですか! 俺が帰ってきたら洗うんで!」
「そんなの申し訳なくてできないよ!」
「別にいいですよ! ナマエさんの一人分の食器ぐらい俺が帰ったら洗ってあげます!」
「いいよ! そんなことしなくて! 工くんがそんなことしなくったって、食洗機買えば全部解決することじゃん!」
「だからそんな寂しいこと言わないでくださいよ! 食洗機を買うなんて、食器洗い係だった俺が必要ないって言ってるのと同じなんですからね!」
「全然同じじゃないよ!」
展示されている食洗機の前で、互いに息を荒げて向かい合う。すると、隣から、あのぅ、と遠慮がちに男性の声がかかり、我に帰った。通りすがりの人たちがチラチラと私たちを見ているのに気づき、やってしまった、と顔が熱くなる。
夜ご飯の材料を買いにスーパーへ行く時に、電気屋の前を通ったので、そういえば、と思い出し、ここ、電気屋に立ち寄ったのだ。食洗機が欲しいんだよね、と言って。その時、工くんは眉毛をぴくっと反応させたのだけど、そのことに私はさほど気にすることもなく、電気屋に入り、展示してある食洗機を見ていた。
やっぱりいいよね〜。食器入れてボタン押すだけで、洗って乾燥までしてくれるんだよ。最近の食洗機は綺麗に洗ってくれるらしいし。いいよね〜。
なんて、話をしていたら、工くんが急に、食器洗い係は俺でしょ! なんて言い出したのだ。さらには、こんなものいりませんよ! と声を荒げるので、何事か、と驚いていたものの、いつのまにか私も工くんの勢いに乗り、浮気だなんだと言い争っていた。
先程、遠慮がちに声をかけてきた男性は、店員さんで、食洗機の案内をしてくれていた人だった。ずっと、私たちの言い合いに割り込む隙を探していたのだろう。ハンカチをおでこにパタパタと当てながら小さくなって私たちの間に立っていた。とても、申し訳なかった。
彼はハンカチをポケットにしまうと、お手本のような愛想笑いを浮かべて、おずおずと薄い冊子を私たちに差し出した。
「食洗機のパンフレットをお渡ししますので……一度おうちに帰られてからご購入の検討をされてみてはいかがでしょうか……」
すみません! と、私は慌ててその冊子へ手を伸ばす。
「そんなものいりません!」
「あ、いえ、いります、いりますっ」
パンフレットと私の間に体を割り入れた工くんを押しのけ、なんとか男性からパンフレットを受け取る。ついでに、お騒がせしてすみませんでした、と謝り、いえ、と言ってもらえたことに安心し、鼻息荒い工くんの背中を押して、店の出口へと向かった。
「ナマエさんそんなの持って帰らないでください!」
「うん、わかったから。とりあえずおうちで話そ」
「話逸らさないでください!」
「うん、ちゃんとおうちで話すから。とりあえず、おうち帰ろ」
わかりました、と言いつつも、未だ不満げに頬を膨らませている工くんの背中を押し続ける。すると、そうじゃないでしょ、と工くんは手を差し出してきた。なんだろう、と首を傾げていると、工くんは乱暴に私の手を握る。あぁ、手を繋ぎたかったのか、と工くんを見上げたら、また、ふん、とそっぽを向かれた。でも手はきつく握られたままだったので、思わず、頬が緩んでしまう。繋いだ手を大きく振りながら、むくれた工くんと一緒にスーパーへ向かった。
「やっぱり買って良かったでしょ」
私の横では、食洗機が大きな音を立てて、夜ご飯で使った食器たちを洗ってくれていた。それは電気屋で恥ずかしい公開論争を繰り広げてしまった日から一週間後のことだった。
私が食洗機を買いたい、と言い出したのは、電気屋で工くんに話したように、工くんのいない夜に自分で食器を洗うことが、体力的に大変だったからという以外にも他に理由があった。最近、手荒れが酷かったのだ。切り傷のようなものが指にいくつもできていた。その荒れた手を工くんに見せると、どうしてそのことをもっと早く言ってくれなかったんですか! と怒った工くんは、私が一人の時も私が使った食器を洗ってくれる、と言ってくれたのだけど、合宿で何日か家を空ける時のことを言えば、渋々食洗機を買うことに納得してくれた。
「でも……俺の方がもっと早く洗えます……」
お役御免になったことが相当悔しかったのか、恨めしそうに食洗機を見る工くんに笑ってしまう。たしかに、食洗機は一時間くらいかけて洗うので、十分くらいでパパッと洗ってしまう工くんに比べたら食洗機の仕事は遅いのかもしれない。
「でも、工くんが食器を洗ってくれていた今までの時間は一緒に過ごせるよ」
私がそう言うと、工くんの厳しく細められていた目は和らぐのだった。
「じゃあその分いっぱいくっついてましょうね」
「うん、いっぱいくっついていようね」
食器が洗われる音を聞きながらソファーで隣り合って座る。眠るまでのひと時を工くんはバレーの動画を見ながら、私は本を読みながら、だけど、肩と肩を合わせてくっつきながら過ごした。