これは工くんと結婚して初めて夏を迎えた頃の話だ。
 うちのエアコンは気まぐれらしく、設定温度が勝手に変わってしまっていた。仕事がある日は、朝の出かける前や夜の寝る前など短い時間しかエアコンを使わないので思っているほど部屋が寒くなっていてもさほど気にならないのだけど、休みの日など一日中家にいる時は流石に困ってしまう。普通なら買い替えを検討するのだろうけど、うちは賃貸のマンションだったため、エアコンは最初から取り付けてあったものを使っており、勝手に買い換えるわけにはいかなかった。一度、大家さんに相談した方がいいかなぁ、と朝28℃に設定しておいたはずなのに、昼になる頃には20℃と表示されているリモコンを見て思う。外では蝉が元気に鳴いているにもかかわらず、お部屋は震えてしまうほど寒くなっていた。半袖から覗く私の腕には粟がたっている。八回ボタンをピッピッピッと鳴らしていき、再び、28℃に設定し直した。
「そういうわけで、大家さんに相談しようと思ってるの」
 工くんもお休みで、お昼ご飯を一緒に食べている時のことだ。私たちが向かい合うリビングテーブルには、そうめんが入ったザルが置かれていた。
 それ俺も思ってたんですよ、と言って、目を細めて険しい顔をした工くんもどうやらエアコンの気まぐれに気がついていたらしい。工くんはザルからそうめんを掬って、お椀に入れたおつゆにつけると、頬を膨らせた。
「いつも20℃に設定してるのに、気づいたら28℃に変わってるんですよね」
「え?」
「え?」
 蝉の鳴く声とエアコンの風を送る音だけが部屋に鳴り響く。
「もしかして、今日も温度変えた?」
「変えましたよ! 昨日の夜20℃に設定したのに、朝には28℃になってたんで下げました! それなのにさっきもまた28℃になってたんで、また下げたんですよ!」
 どうりで、さっきからエアコンから凍てつく風が吹いているわけだ。エアコンからしたら、気まぐれなのはこの部屋の住人たちだったようで、彼は頻繁に変えられる設定温度に従って真面目に仕事をしていただけのようだった。私は椅子にかけてあったカーディガンを羽織る。まだエアコンが気まぐれに働いていると思っているだろう工くんはぷんすかしながら、そうめんをちゅるりと口に入れ、もぐもぐ食べていた。
「ごめん……28℃に上げてたの私……」
「え!? そうだったんですか!? なんでそんなことしてたんですか!?」
「寒かったの……ごめんね……」
 工くんは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後、悲しそうな顔をした。
「そうだったんですか……俺の方こそごめんなさい……そうとは知らずに勝手に温度を下げてました……」
 項垂れた工くんは、またお箸でザルからそうめんを掬おうとしたけど、ハッとしたような顔をして固まった。そのままそうめんを掬うことなく、お箸とお椀を置き、机の上に置いてあったエアコンのリモコンを取ろうとする。私もハッとして、慌てて、リモコンへと手を伸ばした。私側にリモコンがあったためか、工くんの大きな手が触れる前にリモコンを掻っ攫うことに成功した。
「何するんですか! 貸してください!」
 工くんの長い腕がこちらに伸びてきたのでそれを右へひらりとかわす。
「ダメ!」
「なんでですか!」
「工くん温度上げるつもりでしょ! そしたら工くんが熱くなっちゃう!」
「あなたが寒い方が問題でしょ!」
 また長い腕が伸びてきたので今度は左に避けた。両手でリモコンを死守する。
「私は上に何か着るからいいの!」
「大丈夫です! 俺が服脱ぐんで!」
「工くんもう脱げる服ないじゃん!」
「ありますよ! Tシャツ脱げば大丈夫です!」
「やめてよ! それ脱いだら裸じゃん!」
「裸じゃありませんよ! ハーパン履いてるんで!」
 そう言った工くんは着ていた黒いTシャツを脱ぎ始めた。
「ほら! 温度上げないと、俺風邪ひいちゃいますよ!」
「やめてよ! 服着てよ! 服着ないんだったら温度上げない!」
 そんな会話を繰り返しながら、そうめんが入ったザルの上で小さなリモコンを取り合いし、結局、間をとってリモコンの温度設定は24℃に落ち着いた。
 工くんもTシャツを着て、平和が戻ったリビングテーブルでお昼ご飯を再開する。やがて、そうめんが入ったザルが空になり、二人で昼食の片付けをして、午後からは一緒に映画を見ることとなった。テレビをつけて、ソファーに並んで座る。工くんはワクワクした様子でいるけど、私はその工くんがさっきから汗でびちょびちょになっていることが気になって気になってしょうがなかった。
「あの……やっぱりエアコンの温度下げよ? 工くん汗凄いよ……」
「いえ! 汗なんてかいてません!」
 工くんは眩しい笑顔を見せてくる。普段、嘘をつこうとすると顔色がずいぶんと悪くなるのに、親指を立ててきた今日の工くんは嘘発見器も顔負けだ。でも、工くんの頬にはダラダラと汗が伝っていた。
「すごい汗かいてるよ。なんで嘘つくの」
「だからかいてませんって!」
「かいてるよ!」
 しばらく、汗をかいている、かいていない論争を繰り広げた。
「もう! 嘘つかないでよ! ここに垂れてるのは何!」
「あ! 触ったらダメです! 汚いですよ!」
「汚くないよ! それにやっぱり汗かいてるって気づいてるんじゃん! なんで嘘つくの!」
 汗に触れられるのを防ごうと、私の手を掴んでいた工くんは、不貞腐れた様子で言った。
「だって……ナマエさんが自分は寒いのに、エアコンの温度下げようとするから……」
 まぁ、そんなことだろうとは思っていたのだけど。
「大丈夫だよ。私は服着たら寒くないんだから。でも工くんは限界まで服脱いでも汗かいちゃうでしょ。このままじゃ熱中症になっちゃうよ」
「鍛えてるから大丈夫です!」
「そういう問題じゃないの!」
 頑固に私を大切にしてくれようとする工くんの顔を両手で包み込む。濡れた工くんの肌は私より二度も三度も高いようだった。こんなに熱くなっているのに我慢して。それでも、平気だという工くんを前にしていると、泣きそうになってしまう。
「もう……わかってよ。私も工くんと同じように、工くんが辛い思いをするのは嫌なの……」
「ナマエさん……」
 困ったような顔をした工くんだったけど、切なげに笑うと、好き、と言って抱きしめてくれた。ちょっと汗臭い。でもその匂いすら愛おしくて、私も汗でTシャツが張り付く背中に腕を回した。
「これで解決ですね!」
 シャワーを浴びて着替えてきた工くんはソファーに座り、後ろから私を抱きしめて笑う。エアコンの設定温度は再び20℃に設定され、エアコンは元気に冷風を送っててくれていた。私は一枚カーディガンを羽織っていたのだけど、ちょっと熱いくらいだった。体温の高い工くんがお布団のように私を包み込んで温めてくれているからだ。
 映画はこの体勢まま見ることにした。
「でも工くん、私とくっついてたら暑くない?」
「大丈夫です! ナマエさんはひんやりしてて気持ちいいので!」
 工くんはさらに腕の力を強める。工くんがそう言ってくれるなら大丈夫か、と思い、工くんの温かい背中に体を預けた。石鹸のいい香りに包まれながら、テレビのリモコンを操作して、二人で見ようねって言っていたホラー映画を再生する。
 映画が始まると、映画の盛り上がりに合わせて、工くんがビクッと揺れたり、私を抱きしめる力を強めたりして面白かった。
「工くん、怖くない?」
「べ、別に怖くないです! たかが映画ですから!」
 そう言いながらもぬいぐるみを抱きしめるように私を抱きしめる工くんだった。